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6.夏立ち、月と遊ぶ

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「気持ちわる」
「なんでですか?」
「こんなに笑ったの久しぶりすぎて」

 日捺子の何気ない言葉に早坂晟の笑顔が崩れ、じい、と見つめる眼差しだけが残った。それは日捺子の苦手とするものだった。奥の奥までずるりと覗き込もうとするようなそんな視線。苦手というより、もっと深い、不快、嫌悪感に近い。日捺子は眼球を動かす。目から口元に。早坂晟の口はなにかを言いあぐねているのか、薄く開かれている。

「幸せですか?」

 問われ、日捺子は困惑した。ハイタッチのためにあげた手が行き場をなくしてさまよっている。うんとも、いいえとも、答えがたい。
 幸せ。
 ふわふわした、なんとなくあたたかそうな、実態のない、求めれば逃げていってしまう、曖昧模糊としたもの。日捺子の思うそれはそういうものだ。
 具体にしようとすれば――ひなこはしあわせよね。しあわせにならなきゃだめよ。ひなこのしあわせのためなのよ。ねっとりした女の声となって、日捺子にまとわりついてくる。

「どんなささいなことでも、成功体験は人を幸せにするらしいですよ」

 優しい声音だった。父親。日捺子の知らないそう呼ばれる男が娘に話しかけるとき、そういう声を出すのではないか、そんな想像をしてしまうような。

「どうですか? 幸せです?」

 その言葉を日捺子は口に出せなかった。

「うん、まあ」 
「よかった」

 日捺子の手首を早坂晟がふいに、握った。宙ぶらりんになっていた手が捕まえられてしまう。

「早坂くん?」

 日捺子は不安になった。若い男の青臭さが漂う。夏の初めの緑みたいな、爽やかだけど、勢い任せでぶしつけで、ざわざわする。心が急速に温度を下げた。顔を、目を見てしまう。二重の幅、左右で少しだけちがう。人は左右対称の方が美しいと感じるというけれど、非対称であってもその相貌は十分に整っていた。そうか、早坂晟という人物はこんな顔をしていたのか。日捺子は早坂晟をようやくひとりの人として認識した気がした。会社の若い社員というぼんやりとした枠から飛び出し、独立する。名は体を現すというのが本当なら、せいとはどういう意味なんだろう。

「手」 
「ん?」
「手、真っ黒です」

 にっ。歯を見せ子供みたいな笑顔で早坂晟が言う。日捺子の手をくるりと反転させると、薄汚れた掌が現れた。空気が、戻る。

「あ、ほんとだ。早坂くんもじゃない?」

 日捺子の声は、自分で思っていたよりずっとすんなりと喉を通っていった。いつもどおりの、早坂くんと話す時の、私の声だ。

「ですね」

 バスケットコートの入り口にあった水道で手を洗う。ふたりとも拭くものを持っていなくて、濡れた手をぱたぱたと振って乾かした。 

「じゃあ、帰りましょうか」

 こどものころもおとなになっても楽しい時間はすぐに終わってしまう。それはいつになっても変わらない。どこかの誰かが定めた抗うことができない決まりごと。

「うん」

 日捺子は、頷く。脱ぎっぱなしになっていたサンダルを履いて、カーディガンを羽織る。早坂晟の顔がなんだか寂し気に見えるのは、きっと光とか角度のせいなのだろう。入り口の扉は帰るときも、ぎぃと、さびた音で鳴いた。


  


 家に帰り玄関を開けた瞬間、鼻をかすめた料理の残り香が、今日がなんの日だったかを日捺子に思い出させた。誕生日。特別な日。別に忘れていたわけじゃないけれど。
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