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凋落
一/三
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ところが長椅子に座って間もなく、蒼甫の左隣に腰掛けてきた人物がいた。しかも、待ってましたと言わんばかりに鼻息が荒い。
どことなく嫌な気配を察し、蒼甫が、みるみる顔面を強張らせる。
気取られまいように視界の外っ側で目視でもするように、文庫本に落とした蒼甫の瞳が虚ろであった。――年増女だ。あのピンク色の服がおぼろげに霞む。いまにも話し掛けられてきそうな気配があった。
蒼甫は文庫本のページを捲ることは言うに及ばず、呼吸にさえ細心の気を配りジッとして動かず、注意の目を文庫本に落としたまま左隣との防御線を張った。がしかし、年増女からは両膝をこちら側へと向けられ、覗き込むようにずうっと見られているようだ。
「蒼ちゃん」
案の定、話し掛けられてしまった。それほどおおきな声ではなかったにも拘らず、周囲のひとたちが一斉にこちら側を見た気がした。
蒼甫が恐る恐る横目を使い、その人物を確認する。――嫌な予感がした。小中と学校が一緒でよく遊んだ同級生の母親であったからだ。
その母親は、「ひさしぶりねぇ、見ないうちにいい男になってぇ」と挨拶したあとで、「最後にうちに来たのは五年くらい前かしらねぇ」と最初はお愛想を言ってきた。
蒼甫が文庫本を閉じるのを見るや、この同級生の母親は一拍おいてから息を吸い、話を続けた。
「うちの子も何を考えてるんだかあ。安月給のうちにこないだ結婚してねぇ」
やはり嫌な予感は的中した。うちの子も、の「も」に悪意があるのが分かる。
「でも、英一くんは自治体の消防吏員じゃないですか」
蒼甫がそう話を合わせると、「でも命がけでしょう」と、母親の粘ついた口もとが嬉しそうに笑う。
「就職してすぐデキちゃった婚なんて恥ずかしいわ。消防吏員ってモテるのよねぇ」
と独り言のように呟きながら、蒼甫の左手薬指を分かるように一瞥する。
「お兄さんも結婚はまだ?」
どうやら、母親はこの話をまだ続けたいらしい。「まだです」と蒼甫が言いかけたものの、
「蒼ちゃんはいま彼女いるの?」
と、待てしばしがなく母親の詮索が続く。
「……いえ。再就職の支度金を貰っている身分ですから」
「あらそう? やっぱり彼女に不自由すると大変なのかしら? 英一なんか女にだらしなくて困っちゃうの。結婚する前に整理させたらねぇ、交際相手が四人もいたのよ。ほんとぞっとしないわあ。四人よ! 彼女が四人! 嫁の親御さんに申し訳なくてねぇ」ほんと嫌な女だ。「おほほほほ。ところで、あなた市役所だったわよねぇ」
母親が顔をぐいっと向け、蒼甫を覗き込む。
口撃と同時に間断なく手前ミソを売りつけられ、次に母親は探るような眼つきでさらに蒼甫を覗き込む。歯槽膿漏の饐えたような口臭で笑いかけてくる。あの事件のことを本人の口から聞きたくて仕方がない様子である。
蒼甫は、返事に口ごもった。話せばそれだけ墓穴を掘ると思ったのだろう。
すると、さっきまであれほど饒舌だったにも拘らず、母親はやにわに態度を一変させ、へどもどとまごつく蒼甫からなにがしかの返答を執拗に待った。嬉しそうに眼を爛々とさせている。顔を見ていなくとも分かるほどにだ。
次第に母親は肩が上下するほど顔を上気させ、なにか言いたそうな口もとを僅かに粘つかせながら、ねちねちと待つこの間、浅い呼吸を、低く不格好な鼻で繰り返した。――蒼甫から到頭返答がないことが分かると、母親が――、
「うちの子は、あなたによく苛められたものねぇ」
と、ついに本性を露わにさせ、奇矯な言動や舌鋒はいよいよ鋭くあからさまに毒づいてきた。
