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第7話 バリツ見参
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私の友人はステッキを中段に構え、軽快にステップを踏み始めた。その動きは確かに若いスポーツマンも顔負けの機敏さと円滑さがある。しかしながら、この超人を相手するには今ひとつどころか、今みっつくらいの遅れがありそうに思えた。何しろ鉄も砕くあの腕だ。
ホームズはステッキを高く掲げると一振りし、李の眼前へ突き出した。瞬きもせず、李がその牽制を睨んだ。続いて小銃の銃床で殴るような動作で、ホームズがステッキを半回転させた。李のこめかみにステッキの持ち手が迫る。
「シッ!」
李がわずかな吐息の音を立て、ふわりと前に出した両手を縦に回転させた。
「むうっ!」
ホームズのステッキがその手に絡め取られ、床に叩きつけられる。パァンと乾いた音に続いて、持ち手が無残に割れて隅へ転がった。
これで素手と素手だ。いよいよ絶望的になってきた。ホームズは構えを変えると、腰高になって両手を胸の前で回転させた。拳闘術だ。しかしホームズはボクシングもプロ級だが、所詮は手袋をつけてリングの上で打ちあうクイーンズベリースタイルの話だ。やはりこの凶猛な超人に比肩するとは思えなかった。
「殺めたくはないが、止むを得んな」
李の目に怒りが宿っていた。彼の前ではホームズが得意とする武術も、児戯に等しくみえるのだろう。
ホームズを失うのは英国だけではなく世界の損失だ。命を失ってでも割りこみたかった。しかしそうしたところで、1つですむ死体がなんの意味もなく2つに増えるのは明らかだった。ごくりと喉を鳴らした。ホームズには手があるのだろうか?
ホームズが左拳を打ち込んだ。李は俊敏な体さばきで顔にせまる手を避けた。
「愚かな男よ」
そして、ついに達人が本領を発揮した。踏み込みに続き、李の掌がホームズへ走った。殺される。脳裏にその言葉がうかんだ。
ところが、ホームズはその一撃を寸前で外していた。続く同じ手による李の肘打ち、そして体当たり。驚いたことに、そのどれもが届く寸前でかわされていた。
「ほう……」
李が、にやりと笑った。
目を疑った。李は3度の踏み込みに合わせて、全く見事に右拳、右肘、右肩の連撃を繰りだしていた。並の男なら心臓が潰されているところだ。ところがホームズは、その打撃を相手の外側、外側に避けて、最後の体当たりも斜め後ろに円を描きながら軽快なステップで逃げ切っていた。
あれはアウトボクシングだ!
私は数年前にロンドンで開かれたボクシングのタイトルマッチを思い出した。無敵のチャンピオン、ジョン・サリバンを倒したジム・コーベットの試合だ。
足を止め自身の屈強さを見せつけるスタンド・アンド・ファイトスタイルで待ち受ける王者サリバンに、コーベットはジャブと呼ばれる素早い牽制技と細かいステップで挑んだ。飛びかう羽虫のようにサリバンを翻弄したコーベットは、時間こそかけたがついに王者を負かしてしまったのだ。
観衆の中にはコーベットを男らしくないと酷評した者もいたが、これが新しいボクシングだと賞賛する者もいた。ホームズももちろんその1人だ。
「君の一撃は素晴らしい。当たれば命を落とすだろう。しかし僕は英国で洗練されたこの技術を身に着けている。届かなければ倒せまい」
ホームズが軽快なステップ・ワークを続けながら言いはなった。確かにこの超人の打撃は常軌を逸してはいるが、交互の打ち合いを前提としてはいないように見えた。威力が威力なだけに、ボクシングのような競技として発達する余地がなかったのかもしれない。
「なるほど西洋の武術はなかなか知恵を使ったものだな。だが、それで功夫があるとは言えんぞ、シャーロック・ホームズとやら」
言うや、李が構えを変えて床を蹴った。大きく手を外側から振り回して叩きつけてくる。正面からの攻撃だったが、その掌がホームズの後頭部を狙っているのは明らかだった。近距離での拳打に加え、この男は風車のように腕を振り回す技術も持っているようだ。
ホームズが飛びのいて転がった。遅れて風が部屋を駆ける。肩口が破れ、指が皮膚をえぐっていた。ついに李の一撃が当たったのだ。
