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最終章

92 別れの覚悟

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 偽聖女騒動のあとは、ひたすらに穏やかな日々が続いた。

 神殿騎士団と王国騎士団の合同競技会の観覧は毎年恒例となり、ヒナリはいつも騎士たちに大歓迎された。
 ミュリエルやヘルッタと共に、神殿孤児院の慰問をしたりもした。孤児院出身のふたりとも、子供たちにとても懐かれていて、その様子を微笑ましく見守ったり、元気な子供たちと駆け回ったりした。
 双子の王子の誕生会にも出席した。ヒナリがお祝いの言葉を掛けた際の王子たちのはしゃぎっぷりは、今でも国中の語り草となっている。
 他には、ラムラー国から無事到着したキャラバンに紛れてカースィム王子がお忍びで来ていて、ヒナリがそれを知らずにいたところ、突如として図書館に現れたカースィム王子にまた口説かれるなどした。

 儀式は月に一度のペースを変えないでいてもらったが、その代わりにまた賢者たちの共用風呂を訪ね、言わばガス抜きみたいな形で賢者たちに自らの体を好きにさせたりしたのだった。


    ◇◇◆◇◇


 降臨から四年目の浄化で祈りの間の光時計が紫色から白色に変わり、いよいよその一年後の祈りの儀で完全浄化に至ることが明らかになった。

 そこからヒナリの元に、各地の領主から手紙が大量に届くようになった――完全浄化を終えたあと聖女邸を出る聖女に、是非我が領にお住まいいただきたいと。
 賢者たちが教えてくれたところによると『自分たちの暮らす土地は本当に住み良い場所だから』と勧めてくる者もいる一方で、当然聖女は移住先で豪華な屋敷を建てるであろうと目されているらしく、その建設費用による領地の収入増を期待しての場合もあるという。一見すれば善意に見える申し出の陰に、損得勘定があるから慎重に見極める必要があると助言されたのだった。



 平穏な日々を過ごし、およそひと月後に最後の祈りの儀が迫ったある日の夜のこと。
 ヒナリは自室で、領主たちから届いた手紙の山を眺めて溜め息をついた。
 屋敷の建築は時間が掛かるから早めの返事をと各領主から求められ続けていたにもかかわらず、結局ヒナリはどの領主にも返事をしていなかった。
 なぜなら――。

「旅行、してみたいんだもの」

 ヒナリは誰にも内緒で【行きたい場所リスト】を作っていた。神殿の図書館で旅行記を読み、風景画を眺め、興味を持った場所を片っ端からメモしていっていたのだった。
 メモにはいくつもの地名とその土地にある観光名所、特産品、名物料理等を羅列してある。泊まってみたい素敵な宿の名前も併記しておいた。
 旅を渇望する一方で、もうひとつヒナリには悩みがあった。

「賢者のみんなと離れるのは寂しいな……」

 歴代聖女は、生涯独身を貫いた先代以外は皆賢者と結婚したという。
 もし仮に自分が賢者のうちの誰かと結婚したとして、妻のやりたいことと夫のやりたいことと、世の中の夫婦はどう折り合いをつけているのだろう――ヒナリはそう疑問に思わずにはいられなかった。
 結婚したばかりの夫を置いて一人旅に出るのもおかしな話だし、だからといって、ヒナリほどには旅行に興味がないかも知れない夫を連れ回すのもまた酷な話である。
 そこまで思考を展開させたところで、ヒナリは自分自身に呆れてしまった。

「いやなに賢者と夫婦になる前提で考えてるの!? 誰と!? 誰かひとりなんて絶対に選べないし、四人全員と結婚するなんてもっと考えられない!」

 歴代聖女の中には四人の賢者と結婚した人も居た。この世界では重婚が法で認められているらしく、人々もまたその婚姻形態に抵抗はないそうで、豪商の男性が複数人の妻を娶ったり、大富豪の女性が幾人もの夫を持つケースも珍しくないという。

 しかしヒナリはこの世界で賢者との共同生活を五年間送ってきた以前に、前世では長らく独り暮らしをし、特定のパートナーも居なかったせいで、夫婦生活を送るビジョンがまるで浮かんでこなかったのだった。

「そもそも私が万が一誰かひとりに決めたとして、私なんかと結婚してもらえるのかな……」

 賢者たちは本当に、いつだって無尽蔵とも思える愛を聖女に注ぎ続けてくれた。しかしそれは、賢者のお務めの一環としての行動である可能性は否めない。
 二度目の儀式の際に、ベルトランが打ち明けてくれた悩みを思い出す――いわく、聖女を欲する気持ちが本心なのか、それとも女神の定めた通りにそう思ってしまっているのかと。

「完全浄化が終わったら、急にみんな、私への興味も失くしてしまうかも知れないんだよね……」

 それぞれの賢者たちが温かな笑みを消し、自分に背を向けたところを想像する。彼らの視線の先にはすぐに別の誰かが浮かんでくる。

「そもそもみんな、既に相手が居るようなものじゃない……?」

 アルトゥールに結婚を申し込もうとするくらい熱い想いを寄せる女性騎士。
 クレイグを慕う聡明な助手。
 ダリオと仲の良い、自信に漲る眼差しをしたバイオリニスト。
 ベルトランの気さくな幼馴染みに関しては、年下好みだということで少し違うかも知れない。

