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薄青と記憶 2
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―ヘキサ―
授業が終わり、午後の自由時間が訪れた。
職員の男が言っていたとおり、六花が窓の外を見た時にはすでに雪が降り始めており、グラウンドというには狭すぎる庭を白く染めた。庭の端にある雲梯や滑り台、ブランコ、ジャングルジムを雪は等しく白に染める。
数人の男子は興奮気味に外へ駆け出して行く。
六花はというと男子たちの様子には目もくれず一人部屋に残っていた。
外に行かなかったのは別に寒いのが苦手というわけではない。そもそも職員の男はことあるごとに貧乏を理由に、暖房冷房を入れなかった。
室内にいても暖房はほとんどついておらず、外との気温の違いは然程ない。
六花は自由時間になると決まって中庭へと足を運んでいた。
中庭は建物と建物の隙間、一坪半ほどのほとんどデッドスペースをそのまま使ったような空間で子どもは中に入ることができない。正しくは中庭に出ることができなかった。
小さな池に小さな木、ほかにはこの施設の創設者と思しき人物の胸像と施設の名前が彫られた石碑があった。
子ども自身は入れず、像の目が動いたなどという根も葉もない噂があったせいで気味悪がって近づかない子どもも多いが、六花は違った。中庭はごちゃごちゃとしているおかげで少し日が差し込むだけでころころと表情を変える。
それを見ていると六花は余計なことを考えずにすんだ。
中庭に足を運ぶ理由は他にすることがないからというのもあるが、一番は何もせず、考えず、ただただ見ていられるからだった。
あの悲惨な事故から2年がたった今でも六花は何もしていないと両親のことを思い出した。目の前で両親を同時になくした心の傷は癒えず、不意に思い出すと、胸に穴が開いたような感覚を覚えた。
夜、ベッドで一人暗闇に包まれると、途端にたまらない気持ちが込み上げてきて静かに枕を濡らすこともあった。
だから何も考えなくてもいい時は中庭が見える近くのベンチに座って外を眺めていた。
(あれは……なんて書いてあるんだろう)
読めないながらにredressの文字を何度も反芻した。
「中庭を見ているのかい?珍しいね」
六花はハッとして背後を振り向く。
和かな笑顔で六花を見つめていたのはあの老婆だった。
「どうも……」
「おやおや、警戒されてるね」
老婆は杖をついて六花の真横まで歩み寄り同じベンチに腰かけた。六花は確かにこの老婆を警戒していた。
老婆について分かっているのは裕福な家の人間だろうということと、毎月現れる変わり者だということ。たとえ何人引き取っていっても決して孤児院に来ることをやめない。
何を考えているか、一切読めない不気味な老婆だった。
ベンチを立とうとする六花を老婆はしわがれた声で呼び止める。
「隣は嫌かい?ぼーっと座っとるだけだしさ。少しくらい付き合っておくれよ」
「……はい」
それから数分。六花は居心地の悪さを感じながら黙ってベンチに座っていた。視線は同じ中庭に向いており平行線。肩は緊張で強張り、表情もガチガチ。全身には絶えず冷や汗をかいていると言うのに喉だけが異様に乾く。
老婆は椅子に腰掛けるとすぐに何か話し出すかと思っていたが、そうでもない。横目に老婆を観察しても中庭を見つめていた。
「――実は私もここの出でね」
「……は?」
老婆は六花に意外な事実を告げた。続いて、これから話すことはただの独り言で分からないと思うけれどと前置きをして朗々と歌でも歌うかのように言葉を紡ぐ。
「施設の人は私のことを“お花さん”と言って慕ってくれるけど、私は“お花さん”の席と名前をたまたま貰っただけ。彼らが好きなのは“お花さん”であって私じゃあない。人の仕事を貰ったところで、結局私にゃ向いていなかった。……あまり気に入ってないのさ」
六花にはさっぱり訳がわからない。
(ここの出?この人も孤児?席を貰う……?裕福な人かもって……)
悩むが、ことの真偽はわからない。今まで毎月毎月訪れていたこと、それこそが仕事だと言うのか。六花は困惑する。
「……それで?」
「おや、驚かないのかい?いや……」
老婆は身を乗り出し、六花の目を覗き込む。
「ふむ。私の言ってることが正しいのかは分からないけれど、それを悟られないように最小限の言葉で返したってところかい?――分からないがそれで後手に回るつもりもない。強気だね。嫌いじゃないよ」
六花はドキりとして、咄嗟に口を噤む。
「……」
「意地悪して悪かったね。もうこんなことは言わないよ」
老婆は六花の緊張を解くため、笑顔を見せた。
「は、はは」
六花は愛想笑いで返すしか出来なかった。
「……昔は強気過ぎる子は苦手だったんだがね。こういう仕事をしていると、弱気になられるよりかはいくらかマシだと思ってしまう」
「それはどういう?」
「ははっ、私も歳だね。いや、婆さんの話を聞かされてもつまらなかったろう?もう行くよ」
