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5.雨は降り、廻る
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「冗談は置いといて、僕が今日ここにいるのは日捺子ちゃんを待ってたの」
日捺子の背に冷汗がつうと流れる。なんで、待っていた? なんで? ナルくんが虎汰くんのお友達だとして、なんでわたしを待つの? 理由がない。そもそもなんで、わたしがここにくることを知っているんだろう。
「どういうこと?」
「さぁ?」
肩をすくめながらナルがにっこりと笑う。
日捺子は怖かった。初対面のときよりずっと心は近しいはずなのに、あの夜には全くわかなかった警戒心が日捺子のまわりに見えない膜を張った。透明な
心の壁。自分を守るための。
「まぁ、そんなに固い顔しないでよ。一緒に一晩過ごした仲じゃん、僕たち。ほら、ジュース飲んで」
目の前のオレンジジュースが入ったマグカップが日捺子の方に押し出される。静かになっていた水面がまた、揺れた。日捺子はカップとナルを交互に見た。ナルはにこにこ笑って、さぁどうぞとマグカップを手で促している。
とりあえず飲んで、飲み切って、帰ってしまえばいい。
日捺子はカップを手にした。口をつける。ただのオレンジジュースだ。毒入りでもあるまいし、おそろしいものじゃない。でも、喉が拒否する。さっさと飲んでしまいたいのに、ジュースはぜんぜん喉を下っていかなくて、テーブルに戻したマグカップの中はほとんど減っていなかった。
「全然飲んでないじゃん。オレンジジュース嫌い?」
「そんなことない」
ナルと目を合わせないようにしながら、日捺子は首を左右に振る。
「そ。まあいいや。じゃあ、どれから聞きたい?」
ナルがおもむろに話し始める。その口調はあの夜と同じくらい軽い。
「どれって?」
「今、いろいろと疑問が頭のなかでぐるぐるしてるでしょ」
ナルが頭の横で指をくるくると回す。日捺子の内では嫌な予感が、どんどん広がっていく。聞くのはわたしの方なのに、探られるのはわたしの方だ。たぶん。きっと。詮索は、いや。
「そのなかの、どれから答えてほしい?」
「どれも、聞きたくない」
心臓がいつもより煩く動き始める。日捺子はなにげなく右手で左の二の腕をおさえた。無意識に守ろうとした。日捺子と涼也のただしさを。
「めんどくさい子だねぇ。日捺子ちゃんは」
がん、とナルがテーブルの足を強く蹴った。日捺子はびくりと、震えた。テーブルが大きく揺れる。マグカップが倒れてオレンジジュースがこぼれた。日捺子の長袖のシャツの袖に、オレンジ色の染みが広がる。
「あ、ごめん、ごめん。僕、足が長いから。濡れちゃったね」
ナルがそこらへんに放ってあったタオルを取り上げた。
「あ、……」
いやだ。触らないで。そう思うのに、日捺子は動けない。ナルがテーブル越しに日捺子の左手を掴む。
「心配しないで。濡れたの拭くだけだから」
零れたオレンジジュースが、流れて、床に落ちる。ナルの指が日捺子のシャツの手首のボタンを摘んだ。小さな穴に通される白いボタン。簡単にはずされてしまう、ひとつ、ふたつと。抵抗できないまま袖がするすると二の腕までめくられていく。日捺子はそれを見ていることしかできなかった。
わたしの腕。
むき出しになったそこには、薄くなり始めた痣と、赤黒いく生々しい大きな痣。少し前のと、つい最近の。
日捺子はそこから目を背けて、ぎゅっと、強く、目をつむった。
日捺子の背に冷汗がつうと流れる。なんで、待っていた? なんで? ナルくんが虎汰くんのお友達だとして、なんでわたしを待つの? 理由がない。そもそもなんで、わたしがここにくることを知っているんだろう。
「どういうこと?」
「さぁ?」
肩をすくめながらナルがにっこりと笑う。
日捺子は怖かった。初対面のときよりずっと心は近しいはずなのに、あの夜には全くわかなかった警戒心が日捺子のまわりに見えない膜を張った。透明な
心の壁。自分を守るための。
「まぁ、そんなに固い顔しないでよ。一緒に一晩過ごした仲じゃん、僕たち。ほら、ジュース飲んで」
目の前のオレンジジュースが入ったマグカップが日捺子の方に押し出される。静かになっていた水面がまた、揺れた。日捺子はカップとナルを交互に見た。ナルはにこにこ笑って、さぁどうぞとマグカップを手で促している。
とりあえず飲んで、飲み切って、帰ってしまえばいい。
日捺子はカップを手にした。口をつける。ただのオレンジジュースだ。毒入りでもあるまいし、おそろしいものじゃない。でも、喉が拒否する。さっさと飲んでしまいたいのに、ジュースはぜんぜん喉を下っていかなくて、テーブルに戻したマグカップの中はほとんど減っていなかった。
「全然飲んでないじゃん。オレンジジュース嫌い?」
「そんなことない」
ナルと目を合わせないようにしながら、日捺子は首を左右に振る。
「そ。まあいいや。じゃあ、どれから聞きたい?」
ナルがおもむろに話し始める。その口調はあの夜と同じくらい軽い。
「どれって?」
「今、いろいろと疑問が頭のなかでぐるぐるしてるでしょ」
ナルが頭の横で指をくるくると回す。日捺子の内では嫌な予感が、どんどん広がっていく。聞くのはわたしの方なのに、探られるのはわたしの方だ。たぶん。きっと。詮索は、いや。
「そのなかの、どれから答えてほしい?」
「どれも、聞きたくない」
心臓がいつもより煩く動き始める。日捺子はなにげなく右手で左の二の腕をおさえた。無意識に守ろうとした。日捺子と涼也のただしさを。
「めんどくさい子だねぇ。日捺子ちゃんは」
がん、とナルがテーブルの足を強く蹴った。日捺子はびくりと、震えた。テーブルが大きく揺れる。マグカップが倒れてオレンジジュースがこぼれた。日捺子の長袖のシャツの袖に、オレンジ色の染みが広がる。
「あ、ごめん、ごめん。僕、足が長いから。濡れちゃったね」
ナルがそこらへんに放ってあったタオルを取り上げた。
「あ、……」
いやだ。触らないで。そう思うのに、日捺子は動けない。ナルがテーブル越しに日捺子の左手を掴む。
「心配しないで。濡れたの拭くだけだから」
零れたオレンジジュースが、流れて、床に落ちる。ナルの指が日捺子のシャツの手首のボタンを摘んだ。小さな穴に通される白いボタン。簡単にはずされてしまう、ひとつ、ふたつと。抵抗できないまま袖がするすると二の腕までめくられていく。日捺子はそれを見ていることしかできなかった。
わたしの腕。
むき出しになったそこには、薄くなり始めた痣と、赤黒いく生々しい大きな痣。少し前のと、つい最近の。
日捺子はそこから目を背けて、ぎゅっと、強く、目をつむった。
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