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第四章

72 聖女のやきもち

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 ヒナリはダリオが友人女性と談笑する姿を凝視してしまわないように気を付けつつ、わざと他のところを見ては、時折ちらちらと様子を窺っていた。
 ヒナリがそわそわとする後ろで、ベルトランが呟いた。

「ダリオがカランドラ嬢と学園の同期だってことは知っていたけれど、交流があったなんて知らなかったな」

 その言葉に振り向くと、ベルトランもまたダリオたちの方に視線を向けていた。

「ベルトランはあの人のことを知ってるの?」
「彼女は有名なバイオリニストだよ。王立学園に在学中にデビューしたって当時話題になっていたね」

 バイオリンというふたりの共通点に気付けば、心が落ち着きをなくしていく。
 自信に満ちあふれた表情は、誰の目にも魅力的に映るだろう。きっとダリオの目にも――。

 笑顔でダリオと言葉を交わす彼女と自分とを、つい比較してしまう。聖女である自分がもし誰かに魅力を感じてもらえたとして、それはただ聖女がこの世で唯一世界を浄化する力を持っているからであり、彼女のように努力して身に着けたもので人を惹き付けているわけではない。
 音楽センスにせよ浄化能力にせよ、天性の才能という観点からしても、彼女は彼女が元から持っている素質である一方で、聖女の才能は聖女の体が元から持っていたものでしかなく、ヒナリはそれを借りているだけなのだ。
 魔眼持ちのダリオであれば、相手の底の浅さなど簡単に見抜けるだろう。
 彼女にはあって自分にはないものは、きっとたくさんある――それに気付けばどこまでも心が沈んでいく。

(もしダリオが彼女に惹かれていたとしても、聖女である私はその気持ちをちゃんと受け入れてあげなきゃいけないのに。『そんなのイヤ』だなんて思っちゃダメだよ)

 ヒナリは小さく首を振ると、ままならない己の心に呆れて溜め息をついた。




「ダリオ様。一曲いかがです?」

 不意にダリオの顔の前に手が差し出された。
 ダリオはすぐには返事をせず、カランドラから視線を外すと愛しの聖女を一瞥した。
 ヒナリの体から、幾種類かの色のオーラの粒がぽつりぽつりと吹き出している。中でも特に目立つのが、濃いめの緑色をしたオーラだった。その吹き出す勢いのなさに、嫉妬の気持ちを自ら抑え込もうとしているのが見て取れる。
 ダリオは目を伏せて微笑むと、カランドラに苦笑してみせた。

「遠慮しておく。僕は、僕のお姫様としか踊りたくないから」
「まあ、まあ! 仲がよろしくていらっしゃるのですね」
「今はまだ、僕の片思いだけどね」

 肩をすくめてみせれば、励ますような眼差しを返される。

「ダリオ様ほどの魅力的な御方であれば、きっと聖女様の御心を射止められますわ」
「ありがとう」

 頼もしい言葉に笑みを返す。するとカランドラが今度は低い位置で手を差し出してきた。

「お元気で。賢者のお務めが滞りなく終えられることを、切にお祈り申し上げますわ」
「ありがとう。君の活躍を祈っているよ」

 力強い握手を交わし、旧友との再開を終えたのだった。




 友人と別れたダリオが、人々の合間を縫ってヒナリの元に戻ってきた。

「ごめんヒナリ、長々と話し込んじゃって」
「え!? ううん」

 申し訳なさげな顔をするダリオに向かって必死に首を振ってみせる。

「もっとお話ししなくて良かったの?」
「ダンスに誘われたから断ってきた」
「あら……。それでよかったの?」

 途端にきょとんとした顔になったダリオが、意地悪めいた笑みを浮かべる。

「君は、僕が彼女と踊ってもよかったの?」
「そ、それはっ……ノーコメントで」
「ええ!? なんだいそれ!」

 ヒナリが強引に質問をはぐらかそうとしたら、ダリオが腹を抱えて笑い出した。


 さっきは四人の賢者に『みんなが踊ってるところを見てみたい』などと言ったにもかかわらず、今は自分以外の令嬢と踊っているところは見たくないと、はっきりと思う――。聖女がそんなに心が狭くちゃいけないと思っても、今はその気持ちを抑えることができなくなってしまったのだった。



    ◇◇◆◇◇



 ルデリンナ・シュネインゼルは怒り狂っていた。取り巻きの令嬢たちの、必死になだめる言葉が耳を通り過ぎていく。
【聖女が賢者と共に作り出した束の間の平和を喜び合う】などという舞踏会の華やかな雰囲気が、自身のみじめさを一層際立たせる。最高級のドレスをきつく握り締め、苛立ち任せに絨毯を踏み締めて歩を進めると、笑顔からたちまち怪訝な顔付きに変わった人々が道を空けていった。


