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4 恐怖の対象、アルファの降臨
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双子を抱えた自分には悲しみに暮れる暇などなかった。
病院に居たあの瞬間も双子の世話をしていた。そんな思いが脳裏をよぎった。
ゆっくりと意識が浮上していくのが分かる。
こんなに長く記憶を辿ったのは随分と久しぶりだ。それくらい忙しかった、と今更ながらに思った。
「夢……」
目が醒めた。やけにはっきりとした夢だった。
「……」
視界がぼやけている。涙をそっと指先で拭うと、控えめに光るシャンデリアが見えた。
「……?」
知らない部屋だった。
落ち着いたベージュの壁には重厚な額縁に縁取られた絵画が飾られていて、その横に並ぶのはアラベスク柄と鮮やかなローズの色合いが目を惹くジャガードカーテンだ。南月は格調高く演出された部屋に居た。
「ここは……?」
そっと身を起こしてから、ハッとした。
「早紀、早保!」
慌てて愛娘達を探す。二人は自分の左右に横たわり、すやすやと愛らしい寝息を立てていた。
「早紀……、早保……」
ホッとしたのと同時、脳が覚醒した。
最後の記憶は保育園だ。二人を抱っこし、駐車場に向かおうとした所までは覚えている。その次の記憶が今だ。間がスッポリと抜け落ちていた。
なにがどうなったのか。南月が改めて周囲を見た時だった。
「あら! 起きたのね! 社長! 気が付きましたよ!」
少し離れた場所に居た女性が言った。丸い大きなレンズのメガネが特徴的で、白髪が目立つ女性だった。松葉杖で体を支えていて、ギブスを巻いた右足を庇いながら体をこちらに向ける。
女性の声を聞き、向こう側に立っていた男性が振り返った。
「!」
目が合った瞬間、南月の全身の毛が逆立った。寒気のような震えが背中を走る。
アルファだ。
スラリと背が高く、他に類を見ないほど完璧にスーツを着こなし、誰もが羨む容姿と均整の取れた体躯が絶対的な男の美を体現している。特筆すべきは、全身から溢れる圧倒的な存在感と滲み出る風格だ。聡明さと明哲さ、そして確固たる自信に包まれている。ただ、ショートヘアの前髪を大胆にかき上げているので、ほどよく雰囲気が砕けているように見えた。
誰もが惚れ惚れとするアルファの姿に目を奪われたものの、南月は震えを抑えられなかった。
怖い――。
無意識のうちに両手が愛娘達を抱き寄せていた。
「……そうだな。あぁ、頼む」
社長と呼ばれた男性は、通話を終えると松葉杖の女性が運ぼうとしていたトレイを取り、南月のすぐ側までやってきた。
「起きたら飲むように、と医者が言っていた」
トレイには未開封のミネラルウォーターと複数の錠剤が乗せられていた。薬の説明書が添えられている。栄養剤のようだ。
「知らない男に突然『飲め』って言われても怖いわよね。初めまして、私は永江奈央子。天黒不動産コンサルティングオフィスの者で、こちらが社長の天黒響牙よ」
「は、初めまして……」
松葉杖をつく永江が明るく自己紹介してくれた。南月の手元にトレイを置いた天黒は、壁際にあった椅子を持って来た。永江が礼を言って腰を下ろす。
「ここは坂ノ下総合病院の特別室。あなた、双子ちゃんを抱っこしたまま車道に向かって倒れそうになったの覚えてる?」
「車道に向かって?」
「社長と私、保育園近くの土地を見に行ってたの。そしたら、双子を抱っこした上に、大量の荷物を持ったあなたが危なっかしい足取りで歩いて来るじゃない? しかも、突然、車道に向かって倒れるもんだから心臓が止まりそうだったわ。覚えてる?」
「……保育園を出て、駐車場に向かって歩いていたことは覚えています」
「間一髪、社長があなたを抱き留めたんだけど、呼びかけても全く反応がなかったの。だから、救急車を呼んでここに来たってわけ」
「そ、それは! ご迷惑をおかけしました!」
「無事でなによりよ。GWが終わって季節外れの寒い日があったりしたし、体を大事にね」
笑顔を見せる永江に代わり、今度は天黒が口を開いた。
「ひと通り検査をして異常は見付からなかった。ただ、睡眠不足で栄養失調な上に、ストレス過多。いわゆる極度の疲労状態と見受けられる。半月は療養するのが望ましいというのが医者の見立てだ」
