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第五章
80 賢者の力(■)
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ふと、ダリオの赤い瞳から光が完全に消え失せた。令嬢の目の前で力なく項垂れる。垂れ下がった淡緑色の髪が、かすかに揺れる。
「……。分かった。もう、抵抗しない」
「あら、諦めるのが随分とお早いですのね?」
「僕の体は好きにすればいい、かつてのように。だがヒナリに手を出すのはやめろ」
「賢者のお務めが始まっても根本は変わらないということですか。まったく、いくじのない」
ウレリギッテが白けた顔をして視線を逸らした、その瞬間。
突然ダリオが自身の顎に突きつけられていた扇子を奪い取り、まるで剣で薙ぎ払うかのような動きでウレリギッテの頬を扇子で叩いた。
「ひっ!?」
たったそれだけの衝撃で、ウレリギッテはその場に横倒しになった。
「痛あ……、なん、ですの……? 体が、全く、動きませんわっ……。それに貴方、縄は一体……」
床に倒れ込んだウルレギッテは、なぜかうまくしゃべれなくなっている様子だった。
「そこの男っ! さっさと、わたくしをっ、助けなさいなっ……」
ヒナリに迫ってきていた男が、主の命を受けて踵を返す。
その男の顔を見たダリオが苦々しげに吐き捨てた。
「君お得意の、薬か」
「ご明察。さすが、身をもって、知っている方はっ……、察しがよろしい、ですわね……」
男がナイフを構える。ダリオもまた身構えたものの、手にしているのは細い扇子のみである。
令嬢の扇子と鋭いナイフ。どう見ても敵う相手ではない。
居ても立っても居られず、ヒナリはほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。
「ダリオ! 逃げて!」
ヒナリが固唾を呑んで成り行きを見守る中、男がナイフで何度も宙を斬る。
対するダリオは床を蹴って後ろに跳躍し――開いた扇子を振りかざすと、男の方へと向けて勢いよく振り下ろした。
「うがっ!?」
扇子で扇がれた男の顔に殴られた風な波紋が走った瞬間、反対側の壁まで吹き飛んでいた。凄まじい音を立てて壁に激突する。男はずるずると床に落ちるとそのまま動かなくなった。
「なっ!? なんなんですの一体!」
首だけを上げて様子を見ていたウレリギッテが金切り声を響かせる。
「うるさいなあ……」
低く唸るように呟いたダリオは扇子を手のひらに叩き付けて閉じると、床に靴音を響かせつつウレリギッテにゆっくりと歩み寄った。
「君のその声、心底嫌いなんだ」
怨敵たる女の前に膝を突き、扇子の先で顎をすくう。
「君の喉を掻き切ってしまえば、その声、もう出せなくなるね」
「なっ……!?」
震え上がった女を、光の失せた目で見下ろす。
「君はこれから何も話せなくなるから種明かししてあげるけど、今、僕は、賢者の魔力を使ってこの扇子に僕の思い通りの攻撃性を持たせることができるんだ。さっきは君を痺れさせただけだったけれど、切断の性能を付ければ君の喉も、その憎たらしい顔も! 全て切り刻むことができるようになる」
冷めきった赤い瞳に、次第に狂気が宿り出す。
「ああ、そういえば君のその気が触れた目も大嫌いなんだった。叫ばれてもうるさいから、喉を掻き切ったあと、失血死する前に片目ずつ丁寧に抉り出してあげる」
「ひいっ……!」
ウルレギッテの顔から瞬く間に血の気が失せる。がたがたと震え出し、見開いた目でヒナリを見る。
「聖女様! 賢者の乱心をただ見てるだけですの? 平気で人を傷付ける者が賢者たる資格はございませんでしょう!?」
(何をふざけたことを……!)
