哲学的ゾンビって知ってる?

鳴尾

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哲学的ゾンビって知ってる?

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「ねえ、哲学的ゾンビって知ってる?」

ほたるの言葉に、緒里いおりはぴくりと眉を動かした。いつも楽観的で脳内お花畑な蛍の口からそんな言葉が飛び出すだなんて、と緒里は驚愕する。

「哲学的ゾンビ?」
「うん。」

緒里に聞かれてこくりと頷いた蛍の様子が、緒里にはいつもと少し違って見えた。

「知らないな。」

緒里は蛍の様子を伺いながら、しかしつとめて平常に見えるようにそう言う。
 蛍は緒里が知らないと言うことに少し驚き、でもまたすぐにさっきの顔つきに戻った。

「哲学的ゾンビっていうのはね、外見は人間で、はたから見たら何も変じゃないんだけど、人間の心は持ってない存在のことを言うんだって。」
「アンドロイドとかロボットとか、そういう話?」

緒里が聞くと、蛍は静かに首をふる。ふたつにくくられたおさげ髪が振られた首と一緒に揺れた。

「違うの。物質的には人間なのよ。身体のつくりも全く同じ。」

じゃあ哲学的ゾンビって何?と緒里は首を傾げる。蛍は何かを考えながら口を開く。

「例えばね、私が今、嬉しいって気持ちを緒里に伝えても、本当に私が嬉しいって思ってるかは緒里には分からないでしょ。私にも、多分分からない…?」

そこまで言って、蛍は困ったような顔をして黙り込んでしまった。
 つまるところ、蛍も詳しくは分かっていないのだろう。そう判断した緒里は空を見上げてさらりと髪をかきあげる。これは緒里が何かを考えるときの癖だ。
 緒里は少し考えて、蛍をじっと見る。

「蛍は、私が哲学的ゾンビかもしれないって思ったの?」

緒里の言葉に、蛍は慌てて首をふる。

「違う、違うよ。その…哲学的ゾンビは、自分もそうだって気づかないんだって。だからね…。」

そこまで言って口ごもった蛍を見て、緒里はようやく蛍が言わんとしていることに気がついた。

「蛍は、自分が哲学的ゾンビかもしれないって思ってるの?」

蛍がゆっくりと頷く。
 緒里はそのまま俯いてしまった蛍を見てため息をいた。

「そんなわけないじゃない。哲学的ゾンビなんていうのは人間不信の副産物よ。」

でも蛍は納得出来ないのか浮かない顔で地面を見つめている。

「緒里には私が哲学的ゾンビかどうかなんて分からないじゃない。」

俯く蛍の目元は真っ直ぐに切りそろえられた前髪のおかげで緒里には見えない。

「緒里に断言なんて出来ないよ。」

けれどもそうはっきりと言い切った蛍の心は、緒里にはどうにか出来ると思えなかった。
 実際今、緒里が蛍にどんな言葉をかけても、蛍には響かないだろう。

 緒里は少し考えると、肩にかけていた鞄から自身のスマートフォンを取り出した。スマートフォンの光が緒里の目に反射する。
 いくつかの動作をしたあと、緒里はスマートフォンを閉じて鞄にしまった。不思議そうに顔を上げた蛍と目を合わせた緒里は、ふっと笑みを浮かべる。

「気休めにしかならないかもしれないけど、ひとつ提案がある。」
「何?」
「蛍が哲学的ゾンビかどうか調べられる機械があるって言ったら、蛍は試したいと思う?」

突然の緒里の提案に、蛍は驚いた顔をして瞬きをする。

「嫌ならこの話はなかったことにするよ。」

緒里はそう言って蛍の反応を伺った。
 緒里がスマートフォンで見ていたのは緒里が所属する研究室の滞在記録。ここを見ると今研究室に人がいるかどうかがひと目でわかるのだ。
 蛍は緒里をちらと見て、すぐに目線を外す。蛍は哲学的ゾンビかどうかを知りたいという気持ちと、もしも哲学的ゾンビだったら、という恐怖で葛藤しているのだ。ふたりの間に長い静寂が訪れた。

 緒里は黙ったままの蛍を見る。

「どうする?」

しびれを切らした緒里にそう聞かれた蛍は少し唇を噛んで、ようやく結論を出した。

「行く、行きたい!私、知りたい。」

勢いよくそう言った蛍に、緒里は少し驚いたが、すぐに笑みを浮かべて蛍に手を差し出した。

「じゃあ、行こっか。」




「ここは?」

そう聞く蛍を無視して、緒里はパチンと部屋の明かりをつける。
 急に明るくなった室内に、蛍は驚いて目を閉じる。

「ようこそ、私の研究室ラボへ。」

しばらくして目が慣れた蛍の視界いっぱいに飛び込んできたのは、機械、機械、機械…。
 研究室の中は所狭しと並べられた無機質な鉄の塊で歩く道も存在しない。
 ぽかんと機械を見つめている蛍をよそに、緒里は慣れた様子で手前にある機械を乗り越えていく。
 研究室の奥でボロ布を被った何かに触れた緒里は、唖然としている蛍をちらりと見た。
 緒里が蛍を研究室へ連れて来たのはこれが初めて。蛍がこんな無機質な鉄塊てつくれの山を見て引いてしまわないかと、緒里の心は不安に揺れていたのだ。
 だが蛍の反応は緒里の想像とは違った。

