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第2話 東洋の魔術
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ホームズの元へ来た女性は、訥々《とつとつ》と事件について話し始めた。
「そうですね……事件では2人の清国人が殺されました。その片方が、私の兄である林英文です。もう一人も清国人で、こちらは黄選平といいます。黄はヨーロッパから兵器を買っては、清国の盗賊など反政府組織に売りつける密売屋でした。国家に対する考えは何もなく、ただ金のために動く男です。この黄という売国奴は主にイギリスで活動していたのですが、ドイツ……プロシア帝国ですね。そこから、噂を聞きつけて清国へ害をなす交渉を持ちかけた者がいました。兄はその情報を得て、商談を阻止に向かいました」
「兄の英文さんは、清国政府の役人だったのかね?」
私が口をはさんだ。
「いいえ、私たち兄妹はホームズさんがおっしゃったとおり、清国の武術結社である大刀会の構成員です。これは盗賊を捕まえて役所に突き出すなど、郷土の防衛や治安の維持にたずさわるいわゆる自警団です。ですがその中で手練れの者は、清国政府の依頼を受けて活動するのです。兄、英文は政府の密命を受けて黄を追っていました」
訪れた女性は、私に目だけを向けて答えた。
「続けてください」
ホームズは林の言葉のひとまとまりを聞くたびに小さく指をならしていたが、それから古いブライアーパイプに煙草を詰めはじめた。その間も、林から目を離さなかった。
「我々大刀会は、以前から山東省という地域でキリスト教会と対立していたのですが、教会のあまりの無法に耐えられず、先日神父を2人も殺してしまったのです。ドイツ政府は以前から清国に対して圧力をかけていたのですが、これをチャンスと考えて軍事行動を起こしました。我々から租借地を……つまり領土を奪おうというのです。
科学者ハーバーはこうしたプロシア帝国の動きを支援するため、黄を経由して清国のドイツ人へ兵器を輸送しようとしたのです。清国政府はこれを恐れて兄を派遣したのですが、商談に介入すると見るや、ハーバーは黄も兄もまとめて殺してしまったのです。記録を闇に葬るためでしょう」
「ハーバーが2人を殺したとわかったのは、お兄さんと同行していた人から聞いたのですね?」
ホームズが聞いた。
「は、はい。説明が足りずすいません。兄の部下が清国へ電信を打ちました。名前は徐といい、彼は黄と兄が死んだ直後に、危険を察して英国から離れています」
「よくわかりました」
ホームズはしばし考え込んで、肘掛け椅子に持たれかかった。
「事件後、ハーバーはロンドンを離れて清国に向かいました。しかし兄を殺したのがハーバーだというのはあくまで推測で、徐も現場を見てはいないのです。真相を明らかにして、凶悪な殺人犯を捕らえるために協力していただきたいのです」
「まってくれ」
思わず私が口をはさんだ。
「君たちだけ納得しているようだが、私には納得がいかないことがいくつもある。まず、あなたの到着日数だ。事件が起きたのは11月上旬。速い船でスエズ運河を使ったとしても、3か月はかかるはずだ。私はアフガンにいたことがあるから船の速度はよく知っている。
次に、あのロンドンの殺人事件だが、そのドイツ人……フリッツ・ハーバーかね。彼が犯人だとして、どうやって殺したのかね? あの漆喰の壁に大穴を開けた魔術か超兵器かわからないが、それに殺されたのだろうともっぱらの噂だ。しかも被害者の2人に外傷はまるでなかったらしい。こんな不可思議な事ばかり起きているのに、どうすれば今の話で落ち着くのかね?」
依頼人が腰を浮かして話を継ごうとしたが、ホームズはそれを視線で制し、顔を起こしてパイプから濃い煙の輪を吹き出しながら答えた。
「依頼人の口をわずらわすのも申し訳ないし、1点目は僕からいおう。まず、彼女は海路ではなく、陸路で来たのだ。彼女が船を使った場所はたった1箇所。英仏間に横たわるドーバー海峡だけだよ」
