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14章 君の味方
第577話 留別
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「兄さま!」
こんな夜中に。ひとり、兄さまの別荘で。
平民のような服装で。完全に旅支度だ。
兄さまの目が大きくなる。
「リディー、どうして?」
そんなの、すべての仮想補佐に根回ししたからに決まっている。
少しだけ嫌な予感がしていたから。
「そうだった。君がルームのマスターなんだものね」
兄さまが薄く笑う。
「探るつもりなんでしょ? バイエルン侯が無実だった証拠を。わたしも一緒に探す。ここを拠点として動けばいい」
ソレダケナラ、コンナ夜中ニ独リデココニクル必要ハナイ……。
心の奥でキンと冷えた声がした。
兄さまは首を横に振る。
「違うよ、リディー。ごめんね、すべてが煩わしくなった」
「何言って……」
「リディーも疲れただろう? これだけ騒動が収まらないのは、収まらないようにしている者がどこかにいる。それは自然に収束しないということだ。私が罰せられるまで、これは終わらない。だから私はいない方がいい」
「いなくなれば騒動が収まると思う? 逆だわ。兄さまがクラウス・バイエルンだから逃げたんだって言われるだけよ」
「それでも、私がいなければ、〝証拠〟にはならない」
「だから、証拠はどこにもない! ただ、今、噂に踊らされているだけよ」
「バイエルン侯は確信してた、私がクラウスだと。あの目は何がなんでも証拠を持ってくる」
「血の証明も、声の証明も無理だわ。あと何があるっていうの?」
「リディー、世界は広い。私たちが知らない鑑定方法がどこかにあるかもしれない。このまま騒ぎが大きくなればなるほど、周りに知られて、新たな鑑定方法が出てくるかもしれない。
私はクラウスである。この事実は消し去ることはできない。もしそれでクラウスであることがわかったら、ランディラカ家にも、シュタイン家にもどんな余波がいくかわからない……。大切なみんなを傷つけることだけは、したくないんだ」
「証拠はどこにもない!」
そういいながら、詭弁だとわかっていた。
「……ランディラカの父上や義兄上に迷惑がかかる」
駄目だ。兄さまは決めてしまっている。
掌に爪が食い込む。
「……なんで? 逃げるの?」
「そうだ。煩わしくなった。私を誰も知らないところで生きていく」
「嘘、兄さまは、こんなことで諦める人じゃない。ひとりで調べるつもりでしょ? それに巻き込まないために出ていく気だ」
「リディーは私をよく思いすぎだ。言ったろ、疲れたって。リディーも、貴族の特権を使って嫌な気持ちになったり、拵えてきた大切な物を踏みにじられて心を痛めた。もう、君にあんな顔をさせたくない。君も自由になって」
兄さまの心が疲れ切っているのは見て取れた。
疲れて煩わしくなるのも、もっともだと思った。
だけど……。
「ずっと一緒にいるって言った!」
「状況が変わってしまった」
「離さないって言った!」
兄さまが胸のポケットから封筒を出した。
「後で、父さまに送っておく」
「な、何を?」
「婚約を破棄した書類だ。私たちの婚約には〝蕾覧〟にしてもらったから、破棄するにも彼らの署名がいるんだ。その3貴族に認めてもらうのが大変だったよ」
兄さま、そこまで手配していた。
本気だ。
前バイエルン候の無実を調べるためなら、居なくなったということにして、外国やルームに籠る方法はいくつもある。けど、婚約を破棄するということは、関係を断つということ。
「そばにいてくれるって言った! わたしが大切って言ったじゃない! わたしを守るために突き放さないって!」
「ああ、言った」
なんで薄く笑うの? 駄々っ子の話を聞くみたいに。
「リディー、だから、これは君を守るために、関係を断つわけではない。この関係がしんどくなった。だから私と君の縁はここまでにする」
兄さまが軽く目を閉じる。
「私と君はもう婚約者じゃない。君は自由だ。誰とでも恋愛できるし、結婚できる」
「な、なんで、そんなこと言うの?」
「君の味方は、いっぱいいる」
兄さまがわたしの髪の先っぽを指で挟む。
「君はいつだって明日に向かって走り出せる娘だ。だから昨日までにしがみついちゃいけない。私とはここでお別れだ」
その先に口づける。
「やだ!」
わたしは兄さまにしがみついた。
『オレ、フランツと行く』
え? わたしを胸に抱いている兄さまも驚いている。
クイは言葉を交わせる魔道具に触れたみたいだ。だから兄さまも言葉がわかったんだろう。
わたしは兄さまにしがみついたまま、首を動かしてクイを見た。
それにいつもは兄さまって呼んでいるのに、〝フランツ〟って言った。
『主・アオ。行っていい?』
ああ、そうだ。クイの契約主はアオだ。
『……クイ』
「クイ、駄目だ。私はここに、二度と戻ってこない」
兄さまがクイに告げたけど、クイは頷かなかった。
『それでもだ』
『アオ、お前はクイをテイムした主だ。答えてやれ』
レオがアオの背中を軽く叩いた。
「お、おいらは……クイのしたいようにするでち。おいらはそれを望むでち」
『ありがとう、主』
『クイ……』
『アリ、元気でな』
クイが兄さまの肩に乗る。そしてわたしの涙を舐める。
『リー、元気で』
『わたくしも、ご一緒しましょうかねぇ』
ベアが兄さまの隣の肩に飛び乗った。
え。
「二人とも、私は許可した覚えはない。君たちはリディーのそばに」
『我らは誰にも縛られません。ただ生きたい場所で、生きるだけ』
ベアも、わたしの涙をぺろっと絡めとる。
『リディア、あなたと一緒に暮らしていて、とても温かく楽しい日々でしたよ。お元気で』
「なんでっ、急に……」
みんないなくなっちゃうの? わたしから離れていこうとするの?
