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聖女の秘密
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誘拐というものは、対象人物をどう確保するかによって実行の難易度は大きく変わる。
日常の中、例えば買い物などに出かけた道の上で攫うのがオーソドックスであり、一番多い手口だ。
誘拐といえばこのやり方を想像する人間も多いが、実はこれはあまり賢いやり方とは言えない。
ルーティン化した生活から行動を予測しやすいという利点はあるが、道端で人一人を騒がせずに捕まえて運び出すというのはどれだけ人目を避けても目立つ。
現場で一人でも目撃者が出ると、誘拐は完遂するのが難しくなる。
何せ誘拐される人間というのは、政治か経済での重要人物の関係者であることが多い。
犯人の特徴や逃走時の情報が多少でも揃えば、捜査員は血眼で探すことだろう。
逃走経路や潜伏場所など、入念な準備を重ねた上でもなお分が悪いと思えてならない。
対して今回、聖女の館へ忍び込んで攫おうとした件だが、実はこれが意外と成功確率の高い手法だったりする。
道端を歩いている人間と鍵をかけた家の中にいる人間では、一見すると後者の方が誘拐の難易度は高いように思えるが、ターゲットの所在が明らかであればそれだけ誘拐の計画は立てやすい。
確かに鍵のかかった家に忍び込むという難しさはあるが、そこさえクリアできれば自宅が安全と思い込んで暢気に眠っている人間など、驚くほど簡単に拉致できてしまう。
経験とタイミングさえ揃えば、周囲にバレることなく闇夜に紛れてことを済ませることも不可能ではない。
誘拐に手慣れた人間なら道端で攫うより、自宅で眠っているところを狙う方を選ぶのが妥当だと言える。
恐らく、今夜聖女の館に誘拐目的で忍び込んだ賊は、これが初めての仕事だということはないはず。
いつものやり方で問題なく仕事を済ませようとしたところを、たまたま居合わせた俺によって阻止されたといった具合か。
もっとも、俺から言わせれば情報の秘匿が甘い司教を頼ったのが、そもそもの失敗だったと言えるだろう。
聖女の部屋でかち合い、暗闇の中で互いを睨みあう俺と誘拐犯。
ノックダウンしている他の誘拐犯の仲間は当分復帰できそうにないので、目下の脅威は目の前の誘拐犯一人だけだ。
さっさと無力化するか、騒ぎに気付いた館の人間が駆けつけるまでの時間を稼げば事件は解決。
誘拐を阻止した俺は褒美をもらえてハッピーとなるはずなんだが、一つ問題なのは目の前のこいつが思ったよりも手練れだったということだ。
普通に考えれば、誘拐の計画に修正不可のイレギュラーが発生した時点で撤退するのがセオリーなのだが、向こうにその気配が感じられない。
顔が見えないので今一つ狙いは読みにくいが、まだ俺を排除して聖女を攫うと考えているのか、もしくは後退のタイミングを計っているのか、隙を見せれば襲い掛かってきそうな怖さもまたある。
単純に誘拐犯を無力化するなら魔術でも使えばいいのだが、その選択肢を取るつもりはない。
あの司教に手紙を出した本人が実行犯の中にいるかどうかはともかく、戦闘スタイルや魔術などから俺と見抜いて情報を持ち帰られると、どんな搦め手で俺やその周辺に攻撃が及ぶか分かったものではない。
つまり、こいつは今ここで魔術を使ってでも速攻で倒すのが上策、俺という情報を極力前面に出さずに追い返すのが次善となる。
どちらを選ぶか悩ましいが、こういった手合いは逃げ時を掴むのが上手いため、わざと逃がして仲間か黒幕の所まで泳がせるのも手ではある。
その場合、こいつらが教義回帰派の人間だと予想は付いているので、確証を得るための一押しにしかならないだろうが。
「あ、あなた達!何者ですか!ここでなにを―」
賊と睨みあっていると、俺の背中にいるリエットから甲高い声が上がる。
当然ながら突如現れた不法侵入者には混乱しているようで、寝起きにしてはテンションが高い。
まぁ安全な寝床と思い込んで寝ていたらこうなっているのだから、落ち着いていられるわけもない。
騒ぐリエットが煩わしく、いっそ殴って気絶させようかとも一瞬考えたが、流石に助けに入っておいてそれをやってはまずい。
前には賊、背に喚く女と、刺激的な板挟みにストレスを覚え始めたその時、部屋の扉が勢いよく開かれて人がなだれ込んできた。
「リエット様!今の音は―っ曲者!」
