暇つぶしのクレーマー

島村春穂

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第一章 無限ループ

【2】

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 土日と二日間の休日をはさみ、月曜日の正午過ぎ。既に二件のクレーム対応を終え、五分ほど前にかかってきた電話に、合槌のたび頷く矢作志緒の姿が寝室にあった。


「誠にご迷惑をお掛け致しました、ではお電話のほうを終了させて頂きます、失礼致します」


 通話を切ってすぐに携帯が鳴った。休み明けは忙しい。しかも土日の四十八時間はクレーマーのヘイトをことのほか増幅させた。


「お電話ありがとうございます。サンバープレースお客様相談を承っております、担当の矢作と申します」


 電話口の声を聞くなり、矢作志緒は残念そうに合槌を打った。


 初老の男はひび割れた声をどもらせながらネットに繋がらないことを訴え、何度も同じ説明をしなければならなかった。


 五、六分を過ぎた頃から、ただ若い女性と話したいだけというのが伝わってくる。初老の男は、今現在パソコン教室に通っていることをとつとつと話し、年寄りにはネットは難しいと愚痴る一方で、近所の同世代でパソコンを使えるのは自分しかいないなどと自慢した。


 矢作志緒が皮肉に聞こえない程度にこれを褒めると、初老の男は、『』と名指しするようになった。


 入れ歯からカチカチと音がたち、矢作志緒を不快がらせた。そのうえ、去年妻を亡くした身の上話が始まれば、時を遡って夫婦の馴れ初めにまで話はおよんだ。結局、ネットに繋がったのかと言えば、これが繋がらないときた。そして、初老の男は次のように言って、矢作志緒を驚かせた。


「今晩息子に設定してもらうよ」


 通話はそこで切れ、どっと疲れだけが溜まっていった。自然と溜め息がでた。しかし、クレームの電話は一口の水を飲む時間さえ与えてくれなかった。


「お電話ありがとうございます。サイバープレースお客様相談を承っております、こちら担当の矢作と申します」


 音割れした怒号が耳をつんざいた。矢作志緒の顔色がパッと明るくなった。姿勢を正した。もちろん業務中は正座をしたままである。


「昨日、電話つながんなくしただろ」


「左様なことはございません。申し訳ございませんが、どちら様でしょうか」


「昨日電話したモンだよ。記録とか取ってないわけ?」


「少々お待ちくださいませ」、電話口にも聞こえるようにキーボードを叩く。「北折様でございましょうか?」


「そうだよ」、ライターを擦る音と、煙をくゆらせる気配があった。「思いだした?」


 矢作志緒は、バレないようにスカートを捲った。「北折様。先日の件はお役に立てず誠に申し訳ございませんでした」


「おまえンとこのパソコン壊れて二日と何十時間経った? 土日休みとかナメてんのかよ」


「たいへん申し訳ございません。ご迷惑をお掛け致しております」、捲られているのはスカートだけではない。テーラードジャケットは今しがたの会話のあいだに肩から滑り下ろされ、先日とは色違いのランドネックのブラウスは胸のうえにたゆんでいた。


「弊社のパソコンのご購入はいつ頃でしょうか」


「三日前だヨ」


 ブラジャーを取っても爆乳のかたちは殆んどかわることがなかった。「保証書のほうはございますでしょうか」


「あるヨ。手元に」


 男の手元にあったのは何も保証書だけではないようだった。先日に電話口から聞かされたあの卑猥な音がたち、矢作志緒の期待は高まった。


 両手に持った携帯から右手を離し、乳房を片方ずつ愛撫した。先のほうがぷっくらと膨らんできている。充血した乳頭は自分で見てもひどく淫らだった。


「ではメーカーのほうで無償保証させて頂きます」


「あのよお」、今にも電話口の態度が一変しそうな気配に、矢作志緒はぞくぞくした。「おまえ、頭おかしいとちがうか」


 しゃがれた声が一瞬心臓を冷たくさせ、戦慄のようなものが下腹部へと静かに下りていった。小さな返事と一緒に、言い訳できないほど勃起させた乳頭をつよく抓んだ。


「そういう問題じゃねえんだ」、先日に較べ、男の手つきに遠慮はなかった。「おめえよお。コ×ナって知ってる?」


「……コ×ナウ×ル×でしょうか。存じてございます」


 男はここでしゃべることを止め、くちゅくちゅくちゅくちゅ……音を募らせてゆく。


 矢作志緒は電話口から何やら試されている気になった。何かしゃべらなければならない……。そうしなければ、この卑猥なゲームを受け入れたことに他ならなかったからだ。だが、矢作志緒はそうしなかった。無言を耐え忍ぶように、抓んだ乳頭をさらに虐めた。そのあいだにも、くちゅくちゅくちゅくちゅ……電話口で耳を犯されつづけた。


