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ずっと一緒に終わるまで
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月に嗤われている。それが夜の体現であり、ぽつりと孤独にありながら、冷たくも柔らかな眼差しを空から向ける淡い光に対して、虚空白が初めて抱いた印象だった。
血の匂いと負の感情と死の濁りが溶け混ざり合い、吸い込めば肺が腐り落ちそうなほどに、べったりと澱みがしみ込んだ空気が蔓延る昏闇。
特に何の意思も無く、ふらつくように足を動かしているだけ。さながら意味もなく光にひかれる羽虫のようにそこから這い出してきたとき、ふと奇妙なくらいに明るいことに気が付いた。
何故という疑問もどうしてという疑念もなく、ただ確認のために首の角度を変えただけの機械的な思考と動きでこの光の源を目に映した。
漂う雲の白を墨を流して塗りつぶしたような黒を背に、儚げな燐光が真円を描き、仄白く輝く月の姿を。
常ならばその穏やかさで、夜の闇も陰も区別なく包むように中和している。その一方では逆に夜の昏さを浮かびあがらせ、その存在を際立たせるよう照らしだす淡い灯り。その青い月光が今このときだけは、どこまでも鋭く研ぎ澄まされた刃となって、自分にまとわりついていた闇と影の昏さを斬り去っていた。
決して混じり合うことのない絶対の境界を示す切り口に囲まれ、夜空にある月の姿を正面から捉え真っ直ぐに見据える。
そうなれば当然逆に向こうからの視線を全身で受け止めることになる。
まるで清水で流し清めるかのように、浴びた者の汚れを払い落す清浄な青い月の光。
その冴え冴えとした青が生み出す情景を、ぼんやり視界に収めるだけで感慨も何もなく、だらりと光に身を晒していた。
揺りかごで微睡むように、世界がとけて輪郭を失い曖昧になっていく。その感覚に呑まれそうになったとき、とてつもなく苛烈でとんでもなく業深い意志の霹靂が甘い痺れとなって身体の隅々まで奔り抜ぬけた。その轟きに呼び叩き起こされた姉の言葉が一瞬で目を覚ます。それと同時に意識も完全に覚醒する。
「月の本質の一つは映すこと。すなわちそれは暴くこと。自分がどんな人間が知りたくないのなら、大人しく布団でもかぶっで膝を抱えてるのが一番だよ。ああ、それとあと月にはね――――」なんだか半分くらいはいまだ眠ったままの気もするが、その半分の言葉が本当だったと気づいたとき、全ての意味が裏返る。
空にある月が地上で幾十億も蠢いている人間とその他のあらゆるものを区別も分別のするなどありえないということを。
この青い光は浴びたものがどれだけ卑小な存在か思い知らせるために、区別も分別もなく照らし映し出しているということを。
そして嗤っているのは月ではなく自分自身だということを。
確かに改めて淡い光の中に浮かぶ自分の姿を見てみればみっともないことこのうえなかった。
頭のてっぺんからつま先に至るまで、全身隈なく真っ赤な濡れ鼠になっている。自分の流した血など一滴もなく、全て他者から浴びた返り血だった。さっきまでは動くたびにぬるりべちゃりと粘着質な感触を伝えていたが、気づけば吹いている夜風のせいか、乾いて鉄錆のように体中に貼りついていた。「使い途のない汚れた白色」と蔑みを込めて周りは評していたが、いまの姿はそれ以下だった。
身体のそこかしこには皮の破片や肉の欠片、潰れた臓物に髪が引っ付いたまま剥がれた頭皮など、ついさっきまで、自分が殺すまで生きていた人間の名残が、そこかしこにこびりついていた。これでは道具としての機能するかどうかも疑わしかったが、十全に機能を発揮した結果こうなったのだから仕様がないと、他人事のように考えた。
それでもいまだ乾ききらない血が、ゆるりと足元に滴り落ちる様を目で追いつつ振り返る。そこには何の意思も感じられない赤い足跡が昏闇から斑らな跡を引きながら伸びていた。
もう一度、今度は明確な意志をもって月を見た。
昏闇の底をはいずっていたときには見えずに気付くともなかったものを、光の下にはい出た途端に、はっきりと思い知らされる羽目になる。
自分が一体どんなものなのか、どれほどのものなのか、どれだけのものなのか。目を背けることなど出来もせず。
そして気付くと堪えきれないおかしさが腹の底から湧き上がり、嗤いとなって吐き出された。
こんな有様になるまで自分がいったい何をしていたのか。そのとき何を思い。感じ、考えながらこんな有様になっていったのか思い返せば。
こんな有様になるまで自分が何を求めていたのかさえ分からなかったことが。ようやく辿り着いてみれば、そこで何を見ることになったのかに思い至れば。
くつくつと汚泥を火にかけたような嗤い声はまぎれもなく自分自身への嘲笑だった。
何もない自分、何も求めていない自分。そうだと思い込んでいた自分。そうであろうとしていた自分。
空の心、空の感情、空の精神、そんな伽藍堂の器を覆う殻こそが自分自身であると定義していた。
何もないから空であり、空であるから何も生まれるはずもなく、故に何もない空である。
しかしそんなことは全くなかった。中身が空っぽでも生まれてくものはあるのか、それとも空っぽだと思っていた中身にほんの僅かでも何かがあったのか。
どちらにせよ違いなどない。ただ、一度自覚してしまえば今迄の自分がどれほど滑稽だったことか。赤面しそうなほどの羞恥に思わず手で顔を覆ってしまう。実際そうなったところで、傍から見れば変化に気付く者など誰もいないだろう。唯一人を除いては。
心がないから何も思わず、感情がないから何も感じず、意思がないから何も考えない。それが自分なのだと。それが自分の在り方なのだと。それが否定されたわけでもなく、間違いだと指摘されたわけでもなく、ただ映し、暴かれ、見せつけられた。
今日この夜、自分が何を思い、何を感じ、何を考えていたのか。それら全てが誰のものでもなく、誰のせいでもなく、間違いなく自分自身のものだと迷いなく確信できてしまう。
穴があれば入りたいというのはこういうことをいうのかと、のたうち回りたくなる衝動をなんとか抑え推察した。もっとも穴があるなら放り込んで片付けなければならないものが、そこら中に散らばっているが、初めからそんなものには気にもしていなかったが、今はそれ以上に余裕がなかった。
自分の中身で渦巻き、波打ち、燃え盛るものたちが何か、解読し、認識し、理解する。それだけに意識の全てを使用していた。
そして思い出す。こんな有様に成り果てるまで自分自身を動かしていたものが何なのかを。
そして確かめる。いまもなおこの手に残る、あの瞬間の愉悦を。それを手にしたとき自分はどんな顔をしていたかを。
◇◇◇◇◇◇
視界に入る色はほとんど赤一色だった。床も壁も天井もをバケツのインクをぶちまけて、雑に模様替えしたかのようだった。