「嘘つき! 嘘つき!」
わたしは兄さまの胸を、何度も叩いた。
わたしのそばにいるって言ったのに。わたしを離さないって言ったのに!
兄さまは、わたしだけが聞き取れるような、小さい声で言う。
「リディーは頭がいいからわかっているね? どうしたら大好きな家族を守れるか。その答えは出ていたはずだ」
わたしは胸の中で首を横に振った。
「リディーは、家族、そして領地、友達。今まで出会ってきたものがすべて大切で大事にしている。そして守っていくんだ。だから君は、大事な人たちに大切にされ、大事にされるんだ。君には味方がいっぱいいる。だから何があっても大丈夫。それだけは忘れちゃ駄目だよ」
「兄さま、行っちゃ駄目。行っちゃ嫌!」
一瞬だけ、兄さまに抱きしめられる。息もつけないぐらいキツく。
わたしの瞼に口づけが降りてくる。
「泣き虫な私のお姫さま、さよなら」
兄さまが行っちゃう……。
わたしの大切で、大好きな人が。
「駄目!」
ふっと、意識がとんだ。
こんな夜中に。ひとり、兄さまの別荘で。
平民のような服装で。完全に旅支度だ。
兄さまの目が大きくなる。
「リディー、どうして?」
そんなの、すべての仮想補佐に根回ししたからに決まっている。
少しだけ嫌な予感がしていたから。
「そうだった。君がルームのマスターなんだものね」
兄さまが薄く笑う。
「探るつもりなんでしょ? バイエルン侯が無実だった証拠を。わたしも一緒に探す。ここを拠点として動けばいい」
ソレダケナラ、コンナ夜中ニ独リデココニクル必要ハナイ……。
心の奥でキンと冷えた声がした。
兄さまは首を横に振る。
「違うよ、リディー。ごめんね、すべてが煩わしくなった」
「何言って……」
「リディーも疲れただろう? これだけ騒動が収まらないのは、収まらないようにしている者がどこかにいる。それは自然に収束しないということだ。私が罰せられるまで、これは終わらない。だから私はいない方がいい」
「いなくなれば騒動が収まると思う? 逆だわ。兄さまがクラウス・バイエルンだから逃げたんだって言われるだけよ」
「それでも、私がいなければ、〝証拠〟にはならない」
「だから、証拠はどこにもない! ただ、今、噂に踊らされているだけよ」
「バイエルン侯は確信してた、私がクラウスだと。あの目は何がなんでも証拠を持ってくる」
「血の証明も、声の証明も無理だわ。あと何があるっていうの?」
「リディー、世界は広い。私たちが知らない鑑定方法がどこかにあるかもしれない。このまま騒ぎが大きくなればなるほど、周りに知られて、新たな鑑定方法が出てくるかもしれない。
私はクラウスである。この事実は消し去ることはできない。もしそれでクラウスであることがわかったら、ランディラカ家にも、シュタイン家にもどんな余波がいくかわからない……。大切なみんなを傷つけることだけは、したくないんだ」
「証拠はどこにもない!」
そういいながら、詭弁だとわかっていた。
「……ランディラカの父上や義兄上に迷惑がかかる」
駄目だ。兄さまは決めてしまっている。
掌に爪が食い込む。
「……なんで? 逃げるの?」
「そうだ。煩わしくなった。私を誰も知らないところで生きていく」
「嘘、兄さまは、こんなことで諦める人じゃない。ひとりで調べるつもりでしょ? それに巻き込まないために出ていく気だ」
「リディーは私をよく思いすぎだ。言ったろ、疲れたって。リディーも、貴族の特権を使って嫌な気持ちになったり、拵えてきた大切な物を踏みにじられて心を痛めた。もう、君にあんな顔をさせたくない。君も自由になって」
兄さまの心が疲れ切っているのは見て取れた。
疲れて煩わしくなるのも、もっともだと思った。
だけど……。
「ずっと一緒にいるって言った!」
「状況が変わってしまった」
