きらきら果つる、美しき月

江胡 衣

文字の大きさ
上 下
37 / 52
5.雨は降り、廻る

5-9

しおりを挟む
「冗談は置いといて、僕が今日ここにいるのは日捺子ちゃんを待ってたの」

 日捺子の背に冷汗がつうと流れる。なんで、待っていた? なんで? ナルくんが虎汰くんのお友達だとして、なんでわたしを待つの? 理由がない。そもそもなんで、わたしがここにくることを知っているんだろう。

「どういうこと?」
「さぁ?」

 肩をすくめながらナルがにっこりと笑う。
 日捺子は怖かった。初対面のときよりずっと心は近しいはずなのに、あの夜には全くわかなかった警戒心が日捺子のまわりに見えない膜を張った。透明な
心の壁。自分を守るための。

「まぁ、そんなに固い顔しないでよ。一緒に一晩過ごした仲じゃん、僕たち。ほら、ジュース飲んで」

 目の前のオレンジジュースが入ったマグカップが日捺子の方に押し出される。静かになっていた水面がまた、揺れた。日捺子はカップとナルを交互に見た。ナルはにこにこ笑って、さぁどうぞとマグカップを手で促している。

 とりあえず飲んで、飲み切って、帰ってしまえばいい。

 日捺子はカップを手にした。口をつける。ただのオレンジジュースだ。毒入りでもあるまいし、おそろしいものじゃない。でも、喉が拒否する。さっさと飲んでしまいたいのに、ジュースはぜんぜん喉を下っていかなくて、テーブルに戻したマグカップの中はほとんど減っていなかった。

「全然飲んでないじゃん。オレンジジュース嫌い?」
「そんなことない」

 ナルと目を合わせないようにしながら、日捺子は首を左右に振る。

「そ。まあいいや。じゃあ、どれから聞きたい?」

 ナルがおもむろに話し始める。その口調はあの夜と同じくらい軽い。

「どれって?」
「今、いろいろと疑問が頭のなかでぐるぐるしてるでしょ」

 ナルが頭の横で指をくるくると回す。日捺子の内では嫌な予感が、どんどん広がっていく。聞くのはわたしの方なのに、探られるのはわたしの方だ。たぶん。きっと。詮索は、いや。

「そのなかの、どれから答えてほしい?」
「どれも、聞きたくない」

 心臓がいつもより煩く動き始める。日捺子はなにげなく右手で左の二の腕をおさえた。無意識に守ろうとした。日捺子と涼也のただしさを。

「めんどくさい子だねぇ。日捺子ちゃんは」

 がん、とナルがテーブルの足を強く蹴った。日捺子はびくりと、震えた。テーブルが大きく揺れる。マグカップが倒れてオレンジジュースがこぼれた。日捺子の長袖のシャツの袖に、オレンジ色の染みが広がる。

「あ、ごめん、ごめん。僕、足が長いから。濡れちゃったね」

 ナルがそこらへんに放ってあったタオルを取り上げた。

「あ、……」

 いやだ。触らないで。そう思うのに、日捺子は動けない。ナルがテーブル越しに日捺子の左手を掴む。

「心配しないで。濡れたの拭くだけだから」

 零れたオレンジジュースが、流れて、床に落ちる。ナルの指が日捺子のシャツの手首のボタンをつまんだ。小さな穴に通される白いボタン。簡単にはずされてしまう、ひとつ、ふたつと。抵抗できないまま袖がするすると二の腕までめくられていく。日捺子はそれを見ていることしかできなかった。

 わたしの腕。

 むき出しになったそこには、薄くなり始めた痣と、赤黒いく生々しい大きな痣。少し前のと、つい最近の。

 日捺子はそこから目を背けて、ぎゅっと、強く、目をつむった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

愛してほしかった

こな
恋愛
「側室でもいいか」最愛の人にそう問われ、頷くしかなかった。  心はすり減り、期待を持つことを止めた。  ──なのに、今更どういうおつもりですか? ※設定ふんわり ※何でも大丈夫な方向け ※合わない方は即ブラウザバックしてください ※指示、暴言を含むコメント、読後の苦情などはお控えください

【完結済】ラーレの初恋

こゆき
恋愛
元気なアラサーだった私は、大好きな中世ヨーロッパ風乙女ゲームの世界に転生していた! 死因のせいで顔に大きな火傷跡のような痣があるけど、推しが愛してくれるから問題なし! けれど、待ちに待った誕生日のその日、なんだかみんなの様子がおかしくて──? 転生した少女、ラーレの初恋をめぐるストーリー。 他サイトにも掲載しております。

処理中です...