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河内の張楊のこと
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乱世という現象は、後人の眼を通したときひどくロマンを感じるように出来ているらしいが、実際はそこに棲まう大小の軍閥たちのなかに、ただのひとりも自由な企図をもって天下制圧の青写真を描けたものはいない。
張楊という男の話しをしたい。ままならぬ人生のひとつの典型として。
彼の治める河内郡野王に、みやこ長安を放逐された呂布が逃げ込んできたのは、初平四年(193年)の頃だったか。
突然の来訪者に張楊はやさしい。ひとしきり歓待が済んだあと、座の主人は視線を遠くに投げてぽつ、と言った。
「なりそこねたわ」
脈絡のうすい言葉に呂布が聞き返すと、
「や、あんたにだよ」
呂布は少し不機嫌になった。
「わかりませんな。李傕に追われ、袁術にも嫌われ、天地いずくにも身の置き場のない男になりそこねましたか」
張楊は酒をおいた。熱っぽい、子どものような真剣さだった。
「関東諸侯が束になって敵わなんだ国賊を手ずから討つ。身は温侯に封じられ、儀は三公にひとしい。当今の英雄ではないか」
――似たようなセリフを南陽でも聞いたぞ――
しかし袁術とは違い、どうもいやらしい世辞とは思えない。呂布もまた、この同郷の先輩に悪意を見出したくない心があった。
張楊は并州雲中郡の産、古代のひとらしく生年はまるで定かではないが、呂布よりは年長であろう。若くして驍武を知られ、丁原に取り立てられ……ここまでの出世道は呂布と変わりない。
部曲を任されるのがすこし早すぎたのかもしれない。外に出て并州、司州のはざまを荒らしまわって威勢を拡大しているあいだに中央政局はすすみ、世の権勢者は勝手に移り変わってしまった。
――おれは、いったい誰のために兵を聚めていたんだっけか――
最初はたしか蹇碩の要請だったはずだ。彼が除かれると何進、何進が死ねば董卓、と、これではいかんと袁紹袁術らに同心し一応抗ってはみた。すると向こうから河内太守の印綬がやって来て、本意とはうらはらに懐柔された恰好になってしまった。いまはまた冀州の袁紹から圧迫を受けつつあり、ときに合従し、ときに背きもした。
「……どうも締まらない人生だよ。おれは董賊とは最後までやり合うつもりだった」
「そうでしょうとも。ご心配なく、昔日の対立なんぞ、そんな事を気にする奉先ではありません」
「いや違う、保身から言うんじゃない。おまえさんや王司徒に上手いこと先を越されてしまったなあと、そればっかりがずっと頭ン中にこもっているんだ。思い返せばいささか優柔に過ぎた。天子が洛陽におわす間に匈奴の突騎にもの言わせれば、なんぞ仕掛ける時期があったのではないか。ああ、国家の患を除き満天下に大功を示すことさえできたなら、大丈夫の仕事としては十分だ。そうなりゃおれは、後はもう李傕あたりになますにされても何ひとつ悔いはないんだが」
国の憂いを除こうなど呂布のなかには夢にも現れぬ思考だが、さりとてまさか侍女との密通が露見するのを恐れ、先手をうって董卓を殺しただけとは今更いえぬ。彼は目を白黒させて、
――こんな純粋な感動屋も世にはいる。“漢の忠臣”の肩書きも存外効くところには効くとみた。おれもまだやれる――と変なほうに自信をつけたものだった。
ふた月もせず、呂布のすがたは河内から消えた。張楊が呂布をどう評しようと、部下たちが彼を煙たがったらしい。董昭などはむしろ、
「あなたは普段から漢室へ忠勤を示したいとおっしゃっていたではないですか。いまが好機です。呂布の首を取りなさい」と唆しさえした。
「なんで李傕を喜ばしてやる義理がある。それに同郷のあいつを殺せば、わしは背中から并州びとの恨みを受けることになる」
はっきりと取り下げはしたが、会話が漏れることは防ぎようがなかった。聞いてしまった以上、呂布としても出奔以外に道はない。
張楊はひそかに彼を呼び、餞別を渡しながら言った。
「あんたをもいちど都に戻してやるつもりだったんだが」精一杯の虚勢ではあるが、優しい虚勢ではある。
「いや、ここで公が意地を張りご家中のものと仲違いされては、かえってお互い身が危ういでしょう。私は離れます。当面は袁紹を頼ってみることにしますよ」
その後の呂布についてはよく知られたところである。袁紹に仕えたあとやはり疎んじられて逐電し、兗州をめぐって曹操と死闘を繰り返したあげく敗れて徐州へ落ちてゆく。
張楊の許には、西から光が差し込んできた。帝が長安を脱して、東遷してくるというではないか。廃都とはいえ洛陽は、黄河をはさんですぐ手のとどく場所にある。