ヒナリは怒りに奥歯を噛みしめながら、ウルレギッテの目の前まで歩み寄った。
「平気で人の心と体をなぶり続けたあなたが、何をおっしゃいますか」
最大限の侮辱を眼差しに込めて、女を見下ろす。
「わたくしは聖女ヒナリ、賢者ダリオと共に在る者です。賢者ダリオの苦しみはわたくしの苦しみ、賢者ダリオの怒りはわたくしの怒り。賢者ダリオが積年の恨みを晴らすべくあなたを害した結果、女神ポリアンテス様に地獄に落とされるのならば、わたくしは賢者ダリオと手を携え、喜んで地獄に参りましょう!」
「正気ですの!? これだから儀式だの祈りだの浄化だのと! 得体の知れない力で世界を牛耳る方たちですこと! 狂ってますわ!」
いっそ無様なほどの必死な形相をして、甲高い声で喚き散らす。
鋭い溜め息が、それを遮った。
「もういい。黙って」
「ひいいっ……!」
ダリオがウレリギッテの喉に扇子をあてがうと、ウルレギッテはますます激しく体を震わせ始めた。
涙目をおずおずと動かし、壁際で失神している男を見る。
「そこの男! 早く起きなさい! 早くわたくしをっ……助けなさい……、助けて、助けてえ……」
ついには子供のように泣き出した。
ダリオが自身の手首から解いた縄でウレリギッテを拘束し、それから男の元へと行き、床に転がっているナイフを取り上げる。
「ヒナリ、じっとしてて」
「うん」
ヒナリの背後に回ったダリオはそのナイフを使い、ヒナリを解放したのだった。
ダリオはヒナリに使われていたロープで男を拘束し、再びウルレギッテの前に戻ってくると、ロープの痕の残る手首をさすった。
「皮肉なもんだね。君に何度も拘束されたお陰で身に付けた縄抜けが今、役に立つなんて」
「あなた、縄を解いたことなんてなかったじゃない……!」
「君、もう忘れてしまったの? 君は僕を犯して満足したあと、僕の拘束を解かずに放置していたよね。僕が縄でしばられたままで誰かに発見されたことがなかったからこそ、君は学園を追放されずに済んでいたんだよ?」
「そんなの知ったことではありませんわ。どうでもいいですわ、もう、何もかも……」
諦めの表情が、瞬く間に怒りを漲らせる。
「あなたは賢者として生まれたから分からないでしょう! 賢者を望むお父様に、賢者ではなかったと! 男ですらなかったと! 生まれた瞬間に失望されたこのわたくしの苦しみが! 『本来ならば、賢者の最後のひとりはアウレンティ家でなく我がシュネインゼル家に生まれ出でるはすだったのに』と! ことあるごとになぜ『貴様は賢者ではないのだ』、『なぜ貴様は女なのだ』と言われながら育てられてきた苦しみ! 賢者の貴方には理解できないでしょう!」
「君の生い立ちには同情するよ。けれどそれは、他者を傷付けることを許される理由にはならない」
ダリオはウレリギッテの目の前に扇子を落とすと、見せ付けるようにそれを踏みにじった。
表情を失くしたウレリギッテは、もはや何も言うことはなかった。
嵐の収まった部屋が、静寂に包まれる。
ヒナリが危機を脱したことに安堵していると、ダリオがふらつき始め、その場に膝を突いた。
「ダリオ!」
ヒナリがダリオに駆け寄りその背中に手を添えた途端、手のひらに伝わってきた熱に目を見開いた。ダリオは驚くほどに体温が上がっていた。
ダリオが肩で息をしながら床に手を突き、力なく倒れ込む。
ヒナリが首を支えて仰向かせれば、高熱に赤らんだ顔が綻びる。
「ヒナリ……僕のために、怒ってくれて、本当に、ありがとう……」
震える手が差し伸べられる。
「ヒナリ、愛してる……永遠に」
「ダリオ……!」
その指先がヒナリの頬に届く前に――ダリオは気を失ったのだった。
ヒナリたちは、ほどなくして現れた聖騎士団に救出された。王家の紋章が施された馬車は人気のほとんどない通りを移動していたそうだったが、ごくわずかな目撃者にも強い印象を残すほどに凄まじい勢いで走っていたそうで、その向かった方角から候補地を絞り込み、神殿騎士団を総動員して多くの建物を調べていったのだという。
邸宅に戻っても、ダリオが目を覚ますことはなかった。
◇◇◆◇◇
ダリオの部屋に集合し、眠るダリオを見守りつつ、ダリオの起こした不可思議な現象について話し合う。
壁に寄り掛かり腕組みしたアルトゥールが、抑えた声で話を切り出す。
「以前、バイオリンの音色に魔力が乗った現象を応用した、ということだろう」
その隣に立つベルトランが、言葉を継ぐ。
「世の中のご令嬢が好んで使う扇子は高級木材が使用されていることがほとんどだと思うんだけれども、より魔力濃度の高い森で採れるものの方が伐採が困難になるから価値が高くなる。値段だけで価値を測るシュネインゼル家の令嬢らしい物の選び方を、ダリオは把握していたんだろうね」
ベッド脇の椅子に腰を下ろしたクレイグが、ダリオの口から体温測定用の魔道具を抜き出し、その数値を見て溜め息をつく。
「この熱は、祈りの儀の直後のヒナリと同じ状態ですね。大量の魔力を放った後の発熱です」
ヒナリはクレイグの横に立ち、ダリオの額から手巾を取り上げると、ぬるくなったそれを魔道具の保冷桶に張った冷水に浸して絞り、再びダリオの額に乗せ直した。
荒れた呼吸を繰り返すダリオの苦悶の表情を見つめつつ、ぽつりと疑問を口にする。
「賢者が儀式以外で魔力を使ったら、どうなってしまうのかな……」
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