 賢者ベルトラン・オークレールを籠絡せよ――。

 そう辺境伯である父に命じられ、行きたくもない王立学園に入学させられたのは十三歳のときのこと。
 父は、侮辱されたという理由だけで正妻を毒殺するほどの恐ろしい男だ。そんな悪魔に妾のひとりである母を人質に取られているようなものだったから、言うことを聞かないわけにはいかなかった。
 幼い頃からずっと、父には相手にされてこなかった。しかしどんなに我が儘を言ってもたしなめられなかったため、社交を嫌がり辺境領から出たことがなく、そのためそれまで賢者という存在を見たことがなかった。

 賢者ベルトラン・オークレール。
 淡く煌めく金髪、宝石を思わせる緑の瞳、涼やかな笑み、すらりと伸びた手足。大勢の生徒に囲まれる中、まるで天から一筋の光が差すかのように、彼だけが輝きを放っていた。
 その瞬間、父の命令なぞ吹き飛んでしまった。彼こそ私の夫に相応しい――その初めて出会ったときの衝動のままに彼を追い回し、常に隣に並び立ち、恋人然と振る舞う学園生活を送った。

 話し掛ければ必ず相槌を返してくれる彼の眼差しはいつだって優しく、心を躍らせずにはいられなかった。しかしそれは他の女が相手であっても全く同様で、いくら取り巻きを使って邪魔な女どもを蹴散らしても、同級生のみならず上級生や下級生と、学園中の女生徒が彼に寄ってくるため切りがなく、結局学園を卒業するまでに彼の特別な存在にはなれなかった。


 卒業後も辺境領には帰らず王都の別邸に留まり、彼の参加する夜会に必ず参加し続けて数年経った、ある仮面夜会にて。
『せめて一瞬だけでも私を愛してくれたら貴方を諦められるのに』などと、心にもないことを切実さを装って訴えてみたところ、

『これが最初で最後だからね』

 と――たった一度だけ、ついに愛しのベルトランと肌を合わせることが叶ったのだった。

 仮面を外してはくれず、キスすらしてくれずとも、ベッドの上ではとびきり優しかった彼。これできっと、私を忘れられずにまた誘ってくれることだろう。
 夢の幕開けを告げるひとときは、生涯の宝物となった――ついに賢者ベルトランとの関係が進展したことを宣言すべく開いた茶会で、家格がずっと下の令嬢が『同じ夜会で私も彼に抱かれた』と口を滑らせなければ。

 その後の彼は、熱いひとときが嘘のように、あからさまに冷たくなった。聖女降臨の日が近付いてきているからと、女性関係をことごとく精算していっているらしいとの噂が聞こえてきた。
 歴史あるシュネインゼル辺境伯家の長女であり、誰よりも高価なドレスと宝石とで着飾った自分こそ賢者である彼の隣に並び立つに相応しいのに、いつまで経っても大勢の中のひとりにしかなれなかった――。十年以上続いた屈辱的な扱いは、ルデリンナの心をいつまでも苛つかせ続けた。


 ――特別な存在であるはずの私が特別扱いしてもらえなかったのに、いきなり余所の世界から来たどこの馬の骨とも知れない女が見た目だけは美しい体を乗っ取り、愛しのベルトランと仲睦まじくするなんて絶対に、絶対に許せない。

 こんな仕来たりは間違っている、私が賢者を、私のベルトランの目を覚ましてあげなければ――!




 ヒナリがホールを離れて貴賓室へ向かおうとした矢先、毒々しい色合いのドレスを着た令嬢が立ち塞がった。派手な化粧を施した顔は不機嫌に歪められている。甘すぎる香水の押し付けがましさにむせそうになる。
 取り巻きらしき数名の女性は、困惑気味の表情を浮かべて数歩離れた距離で固唾を飲んでいる。
 ヒナリが応じるより先に、四人の賢者がヒナリを庇うように横並びになり壁を作った。
 途端に令嬢の表情が、機を得たりと言わんばかりのしたり顔に変わる。広げた黒いレースの扇子でひと扇ぎして、耳障りな仰々しさで嫌みを言い放つ。

「あらぁ? 聖女様は賢者様がたに護られてばかりで、ご自身では何もできませんの?」

(うわ、悪役令嬢だ。本物だあ……)

 前世の様々な創作物で見た悪役令嬢そのものの人物から発せられる言葉はいっそ期待通りと言いたくなるほどで、多少の不快感を催すものの、特に響くものはない。ヒナリにとっては挑発にすらなっていなかったが、かといって無視して立ち去るだけでは相手が都合良く自身の勝利を喧伝するであろうことは、容易に想像ができた。

(一応会話しておいた方がいいんだろうな、こういうのは)

 ヒナリが軽く手を掲げると、賢者たちがふたりずつ左右に分かれて向かい合わせになった。統率の取れた騎士のごとく一斉に背後に手を回して待機姿勢を取る。
 ヒナリは小さく息を吸い込むと、黒いアイラインで縁取られた目をまっすぐに見つめ返した。
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