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<後編>
第45話 春を祝う8 盾
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殿下とゆっくり歩く。かなり距離をあけて皆様が続いている。
「ドレスや装飾品をありがとうございました」
殿下が紫水晶のような瞳を細めて、ふっと微笑う。
「今日、誰が贈ったドレスを着てくださるのか、楽しみにしておりました。陛下からの贈り物ですね、そのドレスは。ということは、あなたの心はまだ決まっていないのですね」
「……どういう意味でしょうか?」
殿下は意味ありげに微笑んだ。答える気はないらしい。
う、もやもやするじゃないか。
「そのドレスもとても似合っています。無垢な少女が恋を知り、大人への憧れがつまっているようで、それに応えたくなりますね」
別に恥ずかしい単語が入っているわけではないのに、なぜか恥ずかしくなってくるんだけど、これはなんなんだろう?
「それにしても、平民とは思えない令嬢っぷりでしたよ」
「……ありがとうございます」
「リリアン、気をつけてください」
「なんですか?」
「あのふたりは男爵令嬢の手の者かもしれません」
え?
「ふたりともかもしれないし、どちらかかもしれない。いや、どちらもただファニー嬢を慕っているだけなのかもわかりませんが、可能性があります。だから彼らに気を許さないように」
「……なら何故、一対一になるように仕向けたんですか?」
一瞬、王子様ってことも忘れてジト目で見てしまう。
「それはリリアンならうまく切り抜けられそうだからですよ」
口が達者だな。
「……あれらのことは実際ファニー嬢が気にされていたことですか?」
あれらとはわたしが皆様に質問したことだろう。
「ええ」
「やはり、あなたを選んで正解でした」
殿下はわたしの手をとって、口づけを落とした。
下からニヤリと見たから、わたしの反応を楽しんでいると思われる。表情はヴェールに阻まれて見えなくても、固まったのはわかったみたいだ。
「男爵や侍従の方の時とは違う反応ですね。でも却って意識しているってことなのかな?」
これは乙女の事情で言わなくても許されるはずだと、わたしは華麗にスルーした。
バトンタッチしたのは、どう順番を決めたのかはわからないけれど、パトリック様だった。
「私とだと緊張しますか?」
パトリック様の腕に組んだ手を上から押さえてくるので、それが実はストレスになっている。一瞬ならいいけどさ。あと、気心がしれていればね。今日初めてエスコートしてくださる方なのに、わたしの中ではこれは触れすぎだ。でもそう言うのは負けたような気がして、口から出てくるのは違う言葉だ。
「パトリック様だけではなく、皆様それぞれに話すのに緊張しております。身分の高い方々ですし、お話しさせていただくのは初めてですから、ええ、とても」
「5人の方にはいい感情を持たれているように、お見受けしましたが」
昨日、ラモン様に演技ができるのかと言われたことを思い出した。5人にも会うのは初めてのフリをしているが、つもりになっているだけで見破られていそうだ。それとも、彼は男爵令嬢の手のもので、探っているのかもしれない。
「失礼を承知で申し上げますが、昨日、足を払われて掴まれて、とても怖かったです。そこをあの5人の方に助けていただきました。感謝しています。だからいい感情を持っていると思います。それからお尋ねします。わたしは昨日パトリック様に嫌われていると感じました。お手紙をいただいているのをお断りしてきましたから。だから昨日はお叱りを受けると思ったし、……今日名乗りを挙げられたのは意外でした。でももし、それがわたしをお叱りになるためなら、今ここで叱ってそれで終わりにしてくださいませんか?」
パトリック様は、わたしの手を押さえていた手を離して、自身の額を押さえた。
「申し訳ありません。昨日は周りの者に令嬢に避けられていると揶揄られて動揺して、その上ダンスを断られてあなたの気持ちも考えずに強引になってしまいました。怖かったのですね。責めるとそう思われた……」
深く息をつく。
「後からひとりがあなたの足を引っ掛けたと聞きました。私はあなたが体勢を崩されたのだと思っておりました。その者に代わり謝罪申し上げます。本当に申し訳ありませんでした。信じてもらうしかありませんが、私は本当にただ話がしたかっただけなんです。あなたの秘密を私は守っていると、それをお伝えしたくて」
「その秘密とはなんでしょう?」
わたしは歩みを止めた。
「もしあなたが本物のファニー様でなかったら、秘密が秘密でなくなってしまいます。私の口からは言えません。ですから、思い出して欲しいのです」
思わせぶりなことを言っているわけではない?