「は、半月?」
「あぁ。十分な睡眠と栄養価の高い食事が必須だそうだ」
永江の向こう側に立つ天黒の言葉には有無を言わせぬ強さがあった。とにかく「休め」という圧が伝わってくる。
「とりあえず薬飲んで」
永江の言葉に促され、南月は恐る恐る錠剤を口にした。ミネラルウォーターで喉へ流す。冷たい水が喉を潤す感覚で、ようやく喉が渇いていたことに気付いた。
ペットボトルの半分ほどを飲み終え、ふぅ、と溜め息を吐いてから双子を見た。ぷくりと膨らんだ頬が愛らしい。少し、ほっとできた時だった。
「!」
スマホが鳴った。呼び出し音で職場からだと分かる。慌てて音がする方を見た。ベッドサイドのかごにバッグがあった。
「すみません!」
早紀を起こさないように気を付けながらベッドを降りようとしたときだった。
「待て」
天黒に止められた。
「え?」
「出なくていい」
「で、でも……職場からなんです」
「今は午後十時を過ぎたところだ。こんな時間に電話を受けるような仕事をしているのか?」
「そ、それは……」
部屋を見回して時計を探した。確かに今は就業時間外だ。それにそもそも今日は早退している。言われてみれば不自然だ。二十コール以上鳴ってから呼出音が止まった。永江と天黒が顔を見合わせていた。
「ねぇ、稲美さん。ちょっといい?」
「え? は、はい」
「稲美さんよね? ごめんね。救急車を呼んだ時にバッグの中を見させてもらったの」
永江の声が真面目なものになった。その変化に南月の体が緊張する。
「夕方以降、しつこいくらい何度も電話がかかってきていたから、どこからの電話なのか調べさせてもらったの」
「し、調べた?」
「ちょっと、番号に心当たりがあってね」
「心当たり……ですか?」
言われている意味が分からない。
「私達の親会社『天黒不動産』は市内に複数のビルを所有してて、企業にオフィスとして貸し出しているのよ。でもね、最近、よからぬ噂があってね」
「噂?」
「天黒不動産と賃貸借契約を結んだ企業がオフィスを無断で又貸しして、そこを借りた企業が法に触れる商売をしてる。そんな情報があって調査してるの。で、その問題の企業の電話番号がね……」
「僕に何度もかけてきている……職場の番号ってこと、ですか?」
永江がコクンと頷いた。
「稲美さん、あなた、職場で理不尽な目に遭わされてない?」
南月の肩がビクッと震えた。冷や汗が吹き出してくる。天黒がそれを見逃すはずもなく、永江とうなずき合っていた。
「子ども連れて倒れちゃうし、医者に休めと言われる状態だし、ウチがマークしている怪しい企業からしつこく電話がかかってるし、放っておけなくて……」
永江が言葉を濁した。なにをどう話すか迷っている様子だ。そんな永江を見ていた天黒が視線を合わせてきた。
「今日付で退職届を送付済みだ。あの会社には二度と行かなくていい。そして君は、あと約二時間で天黒不動産コンサルティングオフィスの社員になる。半月の病休の後、勤務開始だ」
「え?」
「必要な手続きは全て弁護士がやっている。ここで療養し、体調を整えてから出社してくれ」
「あ、え……、えぇぇぇぇ?」
「君が住んでいた部屋の退去手続きも済ませた。引っ越し先はウチで借り上げているマンションだ。引っ越しの手配も全て終わっているから安心して休め」
「あ、安心してって……」
あまりのことに言葉が続かない。
唖然とした表情で天黒を見上げていると、永江が大仰に溜め息を吐き、唇を尖らせた。
「社長! 順を追ってひとつずつ説明しないとだめだっていつも言ってるでしょう! 矢継ぎ早に言うと人は混乱するの!」
「いや……しかし……」
「社長の普通は一般人の十倍は情報量があるの。もう! 気を付けてください!」
永江に叱られ、天黒が視線を外した。暫く視線を泳がせていたが「すまなかった」と小声で謝っている。その様子がさらに南月を混乱させた。
見目麗しく、知的能力も身体能力も高く、なにひとつ欠けたところが無い稀少な優越種のアルファが、凡人に一蹴され、項垂れている。こんなことがあるのだろうか。
「ごめんなさいね。なんだか謝ってばっかり! とりあえず、なにか食べながらゆっくり話をしましょう。私、お腹空いたわ」
「そうだな、寿司でも頼むか」
「社長、ここは病院。出前は無理ですよ」
「では、買いに行ってくる」