「陸路だって!?」
「海路で来たのなら、彼女の鞄についている錠は少なからず錆びたはずだ。けずった痕も見えないのだから、陸路しかありえない」
「だからって、陸路ならなおさら時間がかかるだろう!」
「そんなことはない。ロシアのシベリア鉄道構想は知っているだろう?」
「いやしかし、あれは未完成のはずだ」
「西側はバイカル湖にせまるところまでできているよ。1本で来る必要はないんだ。彼女は清国からバイカル湖までは鉄道と馬を交互に使い、そこからシベリア鉄道を使った。現在、清国の首都北京とロンドン間の最速到達時間は1か月半。海路の半分ですむ」
「そ、そうなのか……いやしかし、壁の穴を開けた魔術は?」
「そちらは実地にいく必要があるね。しかし彼女の話で情報はそろってきたよ。さあワトソン君、ロンドンへ向かおう。君の疑問が、いかに簡単な推理によって解明するのか見てみようじゃないか」
ホームズが立ち上がり、帽子と外套を手に取った。
*
私たちはベイカー街へ戻らず、直接事件が起きたキングストン・アポン・テムズ区のホワイトヒルホテルへ向かった。行きがけにレストレード警部の同行を頼んだ。捜査に難航していた彼らはホームズの復活に手をうち、勇んで飛びだしてきた。
惨劇がおきてすでに1か月以上がすぎても一向に事件を解決できなかったため、現場はそのまま残っていた。当時の状況に埃だけが加わった感じだった。
「見てのとおりですよ、ホームズさん」
レストレード警部が、事件があった1階の部屋を開けた。南京錠を外からかけられる作りになっている。普段は施錠してあり、会議や商談などの時だけ開放するのだそうだ。あきれたことに、被害者2名を示す白墨までうっすらと残っていた。ホテルにはいい迷惑だったのではないだろうか。
「ふむ」
ホームズが壁の穴に虫眼鏡を近づけた。
新聞の挿絵と同じくほぼ真円、鉄製の重そうなドアの横の壁が壊れている。やはり銃器だろうか? しかし中にいた2人とも銃砲の類は持っていなかったそうだ。それにこれだけの大きさの弾が転がっていないのも不可解な話だった。
「魔術はでたらめとしてもなにかしら使ったんでしょうが、大掛かりなもののようです。床にこのような固定された跡が2箇所」
レストレード警部が床のくぼみを指差した。ここ数十年で普及の著しい丈夫なリノリウムの床だが、かなり重量をかけたのだろう、沈み込んでいるのがはっきりわかった。
「使ってから運び出して外から施錠したのでしょうが、そのような大掛かりな道具はどこにも隠せない。ホテルの従業員も見ていないのです」
それを聞くと、ホームズは振り返るなり話し始めた。
「武器を設置したとして、それはなぜ3脚でなく不安定な2脚のものなんだろうね、レストレード君。しかもなぜ、本人に向けて打ちこむのではなく、壁を破ったのかね?」
「いや、そこが難しくて……ただ、これは私の考えですがね。2脚の砲を用意して後部を壁で固定、2人に向けて発射。砲弾は開いた窓から外へ飛んでいき、反動で壁に穴が開く。犯人は砲を解体して外へ運びだし、部屋に鍵をかける。ではどうでしょう」
レストレードが答えたが、ホームズは不服そうだった。
「遺体に外傷をつけず、外に飛び出た砲弾に誰も気がつかず、解体してもなお大掛かりなその武器に誰も気がつかなかったなら、成り立つ話だね。ちなみにその窓は開かない。換気はその上の窓を使う設計だ」
ホームズが視線を送ったレストレードの顔が、渋く変わっていく。
「いや、実は……他の同僚にも同じことを言われました」
ふう、とホームズが目を閉じ、次にドアへ目をやった。壁の穴に手をあてて押しだまる。鷹を思わせる目に、集中しているときの色が浮かんでいた。
「これは武器によるものではない。僕も最初にこの結論にいたった時は、何度も自分の考えを検証した。しかしやはり間違いない」
「どういうことかね?」
私が口を挟んだ。
「砲撃ではないのだよ、ワトソン君。この穴を開けたのは、極めて精密な技術とたぐいまれな才能、そして血のにじむような鍛錬によってのみ実現しうる」