「どうしたらパトリック様はわたしが本物とわかるんです?」
「ヴェールを取ってくだされば」
「わたしとお会いしたのは大人になってからではないんですよね? そうだとしたら、いくらヴェールを取ったって、あなたに本物とわからないじゃないですか」
「わかりますよ、絶対に」
その自信は一体なんなのか?
「話した感じが少し違います。前はもっとゆっくりで、疑うことを知らなかった」
やはり会ったのは子供の時のようだ。でも、夜会で会った時、初めて会ったような挨拶だったけど。
「成長して声は多少低くなったりしますが、あなたの声には違和感を感じます。それなのに、やはりファニー嬢のような気がするんです」
そして鋭いところが嫌だ。
わたしの組んだ手を外し、その手の平に何かを忍ばせた。
手を開く。
何かの実?
!
何かが記憶を掠めた。
どきんどきんと胸が鳴る。
「ご存知ですよね?」
「……ジルの実ですか?」
パトリック様はニコッと笑われた。
「思い出しましたか?」
「……何を、ですか?」
「……私を選ばずとも秘密は守りますから怯えないでください。ただ、あなたがあの時のレディなのか、確かめたかったのです」
「どうかしましたか?」
離れたところからマテュー様が声をかけてくれた。
「少し、お疲れのようです」
パトリック様は皆様にそう言って、私に
「休まれますか?」
と尋ねる。
少し先にまたベンチがあったので、そこで休むことにした。
わたしの髪はジルという赤い葉の根汁を使って染めている。ジルは紫色の実をつける。母がその染料を作る時、材料を集めるのに苦労していて、わたしは実を潰して使っていると思い込んでいたから、ジルの実を集めたことがある。お母様はわたしにお礼をいってから、でも使うのはこれじゃないのよと教えてくださって笑い話になったのだが。
映像が頭の中によぎる。誰かに手の平に実をのせてもらった記憶が。
『秘密なんだね。大丈夫言ったりしないよ』
小さな男の子だった気がする。実を摘んで歩いているうちに、知らないところまで行っちゃって、急に怖くなって。帰り道が分からなくて走りまわっていたら、誰かに手を引っ張って止められた。
このあたりの子じゃないねと言われて、実を集めているうちにわからないところまで来てしまったんだとわたしは訴えた。そんな実をどうするんだと聞かれたから、髪を染めるのに必要なんだけれど、お母様がいつも集めるのが大変そうだから、わたしが使うのだし、自分で集めることにしたんだとか偉そうに言った気がする。でも、染めていることを言ってはいけないと言われたのを思い出して、秘密にしてとお願いした。
それでどうしたんだっけ? 名前を言ったら家まで連れていってくれるっていうから安心して、話しているうちに疲れて寝ちゃって、気がついたら自分のベッドで寝てたんだ。その子のお家の人が運んでくれたらしい。
髪を染めているのを知っていて、秘密を守っていてくれてるわけね。
小さい頃のわたしのバカ! なんで言っちゃったりしているの!