「お願いしま~す」
とんとん拍子に話が進み、天黒が部屋から出て行った。
南月はその背中を呆然と見送ることしかできなかった。
病院に居たあの瞬間も双子の世話をしていた。そんな思いが脳裏をよぎった。
ゆっくりと意識が浮上していくのが分かる。
こんなに長く記憶を辿ったのは随分と久しぶりだ。それくらい忙しかった、と今更ながらに思った。
「夢……」
目が醒めた。やけにはっきりとした夢だった。
「……」
視界がぼやけている。涙をそっと指先で拭うと、控えめに光るシャンデリアが見えた。
「……?」
知らない部屋だった。
落ち着いたベージュの壁には重厚な額縁に縁取られた絵画が飾られていて、その横に並ぶのはアラベスク柄と鮮やかなローズの色合いが目を惹くジャガードカーテンだ。南月は格調高く演出された部屋に居た。
「ここは……?」
そっと身を起こしてから、ハッとした。
「早紀、早保!」
慌てて愛娘達を探す。二人は自分の左右に横たわり、すやすやと愛らしい寝息を立てていた。
「早紀……、早保……」
ホッとしたのと同時、脳が覚醒した。
最後の記憶は保育園だ。二人を抱っこし、駐車場に向かおうとした所までは覚えている。その次の記憶が今だ。間がスッポリと抜け落ちていた。
なにがどうなったのか。南月が改めて周囲を見た時だった。
「あら! 起きたのね! 社長! 気が付きましたよ!」
少し離れた場所に居た女性が言った。丸い大きなレンズのメガネが特徴的で、白髪が目立つ女性だった。松葉杖で体を支えていて、ギブスを巻いた右足を庇いながら体をこちらに向ける。
女性の声を聞き、向こう側に立っていた男性が振り返った。
「!」
目が合った瞬間、南月の全身の毛が逆立った。寒気のような震えが背中を走る。
アルファだ。
スラリと背が高く、他に類を見ないほど完璧にスーツを着こなし、誰もが羨む容姿と均整の取れた体躯が絶対的な男の美を体現している。特筆すべきは、全身から溢れる圧倒的な存在感と滲み出る風格だ。聡明さと明哲さ、そして確固たる自信に包まれている。ただ、ショートヘアの前髪を大胆にかき上げているので、ほどよく雰囲気が砕けているように見えた。
誰もが惚れ惚れとするアルファの姿に目を奪われたものの、南月は震えを抑えられなかった。
怖い――。
無意識のうちに両手が愛娘達を抱き寄せていた。
「……そうだな。あぁ、頼む」
社長と呼ばれた男性は、通話を終えると松葉杖の女性が運ぼうとしていたトレイを取り、南月のすぐ側までやってきた。
「起きたら飲むように、と医者が言っていた」
トレイには未開封のミネラルウォーターと複数の錠剤が乗せられていた。薬の説明書が添えられている。栄養剤のようだ。
「知らない男に突然『飲め』って言われても怖いわよね。初めまして、私は永江奈央子。天黒不動産コンサルティングオフィスの者で、こちらが社長の天黒響牙よ」
「は、初めまして……」
松葉杖をつく永江が明るく自己紹介してくれた。南月の手元にトレイを置いた天黒は、壁際にあった椅子を持って来た。永江が礼を言って腰を下ろす。
「ここは坂ノ下総合病院の特別室。あなた、双子ちゃんを抱っこしたまま車道に向かって倒れそうになったの覚えてる?」
「車道に向かって?」
「社長と私、保育園近くの土地を見に行ってたの。そしたら、双子を抱っこした上に、大量の荷物を持ったあなたが危なっかしい足取りで歩いて来るじゃない? しかも、突然、車道に向かって倒れるもんだから心臓が止まりそうだったわ。覚えてる?」
「……保育園を出て、駐車場に向かって歩いていたことは覚えています」
「間一髪、社長があなたを抱き留めたんだけど、呼びかけても全く反応がなかったの。だから、救急車を呼んでここに来たってわけ」
「そ、それは! ご迷惑をおかけしました!」
「無事でなによりよ。GWが終わって季節外れの寒い日があったりしたし、体を大事にね」
笑顔を見せる永江に代わり、今度は天黒が口を開いた。
「ひと通り検査をして異常は見付からなかった。ただ、睡眠不足で栄養失調な上に、ストレス過多。いわゆる極度の疲労状態と見受けられる。半月は療養するのが望ましいというのが医者の見立てだ」
「は、半月?」
「あぁ。十分な睡眠と栄養価の高い食事が必須だそうだ」
永江の向こう側に立つ天黒の言葉には有無を言わせぬ強さがあった。とにかく「休め」という圧が伝わってくる。