「ホームズさん、その技は劈掛掌です! 距離を取っても油断なさらないで!」
林が緊張した声で叫んだ。
「素晴らしい」
ホームズは仰向けに転がったが、右手と左足を使って、体を合理的に反転させて立ち上がった。
「こんな僥倖はまたとないだろう。やはりたまにはドーバー海峡を渡るべきだね。世界を知らなさすぎたよ」
私の友人は再び両手を胸の前で回転させ、軽快にステップを踏み始めた。
「いい加減にしてくれ! どこからその余裕は来るのかね!」
「慌てなさんなワトソン君! 僕の試したい手はまだ残っているんだ。それが通じなかったら諦《あきら》めて逃げることにするよ!」
ホームズの声にいくらか落ち着きを取り戻したが、その肩を痛々しく染める赤い痕から目を離せなかった。
「我が拳をこう何度も躱すとはな。弟子達と比べても稀有な男よ」
李が呟くと、高熱の気配が再び膨れあがった。鋭利な殺気は全身に満ち、今にも噴きだしてくるかのようだ。間違いなく次で勝負をかけてくる。
「私を本気にさせたな、シャーロック・ホームズ。だが、なぜこのために命をかける? なぜ己の正義を信じ、私の前に立てる?」
「その話は決着をつけてからだね」
ホームズは私と初めて会った時と同じ、射抜くような鋭い目をじっと李へ向けていた。
やおら、ホームズの右ストレートが李の顔めがけて繰り出された。李にかすりはしたものの、致命傷ではないようだ。巧みにそれを左手で外側へ弾くや、ホームズの鎖骨へ指を引っかけるように左手、右手と伸ばし、続いて左の肘打ちを叩きこんできた。
連続する轟音。床にハンマーで打ち込んだかのような窪みがつくられた。李の切り札なのだろう、雷撃のような連打だ。ホームズの姿勢が崩れた。私が目をそらしかける。
「むっ!?」
そこで、2人の動きが止まった。ホームズは李の打撃に身を焦がしつつも、かろうじて直撃を避け、躍りかかるように組みついたのだ。
「おおおっ!!」
ホームズが気合一閃、李の正面から襟と袖をとった。体を反転させ、なんと李に投げ技を仕掛けていた。
「ぬううっ!」
李が抵抗する。組みついたホームズは体を戻すともう一度、巧みにゆさぶりをかけて李をひきまわした。そして再度、今度は逆の襟と袖をつかみ、体を反転させた。李がついにその姿勢を崩した。
見るのは初めてだったが、これこそホームズが日本人から学んだという神秘の武術、バリツに違いなかった。ジェームズ・モリアーティをライヘンバッハの滝壺へ投げ込んだ技術が、超人の片膝をつかせたのだ。続いてホームズは両手で李の服をつかんだまま、自らの体重を使って転がる捨て身投げをかけた。李が遅れて転がり、背を床につける。
ホームズが上からまたがり、両手を交差させて巧妙に李の襟をつかむ。首を絞める気だ。
「小癪な!」
李は力強く床を蹴り、一瞬で立った。ホームズに握られた自らの襟を引きちぎり、服を破り捨てる。清国の礼服の中から、岩石で組み立てられたような裸身が現れた。
締め技はこれで効果を失った。ホームズがちぎられた襟を捨て、李の左腕に組みついた。
「不抜も鶉刈も効かないか。これは恐れ入ったな」
ホームズが手首をひねりにかかる。李は崩れない。どっしりと腰を落として左腕一本でその技を耐えた。それを見て、ホームズは大きく李の背後に回り、両手を使って李の左肘を極めにいった。
「どうだ!」
「貴様っ!」
李は脚を大きく開いた構えのまま倒れそうにない。ホームズの強靭な膂力《りょりょく》は全て李の左手に集中しており、一瞬の油断でもあれば折れそうだ。だが一方のホームズもその手を緩めれば、超人の一撃を受けて絶命することは明らかだった。
膠着した。2秒。今しかない! 私は全ての力を振り絞って部屋の隅へ跳んだ。ホームズの拳銃を拾いにいったのだ。わずか数メートルの距離がはるか遠くに感じたが、脚力の限りを尽くし、手を大きく伸ばしてピストルを取った。振り向きざまに構える。両手で力強く握り、李のこめかみに銃口を向けた。
愕然とした。
軽すぎる。またも弾なしだ。このボーチャード半自動拳銃ならさしもの超人も即死だと思ったが、マガジンが入っていない。私の後ろあたりに転がっているのだろうか?
