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一番大事な仕事の基本~その一~
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「起きてください」
その言葉が耳から入り、脳に届き、意味を理解するより速く、問答無用で脳天を狙う拳の打ち下ろしを身体に染み付いた経験と反射のみで躱していた。
反応としては、まずなにより先に回避、続いて意識の覚醒、最後に現状の正確な認識の順である。でなければ丁寧かつ優しげな言葉と同時に放たれた、空気ごと圧し潰すような猛烈な打撃で、身長と座高が等しくなっていただろう。
その拳は、残心のつもりか座席を撃ち抜く寸前で止められてる。
数瞬前まで自分がそこに座っていたとは考えたくもない事実だ。しかしこの女、同僚にして今回三人一組の仕事のリーダーでもある苦道亜流呼が何を考えて俺を殺しにきたのかか抗議と共に問いただしたかった。
何というのか忘れたが、髪を後ろで一つに括り、その色はくすんだ雪のような灰白色。色素の薄い一見儚げな色だが、この女の場合そんな脆弱さは虚弱さは微塵もなく、寧ろ何色にも何者にも染まらないという、内面の強靭さと頑健さが現れのようだった。
肌の色も本来は髪色とほぼ同じ色なのだが、日々のたゆまぬ訓練と鍛錬の賜物かこちらは健康的な小麦色に日焼けしていた。
その結果肉体は限界以上に鍛え込まれているはずだが、それでも失われない女の身体の柔らかさを想起させる曲線を、細いストライプ柄の背広に押し込んでいる。眼は猫科動物を思わせる翡翠色。その宝石以上に凛とした光を放つ眼を正面から見据え、疑問を投げる。
「起こそうとする相手を永眠させたら意味がないんじゃなか。それもわざわざ圧縮して」
そう言うと、亜流呼は拳を戻しながらしれっとした口調で
「そうすれば棺桶に余裕ができるでしょう。むしろ最初から大きさを半分にすれば少しは安くなるのでは。それから何度も言っていますが折角背広を着ているんですから、もう少ししっかりと着用してはどうですか」
などと一部の隙も無く背広をきこなしている亜流呼から、本気か冗談か判断しづらい言葉の後に姉に言わるような注意を受ける。
「余計なお世話でいらん親切だ。人を起こすにしても段階というものがあるだろう。何故最初からいきなり拳がでてくる」
それでも何となく襟元や袖口を直しながら言葉を返す。元からして着崩ししているので根本的な解決にはなっていないが。
それを聞いた亜流呼は整った鼻筋に皺を寄せ、げんなりとした目をこちらに向けてきた。そして大きくため息をつきながら頭を振った。その動きに合わせて、頭の後ろで一房に括った灰白色の髪が犬の尻尾のように左右に揺れた。
ため息をつくと幸せが逃げるをいうが、今のは確実にこちらに聞かせるためのものだ。まるで全ての非は俺にあるとでも言わんばかりだ。
「あなたの要望通りちゃんと段階は踏みました。そもそも最初から声を掛けられた時点で起きてくれれば、その後の苦労は何もありませんでしたし、拳を振るう必要もなかったのですけれど」
どうやら全ての非は俺にあるようだった。いつもならここで素直に謝りこの話はここでお終い、何の憂いもわだかまりもなく、仕事に臨む。だが一体何の魔が差したのか、俺が口にしたのは謝罪ではなかった。
「そもそもまず前提が間違っている。俺は最初から寝てなどいない」
「ほう・・・・・・では一体あの状態は何だったのですか」
口調こそ穏やかだが、普段なら愛嬌に溢れた翡翠色をした猫目は、獲物を見つけた猫科動物のように瞳孔がひろがり、たわけた答えを返そうものならすぐに静かにさせられるように、音を立てて拳が握られる。
「少し目を瞑ったまま夢を見ていただけだ」
嘘は一つも言っていない。どんな夢を見ていたのかは思い出せないが、どうせロクなものではないだろう。
だがこの回答はどうやら虎の尾を思い切り踏んだようだ。生真面目で面倒見がよく、皆から頼られ、信頼される根っからの委員長気質の持ち主なのがの我らがリーダー、苦道亜流呼だ。
だが、少々沸点が低いことと、そのただでせさえあまり余裕がない怒りの臨界点を、一瞬で突破する爆発力の持ち主でもあった。
その目にはいよいよ剣呑な光が宿り、拳が腰の位置まで上げられる。
「つまりあなたは、私達があれこれ手を尽くして起こそうとしている間、ずっと無視していたということですか」
これはまずい。今迄何度となく助けられた自分の直感と、人の顔色を見て生きてきた経験が超えてはならない死線に踏み込もうとしていると大音量で警告を鳴らしている。堪忍袋の緒が切れる寸前の、ブチブチという幻聴が聞こえてきそうだ。なんだか数秒後の自分を暗示しているかのようで不吉なことこの上ない。
しかしこれ以上は何を言っても焼け石に水、どころか逆効果だろう。元はと言えば全部自分が悪いのだし一発くらいは受けるのが誠意かと、間違った悟りに至りそうになったとき、ふと亜流呼の言葉が引っかかった。
「一つ確認だが亜流呼。さっき私達と言ったか?」
「末期の言葉が疑問文とは実にあなららしいですが、聞かれたことには答えましょう。ええ、その通りです。あなたを起こそうとしていたのは私だけではありません。ましろさんもですよ」