もちろんぶちまけたのはバケツではなく、中身もインクなどではないことは、そこら中に転がっている黄色や桃色をした塊と、色が移りそうなほど濃い臭気を嗅げば明らかだった。まるで悪趣味全開の勘違いした前衛芸術のようだったが、このガラクタを作り出したのが他の誰でもない、虚空白だというのが何よりも皮肉だった。
こんなことをやらかした。こんなものを作り出した本人は、周囲がどんなことになっているかなど全く興味もなく、まだ残る興奮の余韻に感じていた。
そうだ、あのときの自分は――昂っていたのだ、自分の力を好きなようにふるえることを。――楽しんでいたのだ、その力で他者を一方的に蹂躙することを。――悦んでいたのだ、使われるための道具として作り出し、使えぬとなれば廃棄し、それでもなお使い潰し、ただ死ぬことだけを期待した侮蔑の眼を向けていた男が、いまは棄てられた人形のように四肢を壊され、首を握り潰すかたちで掴み上げられながら、ただ必死に死にたくないと哀願の眼を向けてくることを。
気の迷いか気まぐれか、何故だかその必死さに応える気になった。こういう配慮を仏心というのだろうかと適当に解釈しながら、もう壊したモノだがこわれものを扱う様に、そっと空いている右手を胸に添えた。
記憶に僅かに残る、傲慢な態度と尊大な振る舞いこそが威厳を示すと、憐れな勘違いしていた姿なども見る影もなく、媚すら浮かんだ眼を向けてくる姿を見ても思うことは一つしかなかった。
最後にその眼をきっちりと見据えながら、今迄の想いの全てを込めて胸の奥に手を伸ばした。
相手の心に届けるために、身体の隅々まで沁み込むように、ゆっくりと指を沈めていく。
亀の歩みよりも遅い緩慢さで指を進め、皮を破り、肉を抉り、骨を断ち割りながら遂に目的のものに手が届く。
首の気道も血管も一緒くたに握り締めているせいで、ひゅうひゅうと音のない笛が鳴るような呼吸に合わせて収縮している器官、肺を。
触れると柔らかくも確かな弾力をもって押し返す感触と、生きている証明である熱が手のひらに伝わってくる。試しに、若干力を込めて握りしめた瞬間、ピクリとした小さな痙攣に合わせて今迄より一段高く細い音で鳴いた。ほう、と少し興がわいた。それは傘に当たる雨粒に喜ぶ子供の稚気のようなものだった。姉の奏でる笛や琴の音を聴くことは数限りなくあったが、思えばこうして自らの手で楽器に触れた経験はなかった。 しかし何かを感じる間もなく、興味はすぐに失せた。
初めてのものに触れたなら、何かがどうにかなるのではないか。新しい何かを見つけることができるにではないか。そう無意識の内に思考し、無自覚に抱いた期待は、それが形となる前に、訳もなく、簡単に、跡形もなく消え果てた。そこには落胆も失望もない。初めから終わりまでついに自分の内なる想いを認識することはなかった、それが救済ではなく。慰めですらないと気づかぬままに。
それでも何とかして楽しむことくらいはできないかと、握る箇所、力の強弱、拍子や回数など変えて試行錯誤あがいてみたが、その度に違う音で鳴るのみだった。自分にはこの手の、いや、全てに対して才能や素質や天稟などないことはあのときから分かっていたが、そんなことすらできなかった。結局唯一できたことは、自分一人ではどうにもならないと改めて確認することになっただけだった。
自分には音の優劣はよく分からないが、姉の奏でる音とは全くの別物であり、全く敵わないことは何となく理解した。その理解がどこからきたものなのか深く考えることもなく、やはり音とは聴くに限ると結論をだした。
特に姉の奏でる様々な楽器の音を聴いているときが、自分でも認識している”しあわせ”の一つであるのは確かだが、実は奏でられる音よりも、超絶的な技巧で奔る指の動きを観るほうが”たのしい”のは絶対の秘密だ。
些か無駄に弄ってしまったが、まだしっかり生きていることは、手のひらからの感覚で確認している。もう目に光はなく、口の端から
は血の混じった泡をふき、涎が垂れていてもだ。
一見そこらへんにとっ散らかってる死体と変わらない、いや、まだそれなりに人の形しているだけ他とは違うかと、どうでもいいことを考えながら、どちらでもいいと思いながら、気付けのために一気に力を込めた。
すると壊した四肢がバネ仕掛けのように跳ね、押し出されるように目を見開いた。
その目に宿るのはもはや侮蔑でも哀願でも媚でもなく、この男から初めて見る感情の色、恐怖だった、
その目の色を見ていると、妙な心地よさを覚えた。それが”満たされる”ということだと知らないままに。
顔面にある穴という穴から体液を垂れ流し流し、あらゆる感情を煮詰めた恐怖の色が浮かぶ目を向ける顔。特段何の意味も無く、生まれて初めて正面からこの男の顔を見た、一切何の感傷も感慨も感じなかった。、ただ不思議な心地よさだをけ覚えながら、最後に笑顔を作って見せた。まるで仮面をかぶるように。
目に焼き付け、脳に刻み込まれた、姉の天然純度百パーセントの笑顔を真似る。誰かを何かを真似るのは自分の十八番だ。全表情筋と顔面の神経を総動員してそれでもなお、出来の悪さは否めない不良品の笑顔でにこりと笑いかけた。
そしてありったけの優しさを人より小さな手のひらに載せ、自身の意志と殺意を込めてぐちゃりと握りつぶした。
同時に首から手を離す。拘束を解かれた身体は受け身もとれずに、床に崩れ落ちた。そしてすぐに真夏のミミズのようにのたうち回る。
人間に肺が二つあるのは、生命活動に必要だからだ。それが今や一つしかないのだ。単純に呼吸量は半分になり、苦痛は倍になる。
今すぐには死ねないが、しばらくたてば必ず死ぬ。自分なりに最期の思いに応えてみたのだが、青から紫そして土気色に変わっていく顔色を見る限り、どうやらお気に召したようだ。ずっと人の顔色を見て生きてきたのだ、間違いはないだろう。
そんな父親の姿を眺めながら、らしくもなく、しかし何故だか自然と言葉が口をついて出た。
「さようなら親父殿。まさかここまでとは、流石に思いませんでした」
血は水より濃いというが、その血の縁を極限まで水で薄めたのが父と自分の関係だった。
それでも最期には、お互い同じ望みを共有していた。同じ思いいに至っていた。
互いに相手の死を望み、殺したいという思いに。
どんなものでもあれ、どこまでいってもこれが親と子の縁なのか、血による繋がりというものなのか。
流れた血の赤に抉った脂肪の黄色、砕けた肋骨の白と、随分色彩豊かになった染まった右手を見ながら少しだけ考えたが、縁だの血だの、曲がりなりにもこの家に生まれた自分がそんなことを考えるなど、他の家の人間が知ったらどう思うのか。おそらく激怒するか軽蔑するか嘲笑するかのどれかだろうが、すぐにそんなことは全部どうでもいいことだと思い直した。
何にせよ結果死んだのは、これから死ぬのは父のほうだった。理由はこれ以上なく単純なものだ。言葉にすれば一言で済むほどに。