視線を移すわけにはいかない。この男にそんな隙を見せたら確実に殺される。覚悟を決めて、腹の底から声をだした。
「動くな! 動くと撃つぞ!」
ホームズはステッキを高く掲げると一振りし、李の眼前へ突き出した。瞬きもせず、李がその牽制を睨んだ。続いて小銃の銃床で殴るような動作で、ホームズがステッキを半回転させた。李のこめかみにステッキの持ち手が迫る。
「シッ!」
李がわずかな吐息の音を立て、ふわりと前に出した両手を縦に回転させた。
「むうっ!」
ホームズのステッキがその手に絡め取られ、床に叩きつけられる。パァンと乾いた音に続いて、持ち手が無残に割れて隅へ転がった。
これで素手と素手だ。いよいよ絶望的になってきた。ホームズは構えを変えると、腰高になって両手を胸の前で回転させた。拳闘術だ。しかしホームズはボクシングもプロ級だが、所詮は手袋をつけてリングの上で打ちあうクイーンズベリースタイルの話だ。やはりこの凶猛な超人に比肩するとは思えなかった。
「殺めたくはないが、止むを得んな」
李の目に怒りが宿っていた。彼の前ではホームズが得意とする武術も、児戯に等しくみえるのだろう。
ホームズを失うのは英国だけではなく世界の損失だ。命を失ってでも割りこみたかった。しかしそうしたところで、1つですむ死体がなんの意味もなく2つに増えるのは明らかだった。ごくりと喉を鳴らした。ホームズには手があるのだろうか?
ホームズが左拳を打ち込んだ。李は俊敏な体さばきで顔にせまる手を避けた。
「愚かな男よ」
そして、ついに達人が本領を発揮した。踏み込みに続き、李の掌がホームズへ走った。殺される。脳裏にその言葉がうかんだ。
ところが、ホームズはその一撃を寸前で外していた。続く同じ手による李の肘打ち、そして体当たり。驚いたことに、そのどれもが届く寸前でかわされていた。
「ほう……」
李が、にやりと笑った。
目を疑った。李は3度の踏み込みに合わせて、全く見事に右拳、右肘、右肩の連撃を繰りだしていた。並の男なら心臓が潰されているところだ。ところがホームズは、その打撃を相手の外側、外側に避けて、最後の体当たりも斜め後ろに円を描きながら軽快なステップで逃げ切っていた。
あれはアウトボクシングだ!
私は数年前にロンドンで開かれたボクシングのタイトルマッチを思い出した。無敵のチャンピオン、ジョン・サリバンを倒したジム・コーベットの試合だ。
足を止め自身の屈強さを見せつけるスタンド・アンド・ファイトスタイルで待ち受ける王者サリバンに、コーベットはジャブと呼ばれる素早い牽制技と細かいステップで挑んだ。飛びかう羽虫のようにサリバンを翻弄したコーベットは、時間こそかけたがついに王者を負かしてしまったのだ。
観衆の中にはコーベットを男らしくないと酷評した者もいたが、これが新しいボクシングだと賞賛する者もいた。ホームズももちろんその1人だ。
「君の一撃は素晴らしい。当たれば命を落とすだろう。しかし僕は英国で洗練されたこの技術を身に着けている。届かなければ倒せまい」
ホームズが軽快なステップ・ワークを続けながら言いはなった。確かにこの超人の打撃は常軌を逸してはいるが、交互の打ち合いを前提としてはいないように見えた。威力が威力なだけに、ボクシングのような競技として発達する余地がなかったのかもしれない。
「なるほど西洋の武術はなかなか知恵を使ったものだな。だが、それで功夫があるとは言えんぞ、シャーロック・ホームズとやら」
言うや、李が構えを変えて床を蹴った。大きく手を外側から振り回して叩きつけてくる。正面からの攻撃だったが、その掌がホームズの後頭部を狙っているのは明らかだった。近距離での拳打に加え、この男は風車のように腕を振り回す技術も持っているようだ。
ホームズが飛びのいて転がった。遅れて風が部屋を駆ける。肩口が破れ、指が皮膚をえぐっていた。ついに李の一撃が当たったのだ。
「ホームズさん、その技は劈掛掌です! 距離を取っても油断なさらないで!」
林が緊張した声で叫んだ。
「素晴らしい」
ホームズは仰向けに転がったが、右手と左足を使って、体を合理的に反転させて立ち上がった。
