嘘の数だけ素顔のままで

島村春穂

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序章

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 コトブキアキラが職業訓練を申し込んだのはこれが初めてではなかった。


 母親の勧めで興味を持って、三年前の九月にも自宅とハローワークをエアコンのほとんど効かない車で何往復もした。今年のように猛暑で片道十七キロを通うのは楽ではなかったし、受講書類のお役所言葉は、今の日本社会の生きづらさを反映したように回りくどくて頭痛がした。ここで仕事を探している失業者たちは性別の違いや年齢に関係がなく恥のようなものが眼つきに表れていた。


 希望する職種はありますか、と尋ねられたとき、コトブキは、アナタのようになりたい、と職員の目をはっきりと見てそう言った。職員の男はただ笑ったが、コトブキは笑わなかった。アンタの椅子と代ってくれよ、コトブキは声にださずにそう続けて呟いた。しかし、男が書類を整理する色白な手の薬指に指輪があって、アナタの歳からじゃ逆立ちしたって無理ですよ、と男から言われている気がして、コトブキの頭痛はさらにひどくなった。


 別室では適性検査とやらを受けた。簡単な質問ですからパソコンの画面に沿って答えていってください、職員の女はそれだけをコトブキに言って、書きかけの書類にまたペンを走らせた。爪の先から髪の毛の一本一本に至るまで公務員然としているような初老の女で、顔に刻まれた皺のひとつひとつがどこか不調和で、所々剥げた赤い口紅が厭らしくてコトブキは好きになれそうになかった。こういう人間が今の日本を支えていて、政府やマスコミが与える偽の社会的希望を疑いもせずに生きている。なぜ今の若者が平気で顔にまでタトゥーを入れたがるのか。資本主義というやつが脳や臓器を繰り返し移植したばかりでなく時には頭ごとすげ替えた人造人間の化物になっていて既に限界がきているということだ。この女は体よく腹が満たされているから顔を汚さずに済んでいる。


 どうかしましたか、と声を掛けられるまで三分はかかった。コトブキはマウスに手を置いたまま動かすことさえできずにいた。女は、意識だけはコトブキに向いたまま再び書類に目を落とした。コトブキはそのとき、女の口許に何か侮蔑のような笑みがあったのを見逃さなかった。


 やり方がわかりませんかー? 女は書類から目を離さずにそう言った。わからないから職業訓練でパソコンを習いたいんだよ、とコトブキは言いたかった。しかし、同時に、そう言えない弱みがコトブキにはあった。そうした弱みを見透かしているからこそ、この女は、やり方がわかりませんかー? などと語尾を不自然に伸ばしたのだとコトブキは感じた。喉奥で絡まった反論の為の言葉が悪戯に血圧を上昇させ、コトブキの顔をみるみる赤くさせていった。――恥を掻かされた、とコトブキは思った。


 選考会当日、コトブキは会場を神経質そうに見渡した。受講希望者の顔ぶれが気になった訳ではない。頭数を目で追っていたからだ。定員オーバーだ。しかも、二、三人という微妙なところだった。


 席に坐っていると左隣から声を掛けられた。すみませんけど、シャーペン貸していただけますか? その中年の女というのは筆記用具の一切を持ってきていなかった。余分にあったペンを貸してあげたコトブキだが、結局、選考からは落ちた。


 果たして、あの中年の女は選考に受かったのだろうか。コトブキと関わった人たちはどういう訳か幸運が訪れる。受かっただろうな、そうコトブキは思った。ペンさえ持ってきていない常識知らずのはずなのに。


 数日後。コトブキはハローワークにいた。もう一度職業訓練を申し込みたい相談をする為だった。職員の男からは、すぐには無理だと言われた。どこかで一年ほど働いたあとにまた申し込みをしてください、ということであった。


 コトブキは、そのあとの三年間を警備保障会社で交通誘導員として働いた。シャーペンを忘れた中年の女のせいにするつもりはないが、いやな思い出が随分と増えたことは間違いなかった。というのも、その警備保障会社がひどくブラックだったうえに、交通誘導員にまるで人権がなかったからだ。