弱かった。自分よりも。それ以上でも以下でもなく、これだけが全てだった。
誰が言ったか思い出せないが息子はいつか父親を超えていくものらしい。
超えたというより踏みつけたというほうが適切だろうが、何であれそのいつかが今日このときだった。ただそれだけのことだった。どれだけ手応えなく、造作もなく、呆気ないものだとしても。
もはや動く気力もなく、小さく痙攣を繰り返すだけのものになど一顧だにせず、頭から消え失せていた。
そして自分のやるべきことを確認する。
正確には数えていないが、どう見ても数など勘定できる状態じゃないうえに、そもそも最初から数えるつもりなど皆無であったし、どうせ五体そろって顔の判別がついたところで、どれが誰がなど区別など
しかしこれで最後のはずだ。自分が殺さなければならないものは。
ならば自分のやるべきことは最後の一つのみ。そう定めたとき、微かに、だが確かに耳に届いた。
聞き間違えることなどありえない、この世でただひとつだけの笛の音を。
この酸鼻極まる場に満ちている、血と負と死にたっぷりと染まった空気に一切侵されることのない、春風に舞い散る花を思い起こさせる儚い雅さのなかに、滴る毒のような妖しく艶やめいた色を秘めた音。
人の心を変えずいられない、心をかき乱さずにはいられない、心のなかを引きずり出さずににいられない。
それが感動と呼ばれるものとなり心に深く刻まれようと、惑乱に陥り心を狂気に奔らせようと。
その音色は人を捕らえて逃がすことはなかった。まるで鍵も柵もない檻だ。囚われた者をいつまでもそこに居続けたい思わせる限り、決して逃れることはない。檻のなかに居続けるために自ら望んで虜であることを課していく。それを意識させることすらないままに。
それが自分には”しあわせ””と”やすらぎ”をもたらすこの音が誰のものかなど考えるまでもなく、誘われるように、引き寄せられるように一歩踏み出す。父以外には制限なく”力”を振るったせいで身体中にがたがきていたが、そんなことは問題ですらなかった。
唯一の家族の許へ。最も大切な存在の許へ。自分のやるべきことを果たすために。
途中何か弾力のある寝れ雑巾のようなものを踏んだが、そんなことには気付きもしなかった。
最愛の姉に会うために、昏闇から進み出た。――ただの一度も振り返らずに。
結局、根本的には何処に居てもても同じなのだろう。青い光にに身を浸しながら昏闇の底にいようとも、光の下に出ようとも。当然だった。何処にいたところで自分がそこにいるこには変わらないのだから。
人は大きく遺伝的要因と環境的要因の二つによって形作られるという。この両方の要因から都合の悪いものを削除した。それが人にとって大事なものであろうとも、失ってはならないものだとしても、無駄であれば、使えなければ、価値を認めなければ徹底的にそぎ落とした。そして残ったものこそ、有意義で、有用で、有益なものであると規定した。そうして間引いた結果できた人として何もなくなった場所。在るべきものがあったはずの場所。そこに在るはずないものを、ひとならざるものを詰め込んで、都合良よく便利に利用しよと作り出され結果、出来損なったのが自分だ。「欠陥のある壊れた失敗作」それが自分への評価であり、自分でもそうなのだろうと思っていた。自分は空っぽで殻だけで何もなく、何をしても変わらいのだと。
だが違った。自分にもあるのだ。
薄っぺらで、鈍くて、僅かでも。
意志が、感情が、心が、自分自身だけのものだという確信が。
ただ十全に機能しさえすればそれでよかった、ただ与えられた命令さえ果たせればそれでよかった。
使われるためだけの道具として生れたのだとしても。誰に使われるのか生まれる前から決めれていたとしても。
だからこそ、誰に使わせるのか、誰に仕えるのか、誰のために生きるのかを決めたのは他の誰でもなく、自分自身であることを。
姉のために自分の全てがあるとのだと選んだのではなく、自分の全ては姉のためにあると決めたのだと。自分の確信をもってそう言える。
こんな有様になり果て、ずっと忌避し続け、自分にはないと思い込んでいた心の底で、求め続けていた光の下で、漸く思い知ることができた。
自分がどれだけ醜く、卑しく、汚れた存在か、これ以上ないほど身につまされた。しかしそれ故に、自分にもそう判じ、そう感じ、そう思う、意志も感情も心もあることを教え、気付かせ、悟らせた。
もちろん月にそんな意図は微塵もないことはわかっている。それでも半分ほどしか思い出せなかった、姉の言葉の本当の意味の半分くらいは、何となく感じることができたような気がした。
夜空に浮かぶ穏やかに見えて残酷で冷酷で綺麗な月という名の鏡。例えどんなモノに対しても、分け隔てなく映し暴く慈悲も非情もない公平で公正な青い光。
それを見詰めながら、心の中でたっぷりの恨み言と、たったひとつの感謝を告げた。
僅かでも確かに自分というもにがあると確信できたことを。何があるのか知ろうとしなければ、何もないことと同じだということに。そして自分にとって最も大切な存在を、何故大切だと想うのか。次々浮かんでは消える思いを”ありがとう」”の一言に込めて。
つまるところ自分が何処にいるかなど些末なことでしかない。誰といるか、誰と共に在るかが一番大事なことなのだと。
そこに思い至ったとき、身体のなかで何かが切り替わるような、噛み合わさるような、動き始めるような熱を確かに感じた。
それは自分の生きる理由と意味を定めた瞬間。誰に与えられたのではなく、自分自身の確信をもって決めた瞬間だった。
茫洋とした目に意思の光が宿り、停止していた心が脈打ち、枯れ果てていた感情に火が灯る。
真っ直ぐ自分の向かうべき場所を見据え歩き出す。今までとは異なる、力強く確かな歩みで。
途中一度だけ振り向いた。当然何一つ変わることなく、月はいつもそこにある。しかしその眼差しにほんの少しだけ優しさを感じたのは、きっと気のせいだろう。
そして前に向き直り、歩みを再開する。一歩進むごとに、完全に乾いた血が身体中からこぼれ落ちた。
それは、まるで殻が剥がれ落ちていくように、はらはらと赤い花弁を散らしていた。
そして二度と振り向くことも立ち止まることもなく、血色の殻を後に残しながら、自分が共にあるべ者が待つところへと迷いなくただ前へと進んでいった。
この時得た確信が常に苦悩と葛藤をもたらすとしても、いつか必ず選択と決断のときが訪れるとしても。
自分が終わるその時まで。自分が終わったその後までも。
◇◇◇◇◇
「やあ、待ってたよ白。といっても時間もなにも決めはいないけどね」
この無駄に広い屋敷の中で、間取り的にも意味的にも一番奥にありながら、それなりの広さのある座敷の中心。自分の真正面に座り、こちらに背を向ける形で我が最愛の姉、虚空白はいた。