 実際彼女たちと結ばれなかったとしても、素敵な賢者たちにはきっと、すぐに非の打ち所のない女性が現れて、お似合いのカップルとなるのだろう――。


「そっか。私、これからひとりになるんだ……」


 自分にそう言い聞かせた途端、一気に涙が溢れ出した。

「うっ、ううっ、寂しいよう……」

 静まり返った部屋に嗚咽が響く。
 いくら涙を拭っても止まらない。

「ずっとここで、みんなと一緒に暮らしてちゃダメなの……?」

 呟く前から既に胸の内では否定していることを、それでも口にする。
 お務めが終われば賢者たちは賢者の義務から解放される。にもかかわらず聖女の我が儘でこの聖女邸にいつまでもしばり付けるなどとんでもない話である。

 世界の人々のために祈ることしかできない聖女から祈るという仕事がなくなってしまえば、そこにはただ過去の栄光に縋ることしかできない無様な女が残るだけだ。
 そんな何も持たない女が、世界で一番と言いたくなるほどに素晴らしい賢者たちの愛情とぬくもりをそれまでと同様に求めるなんて、厚かましいにもほどがある。

「そっか。もう覚悟を決めないといけない時期に来ちゃったんだね……」

 賢者たちが、ひとりまたひとりとこの聖女邸を後にする姿を思い描く。
 聖女降臨前の生活に戻っていく、もしくは新しい人生に足を踏み出す彼らを見送るときに、寂しいからと涙を流していては暗い別れとなるであろうことは明白である。
 一緒に居たいなどという素振りを少しでも見せようものなら、優しい賢者たちは情に絆されて、聖女の元に留まろうとするかも知れない。

「そんな、みんなの優しさに付け込むような真似しちゃだめだよ」

 自分にそう言い聞かせても、別れを惜しむ心はそう簡単には言うことを聞いてはくれなかった。


 止まらない涙の向こうに、ふと【行きたい場所リスト】が見えた。


「そうだ。いろんなところに行って、いろんなことを楽しんでいれば気が紛れるかも」

 そんな後ろ向きな気持ちで旅をするのはどうかとも思う。しかし。

「傷心旅行っていうのもあるものね。それだよ、それ」

 見知らぬ場所へと旅立つことは、もはや寂しさに苛まれる心の拠り所になり得る気がした。



 涙はようやく収まった。

「うん。大丈夫。きっと大丈夫……だと思う」

 楽しいことばかりを考えて、前向きな気持ちでい続けよう。


 四人の賢者と最高の笑顔でお別れするために――。


    ◇◇◆◇◇


「ヒナリ、少し元気がないみたい?」
「えっ」

 独り立ちする覚悟を決めた次の日の朝、ヒナリは食堂でベルトランと鉢合わせするなり目をじっと覗き込まれた。
 他の賢者たちや召し使いたちも、一斉にヒナリに視線を向けてくる。
 泣き腫らした痕を見つけられてしまったのかも知れない――それを誤魔化すために、ヒナリは様子を窺ってこようとする瞳を見上げてにっこりと笑ってみせた。

「そんなことないよ? 元気元気」

 こういうケースを想定しておいて、頭の中に旅行してみたい場所を思い描いて心を弾ませる訓練をしておいたのだった。
 その対応で皆納得してくれたらしく、朝食をいただく流れに戻っていく。

 ダリオだけは眉をひそめたままだったが、ヒナリはその魔眼の眼差しを無視し続けたのだった。


 
 それから数日経ち、賢者たちと話していても自然と笑えるようになってきて、別れの予感に苛まれる時間も少しずつ減ってきた。
 それだけで済めばどれだけよかったか――寂しさの感情を抑えられるようになった途端、今度は別の願望が湧いてきてしまった。
 それを自覚すれば、賢者とただ目を合わせるだけでぎくしゃくしてしまう。恐らく顔は赤くなっていたことだろう。しかしヒナリはそんな自分の反応を笑顔で必死に誤魔化し続けたのだった。



 夜になり、ネグリジェに着替えたヒナリは自室のベッドで膝を抱えて、落ち着かない気持ちに揺れていた。
 完全浄化に向けての賢者との【儀式】は既に全員分終えている。すなわち金輪際、誰とも熱い夜を過ごすことは叶わないということである。


 これから賢者のみんなと離ればなれになるんだから、最後の思い出に、儀式とは関係なしに抱いて欲しい――。


(こんなふしだらなことを願っちゃうなんて、聖女らしくないよ。でも……)

 この数年で味わった、数々の儀式の――セックスの熱さが体の奥によみがえる。四人の誰もが快楽に溺れさせてくれて、ヒナリが求める以上の快感を与えてくれて、本気で愛してくれているかのように強く抱き締めキスしてくれた。

「本当に、素敵だったな……。幸せだったな……」
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