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インテルメッツォ-34 仮面/下面

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 男は、その程度のことでは歩みを止めはしなかった。
 己のことなど委細構わず、前にのみ進み続けた。
 己が魔王で在ることに、意味を与えることが出来るのならば。
 たとえどれだけ不相応で不釣り合いであったとしても、己が魔王で在ることで意義を為すことが出来るのならば。
 己が歪み、心が軋んでいったとしても。
 自分が誰かを笑顔に出来るなら、それ以上のことなどないと思っていたから。
 それが、男は心底から想っていたのだから。
 そうして男は彼らを支え見守りながら、
 男が自ら魔王として振る舞まねばならぬとき、それは常に同じだった。
 彼らが男に、そう在るべきと望んだときだけだ。
 男が己を魔王と称して名乗らねばならぬとき、それは何時も変わらなかった。
 誰もが男に、そう在って欲しいと願ったときだけだ。
 男の意思では一度もない。
 男の意志などひとつもない。
 故に、男はそれで構わないと想っていた。
 そんなことでみんなが幸せになれるなら、それが、男は信じて疑うことすらしなかったのだから。
 その男の生き方を、少女は失敗だったと断じた。
 男の歩み進んできた道を、間違っていたと少女は評した。
 、少女は男の望みも願いも全てを受け容れると言っているのだ。
 しかし、男は少女の口にするようなことは何ひとつ求めていない。
 だが今の男には、最早最初と同じ言葉をもう一度口することなど出来はしない。
 ただ一言で済むはずの、たった一つだけの言葉。
 違うと、否と、少女を否定することは、男にはもう出来なかった。
 それは、男自身を否定することになるからではない。
 男を慕い、男を想い、男を信じ、そして男を遣ってきた者達、否定することになるからだ。
 それだけは、断じて許す訳にはいかなかった。
 そうさせることも、そうすることにも。
 たとえそれが少女であっても、何よりも己自身に許すことは出来なかった。
 ならば、如何にするべきか。
 如何にして、この少女に対するべきか。
 答えは、男の手の中にある。
 少女に向かって男は告げた。そんなことは魔王のすることではないのだと。
 あのときが、男にとって初めてだった。
 自分自身の為だけに、己の意志で偽りの名を騙ったのは。
 それでも少女は男に向かって語るのだ。そんなことは魔王の為すべきことではないだろうと。
 この何処までも人間の極地にありながら、果てしなく人間を超越した少女がそう云うのだ。
 その少女が、求めているのだ。
 この少女が男に望み、願っているのだ。
 それは、男の心は確信を以て断じていた。
 ならば、採るべき選択は決定されている。
 ひとの心を抱きし人外の怪物と相対するには、男の全てを以てしても尚至らない。
 これでは、少女の求めに応えられない。
 望みも果たせず、願いも叶えるに能わない。
 このままでは、少女と肩を並べ対峙するにも敵わない。
 少女に釣り合った、相応しい男になれはしない。
 唯の男では物足りない。
 己だけでは満足させるに値しない。
 そうして、男は自らの手に目を堕とす。
 そこにあるのは、ひとつの仮面。
 男にとっては偽りでしかなかった、不釣り合いで不相応な殻。
 だがそれは、男だけが持ち得る鬼札。
 今の男に、必要な覚悟。
 己の全てを以っても至らぬのなら、己の全てを遣い尽くして駆け上る以外に道はない。
 それを被り纏うには、矜持など必要ない。
 それを偽り騙ることに、信念など邪魔でしかない。
 少女の立つ遥か高みへ辿り着く為ならば、如何なる手段も厭わない。
 ただそこに、男の子の意地さえあればいい。
 故に男は初めて自分だけの意志を以てして、己には似合わぬと思い続けた存在へと成り果てる。
 魔王の銘が刻まれた仮面を、自らの姿に重ね合わせる。
 それは男が、唯人ただびとであることを捨てた瞬間。
 その仮面の下に自然と浮かんだ男の笑みは、常の自嘲のそれとは全く異質なものだった。
「確かにお前の云う通りだ。お前の言葉は、今となっても俺の心に正しく刺さる。ならば、ここからは魔王であるこの俺が、心ゆくまでお前を愉しませてやるとしよう。幾度果てても終わらぬから、その覚悟を以て挑んでくるがいい」
 どんな忌み名が刻まれていても、所詮は仮面。
 外してしまえば、また唯の男に戻るに過ぎない。
 ただ今だけはこの姿で在ればいいと、虚構に臨んだこの想い。
 そんな皮相浅薄な思い上がりは、共に戴く茨の冠が魂にまで絡みつき戒める。
 ただの一度が全てを変えてしまうなど、ありふれたことに過ぎないのだと。
 全てを同じ姿に取り戻す機会など、二度ふたたび訪れることなどないということを。
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