「あなた――、どうせ再就職はお父さんのホテルで働くんでしょうねぇ」
と蒼甫に肩身を寄せつつ、密やかに囁いてくる。近づいた顔は、はたと益益すべたのように血相を変え、間近でこれを見ると、涙袋を縁どる隈が厚いファンデーションでも隠しきれていない。すこぶる不気味であった。
「最初からそうすればよかったのに」
そう次々と毒づかれ、蒼甫のほうでも呆れた態度を隠そうとはせず、重い溜息を吐き困じ果てて文庫本を開いた。この母親はその文庫本にさえ興味を示し、それとなく盗み見た。
「……市役所もお父さんのコネだったんでしょ……」
益益声を潜め、母親の膝にあった手がきつく爪を立てる。
「……そんなことありません……」
と気弱ながら抗弁したものの、散々男の面目を潰され、かかる状況下、蒼甫がいままでやっと取り繕っていた頬の筋肉が次第に突っ張ってくる。
「あなたが知らないだけじゃないの。だって、藤森グループっていったらこの近辺じゃ顔ですものねぇ」
と、母親はよりいっそう馬脚を現した。
蒼甫は鰓骨が盛り上がるくらいまで奥歯を強く噛み締め、暗澹たる思いをひどく宿した鈍色に光る瞳で一度だけこの母親を睨んだ。「なによ」と、母親が続ける。
「うちの英一、第一志望は市役所だったのよ。あんな優秀な子を落とすかしらねぇ。浪人させた一年ご近所に顔も出せやしない。スーパーだってねぇ、隣町までわざわざ行かなきゃならなかったし、ほんと生きた心地しなかったわあ」
最後にそう言い残し終えると、母親はやっとこさ席を立った。
何人かの連れのもとに戻るや、こちら側を睨み据えながら、口もとに手を宛て偵察を報告、というよりも呪詛してやまぬのである。あの様子じゃ、悪名や醜聞はあらぬ尾ひれをつけられ益益喧伝されていくことであろう。
蒼甫が向き直ると、腹がグーっと鳴った。
あの事件からどうにか半年が過ぎ、いままで仏のように過ごしてきた蒼甫ではあったが、腹が減っているせいもあったかもしれない、もはや、どろどろになって貧乏ゆすりから隠しきれない苛立ちが垣間見られた。
どことなく嫌な気配を察し、蒼甫が、みるみる顔面を強張らせる。
気取られまいように視界の外っ側で目視でもするように、文庫本に落とした蒼甫の瞳が虚ろであった。――年増女だ。あのピンク色の服がおぼろげに霞む。いまにも話し掛けられてきそうな気配があった。
蒼甫は文庫本のページを捲ることは言うに及ばず、呼吸にさえ細心の気を配りジッとして動かず、注意の目を文庫本に落としたまま左隣との防御線を張った。がしかし、年増女からは両膝をこちら側へと向けられ、覗き込むようにずうっと見られているようだ。
「蒼ちゃん」
案の定、話し掛けられてしまった。それほどおおきな声ではなかったにも拘らず、周囲のひとたちが一斉にこちら側を見た気がした。
蒼甫が恐る恐る横目を使い、その人物を確認する。――嫌な予感がした。小中と学校が一緒でよく遊んだ同級生の母親であったからだ。
その母親は、「ひさしぶりねぇ、見ないうちにいい男になってぇ」と挨拶したあとで、「最後にうちに来たのは五年くらい前かしらねぇ」と最初はお愛想を言ってきた。
蒼甫が文庫本を閉じるのを見るや、この同級生の母親は一拍おいてから息を吸い、話を続けた。
「うちの子も何を考えてるんだかあ。安月給のうちにこないだ結婚してねぇ」
やはり嫌な予感は的中した。うちの子も、の「も」に悪意があるのが分かる。
「でも、英一くんは自治体の消防吏員じゃないですか」
蒼甫がそう話を合わせると、「でも命がけでしょう」と、母親の粘ついた口もとが嬉しそうに笑う。
「就職してすぐデキちゃった婚なんて恥ずかしいわ。消防吏員ってモテるのよねぇ」
と独り言のように呟きながら、蒼甫の左手薬指を分かるように一瞥する。
「お兄さんも結婚はまだ?」
