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第六章 月華星亮
兄
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私を乗せた輿は既に北峰に入っていた。馬を休ませるために、何度か宿場には泊まったが、とんでもない速度での移動だ。騎馬民族の持つ馬は、我が国が喉から手が出るほど欲しい血統だ。農耕民族である我々に対し、遊牧と略奪で成り立つ彼の国は騎馬にも戦闘にも長けている。文字を持たぬと言われる騎馬民族だが、一緒に旅をする彼らを見る限り、言葉や識字に問題はなかった。北方の民族らしく背が高い。鍛え抜かれた肉体、卓越したは騎馬技術は舌を巻くほどだった。
関所を越える時の彼らの理由は〝輿入れ〟だった。私が〝新娘〟で、彼らは護衛である。わずか1ヶ月の間に、北峰の白家の疎まれ愛されなかった長女は南鞍の薬屋の第五夫人として嫁に出され、後宮の月華宮の雲貴妃となり、今は埜薇の末裔の公主雲泪として、北の果てへ運ばれようとしている。
恐れはなかった。奕晨が恋しくなかったわけではない。私を初めて愛してくれた男だ。恋文をくれ、口づけをし、抱きしめてくれた。紫琴宮がどうなっているのか、気になってはいた。小龍の傷は癒えただろうか。無事陛下と会えただろうか。しかし、私は逃げ出して首都に帰ろうとはしていない。私には、今知らねばならぬ事がある。だから、静かに新娘のふりをしている。きっと銀蓮は無事で、この男たちの元にいる。そんな予感もあった。
男たちは干した肉を齧り、皮袋入った乳酒を飲んでいる。次は国境を越えなければならない。馬を休ませる為に野営をしているようだった。
輿の小窓を開けて、干し肉を差し込まれる。月に照らされる男の顔は、やはり陛下に似ている。
「どうした?食わないと山越えが持たないぞ」
男が声を発するまで、見惚れていた自分にびっくりして、慌てて右手で干し肉をとる。
「そんなに似ているか」
私の視線に気付かないわけがない男は髪をかき上げた。私は何と答えて良いか戸惑い、返事がすぐに出てこなかった。俯く私に男が続けた。
「順番が違う。俺がアイツに似ているんじゃない。アイツが俺に似ているんだ。確かに半分は兄弟だからな」
男はおもむろに輿の扉を開く。
「昔話でもしよう。ここは深い森だから星が綺麗だ」
私は導かれるまま輿を降りた。
「俺の名は奕世。この世界を永劫に受け継ぐものだ。母が名付けた。奴の奕晨と同じくな」
5月といえど標高の高い北峰の森は寒い。陛下を待つための薄衣のままの私を奕世は毛皮のマントで包む。
「お前はこっちで生まれたから知らないかもしれない。歴史書が全て正しい史実を書いているわけじゃない。俺たちは文字を持たぬ、書なぞ残さぬ。だが、少なくとも経験した真実は知っている」
低く響く声が暗い森に吸い込まれるよう消えていく。暗い森が少し怖かった。私は不安から奕世に寄り添っていた。
少し驚いたような顔をしたが、奕世は毛皮越しに私を抱き寄せて話を続ける。
「俺の母は龔鴑の王妃だった。先の姚の皇帝に奪われた。誘拐されたわけじゃない。我が父は正妃を貢ぎ物として後宮に送るように要求されたんだ」
奕世は色素の薄い私の髪を撫でる。
「埜薇は独立した国だったんだよ。姚の領土なんかじゃない。君の母親も銀蓮の母親も好きで漢族に嫁いだと思うか?公主」
私は、私に雲泪と名付けた母の気持ちが、やっと分かった気がした。母はずっと不幸せだったのだ。故郷を追われたのは、騎馬民族の侵攻のせいではなかったのかもしれない。戦争は片方だけが起こすわけじゃない。騎馬民族には騎馬民族側の正義と言い分が有ってしかるべきだった。
「奕晨は…それを知っているの?」
「さあ?母がなんといってヤツを育てたか俺は知らないんでね。ただ皇帝は一族郎党の仇だから殺せと育てたわけではないだろう」
私は躊躇いがちに、質問を続ける。
「奕晨が姚皇帝で、あなたが龔鴑の王なら…兄弟だもの、一度会って話をすれば…」
「きっと分かり合える?本気で言ってる?」
冷たい地面に押し倒される。
私の髪を掴み、奕世は荒々しい口づけをする。圧倒的な力の差がある、押しのけることが出来ない。
「ほら、今まさに同じ女を奪い合ってる。それでもこの世界を兄弟で分け合えると?ヤツと会う時は殺し合う時だけだ」
奕世は再び口づけをする。嫌がっても逃れられそうになかった。
「確かに弟に違いない、奕晨に会ったことすらないが、ヤツがお前に何故執心するかが分かる」
私を抱きしめたまま、奕世は動きを止めた。
「お前は、きっと母に似ている」
奕世は泣いているようにすら見えた。
「あなたと奕晨の母は後宮で毒殺されたと聞いたわ。祖国の地も踏めず、あなたにも会えないまま異国で死ぬのは無念だったことでしょう」
私も涙が溢れた。私の母が公主だったとすれば、程度の低い地方の好色な商家の息子なんかに嫁がなければならないのはいかほどの屈辱だっただろう。そして蔑ろにされ、真実を私に告げられないまま異国で死ぬことになった。どれほどの無念を抱えたまま死んだかを思うと涙が止まらなかった。