この座敷に来るのはあれ以来二度目だった。歩けば確実に足跡が残るほど堆積した埃や、隅に張られた蜘蛛の巣、そして畳といわず壁といわず柱といわずについた破壊の跡が、そのまま放置された無残な状態を見れば、今迄誰にも使われることはなかっただろうと容易に想像できる。自分だけでなく、それだけここも忌むべき場所になってしまったということか。
もう確認のしようもないが、この家の連中ならきっと近付きもしないはずだろう。
そんなことは歯牙にもかけず、全く気にもしない目の前の姉以外は。
開け放たれたままになっていた障子の前に立った時、笛の音は止んだ。丁度吹き終えたのか、待ち人が辿り着いたから演奏を止めたのかは分からない。
当の本人にとってさしたる理由などなかったのだろう、あっさりと唇から笛を離し、振り向きざまに声をかける。
最上級の絹糸よりもさらに細く繊細な、烏の濡れ羽色をした黒髪が振り向く動きに合わせてさらりと風に流れて広がる。
こちらを向いて真正面から自分を見つめる姉の美しさは何度みても色あせることはなかった。むしろ見るたびにその新た美しさに気付かさられつような気さえした。肌は陶磁器の滑らかさと乳製品の白さをもちながら、生ある者に証である頬の赤みが、溢れる生命力を示している。力強くも秀麗な眉の下で自分を見つめるのは、磨き抜かれ研ぎ澄まされた黒曜石の瞳。一筋綺麗に整った鼻梁に続くのは、先程まで笛の音を紡いでいた、ふっくらとした桜色の唇。全く無駄の無い絶妙な曲線で描かれた顎と輪郭。子供のように無邪気でありながら、どこか蠱惑的な響きが空気を濡らす、凛とした甘やかな声。
今なら解る、これほど美しい存在に愛情を注がれていたことがどれほど幸せなことだったか。そのおかげで愛というものがこの世にある知れたこの幸運を。そしてもしかたら自分も――いやこれ以上考える必要も意味もない。その直感に素直に従い、ただ姉の所作に意識を向けた。
自分が背にした青い月光を浴びて髪はより艶めき、肌もその白さと滑らかさを一層際立たている。立ち上がりこちらに向くため身を翻した拍子に舞った埃でさえ、姉の周りでは微細な雪のように月の光を受けて煌めいていた。
これが本当に光の下で生きるべき者の姿なのだろうと感嘆とともに理解した。それとも姉も自分と同じように、この光に映され暴かれるものがあるのだろうか。そんな益体もないこと考えていると姉から催促の声がかかる。
「そんなところに立ってないでこっちにおいで。それとも私に見とれちゃった?」
まさにその通りですとは言わず、促されるまま座敷にあがる。
その瞬間、異なる世界に足を踏み入れたと確かに感じた。
「結界か……」誰に言うでもない呟きに、姉は律儀に応えてくれた。
「そうだよ、白以外は絶対入れないように結界を張ったんだ。誰にも邪魔されたくないし、それにこんなに月が綺麗なのに煩いのは勘弁だしね」
確かにこの空間は、ここに来るまでに通ったどんな場所とも異なっていた。外から見た荒れ具合からは想像できない、想像とは真逆だった。埃っぽさやかび臭さなど微塵も感じられない、清澄で静謐な空気に満ちていた。それでも掃除など一切せず、敷居から座敷のなかまで毛氈を敷いているのが実に姉らしかった。
結界とは守るためのものではない。その本質は隔て、分けて、囲うこと。すなわち世界を切り取り独立させることだと以前姉が説明してくれたことを思い出す。ならばここは既に外界とは交わることのない、ひとつの、虚空白の世界だった。
そうでなくともここはある種の異界だった。姉がいるだけで、虚空白がそこに在るだけで世界は変わり、塗り替えられる。それだけの存在感を虚空白は有していた。
入るまでそこに結界があることすら気付かなかった。流石というべきか当然というべきか、どちらにせよこの結界がとんでもないものだというこは、この手の呪術関係には疎い自分でも理解できた。
青い光の塵を押しのけ近付づいて自分の姿を確認し、「あーもうこんなに汚して。折角の男前が台無しだよ」そんな若干年寄りじみたことを言いながら、着物が汚れることなど全く気にせずハンカチで顔をぬぐい、身体中にこびりついたものを取っていく。
和装でもハンカチを使うんだな、などとどうでもいい思考で意識を逸しつつ、自分のものとはまるで違う、姉の本物に優しさ身を任せ、されるがままになっていた。
「まあ、こんなものかな」姉はまだ不満そうだが自分としては十分以上だ。言う必要のないことだから言わないが、何より今迄血の匂いで麻痺した鼻が、身を清めたであろう清涼な香りを嗅いだ途端、嗅覚が戻ったのは当然であり、問題は解決したのだから何も問題はない。
「ありがとう姉さん」それでも感謝だけは言葉にして伝える。
「どういたしまして。その様子だとちゃんと全部片付けてきたみたいだね」自分としては当然のことをしただけだと思っていたが、こうして労われると予想以上に嬉しかった。
「ああ、この家にいるものは全部殺してきたよ、多分」正確には数えていないことを正直に白状する。姉に対して言わないことがあっても、嘘を吐くことはできない。
「そっか、でもいいや、どうせ屋敷からは出られないんだし。白がそう言うなら全員死んでるだろうし」
どうやらこの屋敷自体にも結界を張っていたようだ。何気なく口にしているがそれは結構すごいこではないだろうか。いや、この姉ならそのくらいは本当にどうというこはないのだろうし、姉が言うならこの屋敷からでられたものはいないだろう。なぜなら姉より優れた術者はこの家には居ないのだから。
「じゃあ最後の仕上げをしようか」
「ああ、そうしようか」否があるはずもなかった。今迄の全てはこのためにあったのだから。
そういえば姉から親父殿や他の連中について、細かなことは何も聞いてこなかった。だがそれも当然かと、すぐに思い直した。そんなどうでもいいことを気にする道理は全くない。
姉が半歩ほど間を開けた場所に立つ。同年代の平均より背が低い――絶対に小さいとは言わない――ため自然見下ろすよな形になる。
僅かにおとがいを上げ、目をゆっくりと閉じた。まるでくちづけを求めているようだが、自分が差し出したの唇では人より小さな右手だった。父を殺した右手だった。その右手を姉の頭に載せ、ゆっくりと撫でるように動かした。一切指に絡むことのないさらさらの髪の感触を堪能していたら、頭を振って早くしろと無言の抗議をされた。
名残惜しかったが姉の願いは絶対だ。撫でるのを止め、自分の右手でもすっぽりと収まる小さな頭の中心に手を置いた。
「それじゃあ姉さん、これからもよろしく」
「こちらこそ、これからはずっとよろしくね」
別れの挨拶でも、再会の約束でもない、いつもと何ら変わらぬ気軽な口調で、いつも通り言葉を交わす。
それでもそのとき見た姉の笑顔はこれまでで一番美しかった。これが本物の笑顔というものかと思い、絶対に忘れぬように心に強く刻み込んだ。