どうやら、母親はこの話をまだ続けたいらしい。「まだです」と蒼甫が言いかけたものの、
「蒼ちゃんはいま彼女いるの?」
と、待てしばしがなく母親の詮索が続く。
「……いえ。再就職の支度金を貰っている身分ですから」
「あらそう? やっぱり彼女に不自由すると大変なのかしら? 英一なんか女にだらしなくて困っちゃうの。結婚する前に整理させたらねぇ、交際相手が四人もいたのよ。ほんとぞっとしないわあ。四人よ! 彼女が四人! 嫁の親御さんに申し訳なくてねぇ」ほんと嫌な女だ。「おほほほほ。ところで、あなた市役所だったわよねぇ」
母親が顔をぐいっと向け、蒼甫を覗き込む。
口撃と同時に間断なく手前ミソを売りつけられ、次に母親は探るような眼つきでさらに蒼甫を覗き込む。歯槽膿漏の饐えたような口臭で笑いかけてくる。あの事件のことを本人の口から聞きたくて仕方がない様子である。
蒼甫は、返事に口ごもった。話せばそれだけ墓穴を掘ると思ったのだろう。
すると、さっきまであれほど饒舌だったにも拘らず、母親はやにわに態度を一変させ、へどもどとまごつく蒼甫からなにがしかの返答を執拗に待った。嬉しそうに眼を爛々とさせている。顔を見ていなくとも分かるほどにだ。
次第に母親は肩が上下するほど顔を上気させ、なにか言いたそうな口もとを僅かに粘つかせながら、ねちねちと待つこの間、浅い呼吸を、低く不格好な鼻で繰り返した。――蒼甫から到頭返答がないことが分かると、母親が――、
「うちの子は、あなたによく苛められたものねぇ」
と、ついに本性を露わにさせ、奇矯な言動や舌鋒はいよいよ鋭くあからさまに毒づいてきた。
「あなた――、どうせ再就職はお父さんのホテルで働くんでしょうねぇ」
と蒼甫に肩身を寄せつつ、密やかに囁いてくる。近づいた顔は、はたと益益すべたのように血相を変え、間近でこれを見ると、涙袋を縁どる隈が厚いファンデーションでも隠しきれていない。すこぶる不気味であった。
「最初からそうすればよかったのに」
そう次々と毒づかれ、蒼甫のほうでも呆れた態度を隠そうとはせず、重い溜息を吐き困じ果てて文庫本を開いた。この母親はその文庫本にさえ興味を示し、それとなく盗み見た。
「……市役所もお父さんのコネだったんでしょ……」
益益声を潜め、母親の膝にあった手がきつく爪を立てる。
「……そんなことありません……」
と気弱ながら抗弁したものの、散々男の面目を潰され、かかる状況下、蒼甫がいままでやっと取り繕っていた頬の筋肉が次第に突っ張ってくる。
「あなたが知らないだけじゃないの。だって、藤森グループっていったらこの近辺じゃ顔ですものねぇ」
と、母親はよりいっそう馬脚を現した。
蒼甫は鰓骨が盛り上がるくらいまで奥歯を強く噛み締め、暗澹たる思いをひどく宿した鈍色に光る瞳で一度だけこの母親を睨んだ。「なによ」と、母親が続ける。
「うちの英一、第一志望は市役所だったのよ。あんな優秀な子を落とすかしらねぇ。浪人させた一年ご近所に顔も出せやしない。スーパーだってねぇ、隣町までわざわざ行かなきゃならなかったし、ほんと生きた心地しなかったわあ」
最後にそう言い残し終えると、母親はやっとこさ席を立った。
何人かの連れのもとに戻るや、こちら側を睨み据えながら、口もとに手を宛て偵察を報告、というよりも呪詛してやまぬのである。あの様子じゃ、悪名や醜聞はあらぬ尾ひれをつけられ益益喧伝されていくことであろう。
蒼甫が向き直ると、腹がグーっと鳴った。
あの事件からどうにか半年が過ぎ、いままで仏のように過ごしてきた蒼甫ではあったが、腹が減っているせいもあったかもしれない、もはや、どろどろになって貧乏ゆすりから隠しきれない苛立ちが垣間見られた。
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