でも、待てよ。
髪を染めているぐらい……家を知られているわけだから、なぜ染めるのか想像はつくだろう。元の色は推測されていることだろう。けど、たとえ緑な髪がバレたって、ひとつ身に緑を持つことぐらい、だからって何があるわけじゃないし。きっと、別に、大した問題ではない。
ただ、パトリック様が男爵令嬢の手の者だった場合、どうなっても秘密にしてくれるとさっきは言ったけれど、伝わってしまうかもしれない。それがどう災いして殿下たちの足を引っ張ることになったらどうしよう。
今度はパトリック様がハンカチを提供してくれた。このハンカチがひと月の食費以上と思うと胸が痛んだが、お尻の下に。
座った時、わりと強く風が吹いた。
ヴェールが捲れ上がって、パトリック様と目が合う。彼は茶色の目を見開いている。それから気を緩めたように微笑む。
「やはり私のお会いしたレディですね」
ヴェールは気まぐれに風に舞った。
彼はヴェールを拾って、ついた土を払ってくれた。
「ありがとう……ございます」
「すみません。偶然です。見たかったけれど、無理にお顔を見るつもりはなかったんです」
返してもらったヴェールを髪飾りに挟み込む。
「なぜ、顔を隠すんです? あ、感情に敏感だからでしたっけ。とても可愛らしいのに、もったいないです」
そんなことを言われたのは生まれて初めてで、胸がどきんと鳴った。
何お愛想に翻弄されてるのよ。ヴェールがあってよかった。こんな時どんな顔をしていいかわからない。
パトリック様と入れ違いに近づいてきて隣に腰掛けたのはテオドール様だ。
「大丈夫か?」
「あ、はい」
思い出して贈り物のお礼を言う。
この夜会の間にぜひ着てほしいと言われたので、ありがたく着させていただきますと言った。
「今日のドレスも似合っている」
「……ありがとうございます」
「でも、オレが贈ったドレスがリリアンに一番似合うと思うぞ」
そう言ってニカっと笑う。頬が熱くなった。
テオドール様が空に何かを描いた。
小さな氷の欠片がわたしの前に現れる。
「手が濡れてしまいますが、よかったらどうぞ」
喉が乾いていたのも手伝って、わたしはありがたく氷に手を伸ばし口の中に入れた。
ひんやり。氷が口の中で溶け出す。
「ファニー嬢じゃなかったら、オレが食べさせてやったのにな」
顔を近づけてこそっとささやかれて、わたしはむせた。
「大丈夫ですか?」
そう言いながら、ハンカチを取り出してわたしの濡れた手を拭ってくれる。
「あ、ありがとうございます」
「しんどくなったら言えよ。何も気にしなくていい。オレが連れ去ってやる」
よくそんな台詞を!
でもわたしの乙女心センサーはそれを拾っていて、勝手にどきんとしている。
取り戻さないといけないものがあるんだから、そんなことをしたらテオドール様は困るはずなのに、味方であるかのような言葉を言ってくれる。それはたとえ言葉だけでも、人は支えにしてしまうのだなと思った。
取り戻すといえば、5人の中でマテュー様だけは取り戻すものがない、それなのになんで賭けにのっていらっしゃるんだろう?
次はマテュー様の番だったようだ。
「あちらに珍しいバラがあるようですよ」
促されて、わたしは立ち上がる。休んだから、また少し歩くか。
マテュー様はわたしの手を腕に絡ませることなく、そのまま手を引いてくださる。
話してないと指先に神経がいってしまいそうなので、マテュー様にお礼を伝えた。
「あのドレスを着てくださったあなたが見たいです」
と言われて、ヴェールがあることに感謝した。どきん、どころじゃない。ドキドキが続いておかしくなりそうだ。ええと、別のことを何か。
「マテュー様は取り戻すものがないのに、どうしてこの賭けに参加されているのですか?」
「友の力になりたかったのと、取り戻すものがないからこそ、できる何かがあると思ったんです」
マテュー様をよく知っているわけではないのに、とてもマテュー様らしい考えだと思った。
「今日のあなたもとても可愛いです」
! 不意打ちだ。触れ合っている指先が挙動不審になってしまう。
高貴な方たちは、女性を褒めるのも常識だからね。そんな常識に胸の鼓動を高まらせてどうする!?
