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第五章

90 四人の賢者の力

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 強い思いが湧き出でれば、心に凪が訪れる。


 聖女の私にできることは、ただひとつ。


 ――祈ろう。この人たちのために。


 先代聖女は、賢者から受け取った膨大な魔力で人々の心をも浄化したという。
 完全浄化のあと、しばらくの間犯罪率が著しく減少したと歴史書に書かれていた。

 ――何の力も持たない私に、そんな大それたことができるだろうか。悪しき者の心から邪気を取り払うなんて、私にできるだろうか――。

 前回の祈りの儀のあと立て続けに事件が起きたせいで、次の祈りの儀に向けての賢者たちとの儀式はまだ一度もおこなっていない。
 すなわち今のヒナリの体には、賢者の魔力が溜まっておらず、聖女固有の魔力しか残っていなかった。

 それのみでは女神に祈りを捧げることすらできない、微弱な魔力しか――。


 光の向こう側で魔術師が肩を揺らす。

「ふは、ふはははは! 成す術なしと知れて絶望したか。世界中から崇め奉られている聖女の絶望に染まった顔が拝めるとは、偉大なる我が人生の門出の祝いとしては、なかなかに上出来ではないか」
「何を勘違いしているのです。あなたの目論見は、決して成功しません」

 目を伏せて、静かに首を振ってみせる。
 再びまぶたを開くと、怪訝な顔付きに変わった魔術師を一心に見つめた。

「真の聖女たるわたくしが、聖女の祈りであなたの胸の奥底に眠る清らかなる心を引き出して差し上げましょう。いかなる贄も、私には必要ありません」

「――!?」

 ヒナリを見る目がかっと見開かれる。

「何を抜かすか! 死の恐怖に気でも触れたか! 貴様なぞ、聖女なぞ聖壇で祈らねば何の力も発揮できぬくせに!」


 そう、今の私は何の力もない。
 だから――。


 おぞましい色をした魔方陣の中心で、祈りの形に手を組み、まぶたを下ろす。
 心の中に、声を響かせる。きっと彼らなら、私の声を逃さず聞いてくれるはず。


 アルトゥール。
 ベルトラン。
 クレイグ。
 ダリオ。

 みんな、力を貸して――!



    ◇◇◆◇◇



 四人の賢者は森の中にそびえ立つ塔に向かって全速力で駆けていた。
 生気の失せた目をした近衛騎士が次々と襲い来る。単調な攻撃を繰り出す者たちを、アルトゥールと十人の聖騎士たちが薙ぎ倒していく。
 賢者たちは王城の地下牢からずっと走り続けているせいで呼吸は乱れ、汗だくになっていた。


 そんな四人の身に、突如として異変が起きた。

「くっ……! 私は、これ以上、走れない、のか……!?」

 クレイグが絶望感に顔を歪めつつ膝を突いた。

「なんだこの脱力感は……!?」

 先頭を走るアルトゥールも自らの体に走った違和感に足を止め、他の賢者たちに振り返った。すると最後尾のクレイグのみならず、その手前に居るベルトランもダリオも膝に手を突き肩で息をしていた。賢者たちに起こった異常事態に、周りを固めていた聖騎士たちが、剣を構え直して辺りを警戒し出す。

 ベルトランが手の甲で額の汗を拭いながら呟く。

「急に体が異様に熱くなったんだけど……何だろう、これ」

 その隣でダリオが全身で呼吸を繰り返しながら身を起こす。その瞬間、他の賢者たちを見て目を見開いた。

「みんなのオーラ……とは違う……魔力だ! みんなの魔力があの塔に引き寄せられている……!」

 驚きの表情が、輝く笑顔に変わっていく。

「ヒナリだ! ヒナリが僕らを呼んでいる!」

 その叫びに、ベルトランが口元を微笑ませる。

「なるほど。ヒナリからこんなにも熱く求められたら応じないわけにはいかないね」
「ああ、まったくだ」

 と言ってアルトゥールがクレイグに歩み寄り、腕を引いて立ち上がらせる。
 クレイグは肩で息をしながら膝の汚れを払うと、汗でずり落ちそうになっている眼鏡を押し上げた。

「ヒナリの求めに応じないなんて選択肢、私たちははなから持ち合わせてはいませんけどね」
「そうだな。皆、ヒナリの元へ急ぐぞ!」

 アルトゥールの号令に続き、笑顔に変わった賢者と気合いのみなぎる表情をした聖騎士たちは、ヒナリの捕らえられている塔へと向けて再び走り出したのだった。




 ヒナリが心の中で四人の賢者に呼び掛けて数回呼吸をしたのちに、祈りの儀のときと同じ熱を体の中に感じた。

(みんなが力を貸してくれてる! ありがとう、みんな……!)

