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5.アイゴスポタモイの海戦(1)

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キュロス王子はサルディスにリュサンドロスを呼び寄せ、軍資金を与えてやった。さらに本国からの追加援助を約束したうえ、若人らしい熱意でリュサンドロスの気持ちを繋げようと、もし父王が何もしてくれないなら私費で助けてやる、万一それも尽きたときは、金銀で出来た我が玉座を切り刻んで使えば足りるはずだ、とまで言った。

そしてついにはメディアなる父王のもとへ一旦帰ることに決め、管轄の諸都市からあがって来る租税も、領土の統治権もみなリュサンドロスに委ねてしまった。キュロスは別れにあたって、自分がフェニキアとキリキアから大艦隊を率いて戻って来るまで決戦を急いではならぬ、と釘をさした。

リュサンドロスの船団は、アテナイと正面切って戦うには少なすぎたが、さりとて暇を持て余すには多すぎるものだった。そこで彼は出航してエーゲ海の島々を押さえ、アイギナ島とサラミス島を荒らし回ったのちアッティカに上陸した。デケレイアから彼を迎えに来たスパルタ王アギスと挨拶を交わし、まるで自由自在に望みのまま艦隊をあやつる海の絶対者のように振る舞ったが、これは陸軍に対する示威行動であろう。

しかしアテナイ海軍の追跡を受けていると聞くと、リュサンドロスは島々の間をゆく抜け道をたどってアジア方面へ逃げていった。ヘレスポントスの守りが薄いとみた彼は、船を並べて海からランプサコスの街を攻撃した。こうして守備隊の目を引きつける一方、トラクスには陸兵とともに城壁がわを攻めさせ、奇襲によって都市を占拠した。兵士たちには際限のない掠奪が許された。


同じころ、総勢180隻からなるアテナイ艦隊は、ちょうどケルソネソスのエライウスの港に停泊したばかりであった。ランプサコス陥落の急報を受けるとすぐに抜錨してセストスに向かい、そこで食糧を補給してから、まだランプサコスの周りに屯ろしている敵を討つべく、アイゴス河口ポタモイに船を進めた。

このときアテナイ海軍をひきいる指揮官の中にはフィロクレスがいた。彼は戦争捕虜の右の親指を斬り落とすという法を​​可決するよう民会に働きかけた人物であった。こうすれば槍はもう握れないが、かいは握ることができるから奴隷としての価値は保たれるのである。

両軍の兵士らはみな翌朝の戦闘を期して眠りについた。しかしリュサンドロスの心は別にあった。彼は漕ぎ手にも舵取りにも、夜明けとともに戦が始まるかのように軍船に乗って規律正しく音も無く敵を待ち構えよ、と指示した。陸軍も同じく海岸ぞいに置いて、静かに隊列を作らせた。

やがて太陽が昇るとアテナイの全艦隊がうち揃って攻め寄せ、さかんに戦を挑んできたが、スパルタ勢は夜明けまえに準備万端を整えていたにもかかわらず、リュサンドロスはまったく動かなかった。彼はただ最前列のふねに早舟をいくらか送り、整然たる戦闘隊形をくずしてはならぬ、また誰も前へ出て応戦してはならぬ、とだけ命じた。

そうして夕方になってアテナイ勢が帰ってゆく様子を数隻の艦に見張らせていたが、敵が上陸するのを確認して帰って来るまでは、水兵たちを決して下船させようとはしなかった。こんなことが二日、三日、四日と続いたのである。


いよいよアテナイ勢は自信満々で敵を侮り、スパルタ軍は恐れおののいているに違いないと思うようになった。丁度このときケルソネソスの城塞に身を潜ませていたアルキビアデスがアテナイの軍営に戻ってきた。彼は馬で乗りつけて来るやいな、居並ぶ将軍たちを一喝した。

「第一に、貴官らの野営地は安全とはいえぬ。ここらの浜辺は敵に丸見えなうえ、船の乗り降りに時間がかかる。第二の問題は、だいぶ離れたセストスまで軍需物資をわざわざ取りにやらせていること。すぐにでも回れ右してセストスの港のそばまで戻っておいたが良い。敵はこちらの動きを逐一監視している訳だから、この距離では何かあっても即応できない。スパルタ勢はたった一人の男の独裁的な指揮下にある。兵たちはみな彼を畏れ合図ひとつでどんな命令にもしたがう、そういった軍隊に仕上がっていることを忘れるな」

ところが将官らはせっかくの助言に耳を貸さなかったばかりか、テューデウスなどははっきりと侮蔑の色を加えて、「指揮に当たっているのは貴方ではない」と答えた。アルキビアデスはこうまで主張が遠ざけられるのは裏切り者がいるのかも知れないと考え、もう何も言わず立ち去った。
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