きらきら果つる、美しき月

江胡 衣

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4.萌え立ち、芽吹く

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 眠い、眠い。どこまでもおちていく。深い、深い、眠りの底。時折、願う。永遠にここにいられますように、って。なんにも考えなくていい場所。このまっくらな底にずっといたい。でも、意識はふわふわと覚醒と混迷のあいだをいったりきたりする。風がそよそよ、そよそよ、やさしく頬を撫でている。気持ちいい。こわくない。くるしくない。ここにいたい。なのに思い通りになんてならなくて、意識は勝手に浮上し始める。そうだよ。分かってる。そろそろ、目を開けなきゃ。ずっと、こうしては、いられない。





 日捺子の目の前には見知らぬ天井があった。寝心地の悪いベッド。ぺらぺら音を立てるクリアファイル。それを持つ、白い指。その先の、不安そうに揺れている目。涙の膜がはってゆらゆらしてる。

 あの人、だ。
 日捺子は手を伸ばして、前髪に触れた。
 金色の毛は細くてふわふわしていた。

 そうっと撫でると目を閉じる前と同じ、気弱そうな黒い瞳から、ぽろりと涙が、落ちた。

「あの……体は……だいじょうぶ?」

 涙を拭いながら男が日捺子に聞いた。男の目は真っ赤になっていた。

「……うん。だいじょうぶ、みたい」

 日捺子は、ふっと笑んで、男を見る。男は目を逸らした。思ったとおり弱そうな、ひと。男は目を落とした。気まずい。たぶん、彼も気まずいんだろう。お互いなにも言えないまま、時間だけが過ぎていく。このままじゃ、だめだ。日捺子は布団をめくって体を起こした。

「あの、ありがとう。わたし、帰りますね」

 立ち上がる。倒れたのが嘘みたいに体が軽かった。窓の外を見ると日が暮れ始めている。わたし、どれくらい寝ていたんだろう。

「ちょっと、待って」

 男が日捺子の腕を掴んだ。弱弱しいくせに、その手は力強かった。同じだった。意識を失う前、支えてくれた手の安心感がよみがえる。強くて、やさしい手を見る。その手の先、ずり上がったブラウスの袖口が目に入って日捺子は男の手を振り払った。

「ごめっ、気持ち悪い?」

 男が日捺子から一歩、二歩、引いた。日捺子から目をそらす。日捺子は男の質問の意味が分からなくて、黙った。なにが気持ち悪いの? 目で問いかけ首を傾げる。

「ほら、こういう、俺みたいなの、気持ち悪いでしょ」

 男は日捺子を見ないまま、自分の着ているTシャツの裾を引っ張った。淡い桃色のTシャツ。肩まで伸びたさらさらの金髪。よく見れば、うっすらと化粧をしているようでもあった。

「気持ち悪いって、思わないよ」
「……ほんとに?」

 男の言う気持ち悪いが、どれを指すものかはわからなかったけど、少なくともいま日捺子の目に映るものの中に、そう感じるものはなかった。

「うん。気持ち悪いものなんてなんにもない」

 日捺子はゆっくり、はっきり、言った。そして、改めて自分のいる場所を見る。
 広いとも、片付いているとも言えない1Kの部屋。小さなローテーブルの上に散らばるごつごつしたシルバーアクセサリー、飲みかけのペットボトル、化粧水、毛羽だったラグ、床の上に置かれたままの服、散らばった小物、きれいに整理されたメイク道具、髪の毛とほこり、本棚に並んだ少女漫画たち、どことなく感じるちぐはぐさは彼の雰囲気そのものだった。

「ほんとに?」
「うん、ほんとに」
「ありがとう」

 男はとても嬉しそうだった。お礼を言ってもらうようなことではない気がするけど、言葉を間違わなかったなら、それはよいことだと日捺子は思った。男の笑顔は春の太陽みたいだった。明るくてほわっと心があたたかくなるような、そんな笑顔。きまずい雰囲気がふわっとゆるむ。空気がゆるめば、気持ちもゆるんだ。静かに息を吐くと固くなっていた体から力が抜ける。

「あの……ありがとうございました」
「いえ。俺、なんにもしてないんで」

 日捺子はベッド脇に置いてあった鞄を手に取って頭を下げた。そのまま、玄関に向かおうとして、呼び止められる。

「あ、あのっ!」

 振り返ると彼は目を泳がせた。

「あ、あの……さ、その………」

 男は何かを言いたそうにしているのに、言葉がなかなかかたちにならないようだった。もじもじしながらぱくぱく口だけが動いている。日捺子は待った。

「……また、来てくれる?」

 男は言った。

「また、来ていいの?」

 男は頷く。日捺子はほほ笑んだ。

「また、ね」

 日捺子は言う。男の部屋から出ていく。
『また』ね。それは、次を約束する言葉だ。だいじょうぶ。きっとわたしはうまくやれる。







 涼也との食事の時間は、日捺子にとって、いちにちでいちばん緊張する時間でもあり、いちばん幸せな時間でもある。向き合う時間。わたしを見てくれる時間。そしてわたしが、見る時間。
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