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6.短すぎた雪解け
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平和条約の定めるところでは、まず互いが駐屯地や占領した街を解放し捕虜を返還するのだが、これはくじで選ばれた方から着手する決まりであった。ニキアスはさっそく賄賂を配ってラケダイモンがくじに当たるよう細工をした、とテオフラストスは伝えている。
納得がいかぬコリントスとボイオティアの人々がさかんに抗議活動を行なったため、早くも戦乱に逆戻りかと思われたが、ニキアスはアテナイ、ラケダイモン双方を口説き、恒久平和のあかしとして攻防にわたる安保同盟を条約に加えることにした。二大国のこの力による結びつきは、他の諸ポリスを恐れさせ、抗議を引っ込ませるのに十分であった。
これらの出来事が起こっている間もアルキビアデスは平穏が面白くなく、またラケダイモン人から相手にされないため、ニキアスとスパルタとの蜜月関係に不満を募らせていた。彼は当初より和平反対派だったが、しばらく待つうちにアテナイの人々がラケダイモンの態度に苛立ち始めているのが見てとれた。
彼らは勝手にボイオティア人と同盟を結び、破却する決まりだったパナクトゥム要塞をそのまま放置し、アンフィポリスからは撤退する様子もなかった。これはアルキビアデスにとって批判のトーンを上げる又とない機会であり、じっさい徹底的に民衆を煽った。対抗策としてアルゴスの街と組み、使者を呼んで同盟を押し進めようと主張したのである。
あわてたラケダイモンは全権大使をアテナイに送った。彼らはまずアテナイの長老たちに謁見して、正当な決定事項は全面的に受け入れる準備がある、と表明した。アルキビアデスはこのままの勢いで民衆まで丸め込まれてしまうと危惧して、先回りしてラケダイモン使節に会うと、彼らが全権を帯びていると明かさないなら援助も惜しまないし有利な条件を引き出そう、それが両国和平の唯一の活路だと熱弁した。もちろんこれは真っ赤な謀である。
ここにおいて民会の主導権はニキアスからアルキビアデスに移ってしまった。彼は使節を伴って現れると、さっそく尋ねた。「貴殿らは万事において全権を委ねられて来たのですか?」彼らが否定すると、思いがけずもアルキビアデスはみるみる表情を変え、さきの長老を証人台に引いてくると仁王立ちに言い放った。「これは信用なりませんぞ!この使者がたは同じ中身の質問に、ある時はこう答え、またある時は真反対のことを言うではありませんか。いやはや、嘘つきとどう交渉すれば良いのだろう!?」
突然の出来事に全権大使は大いに取り乱し、ニキアスも何と言えばよいやら分からず、ただ目を白黒させるばかり。議場は騒然、人々は怒りにまかせてその場でアルゴスとの会盟を裁決しようとまでした。
この時ちょうど小さな地震が起きて、会議が中断を余儀なくされたのはニキアスにとって幸運だった。翌日あらためて民衆が集まったとき、彼はあらゆる手をつくして説得し、アルゴス人との同盟をいったん延期させた。そして自らラケダイモンへの使者にたって万事丸く収めてみせる、と約束した。
現地に到着したニキアスを、スパルタの民衆は人格者かつ名士として、暖かく迎え入れた。だが好ましげな雰囲気とは裏腹に、親ボイオティア派の妨害もあって彼は何ひとつ外交的成果を得られなかった。面目を失ったニキアスは、かえってアテナイ人の怒りに怯えながら帰国の途についた。移り気な市民らは、彼の説得にのって貴重な戦争捕虜のおおくを釈放してしまったことを後悔していた。というのは、ピュロスから連行されてきた捕虜たちはスパルタが誇る名門の生まれであり、おなじく権門勢家に多くの友や縁戚を持っていたのである。
市民たちは怒りに駆られてニキアスを弾劾するまでには至らなかったが、新たに将軍に選出されたのはアルキビアデスであった。彼はアルゴスに加えて、ラケダイモンから離反したマンティネイア、エリスと盟約を交わし、ピュロスに軽兵を送り込んでラコニア地方をさかんに掠奪させた。平和は破られ、戦がふたたび始まったのである。
納得がいかぬコリントスとボイオティアの人々がさかんに抗議活動を行なったため、早くも戦乱に逆戻りかと思われたが、ニキアスはアテナイ、ラケダイモン双方を口説き、恒久平和のあかしとして攻防にわたる安保同盟を条約に加えることにした。二大国のこの力による結びつきは、他の諸ポリスを恐れさせ、抗議を引っ込ませるのに十分であった。
これらの出来事が起こっている間もアルキビアデスは平穏が面白くなく、またラケダイモン人から相手にされないため、ニキアスとスパルタとの蜜月関係に不満を募らせていた。彼は当初より和平反対派だったが、しばらく待つうちにアテナイの人々がラケダイモンの態度に苛立ち始めているのが見てとれた。
彼らは勝手にボイオティア人と同盟を結び、破却する決まりだったパナクトゥム要塞をそのまま放置し、アンフィポリスからは撤退する様子もなかった。これはアルキビアデスにとって批判のトーンを上げる又とない機会であり、じっさい徹底的に民衆を煽った。対抗策としてアルゴスの街と組み、使者を呼んで同盟を押し進めようと主張したのである。
あわてたラケダイモンは全権大使をアテナイに送った。彼らはまずアテナイの長老たちに謁見して、正当な決定事項は全面的に受け入れる準備がある、と表明した。アルキビアデスはこのままの勢いで民衆まで丸め込まれてしまうと危惧して、先回りしてラケダイモン使節に会うと、彼らが全権を帯びていると明かさないなら援助も惜しまないし有利な条件を引き出そう、それが両国和平の唯一の活路だと熱弁した。もちろんこれは真っ赤な謀である。
ここにおいて民会の主導権はニキアスからアルキビアデスに移ってしまった。彼は使節を伴って現れると、さっそく尋ねた。「貴殿らは万事において全権を委ねられて来たのですか?」彼らが否定すると、思いがけずもアルキビアデスはみるみる表情を変え、さきの長老を証人台に引いてくると仁王立ちに言い放った。「これは信用なりませんぞ!この使者がたは同じ中身の質問に、ある時はこう答え、またある時は真反対のことを言うではありませんか。いやはや、嘘つきとどう交渉すれば良いのだろう!?」
突然の出来事に全権大使は大いに取り乱し、ニキアスも何と言えばよいやら分からず、ただ目を白黒させるばかり。議場は騒然、人々は怒りにまかせてその場でアルゴスとの会盟を裁決しようとまでした。
この時ちょうど小さな地震が起きて、会議が中断を余儀なくされたのはニキアスにとって幸運だった。翌日あらためて民衆が集まったとき、彼はあらゆる手をつくして説得し、アルゴス人との同盟をいったん延期させた。そして自らラケダイモンへの使者にたって万事丸く収めてみせる、と約束した。
現地に到着したニキアスを、スパルタの民衆は人格者かつ名士として、暖かく迎え入れた。だが好ましげな雰囲気とは裏腹に、親ボイオティア派の妨害もあって彼は何ひとつ外交的成果を得られなかった。面目を失ったニキアスは、かえってアテナイ人の怒りに怯えながら帰国の途についた。移り気な市民らは、彼の説得にのって貴重な戦争捕虜のおおくを釈放してしまったことを後悔していた。というのは、ピュロスから連行されてきた捕虜たちはスパルタが誇る名門の生まれであり、おなじく権門勢家に多くの友や縁戚を持っていたのである。
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