――ようやくか。諸侯の小競り合いに嘴を挟まず、自重して兵を養って来たのはこのためにあったと思おうか――
彼は騎卒をひきいて風のように急行した。
帝の一行は流民軍に毛の生えたような惨めさである。張楊は二度にわたって金品糧秣など多大の支援を行なったが、拝領したのは官位と爵位のみであって、ついに天下号令の権は得られずに終わった。北辺の精強な騎軍をもってしても朝野を握れなかったのだから、楊奉、董承といった古骨の朝臣どもとの政治闘争に失敗したとみていい。張楊には野心だけがあり、それを押し出す図太さがついて回らなかった。言い方をかえれば董卓や李傕、さらには曹操といった権臣が例外なく持っていた“忠義の押し売り”が彼には足りなかったということになる。それでも、
「大司馬、そうか大司馬――」
賜った官名をわらんべ唄のようになんども口の中でつぶやき、満足感じ入ったふうで河内への帰り支度をはじめた。
数年が過ぎた。この頃には袁術、公孫瓚も衰微して、もう中原を呑みくだす力は袁紹か、さなくんば曹操にしか残されていなかった。ちょうど両勢力の緩衝地として挟まれる形勢になった河内郡は、ますます鳥籠の様相を呈した。
ついに呂布も徐州で孤立し、曹操によって囲まれた。
「こんどこそ、あいつは死ぬかもわからない」
張楊は何を思ったか突として兵馬に号令し野王のまちを飛び出した。一直線に県の境まで駆けてふだん市の立つような処に屯営し、そうしておいて東のかた徐州にむけ声のつづく迄呂布を励ましてみせたのである。
一握の土塊をめぐり命のやり取りさえする世にあって、声援とはあまりにも弱々しい。“克つか奪われるか”という修羅の空間とは、つまるところ冷たい合理の横たわる場であって、まじない染みた声を送ったとて曹操の肩を刺すいっぴきの虻にもなりはしない。しかし、もはや手足を縛られたにひとしい彼にとって、まさにそれのみが出来得るただひとつの抵抗であった。
つれ来た兵は并州びとが主体である。彼に和して声をあげた者も多かったに違いない。主従の叫びは獣のうなりのように低く、夕闇ちかい地平にいつまでも響いていた。
じっさい、張楊の命運はすでに尽きていた。県城に帰ったのち、ほどなく親曹派の部下に刺殺されている。
彼の名と事績は、渇望かなって青史に残るところとなった。ただしその列伝は忠義を表さんとした後漢書ではなく、三国志の諸々の群雄、領袖たちの中にあって、かろうじて鈍い輝きをとどめている。
張楊という男の話しをしたい。ままならぬ人生のひとつの典型として。
彼の治める河内郡野王に、みやこ長安を放逐された呂布が逃げ込んできたのは、初平四年(193年)の頃だったか。
突然の来訪者に張楊はやさしい。ひとしきり歓待が済んだあと、座の主人は視線を遠くに投げてぽつ、と言った。
「なりそこねたわ」
脈絡のうすい言葉に呂布が聞き返すと、
「や、あんたにだよ」
呂布は少し不機嫌になった。
「わかりませんな。李傕に追われ、袁術にも嫌われ、天地いずくにも身の置き場のない男になりそこねましたか」
張楊は酒をおいた。熱っぽい、子どものような真剣さだった。
「関東諸侯が束になって敵わなんだ国賊を手ずから討つ。身は温侯に封じられ、儀は三公にひとしい。当今の英雄ではないか」
――似たようなセリフを南陽でも聞いたぞ――
しかし袁術とは違い、どうもいやらしい世辞とは思えない。呂布もまた、この同郷の先輩に悪意を見出したくない心があった。
張楊は并州雲中郡の産、古代のひとらしく生年はまるで定かではないが、呂布よりは年長であろう。若くして驍武を知られ、丁原に取り立てられ……ここまでの出世道は呂布と変わりない。
部曲を任されるのがすこし早すぎたのかもしれない。外に出て并州、司州のはざまを荒らしまわって威勢を拡大しているあいだに中央政局はすすみ、世の権勢者は勝手に移り変わってしまった。
――おれは、いったい誰のために兵を聚めていたんだっけか――
最初はたしか蹇碩の要請だったはずだ。彼が除かれると何進、何進が死ねば董卓、と、これではいかんと袁紹袁術らに同心し一応抗ってはみた。すると向こうから河内太守の印綬がやって来て、本意とはうらはらに懐柔された恰好になってしまった。いまはまた冀州の袁紹から圧迫を受けつつあり、ときに合従し、ときに背きもした。
「……どうも締まらない人生だよ。おれは董賊とは最後までやり合うつもりだった」
「そうでしょうとも。ご心配なく、昔日の対立なんぞ、そんな事を気にする奉先ではありません」