そう声を上げながら、手にしたランプで室内に明りを齎した人物は、俺と賊を見ると険しい顔で睨みつけてきた。
明らかに俺達を纏めて敵と見なしているその人物は、意外なことにスーリアだった。
日頃から側役としてリエットについているとはいえ、荒事の気配で乗り込んでくるあたり、護衛役としての役目もこなしているのだろうか。
背後には女性兵士を引き連れており、どうやらさっき俺が賊を派手に吹っ飛ばした時の音を聞きつけてやって来たようだ。
ここでスーリアと遭遇するのは問題はないのだが、他の人間が一緒にいるのは少しまずい。
そもそも聖女誘拐計画に俺とパーラだけで臨んでいるのは、俺達と繋がりがあるシペアやスーリアに教義回帰派が危害を加えないようにするためだ。
誘拐犯がここまで潜り込めている以上、聖女サイドの人間に回帰派のスパイかその協力者がいる可能性は排除しきれない。
今俺の顔を覆う仮面を取り払い、スーリアに正体を明かせば、連中の魔の手が彼女に及びかねない。
スーリアは魔術師としては優秀ではあるが、組織内での変則的な圧力に抗えるほどの老獪さを持ち合わせるにはまだまだ若すぎる。
俺の仮面を外して正体を明かし、協力を得るという流れは望めまい。
「痴れ者が!リエット様から離れなさい!」
賊同士がにらみ合い、片方に守られるようにしているリエットに、スーリアは一瞬考え込む様子を見せたが、すぐにそれを振り払うように迷いのない目を向けてくる。
今この瞬間、部屋の中にいる敵が何者かなど悩む必要はないと頭を切り替えたのだろう。
鋭い声を発すると同時に、スーリアが両手をこちらに向けて突き出す。
掌に幾何学模様の灯りが浮かび上がり、やがて召喚陣が形成された。
見覚えのある召喚陣の登場に、次に何が起こるかは簡単に予想がつく。
「ガンダ!レフュー!捕えなさい!」
虚空へ呼びかけるように張り上げたスーリアの声で、一層輝きを増した召喚陣の中から二つの影が飛び出して来た。
それぞれが意志を持って動く影が、俺と誘拐犯を目指してうねりながら迫る。
眼前に迫ったことで、影の正体が判明する。
それは蛇だった。
恐らく全長は三・四メートルといったところか。
斬撃にも耐えられそうな鱗に覆われた鈍色の胴は、大の大人が抱え込むのに苦労しそうな太さがあり、大蛇と呼ぶのに躊躇わないレベルの巨体だ。
召喚陣から姿を現し、スーリアの命令に従っている姿から、この二体の蛇は召喚の契約を結んだ個体ということになる。
今日まで魔術師として成長を重ねてきたのか、こうして大型の動物を使役しているスーリアの姿を見ると感慨深い。
最後に別れた時の力量では、一度に召喚できる数は一体が基本と聞いていたが、こうして二体同時に呼び出しているとなれば、あの頃とは比べ物にならないほどに上達している。
召喚術がまともに使えないと半べそをかいていたあのスーリアがほんの数年でこうなるのだから、若者の成長というのは実に羨ましくも恐ろしい。
スーリアの命令に従い、器用にもリエットを避けながら俺達の周囲を回るように体を巻いた蛇が、そのまま獲物を締め上げる動きを見せる。
巨体に似合わないそのスピードは、蛇嫌いの人間が見たら気絶を免れない怖さだ。
とぐろが収縮すれば全身の骨が砕けそうな勢いのそれから逃れようと、俺は宙に飛びあがって体を逃がす。
壁に取り付けてあった何かの金具を掴んで態勢を固定し、眼下を見る。
すると一瞬前まで俺の体が合った空間が、蛇の胴体によって一気に埋め尽くされた。
捕まえるというより、縊り殺すことを目的としていそうな動きは、スーリアの賊に対する冷酷さの体現にも思える。
間一髪で回避できたことに安堵しつつ、チラリと視線を誘拐犯へ向けてみれば、憎らしいことに奴も同じく回避には成功していた。
だが空中にいる俺と違い、向こうはバク転で蛇の胴体から逃げていたため、駆け付けた兵士のすぐそばへ着地してしまい、一見すると窮地に自ら飛び込んだようにも見える。
「貴様!大人しく縛に―ぁっ!」
スーリアと違い、兵士達は最初から殺すつもりで斬りかかっていくが、誘拐犯はそれらをあっさりと避ける。
まだ明るさが足りない場所では黒づくめの人間に視覚的な優位があり、おまけに身体能力の点でも誘拐犯は彼女達を上回っていた。
迫りくる剣を泳ぐように躱しながら、手にした短剣を振るって次々に兵士達の剣を捌いていく様は、ただの誘拐犯にしておくには惜しい強さだ。
正直、腕利きの戦士が誘拐に手を染めているだけにしか見えない。
「こいつ!っ手強い!」
