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第五章
第35話 雪原の白馬
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次の日も、その次の日も、エルウィンは起きてこなかった。
お城の中の雰囲気が、ちょっとナーバスになっていた。ひょっとして、もう起きないのではないか? そんな不安が、みんなの頭をよぎる。
やっと姿をあらわしたのは、二九日の朝。
ふらりとエルウィンが、使用人の食堂にやってきた。みんなが立とうとしたが、それを制してエルウィンが言う。
「予想以上に、眠ってしまったようだ。みんな、仕事は新年まで休んでくれていい。休暇を取ってもいい」
食堂内が、ざわめきたった。
「城に残る者は、すまないが僕の話し相手になってくれ。なるべく、多くの思い出を残したい」
そういうことね。まわりも安心して、すわりなおす。エルウィンが、モリーの横にすわった。
「約束が遅くなった。まだ牛は見たいかい?」
「エルウィン、それはもう」
わたしの言葉を、エルウィンは首をふって止めた。
「僕が、やりたいことなんだ」
そう言われると、返す言葉はない。残された数日、彼のやりたいようにしてほしい。
もうひとつ、モリーに聞こえないように、そっと耳打ちされた。
「三一日の朝に出立してくれ。別れは言いたくない」
わたしは精いっぱいの笑顔を作って、うなずいた。楽しくいこう。
朝食が終わると、二十人ほどの一団で牛舎にむかった。城主から休暇宣言を受けても、帰る者は、ひとりもいなかった。車で行けばすぐだが、みんなで歩いた。
エルウィンは、まわりの人と楽しそうに談笑している。やっぱり、お城は城主がいないと楽しくない。あと二日。二日しかない。なにができるわけでもなく、なにがしたいわけでもなかったが、わたしは、彼を目に焼きつけようと思った。
雑木林を抜けると、想像以上の広さだった。雪が積もり一面真っ白。なだらかな丘が、山すそまで続いている。雪のあいだに木のフェンスや小路が見えた。こんな広大な牧草地なら、昔は何頭の牛がいたんだろう。
広々とした雪原の中央に、ぽつんと石造りの小屋が、三棟ほど建っている。小屋の前には柵で囲った場所があり、雪がどけられていた。鶏が数匹、走りまわっている。
「ポッポさんだー!」
モリーが、かけだす。
「モリー、すべるよ、気をつけて!」
ジェームスが追いかけていった。ここ数日、モリーの面倒を見さされて、すっかりお兄ちゃんね。
石造りの牛舎の中には、三頭の牛がいた。
「お、大きい」
思わず感想が口からでる。目の前で見る牛は、思ったより大きい。しかも、その大きな体は意外に動く。いつも寝ていると思っていたら、大間違いだった。
なでていいと言われたが、怖い。尻込みしているのは、わたしとモリーだけ。わたしが怖がると、モリーに伝染してしまう。平気な顔をしてさわったが、べろんと手をなめられた時にはもう!
