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第5話
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力強い抱擁、衣服越しに伝わるぬくもり。心臓が騒ぎだし全身が固まる。伯爵の力はおそらく普段のベアグレルであれば難なく振りほどけるはずだった。しかし冷静さを失った今のベアグレルにできることは、息を弾ませながらただ抱擁を受け入れることだけだった。
振り回されっぱなしの状態に混乱しつつ、正直に弱音をこぼす。
「なぜかしら、あなたに抱きしめられると体が動かなくなってしまいますの。自身を制御できなくなるなんて、まだまだ弱い証拠ですわ」
「私もですよ。貴女に心を奪われた私は、貴女を抱きしめるこの手をどうしても止められないのです。ほら、お互いさまでしょう?」
「そ、そういうものなのでしょうか……?」
「そういうものなのでしょうね、きっと」
温かな声が心に沁みこんできて、本当にそうなんだなという気持ち以外に何も浮かんでこなくなる。
ベアグレルが伯爵の腕の中で固まっていると、不意に抱擁が解かれ、手を取り上げられた。
指が絡められて、腕を引かれる。
手をつないで散歩を再開しようということらしい――。うながされるまま、ベアグレルは騒がしい胸を押さえつつ歩きはじめた。
ゆっくりと歩く間にも伯爵がぎゅっと手を握り締めてきて、その力強さに胸が高鳴る。
握りかえしてもいいのかな、でも力の加減ができずに骨を折っちゃったらどうしようとベアグレルが迷っていると、伯爵がぽつりとつぶやいた。
「私はこれまでずっと、貴女を山でお見かけするたびに『決してあの人に惹かれてはならない』と自身に言い聞かせてきたのです。必死だった過去の自分に言ってやりたいですよ。『ベアグレル嬢は自ら私の胸に飛び込んで来てくれた』って」
「そんなに昔からわたくしに興味をお持ちくださっていたのですか?」
「ええ。誰も寄りつかない山奥に貴女はおひとりでいらして……。眷属の動物たちから『山で暴れ回ってる人間がいる』と報告があって様子を見にいってみたら、こんなにも愛らしいお嬢さんだったのですから本当に驚きました」
「その……【愛らしい】という形容はわたくしには似合いませんわ」
「本気で言っているのですか?」
「え? ええ」
しきりにうなずいてみせると、つないだ手が持ち上げられて――手の甲に唇を寄せられた。
その優しい感触に気恥ずかしさを覚えたベアグレルがどぎまぎと視線をさまよわせていると、ぎゅっぎゅっと何度か手を握りなおした伯爵が、重ねたふたりの手の陰で口元を微笑ませた。
「これは……教えがいがありそうだ」
「お勉強、ですか?」
「ええ。貴女がどれだけ魅力的かって、貴女自身に教え込まないとなりませんね。私以外にその魅力を振りまかれてしまっては、おちおち棺桶の中で眠ってもいられませんので」
「そんな、ないものは振りまきようもありませんし、万が一、あなた以外の男が寄ってきたら……」
「寄ってきたら?」
「――こう!」
めいっぱい足を踏み込んで、ひゅっと音を鳴らして拳を突きだした。
腰を落とした臨戦態勢のまま、将来の夫に振りむいて微笑んでみせる。
「あなたの御心を乱すものはすべて、この拳で必ずや撃退してみせますわ! だから安心してお休みくださいましね?」
「……それは頼もしいですね」
伯爵が、額に手を当てて笑いだした。
笑い涙の浮かんだ目が、月光に照らされてきらきらと輝いている。
その美しさに目を奪われていると、笑いを収めた赤い瞳が空を見上げはじめた。
視線を追って同じ方向を見上げる。すると真ん丸な月は先ほど見たときより高い位置で、夜空の主役となっていた。
「クラウラド様。今宵の月は、一段ときれいですわね」
「そうですね」
「山でお月さまを見上げていたときに思い描いていた夢が叶ってしまいましたわ」
「夢、ですか?」
「いつか素敵な人と出会えたら、その方とこうして美しい月を眺めてみたいと思っていたんですの。本当に、ありがとうございます」
「そうなのですね。貴女の夢を叶えてあげられて幸せだ」
うれしそうな声に導かれるように視線を伯爵の方へと向ける。
途端に宝石のような瞳に射すくめられる。
赤々と光る双眸に目を奪われていると、伯爵がそっとまぶたを伏せて顔を近づけてきた。修行に明け暮れてばかりのベアグレルであっても、仲良くなった男女がこういうときになにをするのかくらいは知っていた。
(も、もしかしてこれは! 口づけをしてくださるのかしら!?)