「姉さん、すまない!」
全力で謝った。瞬時に即座に迅速に。全身全霊を込めて自分自身にもてる全ての誠意と謝意を伝えた。
道理でさっきからあさっての方向をむいてるはずだ。いつも通り姉の気ままな行動だろうと考えていた一秒前の自分を殴りたい。
もはや目の前の亜流呼以上に自分で自分を罰したい。腹を切れと指示されたなら躊躇なく切る。首を括れと命じられたなら自分の手で首を折る。
とにかく姉の許しを得るためならなんでもする。しかし姉は何も言わず、そっぽを向いたままだ。これでは謝ることしかできない。いやそれしかできないのなら、できることを全力でやるしかない。許してもらうまで謝り続ける他はない。当然誠意と謝意込め続けて。
そうしてただひたすらに謝り続けていると、ずっとそっぽを向いていた姉が不意にこちらを向いた。そしてやれやれと言わんばかりの仕草を見せた後、俺の頭をポンポンと叩いた。それが許しの合図だと認識した瞬間、歓喜と安堵と後悔が胸のなかで一気に膨れ上がる。
「すまない姉さん、ありがとう」最後にもう一度だけ謝罪を口にし、許してくれたことへの感謝を伝えた。
これで一件落着。問題は全て解決したと思った矢先に姉に頬をつねられた。何か忘れていることでもあるのかと思い姉を見ると、亜流呼の見るよう促した。
そうだった。どうやって姉に許してもらえるか、それだけを考えていたため完全にきれいサッパリ頭のなから消失していた。
謝り許してもらわなければならない相手がもう一人いることに。
悪いのは自分なのだ。ならば素直に謝るのが筋でありけじめだった。それが仲間というものだと思うから。
「すまない亜流呼。悪ふざけが過ぎた。そして起こしてくれてありがとう」一切の虚飾なく謝罪と感謝の言葉を伝えた。
すると亜流呼は先程までの怒髪天を衝くような、括った髪紐が千切れて髪全体が逆立つかのごとき怒りは失せ、毒気をぬかれたような、拍子抜けしたような、何だかどうしょうもないものを見る目を向けてくる。それでもどうやら許してはくれたようで、「こちらこそ少し熱くなりすぎました。今度からはもう少し力を抜きましょう」
それが一体どらのことを指しているのかなど勿論聞きはしない。ついさっき虎の尾を踏んだばかりなのだ。このうえ藪をつつくほどの度胸も好奇心も俺にはない。好奇心が殺すのは猫だけではないのだから。
そこで俺が口にしたのは全く関係のない、今更どうでもいいことだった。
「座席を打ち抜く前に寸止めできるのなら、俺に対して拳を振り抜く必要はなっかたんじゃないか?もし躱せなかったらどうすつつもりだったんだ。後片付けとか」
拳を躱すために抜け出たシートベルトもう一度締めて座り直す。
聞かれた亜流呼は立ったまま不思議そうな、何故そんなわかりきったことを聞くのかわからないといった顔をしながらも、生来の生真面目さを発揮して質問に答えた。
「例え眠っていようとどんな状態だろうと、あの程度の一撃をあなたが躱せないはずはないでしょう。それに拳を止めたのは当然座席を壊さないためです。会社の備品なんですし、そうでなくともモノは大切にしなければなりません。壊れたら直さなければいけませんし」
お前の拳を受けたら壊れるのは座席だけじゃすまないとか、それが人間だったら壊れるどこらか、もはや治しようがないとか、思うところは色々あるが直ぐにまあいいかと思い直す。
それにここで穴でも開けられたら面倒じゃすまないのは確かだ。
適当なのか冷淡なのか、どちらにせよこの女は嘘も世辞も言わない。ただ自分の思ったことをそのまま口にする。
ならばここは言葉通りにそのまま受け取ろう。過分な評価を賜り恐縮の極みだが、そう思うならもう少し手心というか、せめて備品と同じ程度には同僚も大切に扱ってほしいものだ。
だが亜流呼の言う通りあの程度に対処できなければ今頃とっくに死んでいる。もしくは今日か、近いうちに確実に死ぬだろう。
何にせよ自分の身体の状態も確認できたし、眠気も完全にはれた。ならば別にいいか思った矢先だった。
「今のは完全にお前が悪いな。あそこまでやって目を覚まさないんじゃ、拳を使われるのも当然だ」
今の今迄一言も発せず、動くこともなくもなかった男がそう口を開いた。鮮やかなネイビー色の背広を着込み、足を組みズボンのポケットに両手を突っ込んだままという人を舐めきった姿勢で、にやにやと心底面白そうな顔で一部始終を眺めていた三人組の残りの一人、不治斑傷仁は声に含まれる笑いを隠そうともせずそう言った。髪には本人の内面や性格が現れるのか、中途半端に伸ばした枯葉色のくせ毛を、それでもしっかりと整えていた。その顔には大概今のような笑みが貼り付き、その上を大小様々な傷跡が縦横にはしっていた。老木のような茶色の瞳にはどんなことでも楽しまずにはいられないといった無邪気さを覗かせている。
「今何時だと思っているいつもならとうに寝てる時間だ。それに乗り物に乗ると眠ってしまう性質なんだよ」
「年寄りみたいなことを言うな。それにお前が眠っているのはなにも乗り物に限ったことじゃないだろ。しかしあれだけやられて起きないのも不思議だが、コイツの乗り心地で眠れるのはさらに驚異だな」