「いえ……そんなことは」
六花は否定する言葉をかけてから迷う。引き止めて自分はどうするつもりだったのだろうか。
「……まぁいい。またすぐ会うことになるさ。言いたいことがあるならその時にでも聞くかね」
老婆は杖に体重をかけ、ベンチから立ち上がった。
―夜―
六花はベッドの上で目を覚ます。寒さのせいか無性にトイレに行きたくなったのだ。
毛布に包まっていたが、やはり部屋の中は寒い。出るのは億劫だが、部屋の中にトイレはない。トイレへ行くなら廊下に出て少し歩かなくてはならない。
迷った末に六花はベッドから出た。
トイレを済ませ部屋に戻る途中。廊下に灯りが漏れていることに気づいた。
よく見ると六花達の寝ている部屋の手前側の一室が半開きになっており、光はそこから漏れていることがわかった。
恐る恐る部屋のそばまで近づき、耳を澄ます。
聞こえてくるのは男の声が二つ。一人は職員の男だ。もう一人は丁寧語だが調子のよいどこか人を食ったような声だ。
内容は断片的にしか聞き取れないが、どうやら職員の方が下手に出ているらしい。
「――いえ、こちらこそです。はい。しかし、いきなりですね。――いや、長いこと彼女を引き取ることを拒否していたというのに、どういう風の吹き回しで?」
「態勢が整ったというだけです。それ以上のことをあなたが知る必要はありませんし、知ることは許されていません」
「で、ですが――」
「あ、そうだ。この施設も古くなりましたね。先ほどちらっと見て回りましたが、中庭も手入れが行き届いていないようですし。近々大掃除でもしましょうかね」
「――い、いえ。貴方のお手を煩わせるようなことは。今のままでも……問題がないことを証明して見せますので、いま一度お考えを」
(彼女……?態勢?よく聞こえない)
六花は部屋の方に集中しすぎていた。
「こんな時間に起きている子どもがいるなんて驚きです」
声に驚き振り返ると、顔の真正面に顔があった。
(女の人……!?)
十代後半くらいの眼鏡をかけた女性は六花を見た途端驚いたような表情を浮かべた。
「君……ということは……はぁ私ダメですね。ごめんなさい」
直後六花の意識は途切れた。
「――はっ!!」
六花は勢いよく体を起こす。窓の外にはカラッとした太陽が顔を出していた。
そこは廊下ではなく、ベッドの上だった。全身に汗をかいており、一気に身体が冷え込むのを感じた。
「起きたか六花!」
大樹だ。意地悪そうな顔で六花を見ていた。
「……なに」
六花は怯むことなく言葉を返す。
「今日こそ負けねえ!」
授業が終わり、午後の自由時間が訪れた。
職員の男が言っていたとおり、六花が窓の外を見た時にはすでに雪が降り始めており、グラウンドというには狭すぎる庭を白く染めた。庭の端にある雲梯や滑り台、ブランコ、ジャングルジムを雪は等しく白に染める。
数人の男子は興奮気味に外へ駆け出して行く。
六花はというと男子たちの様子には目もくれず一人部屋に残っていた。
外に行かなかったのは別に寒いのが苦手というわけではない。そもそも職員の男はことあるごとに貧乏を理由に、暖房冷房を入れなかった。
室内にいても暖房はほとんどついておらず、外との気温の違いは然程ない。
六花は自由時間になると決まって中庭へと足を運んでいた。
中庭は建物と建物の隙間、一坪半ほどのほとんどデッドスペースをそのまま使ったような空間で子どもは中に入ることができない。正しくは中庭に出ることができなかった。
小さな池に小さな木、ほかにはこの施設の創設者と思しき人物の胸像と施設の名前が彫られた石碑があった。
子ども自身は入れず、像の目が動いたなどという根も葉もない噂があったせいで気味悪がって近づかない子どもも多いが、六花は違った。中庭はごちゃごちゃとしているおかげで少し日が差し込むだけでころころと表情を変える。
それを見ていると六花は余計なことを考えずにすんだ。
中庭に足を運ぶ理由は他にすることがないからというのもあるが、一番は何もせず、考えず、ただただ見ていられるからだった。
あの悲惨な事故から2年がたった今でも六花は何もしていないと両親のことを思い出した。目の前で両親を同時になくした心の傷は癒えず、不意に思い出すと、胸に穴が開いたような感覚を覚えた。
夜、ベッドで一人暗闇に包まれると、途端にたまらない気持ちが込み上げてきて静かに枕を濡らすこともあった。
だから何も考えなくてもいい時は中庭が見える近くのベンチに座って外を眺めていた。
(あれは……なんて書いてあるんだろう)
読めないながらにredressの文字を何度も反芻した。
「中庭を見ているのかい?珍しいね」
六花はハッとして背後を振り向く。
和かな笑顔で六花を見つめていたのはあの老婆だった。
「どうも……」
「おやおや、警戒されてるね」
老婆は杖をついて六花の真横まで歩み寄り同じベンチに腰かけた。六花は確かにこの老婆を警戒していた。