「離さないって言った!」
兄さまが胸のポケットから封筒を出した。
「後で、父さまに送っておく」
「な、何を?」
「婚約を破棄した書類だ。私たちの婚約には〝蕾覧〟にしてもらったから、破棄するにも彼らの署名がいるんだ。その3貴族に認めてもらうのが大変だったよ」
兄さま、そこまで手配していた。
本気だ。
前バイエルン候の無実を調べるためなら、居なくなったということにして、外国やルームに籠る方法はいくつもある。けど、婚約を破棄するということは、関係を断つということ。
「そばにいてくれるって言った! わたしが大切って言ったじゃない! わたしを守るために突き放さないって!」
「ああ、言った」
なんで薄く笑うの? 駄々っ子の話を聞くみたいに。
「リディー、だから、これは君を守るために、関係を断つわけではない。この関係がしんどくなった。だから私と君の縁はここまでにする」
兄さまが軽く目を閉じる。
「私と君はもう婚約者じゃない。君は自由だ。誰とでも恋愛できるし、結婚できる」
「な、なんで、そんなこと言うの?」
「君の味方は、いっぱいいる」
兄さまがわたしの髪の先っぽを指で挟む。
「君はいつだって明日に向かって走り出せる娘だ。だから昨日までにしがみついちゃいけない。私とはここでお別れだ」
その先に口づける。
「やだ!」
わたしは兄さまにしがみついた。
『オレ、フランツと行く』
え? わたしを胸に抱いている兄さまも驚いている。
クイは言葉を交わせる魔道具に触れたみたいだ。だから兄さまも言葉がわかったんだろう。
わたしは兄さまにしがみついたまま、首を動かしてクイを見た。
それにいつもは兄さまって呼んでいるのに、〝フランツ〟って言った。
『主・アオ。行っていい?』
ああ、そうだ。クイの契約主はアオだ。
『……クイ』
「クイ、駄目だ。私はここに、二度と戻ってこない」
兄さまがクイに告げたけど、クイは頷かなかった。
『それでもだ』
『アオ、お前はクイをテイムした主だ。答えてやれ』
レオがアオの背中を軽く叩いた。
「お、おいらは……クイのしたいようにするでち。おいらはそれを望むでち」
『ありがとう、主』
『クイ……』
『アリ、元気でな』
クイが兄さまの肩に乗る。そしてわたしの涙を舐める。
『リー、元気で』
『わたくしも、ご一緒しましょうかねぇ』
ベアが兄さまの隣の肩に飛び乗った。
え。
「二人とも、私は許可した覚えはない。君たちはリディーのそばに」
『我らは誰にも縛られません。ただ生きたい場所で、生きるだけ』
ベアも、わたしの涙をぺろっと絡めとる。
『リディア、あなたと一緒に暮らしていて、とても温かく楽しい日々でしたよ。お元気で』
「なんでっ、急に……」
みんないなくなっちゃうの? わたしから離れていこうとするの?
「嘘つき! 嘘つき!」
わたしは兄さまの胸を、何度も叩いた。
わたしのそばにいるって言ったのに。わたしを離さないって言ったのに!
兄さまは、わたしだけが聞き取れるような、小さい声で言う。
「リディーは頭がいいからわかっているね? どうしたら大好きな家族を守れるか。その答えは出ていたはずだ」
わたしは胸の中で首を横に振った。
「リディーは、家族、そして領地、友達。今まで出会ってきたものがすべて大切で大事にしている。そして守っていくんだ。だから君は、大事な人たちに大切にされ、大事にされるんだ。君には味方がいっぱいいる。だから何があっても大丈夫。それだけは忘れちゃ駄目だよ」
「兄さま、行っちゃ駄目。行っちゃ嫌!」
一瞬だけ、兄さまに抱きしめられる。息もつけないぐらいキツく。
わたしの瞼に口づけが降りてくる。
「泣き虫な私のお姫さま、さよなら」
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