貶しているんのか褒めているのかよく分からないが、何か失礼なことを言われたのは何となく分かる。
「慣れれば大したことはない。それに何時でも何処でも眠れるのは特技の一つに数えてもいいだろ」
だが今更そんなことは気にもならず、そのまま会話を続ける。
「それが原因でさっき死にかけた奴が何を言ってる。せめてましろさんが頬をつねったあたりで目を覚ましておけばよかったのに」
なるほど、それでさっきから頬のあちこちに鈍い痛みがあるわけか。確かにこれだけやられて起きないなら後はもう殴るしかないだろう。改めて姉を見ると怒りは収まっているようだが、機嫌のほうは完全には戻っていないようだ。姉は無口だが感情表現は実に豊かだ。それが今は狩ってきた猫よりも静かだ。この仕事が終わったらもう一度しっかりと謝ろう。当然土下座も視野に入れて。
今なんだか言いようのない不吉な予感がしたが、そんなことは気にせず姉を撫でた。最初は煩そうにしていたが、次第に撫でられるがままに、こちらに身を預けてきた。終いには手を離そうとすると、もっと撫でろと言わんばかりに左手の袖を引っ張ってくる。その仕草に
たまらない愛情が胸のなかで膨れ上がり、姉の気の済むまでずっと撫で続けることにした。
「今こうしてお前と話しているのがそうなっていない何よりの証拠だ。それにお前のほうも堪えた様子は特になさそうだが」
姉を撫でながら会話も続ける。仲間とのコミュニケーションも大事だ。と思う。
「そう見えるように見せているだけだ。実際そろそろ尻の我慢も限界だ。このままだと割れる」
その様子を表情だけは変えずに見やり、ふざけた口調と内容を返してきた。
「わざわざ指摘するのも面倒だが、尻は始めから割れている」
「縦にじゃない、横にだ」
「それは大変だが、そうなったところで、こんなところではどうしようもないぞ」
「だからさっきから祈っている。一秒でも早く目的――”地”じゃないか。予定のポイントに着くのを」
「こいつは現状、最新型で最高級の試作品だ。もうすぐ着くだろ」
「その謳い文句の一割でも居住性に当ててほしかったよ。今迄乗った他の機体は、ここまで躍起になって俺の尻を削ろうとはしなかったぞ」
「仕方ないだろ。それも含めての試作品だ、この振動にも何か理由があるんだろう。それにこうして普通に会話ができるだけでも大したものだと思うが。文句があるなら仕事が終わった後のレポートで好きなだけ書くと良い」
「ああ、そうするさ、してやるさ、絶対に。電話帳よりも分厚い鈍器にな。それで開発者どもの頭を片っ端から叩き割ってやる」
「名探偵も名刑事も登場するまでもなく、一瞬で犯人が特定されるだろうな」
「凶器は暖炉にでも放り込めば証拠隠滅完了、完全犯罪達成だ」
「そういうのはたいてい暖炉の燃えカスから犯人が特定されるのがお約束だが、それ以前の問題だな」
「なにがだ?」
心底不思議そうに訊いてくる。こういうときのこいつの顔は妙に子どもっぽい。
「俺が全部話すからだ」
「お前は仲間をそんなに簡単に売るのか、正気か!」
雑でザルでアホな犯行計画をペラペラと喋った上に、その可能性を全く考慮していなかったこいつこそ、正気かどうか問いただしたい。
「それでどうする?最初に俺の頭を叩き割るか、それとも袖の下でも使うか」
「いいや、どちらもやめておく。やはり悪いことは良くないことだ。真面目に生きるのが一番だ」
一瞬で犯行を諦めて、一瞬で更生した。男子三日会わざれば刮目して見よと言うが、こいつの場合三日もあれば原型など留めていないのではないか。それとも変わって、戻って、また変わる。その繰り返しなのだろうか。
なんいせよ俺が言えるのは一つだけだ。
「ああ、それが一番だ」
「それで馬鹿話はおわりましたか」
丁度会話が一区切りついたところで亜流呼が戻ってくる。
さっきまで機体前方の操縦室でなにやらは話し合っていたみたいだが、どうやら終わったらしい。
「もうすぐ目標のポイントに到着します。各々準備をしてください」
この言葉こそ待ちに待った天啓とばかりに、即座にシートベルトを外し、束縛から自由になった身体を思い切り動かして派手な準備体操をやり始める。
「ああ、やはり自由に生きることに勝るものなどこの世にはないな」
早速さっきと言ってることが違うが、こいつのなかの順位付けなど株式市場の銘柄よりも乱高下が激しい。
余計なことばかり考えていないで俺もシートベルトを外し軽く身体を解す。
「準備はできたみたいですね」
二人揃って目で了解の合図を送る。
「では今回の仕事における作戦の最終確認を行います。今作戦の私たちの目標は依頼者が奪われたと主張する物品の奪還です。相手は恐らく陸路を主な輸送ルートとし、非合法的な品などをを扱う密輸専門の運送会社であるMCAT社。奪われた物品が最終的に何処に運ばれるのかわかりませんが、その物品は現在MCAT社の管理化にあると思われ、隠匿されていると考えられる施設を強襲。それぞれ敵勢力の陽動及び殲滅と捜索ならびに捜索を行い、目標物を無傷で奪還。その後各人速やかに撤収します。撤収後の集合地点では回収班が待機しています。。撤収後の集合地点は頭に入っていますね。彼らと合流後は全力で敵の勢力圏より離脱。敵の追撃がある場合これを撃退。なお撤収が難しい場合は施設内の全戦力の無力化、もしくは施設自体を破壊します。この際奪還した目標物が無事であることは言うまでもありません。どちらにせよ奪還した目標物を本社まで無事送り届けて今回の仕事は完了となります。それでは何か質問はありますか?」