そして、姉の願いを叶えるために、これまでの最後に、これからの最初に、葛藤も逡巡もなく自分のやるべきことを、自分の意志で果たした。そこに後悔も悔恨もあるはずもなく、青い光のなか、ただ姉の願いを全て叶えることができた喜びだけを感じながら。
血の匂いと負の感情と死の濁りが溶け混ざり合い、吸い込めば肺が腐り落ちそうなほどに、べったりと澱みがしみ込んだ空気が蔓延る昏闇。
特に何の意思も無く、ふらつくように足を動かしているだけ。さながら意味もなく光にひかれる羽虫のようにそこから這い出してきたとき、ふと奇妙なくらいに明るいことに気が付いた。
何故という疑問もどうしてという疑念もなく、ただ確認のために首の角度を変えただけの機械的な思考と動きでこの光の源を目に映した。
漂う雲の白を墨を流して塗りつぶしたような黒を背に、儚げな燐光が真円を描き、仄白く輝く月の姿を。
常ならばその穏やかさで、夜の闇も陰も区別なく包むように中和している。その一方では逆に夜の昏さを浮かびあがらせ、その存在を際立たせるよう照らしだす淡い灯り。その青い月光が今このときだけは、どこまでも鋭く研ぎ澄まされた刃となって、自分にまとわりついていた闇と影の昏さを斬り去っていた。
決して混じり合うことのない絶対の境界を示す切り口に囲まれ、夜空にある月の姿を正面から捉え真っ直ぐに見据える。
そうなれば当然逆に向こうからの視線を全身で受け止めることになる。
まるで清水で流し清めるかのように、浴びた者の汚れを払い落す清浄な青い月の光。
その冴え冴えとした青が生み出す情景を、ぼんやり視界に収めるだけで感慨も何もなく、だらりと光に身を晒していた。
揺りかごで微睡むように、世界がとけて輪郭を失い曖昧になっていく。その感覚に呑まれそうになったとき、とてつもなく苛烈でとんでもなく業深い意志の霹靂が甘い痺れとなって身体の隅々まで奔り抜ぬけた。その轟きに呼び叩き起こされた姉の言葉が一瞬で目を覚ます。それと同時に意識も完全に覚醒する。
「月の本質の一つは映すこと。すなわちそれは暴くこと。自分がどんな人間が知りたくないのなら、大人しく布団でもかぶっで膝を抱えてるのが一番だよ。ああ、それとあと月にはね――――」なんだか半分くらいはいまだ眠ったままの気もするが、その半分の言葉が本当だったと気づいたとき、全ての意味が裏返る。
空にある月が地上で幾十億も蠢いている人間とその他のあらゆるものを区別も分別のするなどありえないということを。
この青い光は浴びたものがどれだけ卑小な存在か思い知らせるために、区別も分別もなく照らし映し出しているということを。
そして嗤っているのは月ではなく自分自身だということを。
確かに改めて淡い光の中に浮かぶ自分の姿を見てみればみっともないことこのうえなかった。
頭のてっぺんからつま先に至るまで、全身隈なく真っ赤な濡れ鼠になっている。自分の流した血など一滴もなく、全て他者から浴びた返り血だった。さっきまでは動くたびにぬるりべちゃりと粘着質な感触を伝えていたが、気づけば吹いている夜風のせいか、乾いて鉄錆のように体中に貼りついていた。「使い途のない汚れた白色」と蔑みを込めて周りは評していたが、いまの姿はそれ以下だった。
身体のそこかしこには皮の破片や肉の欠片、潰れた臓物に髪が引っ付いたまま剥がれた頭皮など、ついさっきまで、自分が殺すまで生きていた人間の名残が、そこかしこにこびりついていた。これでは道具としての機能するかどうかも疑わしかったが、十全に機能を発揮した結果こうなったのだから仕様がないと、他人事のように考えた。
それでもいまだ乾ききらない血が、ゆるりと足元に滴り落ちる様を目で追いつつ振り返る。そこには何の意思も感じられない赤い足跡が昏闇から斑らな跡を引きながら伸びていた。
もう一度、今度は明確な意志をもって月を見た。
昏闇の底をはいずっていたときには見えずに気付くともなかったものを、光の下にはい出た途端に、はっきりと思い知らされる羽目になる。
自分が一体どんなものなのか、どれほどのものなのか、どれだけのものなのか。目を背けることなど出来もせず。
そして気付くと堪えきれないおかしさが腹の底から湧き上がり、嗤いとなって吐き出された。
こんな有様になるまで自分がいったい何をしていたのか。そのとき何を思い。感じ、考えながらこんな有様になっていったのか思い返せば。
こんな有様になるまで自分が何を求めていたのかさえ分からなかったことが。ようやく辿り着いてみれば、そこで何を見ることになったのかに思い至れば。
くつくつと汚泥を火にかけたような嗤い声はまぎれもなく自分自身への嘲笑だった。
何もない自分、何も求めていない自分。そうだと思い込んでいた自分。そうであろうとしていた自分。
空の心、空の感情、空の精神、そんな伽藍堂の器を覆う殻こそが自分自身であると定義していた。
何もないから空であり、空であるから何も生まれるはずもなく、故に何もない空である。
しかしそんなことは全くなかった。中身が空っぽでも生まれてくものはあるのか、それとも空っぽだと思っていた中身にほんの僅かでも何かがあったのか。
どちらにせよ違いなどない。ただ、一度自覚してしまえば今迄の自分がどれほど滑稽だったことか。赤面しそうなほどの羞恥に思わず手で顔を覆ってしまう。実際そうなったところで、傍から見れば変化に気付く者など誰もいないだろう。唯一人を除いては。
心がないから何も思わず、感情がないから何も感じず、意思がないから何も考えない。それが自分なのだと。それが自分の在り方なのだと。それが否定されたわけでもなく、間違いだと指摘されたわけでもなく、ただ映し、暴かれ、見せつけられた。
今日この夜、自分が何を思い、何を感じ、何を考えていたのか。それら全てが誰のものでもなく、誰のせいでもなく、間違いなく自分自身のものだと迷いなく確信できてしまう。
穴があれば入りたいというのはこういうことをいうのかと、のたうち回りたくなる衝動をなんとか抑え推察した。もっとも穴があるなら放り込んで片付けなければならないものが、そこら中に散らばっているが、初めからそんなものには気にもしていなかったが、今はそれ以上に余裕がなかった。
自分の中身で渦巻き、波打ち、燃え盛るものたちが何か、解読し、認識し、理解する。それだけに意識の全てを使用していた。
そして思い出す。こんな有様に成り果てるまで自分自身を動かしていたものが何なのかを。
そして確かめる。いまもなおこの手に残る、あの瞬間の愉悦を。それを手にしたとき自分はどんな顔をしていたかを。
◇◇◇◇◇◇
視界に入る色はほとんど赤一色だった。床も壁も天井もをバケツのインクをぶちまけて、雑に模様替えしたかのようだった。
もちろんぶちまけたのはバケツではなく、中身もインクなどではないことは、そこら中に転がっている黄色や桃色をした塊と、色が移りそうなほど濃い臭気を嗅げば明らかだった。まるで悪趣味全開の勘違いした前衛芸術のようだったが、このガラクタを作り出したのが他の誰でもない、虚空白だというのが何よりも皮肉だった。