「先ほどフィッシャー伯子息と話している時に、動揺しているように見えましたが、大丈夫ですか?」
ヴェールをしていたのに、そんなこともわかっちゃうんだ。
「大丈夫です。少し驚いただけです」
「そうですか」
納得はしていないようだけれど、微笑んでくれた。
その時、パンと何かが弾けるような大きな音がした。
マテュー様はわたしを引き寄せて、胸の中に抱え込んだ。
完璧なわたしの盾だ。すっぽり抱え込まれていて、風さえもわたしに触れることはできないだろう。
「ドレスや装飾品をありがとうございました」
殿下が紫水晶のような瞳を細めて、ふっと微笑う。
「今日、誰が贈ったドレスを着てくださるのか、楽しみにしておりました。陛下からの贈り物ですね、そのドレスは。ということは、あなたの心はまだ決まっていないのですね」
「……どういう意味でしょうか?」
殿下は意味ありげに微笑んだ。答える気はないらしい。
う、もやもやするじゃないか。
「そのドレスもとても似合っています。無垢な少女が恋を知り、大人への憧れがつまっているようで、それに応えたくなりますね」
別に恥ずかしい単語が入っているわけではないのに、なぜか恥ずかしくなってくるんだけど、これはなんなんだろう?
「それにしても、平民とは思えない令嬢っぷりでしたよ」
「……ありがとうございます」
「リリアン、気をつけてください」
「なんですか?」
「あのふたりは男爵令嬢の手の者かもしれません」
え?
「ふたりともかもしれないし、どちらかかもしれない。いや、どちらもただファニー嬢を慕っているだけなのかもわかりませんが、可能性があります。だから彼らに気を許さないように」
「……なら何故、一対一になるように仕向けたんですか?」
一瞬、王子様ってことも忘れてジト目で見てしまう。
「それはリリアンならうまく切り抜けられそうだからですよ」
口が達者だな。
「……あれらのことは実際ファニー嬢が気にされていたことですか?」
あれらとはわたしが皆様に質問したことだろう。
「ええ」
「やはり、あなたを選んで正解でした」
殿下はわたしの手をとって、口づけを落とした。
下からニヤリと見たから、わたしの反応を楽しんでいると思われる。表情はヴェールに阻まれて見えなくても、固まったのはわかったみたいだ。
「男爵や侍従の方の時とは違う反応ですね。でも却って意識しているってことなのかな?」
これは乙女の事情で言わなくても許されるはずだと、わたしは華麗にスルーした。
バトンタッチしたのは、どう順番を決めたのかはわからないけれど、パトリック様だった。
「私とだと緊張しますか?」
パトリック様の腕に組んだ手を上から押さえてくるので、それが実はストレスになっている。一瞬ならいいけどさ。あと、気心がしれていればね。今日初めてエスコートしてくださる方なのに、わたしの中ではこれは触れすぎだ。でもそう言うのは負けたような気がして、口から出てくるのは違う言葉だ。
「パトリック様だけではなく、皆様それぞれに話すのに緊張しております。身分の高い方々ですし、お話しさせていただくのは初めてですから、ええ、とても」
「5人の方にはいい感情を持たれているように、お見受けしましたが」
昨日、ラモン様に演技ができるのかと言われたことを思い出した。5人にも会うのは初めてのフリをしているが、つもりになっているだけで見破られていそうだ。それとも、彼は男爵令嬢の手のもので、探っているのかもしれない。
「失礼を承知で申し上げますが、昨日、足を払われて掴まれて、とても怖かったです。そこをあの5人の方に助けていただきました。感謝しています。だからいい感情を持っていると思います。それからお尋ねします。わたしは昨日パトリック様に嫌われていると感じました。お手紙をいただいているのをお断りしてきましたから。だから昨日はお叱りを受けると思ったし、……今日名乗りを挙げられたのは意外でした。でももし、それがわたしをお叱りになるためなら、今ここで叱ってそれで終わりにしてくださいませんか?」
パトリック様は、わたしの手を押さえていた手を離して、自身の額を押さえた。
「申し訳ありません。昨日は周りの者に令嬢に避けられていると揶揄られて動揺して、その上ダンスを断られてあなたの気持ちも考えずに強引になってしまいました。怖かったのですね。責めるとそう思われた……」
深く息をつく。
「後からひとりがあなたの足を引っ掛けたと聞きました。私はあなたが体勢を崩されたのだと思っておりました。その者に代わり謝罪申し上げます。本当に申し訳ありませんでした。信じてもらうしかありませんが、私は本当にただ話がしたかっただけなんです。あなたの秘密を私は守っていると、それをお伝えしたくて」
「その秘密とはなんでしょう?」
わたしは歩みを止めた。
「もしあなたが本物のファニー様でなかったら、秘密が秘密でなくなってしまいます。私の口からは言えません。ですから、思い出して欲しいのです」
思わせぶりなことを言っているわけではない?