事前に仕事の内容と作戦は説明されていたが、改めて聞くと質問以前の問題が多すぎる。確定情報が一つもない。
それでもこの仕事に関わる全員が当然のように受け入れたいるのは、これがいつものことだからだ。
これは会社の調査部の能力不足というわわけでも、相手の隠蔽能力が以上に高いわけでもない。
今の世で最も貴重で価値あるものの一つが”情報”だからだ。
以前はどうだったか知らないが、現在ではどんな些細な”情報”でも調査・収集するには多大な時間と労力と資金、そして命を懸ける必要がある。
この依頼を受けたのが三日前、それから今こうして俺たち実行部が仕事を開始できるだけの情報を集めたと考えると、むしろ調査部の能力驚異的だ。
ただ一つだけはっきりさせておかなければいけないことがある。これが分からないとそもそも仕事が達成できない。
俺は左手を上げて質問があることを伝える。横を見ると傷仁も律儀に手を上げていたが、目線で俺に質問するよう促す。どうやら聞きたいことは同じなようだ。
「それで奪われた物品って一体なんなんだ?」
「不明です。ただ依頼者が言うにはとても貴重なものだとか。そして見れば分かるそうです」
「それは依頼者自身が、という意味か」
「そのようです。回線を通じて依頼者自ら確認したいそうです」
「いつものこととはいえ、こんな依頼よく受けたな」
これには傷仁も同意を示す。
「全くだ、さすがに色々と妙にすぎる」
亜流呼も思いは同じらしく、
「同感ですが、今更言っても仕方がありません。社長のお考えと調査部の能力を信じましょう。では質問は以上ですね」
後者はともかく前者は甚だ怪しいが、兎にも角にもやるしかないという事実だけは確認できた。
俺も傷仁もまだも二人揃って顎を引いて肯定する。
「よろしい。では最後の確認です。私たちの最も大事な仕事は依頼を完遂することではありません。私たち三人だけでなく、全員生きて帰ることです。まず何より自分が生きるこを第一に考える。その上で仲間を守るために自らが盾となり、仲間を助けるために自らを剣とする。矛盾しているようですが私たちなら可能だと知っています。をれは各人の最善の働きこそが最善の結果をもたらすことと同様にです。
くどいようですが、もう一度言います。生きて帰るまでがお仕事ですよ」
『はーい』と三二人揃って返事を返す。言葉は軽いが、心に決めた覚悟はとてつもなく重かった。生きて帰る。何があろうと、何をしようと絶対に。
それを確認した亜流呼は一つ頷くと機体のハッチに手をかけ一気に横にスライドさせ開いた。
その瞬間、轟々と唸る風と音が機内の静寂を吹き飛ばして猛烈な勢いで吹き込んでくる。
見えるのは黒一色の夜空のみ。ここは地表よりも遥かに高く、天の星に手が届くかと思うくらい近い、空の上だった。
今回の仕事は目標地点上空までヘリで移動。その後降下し施設を強襲、目標物を奪還するというなかなかの難易度だ。
こんな依頼を受けた上に、ならついでにと、まだ試作段階であるこのヘリの試験運用もしようと、決めた社長こそが、やはり一番正気を疑われるべきだろう。
しかしここまで来たらそんな余計なことを考えている時間などない。
ここに一秒留まるごとに相手に補足、発見される危険は跳ね上がっていく。
亜流呼はハッチを開けた瞬間に、操縦士に親指を立てて感謝を伝え一切躊躇することなく深い夜の闇へと踏み出していった。
間髪入れずに傷仁も亜流呼に続いていった。
最後に俺の番になり同じように親指を立て感謝を伝える。すると向こうも同じ仕草を返してきたがその目は若干恨めしげだった。
それもそうだろう。いきなりよく仕様も分からない試作品の運用試験をすることになったうえ、蜘蛛の巣よりも細かく張り巡らされた監視・警戒・索敵の目を、綱渡りをしながら針に糸を通すような繊細極まる操縦でここまで来たのだ。自分が神経をすり減らしているときに
後ろであんな馬鹿なことをやっていたら一言言いたくなってもしょうがない。
ただそうなると操縦士は、これだけのトリックプレイをこなしながら、後ろに気がつく余裕があったということか。それとも単に集中を邪魔されいていただけなのかもしれないが。
いずれにしろ彼は自分の仕事、プロの仕事を十全にやり遂げた。ならば次は自分がプロとしての仕事を果たす番だ。
「それじゃあいこうか、姉さん」そう姉に声をかけると、親指を立てて了解を伝えてきた。どうやら自分もやってみたかったようだ。
姉の了解の合図に当然返事を返し、自分も闇になかへと足を踏み出した。勿論パラシュートは全員身に付けていない。
天地が逆転した状態で、闇のなかへ吸い込まれていくように落ちていく。あっという間に遠ざかっていく星空を眺めていると、ふとさっきまでの会話が思い出される。傷仁はあの時祈ってると言っていたが、果たして一体何に祈っていたのだろうか。
この仕事が終ったときまで覚えていれば訊いてみようと、今度は相手を巻き込んで不吉なことを考えた。