こんなことをやらかした。こんなものを作り出した本人は、周囲がどんなことになっているかなど全く興味もなく、まだ残る興奮の余韻に感じていた。
そうだ、あのときの自分は――昂っていたのだ、自分の力を好きなようにふるえることを。――楽しんでいたのだ、その力で他者を一方的に蹂躙することを。――悦んでいたのだ、使われるための道具として作り出し、使えぬとなれば廃棄し、それでもなお使い潰し、ただ死ぬことだけを期待した侮蔑の眼を向けていた男が、いまは棄てられた人形のように四肢を壊され、首を握り潰すかたちで掴み上げられながら、ただ必死に死にたくないと哀願の眼を向けてくることを。
気の迷いか気まぐれか、何故だかその必死さに応える気になった。こういう配慮を仏心というのだろうかと適当に解釈しながら、もう壊したモノだがこわれものを扱う様に、そっと空いている右手を胸に添えた。
記憶に僅かに残る、傲慢な態度と尊大な振る舞いこそが威厳を示すと、憐れな勘違いしていた姿なども見る影もなく、媚すら浮かんだ眼を向けてくる姿を見ても思うことは一つしかなかった。
最後にその眼をきっちりと見据えながら、今迄の想いの全てを込めて胸の奥に手を伸ばした。
相手の心に届けるために、身体の隅々まで沁み込むように、ゆっくりと指を沈めていく。
亀の歩みよりも遅い緩慢さで指を進め、皮を破り、肉を抉り、骨を断ち割りながら遂に目的のものに手が届く。
首の気道も血管も一緒くたに握り締めているせいで、ひゅうひゅうと音のない笛が鳴るような呼吸に合わせて収縮している器官、肺を。
触れると柔らかくも確かな弾力をもって押し返す感触と、生きている証明である熱が手のひらに伝わってくる。試しに、若干力を込めて握りしめた瞬間、ピクリとした小さな痙攣に合わせて今迄より一段高く細い音で鳴いた。ほう、と少し興がわいた。それは傘に当たる雨粒に喜ぶ子供の稚気のようなものだった。姉の奏でる笛や琴の音を聴くことは数限りなくあったが、思えばこうして自らの手で楽器に触れた経験はなかった。 しかし何かを感じる間もなく、興味はすぐに失せた。
初めてのものに触れたなら、何かがどうにかなるのではないか。新しい何かを見つけることができるにではないか。そう無意識の内に思考し、無自覚に抱いた期待は、それが形となる前に、訳もなく、簡単に、跡形もなく消え果てた。そこには落胆も失望もない。初めから終わりまでついに自分の内なる想いを認識することはなかった、それが救済ではなく。慰めですらないと気づかぬままに。
それでも何とかして楽しむことくらいはできないかと、握る箇所、力の強弱、拍子や回数など変えて試行錯誤あがいてみたが、その度に違う音で鳴るのみだった。自分にはこの手の、いや、全てに対して才能や素質や天稟などないことはあのときから分かっていたが、そんなことすらできなかった。結局唯一できたことは、自分一人ではどうにもならないと改めて確認することになっただけだった。
自分には音の優劣はよく分からないが、姉の奏でる音とは全くの別物であり、全く敵わないことは何となく理解した。その理解がどこからきたものなのか深く考えることもなく、やはり音とは聴くに限ると結論をだした。
特に姉の奏でる様々な楽器の音を聴いているときが、自分でも認識している”しあわせ”の一つであるのは確かだが、実は奏でられる音よりも、超絶的な技巧で奔る指の動きを観るほうが”たのしい”のは絶対の秘密だ。
些か無駄に弄ってしまったが、まだしっかり生きていることは、手のひらからの感覚で確認している。もう目に光はなく、口の端から
は血の混じった泡をふき、涎が垂れていてもだ。
一見そこらへんにとっ散らかってる死体と変わらない、いや、まだそれなりに人の形しているだけ他とは違うかと、どうでもいいことを考えながら、どちらでもいいと思いながら、気付けのために一気に力を込めた。
すると壊した四肢がバネ仕掛けのように跳ね、押し出されるように目を見開いた。
その目に宿るのはもはや侮蔑でも哀願でも媚でもなく、この男から初めて見る感情の色、恐怖だった、
その目の色を見ていると、妙な心地よさを覚えた。それが”満たされる”ということだと知らないままに。
顔面にある穴という穴から体液を垂れ流し流し、あらゆる感情を煮詰めた恐怖の色が浮かぶ目を向ける顔。特段何の意味も無く、生まれて初めて正面からこの男の顔を見た、一切何の感傷も感慨も感じなかった。、ただ不思議な心地よさだをけ覚えながら、最後に笑顔を作って見せた。まるで仮面をかぶるように。
目に焼き付け、脳に刻み込まれた、姉の天然純度百パーセントの笑顔を真似る。誰かを何かを真似るのは自分の十八番だ。全表情筋と顔面の神経を総動員してそれでもなお、出来の悪さは否めない不良品の笑顔でにこりと笑いかけた。
そしてありったけの優しさを人より小さな手のひらに載せ、自身の意志と殺意を込めてぐちゃりと握りつぶした。
同時に首から手を離す。拘束を解かれた身体は受け身もとれずに、床に崩れ落ちた。そしてすぐに真夏のミミズのようにのたうち回る。
人間に肺が二つあるのは、生命活動に必要だからだ。それが今や一つしかないのだ。単純に呼吸量は半分になり、苦痛は倍になる。
今すぐには死ねないが、しばらくたてば必ず死ぬ。自分なりに最期の思いに応えてみたのだが、青から紫そして土気色に変わっていく顔色を見る限り、どうやらお気に召したようだ。ずっと人の顔色を見て生きてきたのだ、間違いはないだろう。
そんな父親の姿を眺めながら、らしくもなく、しかし何故だか自然と言葉が口をついて出た。
「さようなら親父殿。まさかここまでとは、流石に思いませんでした」
血は水より濃いというが、その血の縁を極限まで水で薄めたのが父と自分の関係だった。
それでも最期には、お互い同じ望みを共有していた。同じ思いいに至っていた。
互いに相手の死を望み、殺したいという思いに。
どんなものでもあれ、どこまでいってもこれが親と子の縁なのか、血による繋がりというものなのか。
流れた血の赤に抉った脂肪の黄色、砕けた肋骨の白と、随分色彩豊かになった染まった右手を見ながら少しだけ考えたが、縁だの血だの、曲がりなりにもこの家に生まれた自分がそんなことを考えるなど、他の家の人間が知ったらどう思うのか。おそらく激怒するか軽蔑するか嘲笑するかのどれかだろうが、すぐにそんなことは全部どうでもいいことだと思い直した。
何にせよ結果死んだのは、これから死ぬのは父のほうだった。理由はこれ以上なく単純なものだ。言葉にすれば一言で済むほどに。
弱かった。自分よりも。それ以上でも以下でもなく、これだけが全てだった。
誰が言ったか思い出せないが息子はいつか父親を超えていくものらしい。
超えたというより踏みつけたというほうが適切だろうが、何であれそのいつかが今日このときだった。ただそれだけのことだった。どれだけ手応えなく、造作もなく、呆気ないものだとしても。