「いや違う、保身から言うんじゃない。おまえさんや王司徒に上手いこと先を越されてしまったなあと、そればっかりがずっと頭ン中にこもっているんだ。思い返せばいささか優柔に過ぎた。天子が洛陽におわす間に匈奴の突騎にもの言わせれば、なんぞ仕掛ける時期があったのではないか。ああ、国家の患を除き満天下に大功を示すことさえできたなら、大丈夫の仕事としては十分だ。そうなりゃおれは、後はもう李傕あたりになますにされても何ひとつ悔いはないんだが」
国の憂いを除こうなど呂布のなかには夢にも現れぬ思考だが、さりとてまさか侍女との密通が露見するのを恐れ、先手をうって董卓を殺しただけとは今更いえぬ。彼は目を白黒させて、
――こんな純粋な感動屋も世にはいる。“漢の忠臣”の肩書きも存外効くところには効くとみた。おれもまだやれる――と変なほうに自信をつけたものだった。
ふた月もせず、呂布のすがたは河内から消えた。張楊が呂布をどう評しようと、部下たちが彼を煙たがったらしい。董昭などはむしろ、
「あなたは普段から漢室へ忠勤を示したいとおっしゃっていたではないですか。いまが好機です。呂布の首を取りなさい」と唆しさえした。
「なんで李傕を喜ばしてやる義理がある。それに同郷のあいつを殺せば、わしは背中から并州びとの恨みを受けることになる」
はっきりと取り下げはしたが、会話が漏れることは防ぎようがなかった。聞いてしまった以上、呂布としても出奔以外に道はない。
張楊はひそかに彼を呼び、餞別を渡しながら言った。
「あんたをもいちど都に戻してやるつもりだったんだが」精一杯の虚勢ではあるが、優しい虚勢ではある。
「いや、ここで公が意地を張りご家中のものと仲違いされては、かえってお互い身が危ういでしょう。私は離れます。当面は袁紹を頼ってみることにしますよ」
その後の呂布についてはよく知られたところである。袁紹に仕えたあとやはり疎んじられて逐電し、兗州をめぐって曹操と死闘を繰り返したあげく敗れて徐州へ落ちてゆく。
張楊の許には、西から光が差し込んできた。帝が長安を脱して、東遷してくるというではないか。廃都とはいえ洛陽は、黄河をはさんですぐ手のとどく場所にある。
――ようやくか。諸侯の小競り合いに嘴を挟まず、自重して兵を養って来たのはこのためにあったと思おうか――
彼は騎卒をひきいて風のように急行した。
帝の一行は流民軍に毛の生えたような惨めさである。張楊は二度にわたって金品糧秣など多大の支援を行なったが、拝領したのは官位と爵位のみであって、ついに天下号令の権は得られずに終わった。北辺の精強な騎軍をもってしても朝野を握れなかったのだから、楊奉、董承といった古骨の朝臣どもとの政治闘争に失敗したとみていい。張楊には野心だけがあり、それを押し出す図太さがついて回らなかった。言い方をかえれば董卓や李傕、さらには曹操といった権臣が例外なく持っていた“忠義の押し売り”が彼には足りなかったということになる。それでも、
「大司馬、そうか大司馬――」
賜った官名をわらんべ唄のようになんども口の中でつぶやき、満足感じ入ったふうで河内への帰り支度をはじめた。
数年が過ぎた。この頃には袁術、公孫瓚も衰微して、もう中原を呑みくだす力は袁紹か、さなくんば曹操にしか残されていなかった。ちょうど両勢力の緩衝地として挟まれる形勢になった河内郡は、ますます鳥籠の様相を呈した。
ついに呂布も徐州で孤立し、曹操によって囲まれた。
「こんどこそ、あいつは死ぬかもわからない」
張楊は何を思ったか突として兵馬に号令し野王のまちを飛び出した。一直線に県の境まで駆けてふだん市の立つような処に屯営し、そうしておいて東のかた徐州にむけ声のつづく迄呂布を励ましてみせたのである。
一握の土塊をめぐり命のやり取りさえする世にあって、声援とはあまりにも弱々しい。“克つか奪われるか”という修羅の空間とは、つまるところ冷たい合理の横たわる場であって、まじない染みた声を送ったとて曹操の肩を刺すいっぴきの虻にもなりはしない。しかし、もはや手足を縛られたにひとしい彼にとって、まさにそれのみが出来得るただひとつの抵抗であった。
つれ来た兵は并州びとが主体である。彼に和して声をあげた者も多かったに違いない。主従の叫びは獣のうなりのように低く、夕闇ちかい地平にいつまでも響いていた。
じっさい、張楊の命運はすでに尽きていた。県城に帰ったのち、ほどなく親曹派の部下に刺殺されている。
彼の名と事績は、渇望かなって青史に残るところとなった。ただしその列伝は忠義を表さんとした後漢書ではなく、三国志の諸々の群雄、領袖たちの中にあって、かろうじて鈍い輝きをとどめている。
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