そういえば今日は月は見えないのだなと、どうでもいいことを思いながら、深い夜の底へと真っ逆さまに呑まれていった。
その言葉が耳から入り、脳に届き、意味を理解するより速く、問答無用で脳天を狙う拳の打ち下ろしを身体に染み付いた経験と反射のみで躱していた。
反応としては、まずなにより先に回避、続いて意識の覚醒、最後に現状の正確な認識の順である。でなければ丁寧かつ優しげな言葉と同時に放たれた、空気ごと圧し潰すような猛烈な打撃で、身長と座高が等しくなっていただろう。
その拳は、残心のつもりか座席を撃ち抜く寸前で止められてる。
数瞬前まで自分がそこに座っていたとは考えたくもない事実だ。しかしこの女、同僚にして今回三人一組の仕事のリーダーでもある苦道亜流呼が何を考えて俺を殺しにきたのかか抗議と共に問いただしたかった。
何というのか忘れたが、髪を後ろで一つに括り、その色はくすんだ雪のような灰白色。色素の薄い一見儚げな色だが、この女の場合そんな脆弱さは虚弱さは微塵もなく、寧ろ何色にも何者にも染まらないという、内面の強靭さと頑健さが現れのようだった。
肌の色も本来は髪色とほぼ同じ色なのだが、日々のたゆまぬ訓練と鍛錬の賜物かこちらは健康的な小麦色に日焼けしていた。
その結果肉体は限界以上に鍛え込まれているはずだが、それでも失われない女の身体の柔らかさを想起させる曲線を、細いストライプ柄の背広に押し込んでいる。眼は猫科動物を思わせる翡翠色。その宝石以上に凛とした光を放つ眼を正面から見据え、疑問を投げる。
「起こそうとする相手を永眠させたら意味がないんじゃなか。それもわざわざ圧縮して」
そう言うと、亜流呼は拳を戻しながらしれっとした口調で
「そうすれば棺桶に余裕ができるでしょう。むしろ最初から大きさを半分にすれば少しは安くなるのでは。それから何度も言っていますが折角背広を着ているんですから、もう少ししっかりと着用してはどうですか」
などと一部の隙も無く背広をきこなしている亜流呼から、本気か冗談か判断しづらい言葉の後に姉に言わるような注意を受ける。
「余計なお世話でいらん親切だ。人を起こすにしても段階というものがあるだろう。何故最初からいきなり拳がでてくる」
それでも何となく襟元や袖口を直しながら言葉を返す。元からして着崩ししているので根本的な解決にはなっていないが。
それを聞いた亜流呼は整った鼻筋に皺を寄せ、げんなりとした目をこちらに向けてきた。そして大きくため息をつきながら頭を振った。その動きに合わせて、頭の後ろで一房に括った灰白色の髪が犬の尻尾のように左右に揺れた。
ため息をつくと幸せが逃げるをいうが、今のは確実にこちらに聞かせるためのものだ。まるで全ての非は俺にあるとでも言わんばかりだ。
「あなたの要望通りちゃんと段階は踏みました。そもそも最初から声を掛けられた時点で起きてくれれば、その後の苦労は何もありませんでしたし、拳を振るう必要もなかったのですけれど」
どうやら全ての非は俺にあるようだった。いつもならここで素直に謝りこの話はここでお終い、何の憂いもわだかまりもなく、仕事に臨む。だが一体何の魔が差したのか、俺が口にしたのは謝罪ではなかった。
「そもそもまず前提が間違っている。俺は最初から寝てなどいない」
「ほう・・・・・・では一体あの状態は何だったのですか」
口調こそ穏やかだが、普段なら愛嬌に溢れた翡翠色をした猫目は、獲物を見つけた猫科動物のように瞳孔がひろがり、たわけた答えを返そうものならすぐに静かにさせられるように、音を立てて拳が握られる。
「少し目を瞑ったまま夢を見ていただけだ」
嘘は一つも言っていない。どんな夢を見ていたのかは思い出せないが、どうせロクなものではないだろう。
だがこの回答はどうやら虎の尾を思い切り踏んだようだ。生真面目で面倒見がよく、皆から頼られ、信頼される根っからの委員長気質の持ち主なのがの我らがリーダー、苦道亜流呼だ。
だが、少々沸点が低いことと、そのただでせさえあまり余裕がない怒りの臨界点を、一瞬で突破する爆発力の持ち主でもあった。
その目にはいよいよ剣呑な光が宿り、拳が腰の位置まで上げられる。
「つまりあなたは、私達があれこれ手を尽くして起こそうとしている間、ずっと無視していたということですか」
これはまずい。今迄何度となく助けられた自分の直感と、人の顔色を見て生きてきた経験が超えてはならない死線に踏み込もうとしていると大音量で警告を鳴らしている。堪忍袋の緒が切れる寸前の、ブチブチという幻聴が聞こえてきそうだ。なんだか数秒後の自分を暗示しているかのようで不吉なことこの上ない。
しかしこれ以上は何を言っても焼け石に水、どころか逆効果だろう。元はと言えば全部自分が悪いのだし一発くらいは受けるのが誠意かと、間違った悟りに至りそうになったとき、ふと亜流呼の言葉が引っかかった。
「一つ確認だが亜流呼。さっき私達と言ったか?」
「末期の言葉が疑問文とは実にあなららしいですが、聞かれたことには答えましょう。ええ、その通りです。あなたを起こそうとしていたのは私だけではありません。ましろさんもですよ」
「姉さん、すまない!」
全力で謝った。瞬時に即座に迅速に。全身全霊を込めて自分自身にもてる全ての誠意と謝意を伝えた。