もはや動く気力もなく、小さく痙攣を繰り返すだけのものになど一顧だにせず、頭から消え失せていた。
そして自分のやるべきことを確認する。
正確には数えていないが、どう見ても数など勘定できる状態じゃないうえに、そもそも最初から数えるつもりなど皆無であったし、どうせ五体そろって顔の判別がついたところで、どれが誰がなど区別など
しかしこれで最後のはずだ。自分が殺さなければならないものは。
ならば自分のやるべきことは最後の一つのみ。そう定めたとき、微かに、だが確かに耳に届いた。
聞き間違えることなどありえない、この世でただひとつだけの笛の音を。
この酸鼻極まる場に満ちている、血と負と死にたっぷりと染まった空気に一切侵されることのない、春風に舞い散る花を思い起こさせる儚い雅さのなかに、滴る毒のような妖しく艶やめいた色を秘めた音。
人の心を変えずいられない、心をかき乱さずにはいられない、心のなかを引きずり出さずににいられない。
それが感動と呼ばれるものとなり心に深く刻まれようと、惑乱に陥り心を狂気に奔らせようと。
その音色は人を捕らえて逃がすことはなかった。まるで鍵も柵もない檻だ。囚われた者をいつまでもそこに居続けたい思わせる限り、決して逃れることはない。檻のなかに居続けるために自ら望んで虜であることを課していく。それを意識させることすらないままに。
それが自分には”しあわせ””と”やすらぎ”をもたらすこの音が誰のものかなど考えるまでもなく、誘われるように、引き寄せられるように一歩踏み出す。父以外には制限なく”力”を振るったせいで身体中にがたがきていたが、そんなことは問題ですらなかった。
唯一の家族の許へ。最も大切な存在の許へ。自分のやるべきことを果たすために。
途中何か弾力のある寝れ雑巾のようなものを踏んだが、そんなことには気付きもしなかった。
最愛の姉に会うために、昏闇から進み出た。――ただの一度も振り返らずに。
結局、根本的には何処に居てもても同じなのだろう。青い光にに身を浸しながら昏闇の底にいようとも、光の下に出ようとも。当然だった。何処にいたところで自分がそこにいるこには変わらないのだから。
人は大きく遺伝的要因と環境的要因の二つによって形作られるという。この両方の要因から都合の悪いものを削除した。それが人にとって大事なものであろうとも、失ってはならないものだとしても、無駄であれば、使えなければ、価値を認めなければ徹底的にそぎ落とした。そして残ったものこそ、有意義で、有用で、有益なものであると規定した。そうして間引いた結果できた人として何もなくなった場所。在るべきものがあったはずの場所。そこに在るはずないものを、ひとならざるものを詰め込んで、都合良よく便利に利用しよと作り出され結果、出来損なったのが自分だ。「欠陥のある壊れた失敗作」それが自分への評価であり、自分でもそうなのだろうと思っていた。自分は空っぽで殻だけで何もなく、何をしても変わらいのだと。
だが違った。自分にもあるのだ。
薄っぺらで、鈍くて、僅かでも。
意志が、感情が、心が、自分自身だけのものだという確信が。
ただ十全に機能しさえすればそれでよかった、ただ与えられた命令さえ果たせればそれでよかった。
使われるためだけの道具として生れたのだとしても。誰に使われるのか生まれる前から決めれていたとしても。
だからこそ、誰に使わせるのか、誰に仕えるのか、誰のために生きるのかを決めたのは他の誰でもなく、自分自身であることを。
姉のために自分の全てがあるとのだと選んだのではなく、自分の全ては姉のためにあると決めたのだと。自分の確信をもってそう言える。
こんな有様になり果て、ずっと忌避し続け、自分にはないと思い込んでいた心の底で、求め続けていた光の下で、漸く思い知ることができた。
自分がどれだけ醜く、卑しく、汚れた存在か、これ以上ないほど身につまされた。しかしそれ故に、自分にもそう判じ、そう感じ、そう思う、意志も感情も心もあることを教え、気付かせ、悟らせた。
もちろん月にそんな意図は微塵もないことはわかっている。それでも半分ほどしか思い出せなかった、姉の言葉の本当の意味の半分くらいは、何となく感じることができたような気がした。
夜空に浮かぶ穏やかに見えて残酷で冷酷で綺麗な月という名の鏡。例えどんなモノに対しても、分け隔てなく映し暴く慈悲も非情もない公平で公正な青い光。
それを見詰めながら、心の中でたっぷりの恨み言と、たったひとつの感謝を告げた。
僅かでも確かに自分というもにがあると確信できたことを。何があるのか知ろうとしなければ、何もないことと同じだということに。そして自分にとって最も大切な存在を、何故大切だと想うのか。次々浮かんでは消える思いを”ありがとう」”の一言に込めて。
つまるところ自分が何処にいるかなど些末なことでしかない。誰といるか、誰と共に在るかが一番大事なことなのだと。
そこに思い至ったとき、身体のなかで何かが切り替わるような、噛み合わさるような、動き始めるような熱を確かに感じた。
それは自分の生きる理由と意味を定めた瞬間。誰に与えられたのではなく、自分自身の確信をもって決めた瞬間だった。
茫洋とした目に意思の光が宿り、停止していた心が脈打ち、枯れ果てていた感情に火が灯る。
真っ直ぐ自分の向かうべき場所を見据え歩き出す。今までとは異なる、力強く確かな歩みで。
途中一度だけ振り向いた。当然何一つ変わることなく、月はいつもそこにある。しかしその眼差しにほんの少しだけ優しさを感じたのは、きっと気のせいだろう。
そして前に向き直り、歩みを再開する。一歩進むごとに、完全に乾いた血が身体中からこぼれ落ちた。
それは、まるで殻が剥がれ落ちていくように、はらはらと赤い花弁を散らしていた。
そして二度と振り向くことも立ち止まることもなく、血色の殻を後に残しながら、自分が共にあるべ者が待つところへと迷いなくただ前へと進んでいった。
この時得た確信が常に苦悩と葛藤をもたらすとしても、いつか必ず選択と決断のときが訪れるとしても。
自分が終わるその時まで。自分が終わったその後までも。
◇◇◇◇◇
「やあ、待ってたよ白。といっても時間もなにも決めはいないけどね」
この無駄に広い屋敷の中で、間取り的にも意味的にも一番奥にありながら、それなりの広さのある座敷の中心。自分の真正面に座り、こちらに背を向ける形で我が最愛の姉、虚空白はいた。
この座敷に来るのはあれ以来二度目だった。歩けば確実に足跡が残るほど堆積した埃や、隅に張られた蜘蛛の巣、そして畳といわず壁といわず柱といわずについた破壊の跡が、そのまま放置された無残な状態を見れば、今迄誰にも使われることはなかっただろうと容易に想像できる。自分だけでなく、それだけここも忌むべき場所になってしまったということか。