初めての経験にどきどきしながら、ぎゅっと目を閉じて思いきり唇を突きだした。
「……ふふ」
笑い声が聞こえてくる。
(笑っていらっしゃる!?)
動揺して目を見開いた瞬間。
「わわっ……」
伯爵は唇ではなく頬にキスしてきたのだった。
それでも家族にされるそれとはまったく違う感触に、たちまち顔が燃え上がる。
ベアグレルはその熱さに頭がくらくらしてきてしまい、何も考えられなくなった。
「はわわ……」
心臓が口から飛び出してきそうなくらいどきどきしている。それは高い崖から落ちそうになって必死に崖の端にしがみついたとき以上のすさまじい緊張感をもたらした。
ベアグレルがぐるぐると目を回していると、ふと伯爵がなにかに気づいた顔をした。
「おや、もしかしてお腹を空かせていらっしゃる? お食事を中断させてしまっておりましたね、そろそろ中に戻りましょうか」
「あ……」
背を向けて歩き出そうとした伯爵の腕に手が伸びる。なにかを思うより先に、ベアグレルの手は伯爵の腕をつかんでいた。
振り返った伯爵が、不思議そうな表情に変わる。
「どうされました?」
「クラウラド様。わたくし今はお食事より……クラウラド様とここで一緒に過ごす方がうれしいです」
と言った途端にはっとして両手で口を押さえた。
「……夜会でお食事よりしたいことができるなんて、初めてですわ」
「そうなのですね。それは光栄です」
満月より光り輝く笑顔を向けられる。その美しさにときめかずにはいられない。
ベアグレルがその幸せそうな笑顔にぼんやりと見とれていると、伯爵は改めて顔をほころばせたあと、再び満月を見上げはじめた。ベアグレルもまた伯爵の視線をなぞるように夜空に目を向けて、月のまばゆさに目を細めた。
おいしいお料理がたくさん食べれるから夜会に来ただけだったのに――。
今はこうして、素敵な吸血鬼様が隣にいてくださる。
(いくら血を飲んでいただいても大丈夫なくらい、たくさん鍛えて、たくさんお腹を満たして差しあげますわ)
涼しい夜風が火照った頬に心地よい。
それ以上に、つなぎ合わせた手から伝わる熱が心に安らぎを与えてくれる。
山奥でいつもひとりで見上げていた月は、ふたりで見ると一段と美しく輝いて見えた。
〈了〉
振り回されっぱなしの状態に混乱しつつ、正直に弱音をこぼす。
「なぜかしら、あなたに抱きしめられると体が動かなくなってしまいますの。自身を制御できなくなるなんて、まだまだ弱い証拠ですわ」
「私もですよ。貴女に心を奪われた私は、貴女を抱きしめるこの手をどうしても止められないのです。ほら、お互いさまでしょう?」
「そ、そういうものなのでしょうか……?」
「そういうものなのでしょうね、きっと」
温かな声が心に沁みこんできて、本当にそうなんだなという気持ち以外に何も浮かんでこなくなる。
ベアグレルが伯爵の腕の中で固まっていると、不意に抱擁が解かれ、手を取り上げられた。
指が絡められて、腕を引かれる。
手をつないで散歩を再開しようということらしい――。うながされるまま、ベアグレルは騒がしい胸を押さえつつ歩きはじめた。
ゆっくりと歩く間にも伯爵がぎゅっと手を握り締めてきて、その力強さに胸が高鳴る。
握りかえしてもいいのかな、でも力の加減ができずに骨を折っちゃったらどうしようとベアグレルが迷っていると、伯爵がぽつりとつぶやいた。
「私はこれまでずっと、貴女を山でお見かけするたびに『決してあの人に惹かれてはならない』と自身に言い聞かせてきたのです。必死だった過去の自分に言ってやりたいですよ。『ベアグレル嬢は自ら私の胸に飛び込んで来てくれた』って」
「そんなに昔からわたくしに興味をお持ちくださっていたのですか?」
「ええ。誰も寄りつかない山奥に貴女はおひとりでいらして……。眷属の動物たちから『山で暴れ回ってる人間がいる』と報告があって様子を見にいってみたら、こんなにも愛らしいお嬢さんだったのですから本当に驚きました」
「その……【愛らしい】という形容はわたくしには似合いませんわ」
「本気で言っているのですか?」
「え? ええ」
しきりにうなずいてみせると、つないだ手が持ち上げられて――手の甲に唇を寄せられた。
その優しい感触に気恥ずかしさを覚えたベアグレルがどぎまぎと視線をさまよわせていると、ぎゅっぎゅっと何度か手を握りなおした伯爵が、重ねたふたりの手の陰で口元を微笑ませた。