道理でさっきからあさっての方向をむいてるはずだ。いつも通り姉の気ままな行動だろうと考えていた一秒前の自分を殴りたい。
もはや目の前の亜流呼以上に自分で自分を罰したい。腹を切れと指示されたなら躊躇なく切る。首を括れと命じられたなら自分の手で首を折る。
とにかく姉の許しを得るためならなんでもする。しかし姉は何も言わず、そっぽを向いたままだ。これでは謝ることしかできない。いやそれしかできないのなら、できることを全力でやるしかない。許してもらうまで謝り続ける他はない。当然誠意と謝意込め続けて。
そうしてただひたすらに謝り続けていると、ずっとそっぽを向いていた姉が不意にこちらを向いた。そしてやれやれと言わんばかりの仕草を見せた後、俺の頭をポンポンと叩いた。それが許しの合図だと認識した瞬間、歓喜と安堵と後悔が胸のなかで一気に膨れ上がる。
「すまない姉さん、ありがとう」最後にもう一度だけ謝罪を口にし、許してくれたことへの感謝を伝えた。
これで一件落着。問題は全て解決したと思った矢先に姉に頬をつねられた。何か忘れていることでもあるのかと思い姉を見ると、亜流呼の見るよう促した。
そうだった。どうやって姉に許してもらえるか、それだけを考えていたため完全にきれいサッパリ頭のなから消失していた。
謝り許してもらわなければならない相手がもう一人いることに。
悪いのは自分なのだ。ならば素直に謝るのが筋でありけじめだった。それが仲間というものだと思うから。
「すまない亜流呼。悪ふざけが過ぎた。そして起こしてくれてありがとう」一切の虚飾なく謝罪と感謝の言葉を伝えた。
すると亜流呼は先程までの怒髪天を衝くような、括った髪紐が千切れて髪全体が逆立つかのごとき怒りは失せ、毒気をぬかれたような、拍子抜けしたような、何だかどうしょうもないものを見る目を向けてくる。それでもどうやら許してはくれたようで、「こちらこそ少し熱くなりすぎました。今度からはもう少し力を抜きましょう」
それが一体どらのことを指しているのかなど勿論聞きはしない。ついさっき虎の尾を踏んだばかりなのだ。このうえ藪をつつくほどの度胸も好奇心も俺にはない。好奇心が殺すのは猫だけではないのだから。
そこで俺が口にしたのは全く関係のない、今更どうでもいいことだった。
「座席を打ち抜く前に寸止めできるのなら、俺に対して拳を振り抜く必要はなっかたんじゃないか?もし躱せなかったらどうすつつもりだったんだ。後片付けとか」
拳を躱すために抜け出たシートベルトもう一度締めて座り直す。
聞かれた亜流呼は立ったまま不思議そうな、何故そんなわかりきったことを聞くのかわからないといった顔をしながらも、生来の生真面目さを発揮して質問に答えた。
「例え眠っていようとどんな状態だろうと、あの程度の一撃をあなたが躱せないはずはないでしょう。それに拳を止めたのは当然座席を壊さないためです。会社の備品なんですし、そうでなくともモノは大切にしなければなりません。壊れたら直さなければいけませんし」
お前の拳を受けたら壊れるのは座席だけじゃすまないとか、それが人間だったら壊れるどこらか、もはや治しようがないとか、思うところは色々あるが直ぐにまあいいかと思い直す。
それにここで穴でも開けられたら面倒じゃすまないのは確かだ。
適当なのか冷淡なのか、どちらにせよこの女は嘘も世辞も言わない。ただ自分の思ったことをそのまま口にする。
ならばここは言葉通りにそのまま受け取ろう。過分な評価を賜り恐縮の極みだが、そう思うならもう少し手心というか、せめて備品と同じ程度には同僚も大切に扱ってほしいものだ。
だが亜流呼の言う通りあの程度に対処できなければ今頃とっくに死んでいる。もしくは今日か、近いうちに確実に死ぬだろう。
何にせよ自分の身体の状態も確認できたし、眠気も完全にはれた。ならば別にいいか思った矢先だった。
「今のは完全にお前が悪いな。あそこまでやって目を覚まさないんじゃ、拳を使われるのも当然だ」
今の今迄一言も発せず、動くこともなくもなかった男がそう口を開いた。鮮やかなネイビー色の背広を着込み、足を組みズボンのポケットに両手を突っ込んだままという人を舐めきった姿勢で、にやにやと心底面白そうな顔で一部始終を眺めていた三人組の残りの一人、不治斑傷仁は声に含まれる笑いを隠そうともせずそう言った。髪には本人の内面や性格が現れるのか、中途半端に伸ばした枯葉色のくせ毛を、それでもしっかりと整えていた。その顔には大概今のような笑みが貼り付き、その上を大小様々な傷跡が縦横にはしっていた。老木のような茶色の瞳にはどんなことでも楽しまずにはいられないといった無邪気さを覗かせている。
「今何時だと思っているいつもならとうに寝てる時間だ。それに乗り物に乗ると眠ってしまう性質なんだよ」
「年寄りみたいなことを言うな。それにお前が眠っているのはなにも乗り物に限ったことじゃないだろ。しかしあれだけやられて起きないのも不思議だが、コイツの乗り心地で眠れるのはさらに驚異だな」
貶しているんのか褒めているのかよく分からないが、何か失礼なことを言われたのは何となく分かる。
「慣れれば大したことはない。それに何時でも何処でも眠れるのは特技の一つに数えてもいいだろ」
だが今更そんなことは気にもならず、そのまま会話を続ける。