「どうしたらパトリック様はわたしが本物とわかるんです?」
「ヴェールを取ってくだされば」
「わたしとお会いしたのは大人になってからではないんですよね? そうだとしたら、いくらヴェールを取ったって、あなたに本物とわからないじゃないですか」
「わかりますよ、絶対に」
その自信は一体なんなのか?
「話した感じが少し違います。前はもっとゆっくりで、疑うことを知らなかった」
やはり会ったのは子供の時のようだ。でも、夜会で会った時、初めて会ったような挨拶だったけど。
「成長して声は多少低くなったりしますが、あなたの声には違和感を感じます。それなのに、やはりファニー嬢のような気がするんです」
そして鋭いところが嫌だ。
わたしの組んだ手を外し、その手の平に何かを忍ばせた。
手を開く。
何かの実?
!
何かが記憶を掠めた。
どきんどきんと胸が鳴る。
「ご存知ですよね?」
「……ジルの実ですか?」
パトリック様はニコッと笑われた。
「思い出しましたか?」
「……何を、ですか?」
「……私を選ばずとも秘密は守りますから怯えないでください。ただ、あなたがあの時のレディなのか、確かめたかったのです」
「どうかしましたか?」
離れたところからマテュー様が声をかけてくれた。
「少し、お疲れのようです」
パトリック様は皆様にそう言って、私に
「休まれますか?」
と尋ねる。
少し先にまたベンチがあったので、そこで休むことにした。
わたしの髪はジルという赤い葉の根汁を使って染めている。ジルは紫色の実をつける。母がその染料を作る時、材料を集めるのに苦労していて、わたしは実を潰して使っていると思い込んでいたから、ジルの実を集めたことがある。お母様はわたしにお礼をいってから、でも使うのはこれじゃないのよと教えてくださって笑い話になったのだが。
映像が頭の中によぎる。誰かに手の平に実をのせてもらった記憶が。
『秘密なんだね。大丈夫言ったりしないよ』
小さな男の子だった気がする。実を摘んで歩いているうちに、知らないところまで行っちゃって、急に怖くなって。帰り道が分からなくて走りまわっていたら、誰かに手を引っ張って止められた。
このあたりの子じゃないねと言われて、実を集めているうちにわからないところまで来てしまったんだとわたしは訴えた。そんな実をどうするんだと聞かれたから、髪を染めるのに必要なんだけれど、お母様がいつも集めるのが大変そうだから、わたしが使うのだし、自分で集めることにしたんだとか偉そうに言った気がする。でも、染めていることを言ってはいけないと言われたのを思い出して、秘密にしてとお願いした。
それでどうしたんだっけ? 名前を言ったら家まで連れていってくれるっていうから安心して、話しているうちに疲れて寝ちゃって、気がついたら自分のベッドで寝てたんだ。その子のお家の人が運んでくれたらしい。
髪を染めているのを知っていて、秘密を守っていてくれてるわけね。
小さい頃のわたしのバカ! なんで言っちゃったりしているの!