「か、かわいいわね」
悲鳴をこらえ、ひきつった笑顔でモリーに言った。
モリーも最初は怖がっていたが、すぐになれて平気でさわる。顔をなめられて悲鳴もあげないのは、わたしより心が強い。でも今日は、もう、あなたのほっぺにキスしない。
最後に乳搾りまで体験させてもらった。これで新鮮な牛乳と卵が手に入った。ドロシーが夕方からくると言っていたから、パイ包みの材料にちょうどいい。
「ぜひ、となりへ」
庭師長がそう言うので、牛舎のとなりにある小さな建物に入った。入ってすぐに聞こえたのが、粗い鼻息、ひずめの音。
小さな建物にいたのは、真っ白な馬だった。たてがみと尻尾の毛は、やや茶色が混ざっている。それがまた白い馬体をいっそう白く見せた。エルウィンがふり返って、わたしに言う。
「ここの人は、真っ白な馬が好きなんだ。ふしぎと昔からね」
いや、白馬しかありえない。エルウィンは自分が誰なのか、わかっているのだろうか。となりにいた庭師長と目が合うと、庭師長も肩をすくめた。
「馬にさわるのは久しぶりだな」
エルウィンは、なれた手つきで馬をなでた。
「少し乗ってもいいか?」
庭師長は、馬具をならべた棚にむかった。いくつかの鞍を吟味しはじめる。
「この大きさだと、ふたり乗れるだろう。ジャニス?」
わたしは即座に、ことわった。
「そうか、不安定なのが苦手だったな。誰か、一緒に乗らないか?」
みんなが顔を引きつらせ、あとずさる。当然だった。彼と白馬に乗る? そんな厚顔無恥は、ここにはいない。となりにメイドのビバリーがいたので、小声で言った。
「エルウィンは自分が誰なのか、わかってないみたいね」
若きメイドは、血の気が引いた顔で、うなずいた。
「あれに乗るぐらいなら、はだかで栗毛の馬に乗ったほうが、恥ずかしくありません」
「誰か乗らないか? 腕前に信用ないだろうが、これでも昔は毎日」
彼は、まだ誘っているが、そういう問題ではないのだ。
「のるのるのるー!」
その声をあげたのは、この場で、ただひとり秘密を知らない人間、モリーだ。ああ、モリーがいて良かった! その場にいた大人は、ひとり残らず、そう思った。
エルウィンとモリーを乗せた白馬は、ゆっくりと小路を歩いていく。馬が離れると、みんな一斉に、ため息をついた。
「心臓が止まるかと思いましたわ!」
「いやいや、女性ならまだいいだろう? 男が乗ってみろ、気持ち悪いったらないぞ」
「それこそ、冗談で済みますわ。女性が乗れば、もはや罪です!」
若きメイドが、じっとエルウィンとモリーを眺めて言った。
「大失敗ですね。今日もモリーにドレスを着せとくべきだった」
まわりのご婦人方が「ああ、その手があった!」と悔しがった。雪原の中、王子様と小さな子を乗せた白馬。それは一枚の絵画のように見応えがある。
「ママー! もうちょっと乗ってていいー?」
「ごゆっくりー!」
大人たちが口をそろえて言った。それは、あの子に気を使ったのではなく、自分たちが眺めたいだけだった。
お城の中の雰囲気が、ちょっとナーバスになっていた。ひょっとして、もう起きないのではないか? そんな不安が、みんなの頭をよぎる。
やっと姿をあらわしたのは、二九日の朝。
ふらりとエルウィンが、使用人の食堂にやってきた。みんなが立とうとしたが、それを制してエルウィンが言う。
「予想以上に、眠ってしまったようだ。みんな、仕事は新年まで休んでくれていい。休暇を取ってもいい」
食堂内が、ざわめきたった。
「城に残る者は、すまないが僕の話し相手になってくれ。なるべく、多くの思い出を残したい」
そういうことね。まわりも安心して、すわりなおす。エルウィンが、モリーの横にすわった。
「約束が遅くなった。まだ牛は見たいかい?」
「エルウィン、それはもう」
わたしの言葉を、エルウィンは首をふって止めた。
「僕が、やりたいことなんだ」
そう言われると、返す言葉はない。残された数日、彼のやりたいようにしてほしい。
もうひとつ、モリーに聞こえないように、そっと耳打ちされた。
「三一日の朝に出立してくれ。別れは言いたくない」
わたしは精いっぱいの笑顔を作って、うなずいた。楽しくいこう。
朝食が終わると、二十人ほどの一団で牛舎にむかった。城主から休暇宣言を受けても、帰る者は、ひとりもいなかった。車で行けばすぐだが、みんなで歩いた。
エルウィンは、まわりの人と楽しそうに談笑している。やっぱり、お城は城主がいないと楽しくない。あと二日。二日しかない。なにができるわけでもなく、なにがしたいわけでもなかったが、わたしは、彼を目に焼きつけようと思った。
雑木林を抜けると、想像以上の広さだった。雪が積もり一面真っ白。なだらかな丘が、山すそまで続いている。雪のあいだに木のフェンスや小路が見えた。こんな広大な牧草地なら、昔は何頭の牛がいたんだろう。
広々とした雪原の中央に、ぽつんと石造りの小屋が、三棟ほど建っている。小屋の前には柵で囲った場所があり、雪がどけられていた。鶏が数匹、走りまわっている。
「ポッポさんだー!」
モリーが、かけだす。
「モリー、すべるよ、気をつけて!」
ジェームスが追いかけていった。ここ数日、モリーの面倒を見さされて、すっかりお兄ちゃんね。
石造りの牛舎の中には、三頭の牛がいた。
「お、大きい」
思わず感想が口からでる。目の前で見る牛は、思ったより大きい。しかも、その大きな体は意外に動く。いつも寝ていると思っていたら、大間違いだった。
なでていいと言われたが、怖い。尻込みしているのは、わたしとモリーだけ。わたしが怖がると、モリーに伝染してしまう。平気な顔をしてさわったが、べろんと手をなめられた時にはもう!
