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12 冷徹皇帝の優しさ

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(私の手が、どうかしたのかしら)

『手を見せて欲しい』というルジェレクス皇帝の言葉を、ノツィーリアは不思議に思わずにはいられなかった。
 おずおずと手のひらを上にして差し出せば、すぐさま拾い上げられる。
 皇帝の長い指の先がノツィーリアの手首から手の甲をなぞっていき、親指同士が絡められて手を広げさせられる。
 改めて自分の手のひらを見ると、中央に短く赤い傷がいくつもできていた。それは、妹に激高するまいと手を握り込んだときの爪痕だった。傷を見た瞬間に痛みがよみがえれば、意識の外に押しやっていた媚薬の熱とあいまって、息が荒くなってしまう。

 呼吸の乱れを悟られまいと、唇を引き締めたその瞬間。

「っ……!?」

 お辞儀するように身を屈めた皇帝が、手のひらに口付けた。思い掛けない行動に、ノツィーリアはびくりと全身をベッドの上に弾ませた。
 唇の熱が、優しく傷に触れてくる。
 ノツィーリアが息を詰めてその感触をこらえていると、ゆっくりと体を起こした皇帝が切なげに眉をひそめた。

「……。痛かったろう」
「いえ、そんな……」

 皇帝はノツィーリアの手をつかんだままサイドテーブルに手を伸ばすと、引き出しの中から小さく平らな容器を取り出した。片手で持ったそれの蓋を親指で弾くようにして開き、中に詰まった白い軟膏を指に取る。
 まるで水面を波立たせぬように触れる風な手付きで、そっと傷口をなぞっていく。

「この薬は、かの魔導師が作ったものでな。どんな傷も、たちどころに治してしまう。傷薬の範疇を超えた強力すぎる薬効であるがゆえ、試作させたこのひとつきりで、以降は調合を禁止しておる」
「そのような貴重なものを塗っていただき恐縮です。本当に、ありがとうございます」

 もう一方の手のひらにも薬を塗られている間に、先に処置された方の傷は、微かなかゆみを覚えたそばから跡形もなく消えていった。
 ルジェレクス皇帝は、ここに転移する前までの異様な状況下であっても、ノツィーリアが自身に傷を負わせていたことを見抜いていた。しかも、それを忘れずにいてくれて、こうして手当てまでしてくれた。
 その心遣いがうれしくて、胸の奥に小さな火が灯る。
 その温かさは、遠い昔、母に見守られながらの舞の稽古中に、転んだときのことを思い起こさせた。

「っ……」

 たちまち視界がゆがんでいく。
 差し伸べられた手が、ノツィーリアの頭をそっと撫ではじめた。

「すまない、痛むか」
「違うんです、幼い頃、お母様にこんな風に薬を塗ってもらったことがあって、それを思い出してしまって……」

 ノツィーリアはまばたきを繰り返して涙を抑えると、皇帝の温かなまなざしに視線を返して微笑んでみせた。

「私、死ぬことまで考えていたのに、今はこうして優しくしてもらえて混乱してしまって……すみません」

 姿勢を正して頭を下げたあと、ずっと着たままだったガウンを脱いだ。

「ルジェレクス皇帝陛下。ガウンを着せていただき本当にありがとうございました。あなたの温もりに励まされました」

 手に持ったガウンを畳もうとしながら正面を見ると、真っ赤に染まった顔がそこにはあった。
 ノツィーリアとは目が合わず、少し下に傾いた視線がそこで止まっている。

「あの……、ルジェレクス皇帝陛下、どうされました?」

 首を傾げた瞬間、音が聞こえてきそうなくらい素早く顔を背けられた。
 不可解な態度に不安を覚えはじめた矢先、耳まで赤くした皇帝が小声で呟いた。

「その寝衣は、目のやり場に困るな……」
「……!」

 ずっと体が火照っているせいで薄着であることをノツィーリアはすっかり忘れていたのだった。お務めに臨む際、男性を誘惑すべく着せられた、透けた生地でできた寝衣。
 そこでノツィーリアは、自身がはしたない格好をしていることを思い出した。慌てて自分を抱き締めるようにして胸を隠し、皇帝に背を向けてシーツの上にうずくまる。

「お見苦しいものをお見せしてしまい、大変申し訳ごさいません!」
「見苦しいものか! 見ていて良いならばいくらでも……」
「!?」

 信じがたい言葉に目を見開いて振り向けば、口を押さえたルジェレクス皇帝が素早く顔を逸らす。

「すまぬ、売りに出される覚悟を決めたそなたに抱くべき感情ではなかった。非礼を詫びよう」
「いえ、先に非礼を働いたのはこちらです。本当に申し訳ございません」

 すぐさま手を下ろした皇帝が、何かを言おうとして口をつぐむ。これ以上詫びの応酬を続けてもきりがないと判断したのだろう。
 父王と対峙していたときの冷静さはどこへやら、動揺した様子を見せる皇帝にノツィーリアも釣られてどきどきしてしまう。心拍数が上がれば媚薬の効果が全身を巡り、肌が汗ばみはじめる。

(こんなにみっともない格好をしているのに、皇帝陛下は『見たい』とおっしゃってくださった……?)

