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2.アルキビアデスとの戦い
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いつ果てるとも知れぬペロポネソス戦争も、シチリアでのアテナイ軍の惨敗によって新たな局面を見せはじめていた。制海権を失ったアテナイはもはや風前の灯火に等しいと思われたが、そこにアルキビアデスが亡命先から舞い戻ったのである。彼は政権を手中に収めると改革を断行して、またたく間に敵と五分に戦えるほどの大艦隊を再建してしまった。
アテナイの底力にラケダイモン人は激しい恐怖心を抱いたが、戦争遂行のためには勇気をふりしぼるしかなかった。とりわけ優秀な指揮官と武装の拡充は急務であり、そんななか海軍提督として選ばれたのがリュサンドロスだった。
手始めに向かったエフェソスの街はラケダイモンにも彼自身にも好意的だったが、課題もまた多かった。周りをすっかりリディア人に囲まれていたうえ、長きに渡りペルシャ王の将軍の駐留を許していたため、出入りのペルシャ人と交流するうちその野蛮な風俗に当てられる者が後を絶たなかったのである。そこで彼は幕営を設け、命令してすべての国の商船を港に呼び入れるようにさせ、また戦闘用の三段櫂船の建造にも乗り出した。
ようは彼は交易路を敷いてやり、新しい雇用を創ってやった訳だが、おかげで寂れていた港や市場は復興をとげ、辻々の店屋や工房は見違えるように富で満ちた。これよりエフェソス市は、こんにち見るような堂々たる隆盛への第一歩を踏み出すのであるが、それは何にも増してリュサンドロスの才覚に負うところ大なのである。
ペルシャの王子キュロスがサルディスに赴任したと聞きつけたリュサンドロスは、かの地へ上って王子に会い、ティッサフェルネスを告発してやろうと考えた。このティッサフェルネスなる男は、“ラケダイモンと協力してアテナイ人を海の向こうへ打ち払うべし”との王命を確かに受けながら、例のアルキビアデスの甘言に乗せられて真面目に任務を果たさず、船乗りへの給金を出ししぶって艦隊を立ちゆかなくさせているのだった。
キュロスもキュロスの方でティッサフェルネスの不実に内心いらいらし、また個人的な確執もあったものだから、彼の悪評が広まるのは渡りに船だった。リュサンドロスは日々まめまめしく王子に仕え、巧みな話術と遜った態度でこの若者の寵愛を勝ち取ると、アテナイとの戦をやめぬよう気持ちを大いに奮い立たせた。
エフェソスへ帰るにあたり、キュロスは送別の宴を開いて、――望むものあらば何なりと申せ、余も断らぬからそなたもけして拒むでないぞ――と述べた。「ご厚情におすがりするのですが」リュサンドロスは答えた。「船乗りの日当を1オボロス増やしてください。3オボロスのところを4オボロスにしてやりたいのです」
キュロスは彼の無私の心に感嘆すると、10000ダレイコスという大金をぽんとくれてやり、彼はそこから船乗りの昇給ぶんを捻出することが出来た。評判はすぐに広がり、たちまちの内に敵陣には空船ばかりが並ぶようになった。漕ぎ手の多くが給料の良いほうに寝返ったうえ、残った者らも意気沮喪して毎日上官に突っかかったのでどの船も治まらなくなってしまった。
ところが自らの策によって敵が弱っているにもかかわらず、リュサンドロスは艦隊戦に及ぶ決心がつかなった。船の数は依然敵方のほうが多く、大将のアルキビアデスは精力的な采配をもって知られ、そのうえ海でも陸でもまだ敗れたことが無かったのである。
だがしばらく後、アルキビアデスがサモス島からフォカイアへ船出するにあたり、いっとき部下のアンティオコスに全軍の指揮を委ねて行ったのだが、この時リュサンドロスを侮っていたアンティオコスは彼を馬鹿にしてやろうと思い立った。そこで三段櫂船2隻でもってエフェソスの港へ近づき、小唄を歌い武器を打ち鳴らして散々にからかいながらスパルタ勢の船溜まりの前を漕ぎ進んだ。
リュサンドロスは憤然として2、3隻ほどくり出して追い回したが、やがてアテナイの船団が救援に来るとこちらも兵隊を船に乗せ、両軍はついに激戦へとなだれ込んだ。勝利をつかんだのはリュサンドロスで、敵艦15隻を拿捕して勝利の記念塔まで建てることになった。
敗報をつたえ聞いたアテナイ市民は怒り、アルキビアデスを司令官から解任してしまった。彼はサモス島の駐留兵からも軽蔑され陰口を叩かれていることに気づくと、ひそかに軍営を抜けてケルソネソスへと去った。この一連の争いは戦略上さほど重要ではなかったものの、アルキビアデスが関わったがために広く知られる結果になった。
アテナイの底力にラケダイモン人は激しい恐怖心を抱いたが、戦争遂行のためには勇気をふりしぼるしかなかった。とりわけ優秀な指揮官と武装の拡充は急務であり、そんななか海軍提督として選ばれたのがリュサンドロスだった。
手始めに向かったエフェソスの街はラケダイモンにも彼自身にも好意的だったが、課題もまた多かった。周りをすっかりリディア人に囲まれていたうえ、長きに渡りペルシャ王の将軍の駐留を許していたため、出入りのペルシャ人と交流するうちその野蛮な風俗に当てられる者が後を絶たなかったのである。そこで彼は幕営を設け、命令してすべての国の商船を港に呼び入れるようにさせ、また戦闘用の三段櫂船の建造にも乗り出した。
ようは彼は交易路を敷いてやり、新しい雇用を創ってやった訳だが、おかげで寂れていた港や市場は復興をとげ、辻々の店屋や工房は見違えるように富で満ちた。これよりエフェソス市は、こんにち見るような堂々たる隆盛への第一歩を踏み出すのであるが、それは何にも増してリュサンドロスの才覚に負うところ大なのである。
ペルシャの王子キュロスがサルディスに赴任したと聞きつけたリュサンドロスは、かの地へ上って王子に会い、ティッサフェルネスを告発してやろうと考えた。このティッサフェルネスなる男は、“ラケダイモンと協力してアテナイ人を海の向こうへ打ち払うべし”との王命を確かに受けながら、例のアルキビアデスの甘言に乗せられて真面目に任務を果たさず、船乗りへの給金を出ししぶって艦隊を立ちゆかなくさせているのだった。
キュロスもキュロスの方でティッサフェルネスの不実に内心いらいらし、また個人的な確執もあったものだから、彼の悪評が広まるのは渡りに船だった。リュサンドロスは日々まめまめしく王子に仕え、巧みな話術と遜った態度でこの若者の寵愛を勝ち取ると、アテナイとの戦をやめぬよう気持ちを大いに奮い立たせた。
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キュロスは彼の無私の心に感嘆すると、10000ダレイコスという大金をぽんとくれてやり、彼はそこから船乗りの昇給ぶんを捻出することが出来た。評判はすぐに広がり、たちまちの内に敵陣には空船ばかりが並ぶようになった。漕ぎ手の多くが給料の良いほうに寝返ったうえ、残った者らも意気沮喪して毎日上官に突っかかったのでどの船も治まらなくなってしまった。
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