ホームズvs李書文

梧桐彰

文字の大きさ
上 下
1 / 15

プロローグ

しおりを挟む
 1897年。文学研究家のバジル・ウィリーは、この時代の英国を生きることができたら、これほど幸せな生涯はないだろうと述べている。ヴィクトリア時代のイギリスは、その言葉にふさわしい世界的国家としての全盛期を迎えていた。平和と繁栄、潤沢と自由がそこにあった。しかしその一方で、社会を脅かす凶悪な事件もまた後を絶たなかった。

 この日は11月1日月曜日。ロンドン搭に接したタワーブリッジを背に、ニュース・オブ・ザ・ワールドを配る少年の声が走っていた。この庶民のためのタブロイド紙は、普段は日曜日だけに発売される。それが翌日まで発売されたのは、売り切れが続出したからだった。人目をひく事件がおき、臨時の増刷が出たのだ。

「さあ買ってよ買ってよ、早い者勝ちだよ! キングストン・アポン・テムズ区のホワイトヒルホテルでの惨劇! 死亡したのは密室にいた身元不明の東洋人ふたり!」

 汗を流しながらタブロイドを配る少年の手に、毛深い男の手が重なった。

「ガキ、見せてくれ」
「はいよっ!」

 無精髭の労働者が新聞を受け取り、ペニー通貨を少年の皮袋へつっこむ。

「おいガキなんだこりゃ? 昨日から騒いどいて、2人死んだだけか? そんな大ごとか?」

「人数が問題じゃないんだよ。謎だらけなんだ。この殺された東洋人2人には傷がどこにもなくて、現場の壁には異常な大穴ができてたんだよ!」
 少年は両手を握って労働者の顔を見上げ、甲高い早口でまくし立てた。

「ふーん」
 パイプをくるくる回しながら男が記事にさっと目を走らせる。周りに人が集まってきた。
 
「なんだよ『中国人の魔術か、日本軍の新兵器か』って、大げさすぎるだろ」
「まだ続くかね?」
「なんにしても物騒だな」

 新聞の下段には、不自然に開いたという穴の挿絵が載っていた。

 *

 同年同月同日同時刻
 清国しんこく山東省さんとうしょう曹州府そうしゅうふ鉅野県きょやけん張荘ちょうそう

 この夜は雨であった。闇の中、道にたまった水が複数の靴に蹴散らされている。同じ服を着ている清国人の若者が10人弱。向かう先は、ドイツ聖言会のキリスト教会だ。

 張荘は小さな町だが、外には大きな影響力がある。西洋人がキリスト教会を作ってから、不当な利益を上げている地主や、周囲と問題をかかえた連中がここに逃げ込むようになったからだ。キリスト教の背後には、ヨーロッパ人たちの強大な武力が控えている。人を殺そうが女に乱暴しようが、教会の信者であれば、日頃の悪事も裁判もことごとく片がつく。

 キリスト教とは、少なくともこの時代のこの国では、民衆の純朴な信仰をまもるための組織ではなかった。彼らは西からくる侵略者の先鞭せんべんであった。それを許せない清国人は少なくない。彼らの怒りは、形になろうとしていた。

 この日は諸聖人の祈りの日であった。聖堂を出ようとする2人のドイツ人たちに対して、集まった若者たちが声を荒げた。

大刀会だいとうかい坎門かんもんだ、動くな!」
「なんです! 何を乱暴な……」

 神父への答えはなかった。怒りが言葉を深い場所に沈めているのだ。集団はめいめいに柳葉刀りゅうようとうと呼ばれる片刃の大きな刀を抜き、踊るように襲いかかった。2つの首が、栓抜きをひっかけた王冠のように跳ねあがる。

「やった!」
「殺したぞ!」

 声に遅れて2つの体が重なって倒れ、黒い血が雨にまじって広がった。

 洋の東西を超える事件の開幕である。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

名残雪に虹を待つ

小林一咲
歴史・時代
「虹は一瞬の美しさとともに消えゆくもの、名残雪は過去の余韻を残しながらもいずれ溶けていくもの」 雪の帳が静かに降り、時代の終わりを告げる。 信州松本藩の老侍・片桐早苗衛門は、幕府の影が薄れゆく中、江戸の喧騒を背に故郷へと踵を返した。 変わりゆく町の姿に、武士の魂が風に溶けるのを聴く。松本の雪深い里にたどり着けば、そこには未亡人となったかつての許嫁、お篠が、過ぎし日の幻のように佇んでいた。 二人は雪の丘に記憶を辿る。幼き日に虹を待ち、夢を語ったあの場所で、お篠の声が静かに響く——「まだあの虹を探しているのか」。早苗衛門は答えを飲み込み、過去と現在が雪片のように交錯する中で、自らの影を見失う。 町では新政府の風が吹き荒れ、藩士たちの誇りが軋む。早苗衛門は若者たちの剣音に耳を傾け、最後の役目を模索する。 やがて、幕府残党狩りの刃が早苗衛門を追い詰める。お篠の庇う手を振り切り、彼は名残雪の丘へ向かう——虹を待ったあの場所へ。 雪がやみ、空に淡い光が差し込むとき、追っ手の足音が近づく。 早苗衛門は剣を手に微笑み、お篠は遠くで呟く——「あなたは、まだ虹を待っていたのですね」 名残雪の中に虹がかすかに輝き、侍の魂は静かに最後の舞を舞った。

新・大東亜戦争改

みたろ
歴史・時代
前作の「新・大東亜戦争」の内容をさらに深く彫り込んだ話となっています。第二次世界大戦のifの話となっております。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

『影武者・粟井義道』

粟井義道
歴史・時代
📜 ジャンル:歴史時代小説 / 戦国 / 武士の生き様 📜 主人公:粟井義道(明智光秀の家臣) 📜 テーマ:忠義と裏切り、武士の誇り、戦乱を生き抜く者の選択 プロローグ:裏切られた忠義  天正十年——本能寺の変。  明智光秀が主君・織田信長を討ち果たしたとき、京の片隅で一人の男が剣を握りしめていた。  粟井義道。  彼は、光秀の家臣でありながら、その野望には賛同しなかった。  「殿……なぜ、信長公を討ったのですか?」  光秀の野望に忠義を尽くすか、それとも己の信念を貫くか——  彼の運命を決める戦いが、今始まろうとしていた。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

帝国夜襲艦隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
1921年。すべての始まりはこの会議だった。伏見宮博恭王軍事参議官が将来の日本海軍は夜襲を基本戦術とすべきであるという結論を出したのだ。ここを起点に日本海軍は徐々に変革していく…。 今回もいつものようにこんなことがあれば良いなぁと思いながら書いています。皆さまに楽しくお読みいただければ幸いです!

処理中です...