「凄いね!」

蛍は目をキラキラと輝かせて研究室の中をきょろきょろと見渡している。

「緒里はここで毎日研究してるんだね。すごいや。」

緒里はその言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろす。

「ありがとう。」

そう言った緒里は切れ長の二重を細めてふわりと笑った。
 それから緒里は蛍を自分のいる研究室の一番奥まで連れて来た。

「蛍を呼んだ理由はこれ。」

そう言って緒里はボロ布をばっとはぎ取る。

「これ何?」

ボロ布の下から姿を見せた鋼鉄製の等身大カプセルを見て、蛍はぽろりと言葉をこぼす。

「これは中に入った人が哲学的ゾンビかどうかを調べることが出来る機械だよ。これを使えば人の心を覗くことが出来る。」

そう言って緒里はカプセルの下部をいじる。
 緒里がいくつかのボタンを触ると、カプセルはヴン…と音をたてて光りだした。

「ここに入ったら、私が哲学的ゾンビかどうか分かる?」

蛍は怪しく光るカプセルを見て不安そうに尋ねる。

「うん。」

緒里が頷くと、蛍は深呼吸をして覚悟を決めたように一歩前に出た。
 緒里は更にボタンをいじってカプセルの扉を開ける。蛍は息を飲んでカプセルの中に入った。

「閉めるよ。」

緒里はそれだけ言ってカプセルの扉を閉める。
 カプセルの中を覗くと、蛍はギュッと強く目を閉じて、祈るように両手を組んでいる。その体制のまま動かない蛍を見て、緒里は気を引き締め直した。

 カプセルの中で、蛍は緒里がカプセルの扉を開けるのを今か今かと待っていた。
 暗くて狭いカプセルの中は、蛍を不安にさせるには十分だった。目を開けたら暗闇で泣きそうになるから、蛍は目を開けられずにいた。
 カプセルが身体に及ぼす効果は蛍には分からない。しかもこれで哲学的ゾンビだって診断されてしまったら…それだけで蛍の不安は膨れ上がる。蛍は今にも泣き出しそうなのを、唇を噛んで必死に堪えていた。

 それから十分近くたって、ようやくカプセルが開かれた。

「お待たせ…っ!」

そう言いかけた緒里に、蛍は勢いよく抱きつく。
 緒里よりも頭ひとつ小さい蛍は緒里の胸の中にすっぽりと収まる。緒里は表情を緩ませて蛍を抱きしめた。

 しばらくして、落ち着いた様子の蛍に、緒里は一枚の紙を手渡す。

「結果が出たよ。」

A 4サイズのその紙を、蛍は食い入るように見つめた。
 様々なグラフや小難しい文字の羅列でびっしりと埋められたその紙は、いちばん上に大きな文字で、

〝哲学的ゾンビである確率 0.0%〟

と書かれている。

「それが結果だよ。大丈夫、蛍は哲学的ゾンビじゃない。」

その紙を最後まで読んで、緒里の言葉を聞いて、蛍は心の底から安心したようにほっと胸を撫で下ろした。

「よかった。」

蛍は大事そうに紙をしまうと、もう一度緒里を抱きしめる。

「本当にありがとう、緒里。」

緒里は満更でもなさそうに頷くと、蛍から離れてカプセルにボロ布を被せる。

「私、少しやることがあるんだけど、蛍は先に帰ってる?」
「うん。」

蛍は研究室へ入ってきたときとは別人のようにうきうきとスキップをしながら研究室の扉を開ける。

「じゃあまたね。」

そう言って、蛍は研究室を出ていった。

 ひとり研究室に残った緒里は、研究室の扉を閉めると笑顔を消した。
 そばの机に置かれていたノートパソコンを開き、グラフや文字の羅列が並んだプレビュー画面をじっと見つめる。

〝哲学的ゾンビである確率 0.0%〟

そう大きく書かれた画面を消し、データを削除して、緒里はそっとパソコンを閉じた。

「まさか蛍があんなことを言い出すなんてね。」

緒里の独り言はラボの中に消える。

「替え時かな。」

緒里はボロ布の隣に隠れるように置かれていた白い箱に触れる。
 箱は緒里が触れると淡い光を出して輝き出す。タブレットサイズのモニターを浮かび上がらせた白い箱に、緒里は優しく触れる。

「出ておいで。」

そう言ってモニターを触ると、緒里は白い箱から距離をとる。白い箱は緒里に共鳴するかのように一度強く光り、光を失う。
 次の瞬間、白い箱はひとりでにスっと開かれた。
 箱の中から出てきた背の低いおさげ髪の少女に、緒里は優しく笑いかける。

「初めまして、蛍。」
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