老婆について分かっているのは裕福な家の人間だろうということと、毎月現れる変わり者だということ。たとえ何人引き取っていっても決して孤児院に来ることをやめない。
何を考えているか、一切読めない不気味な老婆だった。
ベンチを立とうとする六花を老婆はしわがれた声で呼び止める。
「隣は嫌かい?ぼーっと座っとるだけだしさ。少しくらい付き合っておくれよ」
「……はい」
それから数分。六花は居心地の悪さを感じながら黙ってベンチに座っていた。視線は同じ中庭に向いており平行線。肩は緊張で強張り、表情もガチガチ。全身には絶えず冷や汗をかいていると言うのに喉だけが異様に乾く。
老婆は椅子に腰掛けるとすぐに何か話し出すかと思っていたが、そうでもない。横目に老婆を観察しても中庭を見つめていた。
「――実は私もここの出でね」
「……は?」
老婆は六花に意外な事実を告げた。続いて、これから話すことはただの独り言で分からないと思うけれどと前置きをして朗々と歌でも歌うかのように言葉を紡ぐ。
「施設の人は私のことを“お花さん”と言って慕ってくれるけど、私は“お花さん”の席と名前をたまたま貰っただけ。彼らが好きなのは“お花さん”であって私じゃあない。人の仕事を貰ったところで、結局私にゃ向いていなかった。……あまり気に入ってないのさ」
六花にはさっぱり訳がわからない。
(ここの出?この人も孤児?席を貰う……?裕福な人かもって……)
悩むが、ことの真偽はわからない。今まで毎月毎月訪れていたこと、それこそが仕事だと言うのか。六花は困惑する。
「……それで?」
「おや、驚かないのかい?いや……」
老婆は身を乗り出し、六花の目を覗き込む。
「ふむ。私の言ってることが正しいのかは分からないけれど、それを悟られないように最小限の言葉で返したってところかい?――分からないがそれで後手に回るつもりもない。強気だね。嫌いじゃないよ」
六花はドキりとして、咄嗟に口を噤む。
「……」
「意地悪して悪かったね。もうこんなことは言わないよ」
老婆は六花の緊張を解くため、笑顔を見せた。
「は、はは」
六花は愛想笑いで返すしか出来なかった。
「……昔は強気過ぎる子は苦手だったんだがね。こういう仕事をしていると、弱気になられるよりかはいくらかマシだと思ってしまう」
「それはどういう?」
「ははっ、私も歳だね。いや、婆さんの話を聞かされてもつまらなかったろう?もう行くよ」
「いえ……そんなことは」
六花は否定する言葉をかけてから迷う。引き止めて自分はどうするつもりだったのだろうか。
「……まぁいい。またすぐ会うことになるさ。言いたいことがあるならその時にでも聞くかね」
老婆は杖に体重をかけ、ベンチから立ち上がった。
―夜―
六花はベッドの上で目を覚ます。寒さのせいか無性にトイレに行きたくなったのだ。
毛布に包まっていたが、やはり部屋の中は寒い。出るのは億劫だが、部屋の中にトイレはない。トイレへ行くなら廊下に出て少し歩かなくてはならない。
迷った末に六花はベッドから出た。
トイレを済ませ部屋に戻る途中。廊下に灯りが漏れていることに気づいた。
よく見ると六花達の寝ている部屋の手前側の一室が半開きになっており、光はそこから漏れていることがわかった。
恐る恐る部屋のそばまで近づき、耳を澄ます。
聞こえてくるのは男の声が二つ。一人は職員の男だ。もう一人は丁寧語だが調子のよいどこか人を食ったような声だ。
内容は断片的にしか聞き取れないが、どうやら職員の方が下手に出ているらしい。
「――いえ、こちらこそです。はい。しかし、いきなりですね。――いや、長いこと彼女を引き取ることを拒否していたというのに、どういう風の吹き回しで?」
「態勢が整ったというだけです。それ以上のことをあなたが知る必要はありませんし、知ることは許されていません」
「で、ですが――」
「あ、そうだ。この施設も古くなりましたね。先ほどちらっと見て回りましたが、中庭も手入れが行き届いていないようですし。近々大掃除でもしましょうかね」
「――い、いえ。貴方のお手を煩わせるようなことは。今のままでも……問題がないことを証明して見せますので、いま一度お考えを」
(彼女……?態勢?よく聞こえない)
六花は部屋の方に集中しすぎていた。
「こんな時間に起きている子どもがいるなんて驚きです」
声に驚き振り返ると、顔の真正面に顔があった。
(女の人……!?)
十代後半くらいの眼鏡をかけた女性は六花を見た途端驚いたような表情を浮かべた。
「君……ということは……はぁ私ダメですね。ごめんなさい」
直後六花の意識は途切れた。
「――はっ!!」
六花は勢いよく体を起こす。窓の外にはカラッとした太陽が顔を出していた。
そこは廊下ではなく、ベッドの上だった。全身に汗をかいており、一気に身体が冷え込むのを感じた。
「起きたか六花!」
大樹だ。意地悪そうな顔で六花を見ていた。
「……なに」
六花は怯むことなく言葉を返す。
「今日こそ負けねえ!」
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