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 月曜日の講堂は、憂鬱な雰囲気に包まれていた。
 あちらこちらの席から「最悪」とか「全然分からないんだけど」といった悲鳴に近い声が上がっている。そんな中で光葉も負けないくらい強い負の感情を抱いていた。
「……」
 隣の席が空席だった。あと三十秒で八時半だ。講師は既に教壇に立っていて、試問の説明スライドを準備している。
「なんで来ないの? メッセージも既読にもならないし」
 手に持ったままのスマホをタンタンッと操作し、スタンプを送信した。これで五通目だ。だが、返信どころか、既読にもならない。
 ついに、始業の鐘が鳴った。
「では、タブレット以外の物を全て片付けてください。スマホはマナーモードにして鞄へ。これより九十分間の記述式試問を開始します」
 講師が試問の開始を宣言した。講堂の扉が閉められ、場が緊張に包まれる。
 光葉にとって試問自体は問題ではなかった。だが現れない隆司のせいで、心中穏やかでは居られなかった。昼休みになって部屋を訪ねてみたが返事はなく、スマホのメッセージも既読になることはなかった。
「……一体、なにが……」
 連絡が取れないことがこんなに不安なこととは――。
 許される時間はずっとスマホを握り締めていたが、通知が来ることはなく、隆司不在のまま、試問と午後の講義が終わった。
 出されたレポート課題に取り組むワークタイム中、光葉は速記で午後の講義のまとめを作り、写真に撮ってアプリで送ったが、やはり、反応はなかった。
「……どうしたんだろう」
 いつもよりも遅い足取りで自室に戻り、投げやりにメガネを放った。体が酷く重かった。
「既読スルーでもいいから、反応が欲しいよ……」
 次、目を開けた時に返事があることを期待しながら全裸で意識を手放した。
 どれくらい時間が経っただろう。妙な臭いで目が覚めた。
「?」
 部屋が真っ暗だ。おかしい。照明は部屋に入れば自動で点くし、消した覚えはない。それに、空気が変だった。
「なんか、熱い?」
 そう思った瞬間、ゲホゲホッと咳き込んだ。煙だ。部屋に煙が充満していた。
「え? なに? ケホッ! 火事?」
 外が騒がしかった。どこかで、火災報知器が鳴っている。
 一気に恐怖心が沸き起こる。
 まずい!
 起き上がろうとしたが、激しい目眩に襲われた。
「え……な、んで……」
 平衡感覚がおかしかった。真っ暗な中で世界がグルグルと回っているような錯覚に陥ってしまう。しかもキーンという耳鳴りがして、徐々に音が聞こえなくなっていくではないか。
「うそ……」
 気持ちが焦るのに体の自由が利かない。変な汗が流れるばかりだ。
 思えば、実家を出て以降、ゼリー飲料ばかり口にして、ろくな食事を摂っていなかった。目眩や耳鳴りはそのせいだろう。
 煙がどんどん濃くなってくる。
 這ってでも逃げないと! そう思って両手足を動かそうとするが、体がいうことをきかず、ベッドから落ちてしまった。床が熱い。下の階が燃えているのだろうか。
「うそ……、このまま、僕、火に……」
 その先は想像したくもない。
 甲高い耳鳴りが大きくなっていくのに反比例して意識が遠退いていく。状況を正確に把握できないのに、気を失っていくことだけが鮮明に分かるのが怖かった。
(うそ! うそ! 誰か!)
 消えゆく意識の中で光葉の脳裏を過去の記憶が走り始めた。
(そんな! これ、走馬燈?)
 必死に勉強した記憶。
 高校で成績が落ちてしまった時に、波打ち際で長く立ち尽くした記憶。
 大学の志望校に合格した記憶。
 英語の論文を手に、サークル活動ではしゃぐ同級生を遠くから見詰めていた記憶。
 就活の記憶。
 一次合格、二次合格……と、結果のメールを待っていた時の記憶。
 そして、神統商事に入社し、彼と出会った記憶――。
「……じ。りゅう……じ……」
 記憶の中で、ニヤッと口角を歪める笑みが見えた。そちらへ手を伸ばそうとするのに体が動かず、暗闇が迫って来る。
「いや……だ。りゅう、じ……隆司……」
 幻想が煙に包まれた。
 空気が熱い。
 吸うのは煙ばかりで息ができない。
 その苦しさも曖昧なものに変わり始めた時だった。
「光葉!」
 薄れかけた意識が一気に覚醒するほどの大声が聞こえた。
 直後、ドンッとなにかにぶつかる衝撃を感じた。
「光葉! 光葉! しっかりしろ、光葉!」
 骨が折れそうなほど強く抱き締められた。同時に力強い声で何度も呼ばれる。
「目を開けろ! 俺だ、隆司だ!」
 ビリビリッと空気が震えるほどの声だった。
「りゅ……じ?」
 抱き締められた痛みで目を開き、掠れた喉でなんとか答えた。
「逃げるぞ!」
 体が揺れた。抱き上げられたが、あまりに煙が濃くて息ができない。
「ゲホッ! ゲホゲホッ!」
 思いっきり煙を吸ってしまって激しく咳き込んだ。
「これで口元を覆うんだ! 大丈夫だから!」
 ビリッと袋を破る音が聞こえた。冷たい濡れタオルを握らされる。隆司はどこからかレスキュータオルを取ってきていた。言われたとおりにしていると、毛布で全身をくるまれた。