「か、かわいいわね」
悲鳴をこらえ、ひきつった笑顔でモリーに言った。
モリーも最初は怖がっていたが、すぐになれて平気でさわる。顔をなめられて悲鳴もあげないのは、わたしより心が強い。でも今日は、もう、あなたのほっぺにキスしない。
最後に乳搾りまで体験させてもらった。これで新鮮な牛乳と卵が手に入った。ドロシーが夕方からくると言っていたから、パイ包みの材料にちょうどいい。
「ぜひ、となりへ」
庭師長がそう言うので、牛舎のとなりにある小さな建物に入った。入ってすぐに聞こえたのが、粗い鼻息、ひずめの音。
小さな建物にいたのは、真っ白な馬だった。たてがみと尻尾の毛は、やや茶色が混ざっている。それがまた白い馬体をいっそう白く見せた。エルウィンがふり返って、わたしに言う。
「ここの人は、真っ白な馬が好きなんだ。ふしぎと昔からね」
いや、白馬しかありえない。エルウィンは自分が誰なのか、わかっているのだろうか。となりにいた庭師長と目が合うと、庭師長も肩をすくめた。
「馬にさわるのは久しぶりだな」
エルウィンは、なれた手つきで馬をなでた。
「少し乗ってもいいか?」
庭師長は、馬具をならべた棚にむかった。いくつかの鞍を吟味しはじめる。
「この大きさだと、ふたり乗れるだろう。ジャニス?」
わたしは即座に、ことわった。
「そうか、不安定なのが苦手だったな。誰か、一緒に乗らないか?」
みんなが顔を引きつらせ、あとずさる。当然だった。彼と白馬に乗る? そんな厚顔無恥は、ここにはいない。となりにメイドのビバリーがいたので、小声で言った。
「エルウィンは自分が誰なのか、わかってないみたいね」
若きメイドは、血の気が引いた顔で、うなずいた。
「あれに乗るぐらいなら、はだかで栗毛の馬に乗ったほうが、恥ずかしくありません」
「誰か乗らないか? 腕前に信用ないだろうが、これでも昔は毎日」
彼は、まだ誘っているが、そういう問題ではないのだ。
「のるのるのるー!」
その声をあげたのは、この場で、ただひとり秘密を知らない人間、モリーだ。ああ、モリーがいて良かった! その場にいた大人は、ひとり残らず、そう思った。
エルウィンとモリーを乗せた白馬は、ゆっくりと小路を歩いていく。馬が離れると、みんな一斉に、ため息をついた。
「心臓が止まるかと思いましたわ!」
「いやいや、女性ならまだいいだろう? 男が乗ってみろ、気持ち悪いったらないぞ」
「それこそ、冗談で済みますわ。女性が乗れば、もはや罪です!」
若きメイドが、じっとエルウィンとモリーを眺めて言った。
「大失敗ですね。今日もモリーにドレスを着せとくべきだった」
まわりのご婦人方が「ああ、その手があった!」と悔しがった。雪原の中、王子様と小さな子を乗せた白馬。それは一枚の絵画のように見応えがある。
「ママー! もうちょっと乗ってていいー?」
「ごゆっくりー!」
大人たちが口をそろえて言った。それは、あの子に気を使ったのではなく、自分たちが眺めたいだけだった。
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