 深く息を吸い込み、朗々と声を響かせる。



「――エトゥンピラオス・エァミプレリー・アングタ・エス」



 女神ポリアンテスよ、我が祈りを叶えたまえ――!



 ヒナリが女神に祈りを捧げた瞬間。


 巨大な扉が開け放たれたかのような凄まじい衝撃音が空気を震わせた。



 魔術師が目を見開き、全身を戦慄かせ始める。

「な、な、なんなのだこれは……! 一体何が起こったというのだ……!」

 ヒナリが女神に祈りを捧げ、耳をつんざくような轟音が鳴り響いた直後、ヒナリの足元に描かれていた魔方陣が別のものに書き換わっていたのだった。線の色も、虹色に変化している。

「わ、私が編み出した魔方陣を、ただ祈るだけで書き換えただと!? そんなことがあってたまるか!」

 荘厳な紋様に置き換わった魔方陣から強烈な光が放たれて、部屋全体を白く染める。
 同時にヒナリ自身の体からも、光が溢れ出していた。

(私は絶対に、この人の心を浄化するんだ……!)

 組んだ両手に力を込めて、胸の内で願い事を唱え続ける。
 体がさらに熱くなり、合わせた手のひらに汗が滲み、徐々に意識が霞み出す。

 ヒナリのすぐそばに立ち尽くしていた辺境伯とその息子が、その場にくずおれる。白目を剥いていた双眸に光が戻る。
 ふたりのうち、先に人間らしさを取り戻したのは息子の方だった。

「あ、あ、……」

 両手で顔を覆って嘆き出す。

「うう……ウレリギッテ、僕が異変に気付いてあげられたら良かったのに……! 今ごろ牢獄で、ひとり寂しく過ごしているのだろう? 自分のことばかり考えて、兄らしいことを何もしてあげられなくて、本当にごめんよ……!」

 懺悔の言葉をこぼした青年が、ついには泣きじゃくり出した。
 その直後、今度はシュネインゼル辺境伯の弱々しい声が聞こえてきた。

「わ、私が、我が一族が、間違っていたのか……。我がシュネインゼル家唯一の賢者の『敬虔たれ』との助言を無視して金儲けに走り、賢者を迫害し、極貧のさなかに死なせてしまったから……」

 ヒナリが声のした方を見ると、床にへたり込んだ辺境伯は目を見開いて、ぶつぶつと何かを呟き続けていた。
 次の瞬間、異変に気付く。自分の両手が光の中に消え掛かっていたのだった。

(なにこれ……!?)

 組んだ指の隙間から、細かい光の粒が立ち上っていく。

(私、このまま消えてしまうの? 聖壇以外で祈りを発動させたから……?)

 最期の予感に心臓が騒ぎ出す。

(祈りを止めないと。でも……)

 シュネインゼル辺境伯とその息子は完全にヒナリへの害意をなくしているようだったが、光の向こう側に立つ魔術師はまだ、眩しげに細めた目でヒナリを睨み付けていた。
 祈りの儀では、女神に願いが届いたと実感できる瞬間まで、心の中で願いを唱え続ける。

(そうだ、まだ魔術師までは浄化できてないんだから、祈り続けないと)

 再び手を組み、目を閉じる。
 まぶたの向こうでさらに光が強くなったような気がした。

 心の中で祈りを繰り返していると、魔術師の嘆きが聞こえてきた。

「わ、私はただ、魔術で、誰かの、役に立てたらと……! 禁じられた術であっても、聖女と賢者のように、誰かを救えるはずと、若かりし頃は、夢中でただそれだけを追及していたはず、だったのに……。誰にも言えぬ孤独のさなかで、伯爵の甘言に釣られてしまっ、た……」

 切れ切れに呟いていた魔術師の声がくぐもる。顔を覆って泣き始めたようだった。



 ようやく祈りが通じたと実感し、祈りの姿勢を解く。
 祈りの儀では、目映い光が広間を照らしたあと、光の粒が降り注ぐはずだった。
 しかし今は、祈りを止めてもヒナリの体から溢れる光は収まらない。それどころか爪先も消え掛かっていて、足元で輝く魔方陣の紋様が透けて見えた。
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