「弟がどれほど豪奢な宮を与え、召使を何百何千と傅かせても、お前は後宮などに留まる女ではない。お前には悠久の大地を馬で自由に駆け回る騎馬民族の血が流れているからだ。今の龔鴑の王は父の弟だが、時が満ちれば俺が王になる。お前を必ず王妃にすることを満天の星に誓おう」
奕世は私の涙に口づけをした。
関所を越える時の彼らの理由は〝輿入れ〟だった。私が〝新娘〟で、彼らは護衛である。わずか1ヶ月の間に、北峰の白家の疎まれ愛されなかった長女は南鞍の薬屋の第五夫人として嫁に出され、後宮の月華宮の雲貴妃となり、今は埜薇の末裔の公主雲泪として、北の果てへ運ばれようとしている。
恐れはなかった。奕晨が恋しくなかったわけではない。私を初めて愛してくれた男だ。恋文をくれ、口づけをし、抱きしめてくれた。紫琴宮がどうなっているのか、気になってはいた。小龍の傷は癒えただろうか。無事陛下と会えただろうか。しかし、私は逃げ出して首都に帰ろうとはしていない。私には、今知らねばならぬ事がある。だから、静かに新娘のふりをしている。きっと銀蓮は無事で、この男たちの元にいる。そんな予感もあった。
男たちは干した肉を齧り、皮袋入った乳酒を飲んでいる。次は国境を越えなければならない。馬を休ませる為に野営をしているようだった。
輿の小窓を開けて、干し肉を差し込まれる。月に照らされる男の顔は、やはり陛下に似ている。
「どうした?食わないと山越えが持たないぞ」
男が声を発するまで、見惚れていた自分にびっくりして、慌てて右手で干し肉をとる。
「そんなに似ているか」
私の視線に気付かないわけがない男は髪をかき上げた。私は何と答えて良いか戸惑い、返事がすぐに出てこなかった。俯く私に男が続けた。
「順番が違う。俺がアイツに似ているんじゃない。アイツが俺に似ているんだ。確かに半分は兄弟だからな」
男はおもむろに輿の扉を開く。
「昔話でもしよう。ここは深い森だから星が綺麗だ」
私は導かれるまま輿を降りた。
「俺の名は奕世。この世界を永劫に受け継ぐものだ。母が名付けた。奴の奕晨と同じくな」
5月といえど標高の高い北峰の森は寒い。陛下を待つための薄衣のままの私を奕世は毛皮のマントで包む。
「お前はこっちで生まれたから知らないかもしれない。歴史書が全て正しい史実を書いているわけじゃない。俺たちは文字を持たぬ、書なぞ残さぬ。だが、少なくとも経験した真実は知っている」
低く響く声が暗い森に吸い込まれるよう消えていく。暗い森が少し怖かった。私は不安から奕世に寄り添っていた。
少し驚いたような顔をしたが、奕世は毛皮越しに私を抱き寄せて話を続ける。
「俺の母は龔鴑の王妃だった。先の姚の皇帝に奪われた。誘拐されたわけじゃない。我が父は正妃を貢ぎ物として後宮に送るように要求されたんだ」
奕世は色素の薄い私の髪を撫でる。
「埜薇は独立した国だったんだよ。姚の領土なんかじゃない。君の母親も銀蓮の母親も好きで漢族に嫁いだと思うか?公主」
私は、私に雲泪と名付けた母の気持ちが、やっと分かった気がした。母はずっと不幸せだったのだ。故郷を追われたのは、騎馬民族の侵攻のせいではなかったのかもしれない。戦争は片方だけが起こすわけじゃない。騎馬民族には騎馬民族側の正義と言い分が有ってしかるべきだった。
「奕晨は…それを知っているの?」
「さあ?母がなんといってヤツを育てたか俺は知らないんでね。ただ皇帝は一族郎党の仇だから殺せと育てたわけではないだろう」
私は躊躇いがちに、質問を続ける。
「奕晨が姚皇帝で、あなたが龔鴑の王なら…兄弟だもの、一度会って話をすれば…」
「きっと分かり合える?本気で言ってる?」
冷たい地面に押し倒される。
私の髪を掴み、奕世は荒々しい口づけをする。圧倒的な力の差がある、押しのけることが出来ない。
「ほら、今まさに同じ女を奪い合ってる。それでもこの世界を兄弟で分け合えると?ヤツと会う時は殺し合う時だけだ」
奕世は再び口づけをする。嫌がっても逃れられそうになかった。
「確かに弟に違いない、奕晨に会ったことすらないが、ヤツがお前に何故執心するかが分かる」
私を抱きしめたまま、奕世は動きを止めた。
「お前は、きっと母に似ている」
奕世は泣いているようにすら見えた。
「あなたと奕晨の母は後宮で毒殺されたと聞いたわ。祖国の地も踏めず、あなたにも会えないまま異国で死ぬのは無念だったことでしょう」
私も涙が溢れた。私の母が公主だったとすれば、程度の低い地方の好色な商家の息子なんかに嫁がなければならないのはいかほどの屈辱だっただろう。そして蔑ろにされ、真実を私に告げられないまま異国で死ぬことになった。どれほどの無念を抱えたまま死んだかを思うと涙が止まらなかった。
「弟がどれほど豪奢な宮を与え、召使を何百何千と傅かせても、お前は後宮などに留まる女ではない。お前には悠久の大地を馬で自由に駆け回る騎馬民族の血が流れているからだ。今の龔鴑の王は父の弟だが、時が満ちれば俺が王になる。お前を必ず王妃にすることを満天の星に誓おう」
奕世は私の涙に口づけをした。
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