もう確認のしようもないが、この家の連中ならきっと近付きもしないはずだろう。
そんなことは歯牙にもかけず、全く気にもしない目の前の姉以外は。
開け放たれたままになっていた障子の前に立った時、笛の音は止んだ。丁度吹き終えたのか、待ち人が辿り着いたから演奏を止めたのかは分からない。
当の本人にとってさしたる理由などなかったのだろう、あっさりと唇から笛を離し、振り向きざまに声をかける。
最上級の絹糸よりもさらに細く繊細な、烏の濡れ羽色をした黒髪が振り向く動きに合わせてさらりと風に流れて広がる。
こちらを向いて真正面から自分を見つめる姉の美しさは何度みても色あせることはなかった。むしろ見るたびにその新た美しさに気付かさられつような気さえした。肌は陶磁器の滑らかさと乳製品の白さをもちながら、生ある者に証である頬の赤みが、溢れる生命力を示している。力強くも秀麗な眉の下で自分を見つめるのは、磨き抜かれ研ぎ澄まされた黒曜石の瞳。一筋綺麗に整った鼻梁に続くのは、先程まで笛の音を紡いでいた、ふっくらとした桜色の唇。全く無駄の無い絶妙な曲線で描かれた顎と輪郭。子供のように無邪気でありながら、どこか蠱惑的な響きが空気を濡らす、凛とした甘やかな声。
今なら解る、これほど美しい存在に愛情を注がれていたことがどれほど幸せなことだったか。そのおかげで愛というものがこの世にある知れたこの幸運を。そしてもしかたら自分も――いやこれ以上考える必要も意味もない。その直感に素直に従い、ただ姉の所作に意識を向けた。
自分が背にした青い月光を浴びて髪はより艶めき、肌もその白さと滑らかさを一層際立たている。立ち上がりこちらに向くため身を翻した拍子に舞った埃でさえ、姉の周りでは微細な雪のように月の光を受けて煌めいていた。
これが本当に光の下で生きるべき者の姿なのだろうと感嘆とともに理解した。それとも姉も自分と同じように、この光に映され暴かれるものがあるのだろうか。そんな益体もないこと考えていると姉から催促の声がかかる。
「そんなところに立ってないでこっちにおいで。それとも私に見とれちゃった?」
まさにその通りですとは言わず、促されるまま座敷にあがる。
その瞬間、異なる世界に足を踏み入れたと確かに感じた。
「結界か……」誰に言うでもない呟きに、姉は律儀に応えてくれた。
「そうだよ、白以外は絶対入れないように結界を張ったんだ。誰にも邪魔されたくないし、それにこんなに月が綺麗なのに煩いのは勘弁だしね」
確かにこの空間は、ここに来るまでに通ったどんな場所とも異なっていた。外から見た荒れ具合からは想像できない、想像とは真逆だった。埃っぽさやかび臭さなど微塵も感じられない、清澄で静謐な空気に満ちていた。それでも掃除など一切せず、敷居から座敷のなかまで毛氈を敷いているのが実に姉らしかった。
結界とは守るためのものではない。その本質は隔て、分けて、囲うこと。すなわち世界を切り取り独立させることだと以前姉が説明してくれたことを思い出す。ならばここは既に外界とは交わることのない、ひとつの、虚空白の世界だった。
そうでなくともここはある種の異界だった。姉がいるだけで、虚空白がそこに在るだけで世界は変わり、塗り替えられる。それだけの存在感を虚空白は有していた。
入るまでそこに結界があることすら気付かなかった。流石というべきか当然というべきか、どちらにせよこの結界がとんでもないものだというこは、この手の呪術関係には疎い自分でも理解できた。
青い光の塵を押しのけ近付づいて自分の姿を確認し、「あーもうこんなに汚して。折角の男前が台無しだよ」そんな若干年寄りじみたことを言いながら、着物が汚れることなど全く気にせずハンカチで顔をぬぐい、身体中にこびりついたものを取っていく。
和装でもハンカチを使うんだな、などとどうでもいい思考で意識を逸しつつ、自分のものとはまるで違う、姉の本物に優しさ身を任せ、されるがままになっていた。
「まあ、こんなものかな」姉はまだ不満そうだが自分としては十分以上だ。言う必要のないことだから言わないが、何より今迄血の匂いで麻痺した鼻が、身を清めたであろう清涼な香りを嗅いだ途端、嗅覚が戻ったのは当然であり、問題は解決したのだから何も問題はない。
「ありがとう姉さん」それでも感謝だけは言葉にして伝える。
「どういたしまして。その様子だとちゃんと全部片付けてきたみたいだね」自分としては当然のことをしただけだと思っていたが、こうして労われると予想以上に嬉しかった。
「ああ、この家にいるものは全部殺してきたよ、多分」正確には数えていないことを正直に白状する。姉に対して言わないことがあっても、嘘を吐くことはできない。
「そっか、でもいいや、どうせ屋敷からは出られないんだし。白がそう言うなら全員死んでるだろうし」
どうやらこの屋敷自体にも結界を張っていたようだ。何気なく口にしているがそれは結構すごいこではないだろうか。いや、この姉ならそのくらいは本当にどうというこはないのだろうし、姉が言うならこの屋敷からでられたものはいないだろう。なぜなら姉より優れた術者はこの家には居ないのだから。
「じゃあ最後の仕上げをしようか」
「ああ、そうしようか」否があるはずもなかった。今迄の全てはこのためにあったのだから。
そういえば姉から親父殿や他の連中について、細かなことは何も聞いてこなかった。だがそれも当然かと、すぐに思い直した。そんなどうでもいいことを気にする道理は全くない。
姉が半歩ほど間を開けた場所に立つ。同年代の平均より背が低い――絶対に小さいとは言わない――ため自然見下ろすよな形になる。
僅かにおとがいを上げ、目をゆっくりと閉じた。まるでくちづけを求めているようだが、自分が差し出したの唇では人より小さな右手だった。父を殺した右手だった。その右手を姉の頭に載せ、ゆっくりと撫でるように動かした。一切指に絡むことのないさらさらの髪の感触を堪能していたら、頭を振って早くしろと無言の抗議をされた。
名残惜しかったが姉の願いは絶対だ。撫でるのを止め、自分の右手でもすっぽりと収まる小さな頭の中心に手を置いた。
「それじゃあ姉さん、これからもよろしく」
「こちらこそ、これからはずっとよろしくね」
別れの挨拶でも、再会の約束でもない、いつもと何ら変わらぬ気軽な口調で、いつも通り言葉を交わす。
それでもそのとき見た姉の笑顔はこれまでで一番美しかった。これが本物の笑顔というものかと思い、絶対に忘れぬように心に強く刻み込んだ。
そして、姉の願いを叶えるために、これまでの最後に、これからの最初に、葛藤も逡巡もなく自分のやるべきことを、自分の意志で果たした。そこに後悔も悔恨もあるはずもなく、青い光のなか、ただ姉の願いを全て叶えることができた喜びだけを感じながら。
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