 住み込みで働いている顔ぶれにはまだ若いのに身よりがいない者や病気になっても医者にすら通えない者が少なくなかった。車の免許を持っていない者も数人いた。半年もの間、ずっと男だと思って喋っていた同僚が、実は女だと知って驚愕させられるような職場だった。こう足元を見られているのでは労働基準法に違反していても誰も社長に文句が言えないのだった。


 日勤をこなしたあとに夜勤をし、また日勤をしろという(恐らくパチンコの確変をもじったもの)と呼ばれるシフトが月に最低四回はあった。現場から現場への移動時間は労働外とされていて、しかも、現場までのガソリン代が戻ってくるのは四分の一程度、だから拘束時間のわりには金にならないし車内で過ごす待機時間は、夏は灼熱、冬は極寒という地獄だった。日勤から夜勤の現場まで片道百二十キロあるときだってあった(あとでガソリン代を会社に申請する為に距離数は必ず測る)。コトブキは夜勤明けの国道で生まれて初めて居眠り運転をして幻覚を見た。


 人権無視は現場でも起こった。交通誘導員は、主に道路の舗装工事や電気工事会社に就くことがほとんどなのだが、言葉汚く罵られることは日常的であった。


 一般車両や自転車、歩行者というのは安全を守るべきお客様扱いをしなければならない。気の荒い工事業者もコトブキたちのときとは態度を一変させて一般人には平身低頭した。つまり警備保障会社に工事業者から業務の一部(交通誘導)が委託され、さらに間接的にとはいえ一般車両や歩行者に安全のサービスを提供するという二重派遣が交通誘導員の立場だった。コトブキからすれば、警備保障会社に雇われている身なのだから、三重構造で身売りされていることになる。身売りされた回数だけ人権はなくなってしまうのだとコトブキは思った。


 人権がなくなると業務上どのように支障がでるのかといえば、祭りの警備をしたときが顕著だった。酔っ払いから中身の半分以上入った缶ビールを顔に投げつけられたり、目の前でカラーコーンを蹴飛ばされたり、中学生のような年下に胸倉を摑まれたりした。




 コトブキは何度かハローワーク前の道路でも交通誘導をしたことがあった。うだる暑さに耐えながら、中で働く職員たちの色白な手を思い出した。一年もしないうちにコトブキの肌は火傷したように浅黒くなっていた。同僚に、潮吹いてるぞ、と言われて最初のうちは意味がわからなかった。制服の肩の辺りに白い結晶がついていた。舐めてみるとしょっぱかった。そんな肉体労働者にとってコンビニは街のオアシスだった。


 ハローワークの近くにはセブンイレブンがあったが、いつの間にかパソコン教室になっていた。入口の貼り紙に受講料金が印刷してあり、二十三万円と知ってコトブキは驚いた。選考に受かっていれば、無料タダでパソコン教室に通えたことになる。


 どうして選考会場にシャーペンを忘れてくるようなババアが快適な教室で受講ができて、一方のおれは昼も夜もなく道路に立たされているのだろう、とコトブキは思った。悔しさのあまり、コトブキの中ではもはやそういうことになっていた。


 一連の出来事は、コトブキにひとつの大きな決断をさせた。二ヵ月分の給料の中から二十一万円もする最新のノートパソコンと二万円分のテキストを買った。ネット接続は実家住まいだったから、業者間の面倒な手続きは親にやって貰った。独学でパソコンを勉強しながら、警備保障会社から一日でも早く足を洗う日を夢見た。


 辞表を出してから、実際に辞めさせて貰えるまでに半年かかった。


 三年ぶりに行ったハローワークにあのとき担当をしてくれた男の姿はなかった。代わりに今回担当してくれた職員には二度目の申し込みであることを何度か念を押した。そして、念願叶って受講できた場所がセブンイレブン跡のあのパソコン教室だった。




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