「それが原因でさっき死にかけた奴が何を言ってる。せめてましろさんが頬をつねったあたりで目を覚ましておけばよかったのに」
なるほど、それでさっきから頬のあちこちに鈍い痛みがあるわけか。確かにこれだけやられて起きないなら後はもう殴るしかないだろう。改めて姉を見ると怒りは収まっているようだが、機嫌のほうは完全には戻っていないようだ。姉は無口だが感情表現は実に豊かだ。それが今は狩ってきた猫よりも静かだ。この仕事が終わったらもう一度しっかりと謝ろう。当然土下座も視野に入れて。
今なんだか言いようのない不吉な予感がしたが、そんなことは気にせず姉を撫でた。最初は煩そうにしていたが、次第に撫でられるがままに、こちらに身を預けてきた。終いには手を離そうとすると、もっと撫でろと言わんばかりに左手の袖を引っ張ってくる。その仕草に
たまらない愛情が胸のなかで膨れ上がり、姉の気の済むまでずっと撫で続けることにした。
「今こうしてお前と話しているのがそうなっていない何よりの証拠だ。それにお前のほうも堪えた様子は特になさそうだが」
姉を撫でながら会話も続ける。仲間とのコミュニケーションも大事だ。と思う。
「そう見えるように見せているだけだ。実際そろそろ尻の我慢も限界だ。このままだと割れる」
その様子を表情だけは変えずに見やり、ふざけた口調と内容を返してきた。
「わざわざ指摘するのも面倒だが、尻は始めから割れている」
「縦にじゃない、横にだ」
「それは大変だが、そうなったところで、こんなところではどうしようもないぞ」
「だからさっきから祈っている。一秒でも早く目的――”地”じゃないか。予定のポイントに着くのを」
「こいつは現状、最新型で最高級の試作品だ。もうすぐ着くだろ」
「その謳い文句の一割でも居住性に当ててほしかったよ。今迄乗った他の機体は、ここまで躍起になって俺の尻を削ろうとはしなかったぞ」
「仕方ないだろ。それも含めての試作品だ、この振動にも何か理由があるんだろう。それにこうして普通に会話ができるだけでも大したものだと思うが。文句があるなら仕事が終わった後のレポートで好きなだけ書くと良い」
「ああ、そうするさ、してやるさ、絶対に。電話帳よりも分厚い鈍器にな。それで開発者どもの頭を片っ端から叩き割ってやる」
「名探偵も名刑事も登場するまでもなく、一瞬で犯人が特定されるだろうな」
「凶器は暖炉にでも放り込めば証拠隠滅完了、完全犯罪達成だ」
「そういうのはたいてい暖炉の燃えカスから犯人が特定されるのがお約束だが、それ以前の問題だな」
「なにがだ?」
心底不思議そうに訊いてくる。こういうときのこいつの顔は妙に子どもっぽい。
「俺が全部話すからだ」
「お前は仲間をそんなに簡単に売るのか、正気か!」
雑でザルでアホな犯行計画をペラペラと喋った上に、その可能性を全く考慮していなかったこいつこそ、正気かどうか問いただしたい。
「それでどうする?最初に俺の頭を叩き割るか、それとも袖の下でも使うか」
「いいや、どちらもやめておく。やはり悪いことは良くないことだ。真面目に生きるのが一番だ」
一瞬で犯行を諦めて、一瞬で更生した。男子三日会わざれば刮目して見よと言うが、こいつの場合三日もあれば原型など留めていないのではないか。それとも変わって、戻って、また変わる。その繰り返しなのだろうか。
なんいせよ俺が言えるのは一つだけだ。
「ああ、それが一番だ」
「それで馬鹿話はおわりましたか」
丁度会話が一区切りついたところで亜流呼が戻ってくる。
さっきまで機体前方の操縦室でなにやらは話し合っていたみたいだが、どうやら終わったらしい。
「もうすぐ目標のポイントに到着します。各々準備をしてください」
この言葉こそ待ちに待った天啓とばかりに、即座にシートベルトを外し、束縛から自由になった身体を思い切り動かして派手な準備体操をやり始める。
「ああ、やはり自由に生きることに勝るものなどこの世にはないな」
早速さっきと言ってることが違うが、こいつのなかの順位付けなど株式市場の銘柄よりも乱高下が激しい。
余計なことばかり考えていないで俺もシートベルトを外し軽く身体を解す。
「準備はできたみたいですね」
二人揃って目で了解の合図を送る。
「では今回の仕事における作戦の最終確認を行います。今作戦の私たちの目標は依頼者が奪われたと主張する物品の奪還です。相手は恐らく陸路を主な輸送ルートとし、非合法的な品などをを扱う密輸専門の運送会社であるMCAT社。奪われた物品が最終的に何処に運ばれるのかわかりませんが、その物品は現在MCAT社の管理化にあると思われ、隠匿されていると考えられる施設を強襲。それぞれ敵勢力の陽動及び殲滅と捜索ならびに捜索を行い、目標物を無傷で奪還。その後各人速やかに撤収します。撤収後の集合地点では回収班が待機しています。。撤収後の集合地点は頭に入っていますね。彼らと合流後は全力で敵の勢力圏より離脱。敵の追撃がある場合これを撃退。なお撤収が難しい場合は施設内の全戦力の無力化、もしくは施設自体を破壊します。この際奪還した目標物が無事であることは言うまでもありません。どちらにせよ奪還した目標物を本社まで無事送り届けて今回の仕事は完了となります。それでは何か質問はありますか?」