ホームズは一度言葉を切ってから、おもむろに続けた。
「素手の一撃だ」
「そうですね……事件では2人の清国人が殺されました。その片方が、私の兄である林英文です。もう一人も清国人で、こちらは黄選平といいます。黄はヨーロッパから兵器を買っては、清国の盗賊など反政府組織に売りつける密売屋でした。国家に対する考えは何もなく、ただ金のために動く男です。この黄という売国奴は主にイギリスで活動していたのですが、ドイツ……プロシア帝国ですね。そこから、噂を聞きつけて清国へ害をなす交渉を持ちかけた者がいました。兄はその情報を得て、商談を阻止に向かいました」
「兄の英文さんは、清国政府の役人だったのかね?」
私が口をはさんだ。
「いいえ、私たち兄妹はホームズさんがおっしゃったとおり、清国の武術結社である大刀会の構成員です。これは盗賊を捕まえて役所に突き出すなど、郷土の防衛や治安の維持にたずさわるいわゆる自警団です。ですがその中で手練れの者は、清国政府の依頼を受けて活動するのです。兄、英文は政府の密命を受けて黄を追っていました」
訪れた女性は、私に目だけを向けて答えた。
「続けてください」
ホームズは林の言葉のひとまとまりを聞くたびに小さく指をならしていたが、それから古いブライアーパイプに煙草を詰めはじめた。その間も、林から目を離さなかった。
「我々大刀会は、以前から山東省という地域でキリスト教会と対立していたのですが、教会のあまりの無法に耐えられず、先日神父を2人も殺してしまったのです。ドイツ政府は以前から清国に対して圧力をかけていたのですが、これをチャンスと考えて軍事行動を起こしました。我々から租借地を……つまり領土を奪おうというのです。
科学者ハーバーはこうしたプロシア帝国の動きを支援するため、黄を経由して清国のドイツ人へ兵器を輸送しようとしたのです。清国政府はこれを恐れて兄を派遣したのですが、商談に介入すると見るや、ハーバーは黄も兄もまとめて殺してしまったのです。記録を闇に葬るためでしょう」
「ハーバーが2人を殺したとわかったのは、お兄さんと同行していた人から聞いたのですね?」
ホームズが聞いた。
「は、はい。説明が足りずすいません。兄の部下が清国へ電信を打ちました。名前は徐といい、彼は黄と兄が死んだ直後に、危険を察して英国から離れています」
「よくわかりました」
ホームズはしばし考え込んで、肘掛け椅子に持たれかかった。
「事件後、ハーバーはロンドンを離れて清国に向かいました。しかし兄を殺したのがハーバーだというのはあくまで推測で、徐も現場を見てはいないのです。真相を明らかにして、凶悪な殺人犯を捕らえるために協力していただきたいのです」
「まってくれ」
思わず私が口をはさんだ。
「君たちだけ納得しているようだが、私には納得がいかないことがいくつもある。まず、あなたの到着日数だ。事件が起きたのは11月上旬。速い船でスエズ運河を使ったとしても、3か月はかかるはずだ。私はアフガンにいたことがあるから船の速度はよく知っている。
次に、あのロンドンの殺人事件だが、そのドイツ人……フリッツ・ハーバーかね。彼が犯人だとして、どうやって殺したのかね? あの漆喰の壁に大穴を開けた魔術か超兵器かわからないが、それに殺されたのだろうともっぱらの噂だ。しかも被害者の2人に外傷はまるでなかったらしい。こんな不可思議な事ばかり起きているのに、どうすれば今の話で落ち着くのかね?」
依頼人が腰を浮かして話を継ごうとしたが、ホームズはそれを視線で制し、顔を起こしてパイプから濃い煙の輪を吹き出しながら答えた。
「依頼人の口をわずらわすのも申し訳ないし、1点目は僕からいおう。まず、彼女は海路ではなく、陸路で来たのだ。彼女が船を使った場所はたった1箇所。英仏間に横たわるドーバー海峡だけだよ」
「陸路だって!?」
「海路で来たのなら、彼女の鞄についている錠は少なからず錆びたはずだ。けずった痕も見えないのだから、陸路しかありえない」