「いくぞ!」
 抱き上げられ、あっという間に部屋を出た。
 廊下にも煙が充満していて何も見えないのに、隆司は迷わず走って行く。まるで全てが見えているかのようだ。光葉はただ、ギュッと隆司にしがみついていた。
「!」
 突然、隆司が立ち止まった。
「?」
「防火シャッターか」
「え……」
 隆司の呟きに光葉は言葉を飲み込んだ。目の前に重々しい防火シャッターが立ち塞がっていた。そう。それは「閉じ込められた」ことを意味していた。
 煙は濃くなる一方だ。拓野も咳をし始めていた。
 前は防火シャッター、後ろは煙で、下の階は火の海――。
 しかも、ここは三階。飛び降りることなど不可能だ。
 絶体絶命――。光葉は隆司の首にしがみついた。
 その時だった。
「大丈夫だ。行こう」
「え?」
 フッと口元を緩めた隆司がクルリと向きを変えた。そして、再び猛然と走り出した。光葉を抱いているというのに物凄い速さだ。真っ暗な中をまるで目標物が見えているかのように駆けて行く。
「……九、十、十一、十二……」
 隆司は数を数えていた。歩数を数えているのだ。曲がっては一から数え直し、また曲がって数え直して……。それを繰り返してから、バンッとドアを叩いた。
「よし!」
 辿り着いたのは物置部屋だった。火元から離れていて煙が少なく、息が楽だった。
「ちょっと待っていてくれ」
 優しく言った隆司に降ろされた。壁にもたれかかるようにして座っていると、ガタガタと音がした。隆司が何かを探しているのだ。少ししてパッと明かりが点いた。懐中電灯だ。
「ここは?」
 掠れた声で光葉が尋ねると、隆司が顔を近付けてきてニッと笑った。
「別棟の西の端。脱出用シューターがあるんだ。すぐ準備するから懐中電灯を持っていてくれ」
 言われた通りにしていると、隆司が奥のドアを押し開けてベランダに出て行った。
「……」
 懐中電灯の明かりの中、隆司がベランダにあった大きな箱を開けて中身を広げ始めた。壁伝いにゆっくりと歩いて隆司に近付く。ベランダに出た時、脱出用シューターの準備が整った。
「よし、いいぞ! 光葉、行け!」
「!」
 いきなり「行け」と言われて「はい、行きます」と言える者がどれくらい居るだろう。ここは三階。暗い外へ向かって垂直に落ちている白い布袋の中へ「入れ」と言われても恐怖心が先立ってしまう。
「俺を信じろ。大丈夫だ」
 隆司がもう一度「信じろ」と言って力強く頷いた。同時に、コツンと額を触れ合わせ両頬を優しく撫でてくれる。
「大丈夫だから。な?」
「……」
 何度も「大丈夫」と言われ、震えながらゆっくりと頷いた。
 怖い。でも、煙や火に巻かれるのはごめんだ。懐中電灯を隆司に渡し、ゆっくりと脱出用シューターに入った。
「絶対、大丈夫。ゆっくりでいい。足から入れ。ほら、中に紐があるだろう? そこを持って……、少し降りれば、あとはゆっくり回転して勝手に降りていくから。さぁ!」
 隆司の冷静で力強い声に従い、そっと前に出た。シューターの中で言われた通りに紐を握り、そっと足を降ろす。
「!」
 ギュッと目を閉じていたが、隆司の言葉は本当だった。体はゆっくりと螺旋を描いて下がっていき、やがて冷たいコンクリートに足が着いた。
「大丈夫か、光葉!」
 上から声が聞こえた。隆司が懐中電灯で照らしてくる。大丈夫! と答えたかったが、声が出ない。一生懸命手を振って応えた。
 すぐに隆司が降りてきた。懐中電灯を口に咥えた隆司は、地に足が着くとすぐに光葉を抱き上げ、駆けだした。
「救急車を呼べ! 君! 怪我人を頼む!」
 煙が届かない所で足を止めた隆司はすぐに声を張って女性スタッフを呼び止めた。
「もう、大丈夫だ」
 女性スタッフが駆け寄ってくるまでの間、隆司はずっと抱き締めてくれていた。優しく頭を撫でられ「頑張ったな」と言われた途端、安堵で涙がパタパタと溢れ出た。
 助かったというのに、隆司は休むことなく次の行動に出た。駆け寄って来たスタッフに「入浴中だった」という言葉を添えて光葉を託すと、あっという間に去って行った。
「外へ出た者から部屋番号を聞き出せ! スマホの録音機能を使って記録するんだ! 全員の無事を確認するぞ!」
 隆司の声が響いた。
「火元は二階だ! 手伝え! そこにある消火栓を使うぞ!」
 どうやら初期消火を試みるらしい。
 発信器を押せ!
 ポンプを起動だ!
 ホースを伸ばせ!
 よし! 放水始め!
 騒々しいだけだった現場に隆司の力強い指示が響く。応答する声が次々と上がり、鎮火と救助という統制のとれた動きが生まれていくではないか。
「すご……、りゅうじ……」
 二人で見た映画が思い出された。窮地に陥るものの力強く立ち上がり、皆の力を結集して成功を掴む姿は、正にヒーローだ。
「かっこ……いい……」
 強い安堵と共に胸に湧き上がってくる熱いものを感じながら、意識が遠退いて行くのに抗えず光葉は救急搬送されていくのだった。
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