「これは……教えがいがありそうだ」
「お勉強、ですか?」
「ええ。貴女がどれだけ魅力的かって、貴女自身に教え込まないとなりませんね。私以外にその魅力を振りまかれてしまっては、おちおち棺桶の中で眠ってもいられませんので」
「そんな、ないものは振りまきようもありませんし、万が一、あなた以外の男が寄ってきたら……」
「寄ってきたら?」
「――こう!」
めいっぱい足を踏み込んで、ひゅっと音を鳴らして拳を突きだした。
腰を落とした臨戦態勢のまま、将来の夫に振りむいて微笑んでみせる。
「あなたの御心を乱すものはすべて、この拳で必ずや撃退してみせますわ! だから安心してお休みくださいましね?」
「……それは頼もしいですね」
伯爵が、額に手を当てて笑いだした。
笑い涙の浮かんだ目が、月光に照らされてきらきらと輝いている。
その美しさに目を奪われていると、笑いを収めた赤い瞳が空を見上げはじめた。
視線を追って同じ方向を見上げる。すると真ん丸な月は先ほど見たときより高い位置で、夜空の主役となっていた。
「クラウラド様。今宵の月は、一段ときれいですわね」
「そうですね」
「山でお月さまを見上げていたときに思い描いていた夢が叶ってしまいましたわ」
「夢、ですか?」
「いつか素敵な人と出会えたら、その方とこうして美しい月を眺めてみたいと思っていたんですの。本当に、ありがとうございます」
「そうなのですね。貴女の夢を叶えてあげられて幸せだ」
うれしそうな声に導かれるように視線を伯爵の方へと向ける。
途端に宝石のような瞳に射すくめられる。
赤々と光る双眸に目を奪われていると、伯爵がそっとまぶたを伏せて顔を近づけてきた。修行に明け暮れてばかりのベアグレルであっても、仲良くなった男女がこういうときになにをするのかくらいは知っていた。
(も、もしかしてこれは! 口づけをしてくださるのかしら!?)
初めての経験にどきどきしながら、ぎゅっと目を閉じて思いきり唇を突きだした。
「……ふふ」
笑い声が聞こえてくる。
(笑っていらっしゃる!?)
動揺して目を見開いた瞬間。
「わわっ……」
伯爵は唇ではなく頬にキスしてきたのだった。
それでも家族にされるそれとはまったく違う感触に、たちまち顔が燃え上がる。
ベアグレルはその熱さに頭がくらくらしてきてしまい、何も考えられなくなった。
「はわわ……」
心臓が口から飛び出してきそうなくらいどきどきしている。それは高い崖から落ちそうになって必死に崖の端にしがみついたとき以上のすさまじい緊張感をもたらした。
ベアグレルがぐるぐると目を回していると、ふと伯爵がなにかに気づいた顔をした。
「おや、もしかしてお腹を空かせていらっしゃる? お食事を中断させてしまっておりましたね、そろそろ中に戻りましょうか」
「あ……」
背を向けて歩き出そうとした伯爵の腕に手が伸びる。なにかを思うより先に、ベアグレルの手は伯爵の腕をつかんでいた。
振り返った伯爵が、不思議そうな表情に変わる。
「どうされました?」
「クラウラド様。わたくし今はお食事より……クラウラド様とここで一緒に過ごす方がうれしいです」
と言った途端にはっとして両手で口を押さえた。
「……夜会でお食事よりしたいことができるなんて、初めてですわ」
「そうなのですね。それは光栄です」
満月より光り輝く笑顔を向けられる。その美しさにときめかずにはいられない。
ベアグレルがその幸せそうな笑顔にぼんやりと見とれていると、伯爵は改めて顔をほころばせたあと、再び満月を見上げはじめた。ベアグレルもまた伯爵の視線をなぞるように夜空に目を向けて、月のまばゆさに目を細めた。
おいしいお料理がたくさん食べれるから夜会に来ただけだったのに――。
今はこうして、素敵な吸血鬼様が隣にいてくださる。
(いくら血を飲んでいただいても大丈夫なくらい、たくさん鍛えて、たくさんお腹を満たして差しあげますわ)
涼しい夜風が火照った頬に心地よい。
それ以上に、つなぎ合わせた手から伝わる熱が心に安らぎを与えてくれる。
山奥でいつもひとりで見上げていた月は、ふたりで見ると一段と美しく輝いて見えた。
〈了〉
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