「だからって、陸路ならなおさら時間がかかるだろう!」
「そんなことはない。ロシアのシベリア鉄道構想は知っているだろう?」
「いやしかし、あれは未完成のはずだ」
「西側はバイカル湖にせまるところまでできているよ。1本で来る必要はないんだ。彼女は清国からバイカル湖までは鉄道と馬を交互に使い、そこからシベリア鉄道を使った。現在、清国の首都北京とロンドン間の最速到達時間は1か月半。海路の半分ですむ」
「そ、そうなのか……いやしかし、壁の穴を開けた魔術は?」
「そちらは実地にいく必要があるね。しかし彼女の話で情報はそろってきたよ。さあワトソン君、ロンドンへ向かおう。君の疑問が、いかに簡単な推理によって解明するのか見てみようじゃないか」
ホームズが立ち上がり、帽子と外套を手に取った。
*
私たちはベイカー街へ戻らず、直接事件が起きたキングストン・アポン・テムズ区のホワイトヒルホテルへ向かった。行きがけにレストレード警部の同行を頼んだ。捜査に難航していた彼らはホームズの復活に手をうち、勇んで飛びだしてきた。
惨劇がおきてすでに1か月以上がすぎても一向に事件を解決できなかったため、現場はそのまま残っていた。当時の状況に埃だけが加わった感じだった。
「見てのとおりですよ、ホームズさん」
レストレード警部が、事件があった1階の部屋を開けた。南京錠を外からかけられる作りになっている。普段は施錠してあり、会議や商談などの時だけ開放するのだそうだ。あきれたことに、被害者2名を示す白墨までうっすらと残っていた。ホテルにはいい迷惑だったのではないだろうか。
「ふむ」
ホームズが壁の穴に虫眼鏡を近づけた。
新聞の挿絵と同じくほぼ真円、鉄製の重そうなドアの横の壁が壊れている。やはり銃器だろうか? しかし中にいた2人とも銃砲の類は持っていなかったそうだ。それにこれだけの大きさの弾が転がっていないのも不可解な話だった。
「魔術はでたらめとしてもなにかしら使ったんでしょうが、大掛かりなもののようです。床にこのような固定された跡が2箇所」
レストレード警部が床のくぼみを指差した。ここ数十年で普及の著しい丈夫なリノリウムの床だが、かなり重量をかけたのだろう、沈み込んでいるのがはっきりわかった。
「使ってから運び出して外から施錠したのでしょうが、そのような大掛かりな道具はどこにも隠せない。ホテルの従業員も見ていないのです」
それを聞くと、ホームズは振り返るなり話し始めた。
「武器を設置したとして、それはなぜ3脚でなく不安定な2脚のものなんだろうね、レストレード君。しかもなぜ、本人に向けて打ちこむのではなく、壁を破ったのかね?」
「いや、そこが難しくて……ただ、これは私の考えですがね。2脚の砲を用意して後部を壁で固定、2人に向けて発射。砲弾は開いた窓から外へ飛んでいき、反動で壁に穴が開く。犯人は砲を解体して外へ運びだし、部屋に鍵をかける。ではどうでしょう」
レストレードが答えたが、ホームズは不服そうだった。
「遺体に外傷をつけず、外に飛び出た砲弾に誰も気がつかず、解体してもなお大掛かりなその武器に誰も気がつかなかったなら、成り立つ話だね。ちなみにその窓は開かない。換気はその上の窓を使う設計だ」
ホームズが視線を送ったレストレードの顔が、渋く変わっていく。
「いや、実は……他の同僚にも同じことを言われました」
ふう、とホームズが目を閉じ、次にドアへ目をやった。壁の穴に手をあてて押しだまる。鷹を思わせる目に、集中しているときの色が浮かんでいた。
「これは武器によるものではない。僕も最初にこの結論にいたった時は、何度も自分の考えを検証した。しかしやはり間違いない」
「どういうことかね?」
私が口を挟んだ。
「砲撃ではないのだよ、ワトソン君。この穴を開けたのは、極めて精密な技術とたぐいまれな才能、そして血のにじむような鍛錬によってのみ実現しうる」
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