 冷徹皇帝らしからぬ赤面と、落ち着きをなくした態度からしておそらく本音を口にしたものと思われる。しかしノツィーリアは、皇帝が自分に対してそこまで興味を寄せてくれる理由がさっぱり思いつかなかった。


 奇妙な静寂が訪れる中、ノツィーリアが一度は返そうとしたガウンで胸を隠していると、不意にルジェレクス皇帝が顔を近づけてきた。

「ノツィーリア姫」
「は、はいっ」
「随分と顔が赤いようだが具合が悪いのか? つらいようならば、医官を呼ぶが」
「……!」

 素早くガウンを口元まで引き上げて、顔を隠してそっぽを向く。
 そんなことをしたところで熱を帯びた体はごまかしようもない。

「具合が悪いというわけではないのですが……、あの、これは、その……」
「言いづらいことか? 男の医官に言いたくないようであれば、女官を呼ぼう」
「いえ! どなた様のお手をわずらわせるほどのことではございません!」

 弾かれるように振り向いたノツィーリアは、持ち上げたガウンから目だけを出して皇帝と視線を合わせた。決して体調不良ではないと理解してもらうべく、自身の状態について正直に告白する。

「私、実は……先程のお務め前に、媚薬入りのお茶を飲まされてしまい、その……」
「媚薬、だと……!?」

 心配そうな面持ちをしていた皇帝が、途端に愕然とした表情に変わる。
 しかしすぐに悔しげな面持ちになった――まるで、怒りを表現できないノツィーリアの代わりに怒ってくれるかのように。

「そうか……。そうよな、その名目で設けられた場だからこそ、そのような無体を働かれてしまったのだな」

 切なげに呟いた皇帝が、手を差し伸べてくる。ノツィーリアよりもずっと大きな手のひらは、火照る肌に触れる直前で止まった。

「……。触っても?」
「は、はい、……っ」

 銀髪の内側に差し込まれた手が、頬に触れてくる。
 媚薬というものは、人の体温までをも敏感に拾ってしまう効果があるのだろうか――。熱い手のひらに包まれただけで、ノツィーリアはびくっと肩を跳ねさせてしまった。

「気づいてやれなくてすまぬ。ずっと、苦しんでいたのだな」
「ご心配いただきありがとうございます。効果が切れるまで耐えようと思っていたのですが、体の熱さばかりはどうしようもなく……」

 房事の際に用いる薬については、事前に読まされた本で学んでいた。体温の上昇についても書かれていたため今の熱さは想定内だった。そして効果を収めるには性交により発散するか自身で発散するか、薬効が切れるまで耐え忍ぶかのどれかしか方法がないという。
 考えるまでもなく、ひとりで耐えてやりすごすつもりでいた。

 ルジェレクス皇帝がノツィーリアの頬を慎重な手付きで撫でながら、薬効に苦しむノツィーリア以上に苦しげな声音で問い掛けてくる。

「ノツィーリア姫。そなたを金で一晩借りようとするなどという暴挙を働いておいて勝手を言うが……。余に、そなたの苦しみを解放する手助けをさせてはもらえぬだろうか。無論、そなたが嫌でなければ、だが」
「とんでもないことでございます……! 私ごときがあなた様のお手をわずらわせるなど、おこがましいにもほどがあります!」

 途端に眉根を寄せた皇帝が、ノツィーリアの頬から手を外し、視線を逸らす。

「すまぬ。媚薬を口実に、そなたを抱こうなどと……」
「いえ! あの場からお救いいただけたことだけでも身に余る待遇ですのに、さらにお助けいただくなど恐れ多いことで……、んっ……!?」

 何の前触れもなく、一気に薬効が膨れ上がった。
 救いの手が今まさに眼前に差し出されているからだろうか、それとも長時間我慢し続けてきたせいだろうか――。これまではどうにかやりすごせてきたにもかかわらず、今は無表情を保てないほどに心と体を支配する。

(急にこんなに苦しくなるなんて……!)

 体が刺激を求めて疼き出し、涙が浮かんでくる。にわかに速くなった鼓動に息苦しくなり、肩で息をせずにはいられない。ノツィーリアは自分を強く抱き締めると、二の腕に爪を立ててその痛みで媚薬の効果をごまかそうとした。
 力んだ手が強引に剥ぎ取られる。汗ばむ手が、それ以上に熱い両手に包み込まれる。

「ノツィーリア姫、どうか余に身を委ねてはくれまいか。苦しむそなたを見捨てるなぞ、余にはできぬ」
「本当に……ご迷惑ではないのですか?」
「もちろんだ」

 熱を欲する強烈な衝動が、優しい声に促されて思考を侵食していく。

 本当に、この偉大なる皇帝にそこまでしていただいてもいいのだろうか――身を委ねろと言ってくださった――今すぐに助けて欲しい――頭の中がぐちゃぐちゃになり、涙があふれそうになる。
 ノツィーリアは息を切らしながら、必死に思いを言葉にした。

「では、恐縮ではございますが、どうか、わたくしめを、お救いくださ……、っ」

 言いきる直前で唇を塞がれた。その熱さだけで、体が欲望の火柱に飲み込まれる。
 烈火に焼かれながらも辛うじて形を保つ理性にすがりつく。自分から皇帝を押し倒したくなるほどの衝動をこらえながら、情熱的な口付けを夢中で受けとめる。

「ああ、ノツィーリア姫……!」

 わずかに唇が離れるたびに、吐息混じりにあるいは熱を帯びた声でノツィーリアの名を呼んでは幾度も唇を重ね直してくる。 腰に回された腕に、強く抱き寄せられる。

 なぜこんなにも、狂おしげに触れてくれるのだろう。
 なぜこんなにも、切なげな声で名を呼んでくれるのだろう。
 まるで媚薬の効果がうつってしまったかのような皇帝の一挙手一投足に、ノツィーリアは胸の高鳴りを覚えずにはいられなかった。


 優しさと情欲とを孕んだ口付けが、灼熱の夜の始まりを告げる。
 媚薬の熱と、ルジェレクス皇帝から与えられる熱情に酔わされて、何も考えられなくなる。

 ノツィーリアは、絶え間なく与えられる悦びに、ただひたすらに溺れ続けたのだった。
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