「こんな僥倖はまたとないだろう。やはりたまにはドーバー海峡を渡るべきだね。世界を知らなさすぎたよ」
私の友人は再び両手を胸の前で回転させ、軽快にステップを踏み始めた。
「いい加減にしてくれ! どこからその余裕は来るのかね!」
「慌てなさんなワトソン君! 僕の試したい手はまだ残っているんだ。それが通じなかったら諦《あきら》めて逃げることにするよ!」
ホームズの声にいくらか落ち着きを取り戻したが、その肩を痛々しく染める赤い痕から目を離せなかった。
「我が拳をこう何度も躱すとはな。弟子達と比べても稀有な男よ」
李が呟くと、高熱の気配が再び膨れあがった。鋭利な殺気は全身に満ち、今にも噴きだしてくるかのようだ。間違いなく次で勝負をかけてくる。
「私を本気にさせたな、シャーロック・ホームズ。だが、なぜこのために命をかける? なぜ己の正義を信じ、私の前に立てる?」
「その話は決着をつけてからだね」
ホームズは私と初めて会った時と同じ、射抜くような鋭い目をじっと李へ向けていた。
やおら、ホームズの右ストレートが李の顔めがけて繰り出された。李にかすりはしたものの、致命傷ではないようだ。巧みにそれを左手で外側へ弾くや、ホームズの鎖骨へ指を引っかけるように左手、右手と伸ばし、続いて左の肘打ちを叩きこんできた。
連続する轟音。床にハンマーで打ち込んだかのような窪みがつくられた。李の切り札なのだろう、雷撃のような連打だ。ホームズの姿勢が崩れた。私が目をそらしかける。
「むっ!?」
そこで、2人の動きが止まった。ホームズは李の打撃に身を焦がしつつも、かろうじて直撃を避け、躍りかかるように組みついたのだ。
「おおおっ!!」
ホームズが気合一閃、李の正面から襟と袖をとった。体を反転させ、なんと李に投げ技を仕掛けていた。
「ぬううっ!」
李が抵抗する。組みついたホームズは体を戻すともう一度、巧みにゆさぶりをかけて李をひきまわした。そして再度、今度は逆の襟と袖をつかみ、体を反転させた。李がついにその姿勢を崩した。
見るのは初めてだったが、これこそホームズが日本人から学んだという神秘の武術、バリツに違いなかった。ジェームズ・モリアーティをライヘンバッハの滝壺へ投げ込んだ技術が、超人の片膝をつかせたのだ。続いてホームズは両手で李の服をつかんだまま、自らの体重を使って転がる捨て身投げをかけた。李が遅れて転がり、背を床につける。
ホームズが上からまたがり、両手を交差させて巧妙に李の襟をつかむ。首を絞める気だ。
「小癪な!」
李は力強く床を蹴り、一瞬で立った。ホームズに握られた自らの襟を引きちぎり、服を破り捨てる。清国の礼服の中から、岩石で組み立てられたような裸身が現れた。
締め技はこれで効果を失った。ホームズがちぎられた襟を捨て、李の左腕に組みついた。
「不抜も鶉刈も効かないか。これは恐れ入ったな」
ホームズが手首をひねりにかかる。李は崩れない。どっしりと腰を落として左腕一本でその技を耐えた。それを見て、ホームズは大きく李の背後に回り、両手を使って李の左肘を極めにいった。
「どうだ!」
「貴様っ!」
李は脚を大きく開いた構えのまま倒れそうにない。ホームズの強靭な膂力《りょりょく》は全て李の左手に集中しており、一瞬の油断でもあれば折れそうだ。だが一方のホームズもその手を緩めれば、超人の一撃を受けて絶命することは明らかだった。
膠着した。2秒。今しかない! 私は全ての力を振り絞って部屋の隅へ跳んだ。ホームズの拳銃を拾いにいったのだ。わずか数メートルの距離がはるか遠くに感じたが、脚力の限りを尽くし、手を大きく伸ばしてピストルを取った。振り向きざまに構える。両手で力強く握り、李のこめかみに銃口を向けた。
愕然とした。
軽すぎる。またも弾なしだ。このボーチャード半自動拳銃ならさしもの超人も即死だと思ったが、マガジンが入っていない。私の後ろあたりに転がっているのだろうか?
視線を移すわけにはいかない。この男にそんな隙を見せたら確実に殺される。覚悟を決めて、腹の底から声をだした。
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