でも、待てよ。
髪を染めているぐらい……家を知られているわけだから、なぜ染めるのか想像はつくだろう。元の色は推測されていることだろう。けど、たとえ緑な髪がバレたって、ひとつ身に緑を持つことぐらい、だからって何があるわけじゃないし。きっと、別に、大した問題ではない。
ただ、パトリック様が男爵令嬢の手の者だった場合、どうなっても秘密にしてくれるとさっきは言ったけれど、伝わってしまうかもしれない。それがどう災いして殿下たちの足を引っ張ることになったらどうしよう。
今度はパトリック様がハンカチを提供してくれた。このハンカチがひと月の食費以上と思うと胸が痛んだが、お尻の下に。
座った時、わりと強く風が吹いた。
ヴェールが捲れ上がって、パトリック様と目が合う。彼は茶色の目を見開いている。それから気を緩めたように微笑む。
「やはり私のお会いしたレディですね」
ヴェールは気まぐれに風に舞った。
彼はヴェールを拾って、ついた土を払ってくれた。
「ありがとう……ございます」
「すみません。偶然です。見たかったけれど、無理にお顔を見るつもりはなかったんです」
返してもらったヴェールを髪飾りに挟み込む。
「なぜ、顔を隠すんです? あ、感情に敏感だからでしたっけ。とても可愛らしいのに、もったいないです」
そんなことを言われたのは生まれて初めてで、胸がどきんと鳴った。
何お愛想に翻弄されてるのよ。ヴェールがあってよかった。こんな時どんな顔をしていいかわからない。
パトリック様と入れ違いに近づいてきて隣に腰掛けたのはテオドール様だ。
「大丈夫か?」
「あ、はい」
思い出して贈り物のお礼を言う。
この夜会の間にぜひ着てほしいと言われたので、ありがたく着させていただきますと言った。
「今日のドレスも似合っている」
「……ありがとうございます」
「でも、オレが贈ったドレスがリリアンに一番似合うと思うぞ」
そう言ってニカっと笑う。頬が熱くなった。
テオドール様が空に何かを描いた。
小さな氷の欠片がわたしの前に現れる。
「手が濡れてしまいますが、よかったらどうぞ」
喉が乾いていたのも手伝って、わたしはありがたく氷に手を伸ばし口の中に入れた。
ひんやり。氷が口の中で溶け出す。
「ファニー嬢じゃなかったら、オレが食べさせてやったのにな」
顔を近づけてこそっとささやかれて、わたしはむせた。
「大丈夫ですか?」
そう言いながら、ハンカチを取り出してわたしの濡れた手を拭ってくれる。
「あ、ありがとうございます」
「しんどくなったら言えよ。何も気にしなくていい。オレが連れ去ってやる」
よくそんな台詞を!
でもわたしの乙女心センサーはそれを拾っていて、勝手にどきんとしている。
取り戻さないといけないものがあるんだから、そんなことをしたらテオドール様は困るはずなのに、味方であるかのような言葉を言ってくれる。それはたとえ言葉だけでも、人は支えにしてしまうのだなと思った。
取り戻すといえば、5人の中でマテュー様だけは取り戻すものがない、それなのになんで賭けにのっていらっしゃるんだろう?
次はマテュー様の番だったようだ。
「あちらに珍しいバラがあるようですよ」
促されて、わたしは立ち上がる。休んだから、また少し歩くか。
マテュー様はわたしの手を腕に絡ませることなく、そのまま手を引いてくださる。
話してないと指先に神経がいってしまいそうなので、マテュー様にお礼を伝えた。
「あのドレスを着てくださったあなたが見たいです」
と言われて、ヴェールがあることに感謝した。どきん、どころじゃない。ドキドキが続いておかしくなりそうだ。ええと、別のことを何か。
「マテュー様は取り戻すものがないのに、どうしてこの賭けに参加されているのですか?」
「友の力になりたかったのと、取り戻すものがないからこそ、できる何かがあると思ったんです」
マテュー様をよく知っているわけではないのに、とてもマテュー様らしい考えだと思った。
「今日のあなたもとても可愛いです」
! 不意打ちだ。触れ合っている指先が挙動不審になってしまう。
高貴な方たちは、女性を褒めるのも常識だからね。そんな常識に胸の鼓動を高まらせてどうする!?
「先ほどフィッシャー伯子息と話している時に、動揺しているように見えましたが、大丈夫ですか?」
ヴェールをしていたのに、そんなこともわかっちゃうんだ。
「大丈夫です。少し驚いただけです」
「そうですか」
納得はしていないようだけれど、微笑んでくれた。
その時、パンと何かが弾けるような大きな音がした。
マテュー様はわたしを引き寄せて、胸の中に抱え込んだ。
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