事前に仕事の内容と作戦は説明されていたが、改めて聞くと質問以前の問題が多すぎる。確定情報が一つもない。
それでもこの仕事に関わる全員が当然のように受け入れたいるのは、これがいつものことだからだ。
これは会社の調査部の能力不足というわわけでも、相手の隠蔽能力が以上に高いわけでもない。
今の世で最も貴重で価値あるものの一つが”情報”だからだ。
以前はどうだったか知らないが、現在ではどんな些細な”情報”でも調査・収集するには多大な時間と労力と資金、そして命を懸ける必要がある。
この依頼を受けたのが三日前、それから今こうして俺たち実行部が仕事を開始できるだけの情報を集めたと考えると、むしろ調査部の能力驚異的だ。
ただ一つだけはっきりさせておかなければいけないことがある。これが分からないとそもそも仕事が達成できない。
俺は左手を上げて質問があることを伝える。横を見ると傷仁も律儀に手を上げていたが、目線で俺に質問するよう促す。どうやら聞きたいことは同じなようだ。
「それで奪われた物品って一体なんなんだ?」
「不明です。ただ依頼者が言うにはとても貴重なものだとか。そして見れば分かるそうです」
「それは依頼者自身が、という意味か」
「そのようです。回線を通じて依頼者自ら確認したいそうです」
「いつものこととはいえ、こんな依頼よく受けたな」
これには傷仁も同意を示す。
「全くだ、さすがに色々と妙にすぎる」
亜流呼も思いは同じらしく、
「同感ですが、今更言っても仕方がありません。社長のお考えと調査部の能力を信じましょう。では質問は以上ですね」
後者はともかく前者は甚だ怪しいが、兎にも角にもやるしかないという事実だけは確認できた。
俺も傷仁もまだも二人揃って顎を引いて肯定する。
「よろしい。では最後の確認です。私たちの最も大事な仕事は依頼を完遂することではありません。私たち三人だけでなく、全員生きて帰ることです。まず何より自分が生きるこを第一に考える。その上で仲間を守るために自らが盾となり、仲間を助けるために自らを剣とする。矛盾しているようですが私たちなら可能だと知っています。をれは各人の最善の働きこそが最善の結果をもたらすことと同様にです。
くどいようですが、もう一度言います。生きて帰るまでがお仕事ですよ」
『はーい』と三二人揃って返事を返す。言葉は軽いが、心に決めた覚悟はとてつもなく重かった。生きて帰る。何があろうと、何をしようと絶対に。
それを確認した亜流呼は一つ頷くと機体のハッチに手をかけ一気に横にスライドさせ開いた。
その瞬間、轟々と唸る風と音が機内の静寂を吹き飛ばして猛烈な勢いで吹き込んでくる。
見えるのは黒一色の夜空のみ。ここは地表よりも遥かに高く、天の星に手が届くかと思うくらい近い、空の上だった。
今回の仕事は目標地点上空までヘリで移動。その後降下し施設を強襲、目標物を奪還するというなかなかの難易度だ。
こんな依頼を受けた上に、ならついでにと、まだ試作段階であるこのヘリの試験運用もしようと、決めた社長こそが、やはり一番正気を疑われるべきだろう。
しかしここまで来たらそんな余計なことを考えている時間などない。
ここに一秒留まるごとに相手に補足、発見される危険は跳ね上がっていく。
亜流呼はハッチを開けた瞬間に、操縦士に親指を立てて感謝を伝え一切躊躇することなく深い夜の闇へと踏み出していった。
間髪入れずに傷仁も亜流呼に続いていった。
最後に俺の番になり同じように親指を立て感謝を伝える。すると向こうも同じ仕草を返してきたがその目は若干恨めしげだった。
それもそうだろう。いきなりよく仕様も分からない試作品の運用試験をすることになったうえ、蜘蛛の巣よりも細かく張り巡らされた監視・警戒・索敵の目を、綱渡りをしながら針に糸を通すような繊細極まる操縦でここまで来たのだ。自分が神経をすり減らしているときに
後ろであんな馬鹿なことをやっていたら一言言いたくなってもしょうがない。
ただそうなると操縦士は、これだけのトリックプレイをこなしながら、後ろに気がつく余裕があったということか。それとも単に集中を邪魔されいていただけなのかもしれないが。
いずれにしろ彼は自分の仕事、プロの仕事を十全にやり遂げた。ならば次は自分がプロとしての仕事を果たす番だ。
「それじゃあいこうか、姉さん」そう姉に声をかけると、親指を立てて了解を伝えてきた。どうやら自分もやってみたかったようだ。
姉の了解の合図に当然返事を返し、自分も闇になかへと足を踏み出した。勿論パラシュートは全員身に付けていない。
天地が逆転した状態で、闇のなかへ吸い込まれていくように落ちていく。あっという間に遠ざかっていく星空を眺めていると、ふとさっきまでの会話が思い出される。傷仁はあの時祈ってると言っていたが、果たして一体何に祈っていたのだろうか。
この仕事が終ったときまで覚えていれば訊いてみようと、今度は相手を巻き込んで不吉なことを考えた。
そういえば今日は月は見えないのだなと、どうでもいいことを思いながら、深い夜の底へと真っ逆さまに呑まれていった。
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