 ようやく男が口をひらく。


「株って知ってるよな」、口調は穏やかだったが、手つきの方は激しくなった。


「はい…ッ……存じてございます」


 二人のあいだにできた暗黙の了解は、矢作志緒の声をいくぶんか震えさせた。


「売買してるんだ。個人投資家として」


 媚態混じりの溜め息が返事と一緒にでた。


「今よお。株の値動きすごいんだ」


 乳首をきつく摘まみあげ、今度は歯を食いしばって返事した。


「秒単位で目が離せねえわけ」、卑猥な音は時折やんだ。しかし五、六秒ほど経つと先にも増して軽快に音がたつ。その訳を矢作志緒には想像できた。


 オナホールにローションを足した……。熱い……そう口走りそうになって慌てて口をつぐんだ。


「あのよお。こっちの損失はどうすんだ。ソ・ン・シ・ツ」


「損失と申されますと……」


「損失が一億出てんだヨ」


 いよいよクレーマーからの発言があった。マニュアルに従い、専用の録音機器を携帯にセットした。と同時に自分の声も録音されることになる。矢作志緒は、これが大堀課長やその他の上役に聞かれることを想像してアソコがむず痒くなるのを感じた。


「……一億でございますか」、ぶっきらぼうな返事がかえってくる。「そのデータはどのようにしてご覧になられたのでございますか」


「スマホ」、即答であった。


 真意はわかりかねたが、相手が土日の二日間準備していたのは間違いない。


「……そうでございますか」と矢作志緒の方が後手に回るかたちとなった。


「ナニ? 俺が嘘ついてると思った?」


「いえ……とんでもございません」


「あんたさあ。一億ってどんな金かわかるよな」


 会話の流れのままに、矢作志緒は返事した。


「わかるわけねえだろ! おまえみたいなモンに!」


「ヒイッ」


 突然の怒声に体じゅうが強ばった。生暖かいものがクロッチにひろがってゆく。……漏らしてしまった。


「俺がさいごに話した相手があんたってことだってあり得るぞ」と男は脅した。「自殺しなきゃいけないレベルよ。一億って」


「SNSと新聞社に遺書投稿してあんたらのビルから飛び降りようか、なあ」


 矢継ぎ早に捲し立てる息づかいは興奮していた。


「おい! 友だち同士の会話じゃねえぞ!」、電話口からガラスのような物が割れる音がした。「黙って許されると思ってんのか!」


 怒声に縮みあがり、まったく力の入らなくなったアソコから小水が垂れ流れた。


「北折様……申し訳ございません」とやっと言った。「保証書のほうではそのような補償は……」


 ――と、寝室のドアに気配が立った。「ママ? ……ママ」


「少々お待ち頂けませんでしょうか……」、携帯を手で覆い、慌てて立ちあがった。身なりを直している暇はない。躊躇いがちに迷ったあと、携帯を持った手を後ろ手に回し、ドアノブを握った。


「……なあに?」


「昼ご飯足りなかったからカップラーメン食べていい?」


「ああ……うん、場所わかるでしょ?」


「やった」と息子の気配は階段を下り、矢作志緒はほっと胸を撫でおろした。


 携帯を再び耳に当てると、男は切羽つまった吐息を震えさせ、それに重なるように淫らな音を姦しく募らせていた。矢作志緒はたまらず眉間の皺を狭め、アア……と胸の内でやるせない溜め息を吐いた。


 今になって腰がくだけていることにも気がついた。尻を突き出すように前屈み、ドアノブを掴んだまま寄りかかっている。アソコから溢れたものが雫となって二筋三筋と太腿を伝い流れていた。


「もしもし……申し訳ございませんでした」


 男は途端に手つきを緩めた。


「ああ。聞こえてますヨ」と言って、二本目のタバコに火を点けた。


 矢作志緒の状況をまるで見透かしているかのように、男は黙ってスパスパとタバコを吸った。そのあいだに、矢作志緒は元の場所に戻り、やはり正座するのだった。


「矢作さんねえ。あんた一億稼げますか? なあ、そのからだ使っても一億耳そろえんの無理だろ」、ついに男の口から、という固有名詞がでた。「いやね。矢作さんがわるいわけじゃねえもんな。あんたがパソコンつくったわけじゃねえし。でもヨ。損失の額が額だし、俺の事情もわかってくれヨ」


 男の態度は一変し、やさしい口調がこそばゆかった。


 矢作志緒は双乳をかばうように抱きあげた。堪えていた涙で返事が揺れた。


「矢作さんよお。あんたに責任能力ねえンなら、せめて謝罪には来れるよな」


「……謝罪ですか?」


「当たり前だろお、こっちは一億損害出てんだから」、しゃくりあげるカスタマー嬢に、男は慰めるように言う。「わるいとは思ってるんだろ」


「はい…っ……」


「だったら謝罪に来い。俺の住所わかってんべ」


「……かしこまりました……」


 もちろん、上に報告することのない訪問謝罪であった。




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