「とりあえず薬飲んで」
永江の言葉に促され、南月は恐る恐る錠剤を口にした。ミネラルウォーターで喉へ流す。冷たい水が喉を潤す感覚で、ようやく喉が渇いていたことに気付いた。
ペットボトルの半分ほどを飲み終え、ふぅ、と溜め息を吐いてから双子を見た。ぷくりと膨らんだ頬が愛らしい。少し、ほっとできた時だった。
「!」
スマホが鳴った。呼び出し音で職場からだと分かる。慌てて音がする方を見た。ベッドサイドのかごにバッグがあった。
「すみません!」
早紀を起こさないように気を付けながらベッドを降りようとしたときだった。
「待て」
天黒に止められた。
「え?」
「出なくていい」
「で、でも……職場からなんです」
「今は午後十時を過ぎたところだ。こんな時間に電話を受けるような仕事をしているのか?」
「そ、それは……」
部屋を見回して時計を探した。確かに今は就業時間外だ。それにそもそも今日は早退している。言われてみれば不自然だ。二十コール以上鳴ってから呼出音が止まった。永江と天黒が顔を見合わせていた。
「ねぇ、稲美さん。ちょっといい?」
「え? は、はい」
「稲美さんよね? ごめんね。救急車を呼んだ時にバッグの中を見させてもらったの」
永江の声が真面目なものになった。その変化に南月の体が緊張する。
「夕方以降、しつこいくらい何度も電話がかかってきていたから、どこからの電話なのか調べさせてもらったの」
「し、調べた?」
「ちょっと、番号に心当たりがあってね」
「心当たり……ですか?」
言われている意味が分からない。
「私達の親会社『天黒不動産』は市内に複数のビルを所有してて、企業にオフィスとして貸し出しているのよ。でもね、最近、よからぬ噂があってね」
「噂?」
「天黒不動産と賃貸借契約を結んだ企業がオフィスを無断で又貸しして、そこを借りた企業が法に触れる商売をしてる。そんな情報があって調査してるの。で、その問題の企業の電話番号がね……」
「僕に何度もかけてきている……職場の番号ってこと、ですか?」
永江がコクンと頷いた。
「稲美さん、あなた、職場で理不尽な目に遭わされてない?」
南月の肩がビクッと震えた。冷や汗が吹き出してくる。天黒がそれを見逃すはずもなく、永江とうなずき合っていた。
「子ども連れて倒れちゃうし、医者に休めと言われる状態だし、ウチがマークしている怪しい企業からしつこく電話がかかってるし、放っておけなくて……」
永江が言葉を濁した。なにをどう話すか迷っている様子だ。そんな永江を見ていた天黒が視線を合わせてきた。
「今日付で退職届を送付済みだ。あの会社には二度と行かなくていい。そして君は、あと約二時間で天黒不動産コンサルティングオフィスの社員になる。半月の病休の後、勤務開始だ」
「え?」
「必要な手続きは全て弁護士がやっている。ここで療養し、体調を整えてから出社してくれ」
「あ、え……、えぇぇぇぇ?」
「君が住んでいた部屋の退去手続きも済ませた。引っ越し先はウチで借り上げているマンションだ。引っ越しの手配も全て終わっているから安心して休め」
「あ、安心してって……」
あまりのことに言葉が続かない。
唖然とした表情で天黒を見上げていると、永江が大仰に溜め息を吐き、唇を尖らせた。
「社長! 順を追ってひとつずつ説明しないとだめだっていつも言ってるでしょう! 矢継ぎ早に言うと人は混乱するの!」
「いや……しかし……」
「社長の普通は一般人の十倍は情報量があるの。もう! 気を付けてください!」
永江に叱られ、天黒が視線を外した。暫く視線を泳がせていたが「すまなかった」と小声で謝っている。その様子がさらに南月を混乱させた。
見目麗しく、知的能力も身体能力も高く、なにひとつ欠けたところが無い稀少な優越種のアルファが、凡人に一蹴され、項垂れている。こんなことがあるのだろうか。
「ごめんなさいね。なんだか謝ってばっかり! とりあえず、なにか食べながらゆっくり話をしましょう。私、お腹空いたわ」
「そうだな、寿司でも頼むか」
「社長、ここは病院。出前は無理ですよ」
「では、買いに行ってくる」
「お願いしま~す」
とんとん拍子に話が進み、天黒が部屋から出て行った。
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