「囲むな!狙われた者は身を守ることに専念しなさい!誰か!槍をとってきて!」
兵士達も荒事への対処が本職だけあり、誘拐犯に攻められながらも連携して足止めを仕掛けつつ、流石に実力の差を理解してか、近付かずに倒す方法として長柄の武器を持ち出すようだ。
兵士の一人がどこかにあるであろう槍を取りに行こうと廊下へ飛び出したその時、誘拐犯の動きが変わる。
リエットの方へと体の向きを変えると、矢のような勢いで飛び掛かっていく。
眼では見えていても、果たしてどれだけの人間がその動きに反応できたか。
少なくとも兵士達は、急に標的を変えた誘拐犯の動きに若干の混乱を覚えたようで、ほんの一瞬、体を硬直させてしまっていた。
だがその一瞬が命取りとなり、誘拐犯を止めることができなかった。
そのままリエットをかっさらうかのかと思われたが、誘拐犯が予想外の行動を見せる。
なんと、手にしていた短刀を構え直すと、リエット目がけて刺突するような態勢をとったのだ。
攫うでもなく脅すでもなく、明らかに命を取りにいくその動きは、リエットの誘拐を諦めた末の苦しまぎれの決断にしてもまともとは言えない。
ヤゼス教の象徴を殺してしまえば、回帰派にとっても損失は大きすぎるだろうに。
これが追い詰められた末の誘拐犯の独断だとしても、見過ごすことはできない。
突然の凶行を阻止するべく、俺は張り付いていた壁を蹴ってリエットの前へ盾となるように降り立つ。
賊も俺の姿に気付いたが、突進を急に変更できるほどの猶予はないようで、そのまま押し込むように短剣の切っ先を俺へと向けてきた。
ここで俺に構わずリエットを狙われていたら面倒なことになっていただろうが、上手くこちらの思惑通りに目標を俺へスイッチしてくれた。
敵の狙いが定まると実にやりやすい。
すぐさま可変籠手を鉤爪に変化させ、迫る刃を迎え入れるようにして爪の間へ通した瞬間、手首を返して短剣を絡めとる。
あまり質のいい鉄ではないのか、絡めとった瞬間に短剣は半ばから折れてしまう。
こうして敵は武器を一つ失った。
あっさりと剣を壊されたことで、賊の方も息を呑んだのがわかる。
心も挫けてくれるかと期待したいが……無理だった。
誘拐犯は奪われた武器に拘泥せず、新しく背中から抜き出した短剣を再び構えると、まだしぶとくリエットを狙って切っ先を揺らす。
一応、俺が間にいるので攻め手に迷ってはいるようだが、この硬直時間もそう長くはもつまい。
こんな状況でなければ諦めない心を褒めてやったものを、だがしかし、今はそのしつこさが特段苛立たしい。
別に賊の一人ぐらい、殺したところで何憚ることもないのだが、逆にいつでも殺せるのならまだ生かして何かに利用したいという気持ちもある。
ただ一つ気になるのは、こいつが急に誘拐犯から暗殺犯に変わった理由だ。
元々誘拐が出来れば御の字、無理なら殺すという計画だったとすれば、俺というイレギュラーがトリガーとなったのは十分あり得る。
しかしそうではなく、誘拐よりも暗殺の方が先に計画として組み込まれていた場合、非常に厄介な話になってくる。
真実がどうかはわからないが、それはそれとして今の状況が混沌としていて頭が痛くなりそうだ。
もういっそのこと、リエットを俺が攫っていこうかという思いがよぎってしまう。
事態をさらに複雑にしてしまう可能性はあるが、今俺達が欲しているのは聖女の身柄というより、癒しの力の方だ。
館には回帰派の内通者もいる可能性がゼロではないとなれば、色々と混乱している中にリエットを残していくのが正解とは言い難い。
普通に考えれば、聖女という地位に相応しい身の安全が保障されるべきだが、こうして誘拐犯が寝床に来れてしまっている以上、ペルケティア国内での安全など怪しくなる。
そう一瞬考えたところで、決断はすぐに出た。
対峙している誘拐犯の体が、短剣を振るう予兆を見せた僅かな隙に合わせ、俺は携帯していた水筒から水を魔術で吸い上げ、それを一気に周囲へまき散らす。
魔術を使うことで俺の正体が知られる危険はあるが、今はとにかく手数を求めて腹をくくる。
イメージとしてはスプリンクラーが近いが、実際は魔力をたっぷりこめて雹の落下ほどの衝撃を纏った水しぶきだ。
素肌に当たれば、燃える闘魂のレスラーが放つ本気のビンタぐらいの痛みはある。
「痛っ!?」
「水!?魔術!?」
誘拐犯だけでなく、兵士達やスーリア、リエットですら等しく激しく打ち据えると縮こまらたのは生物として当然のリアクションだ。
唯一、スーリアの召喚した蛇だけは平気なようで、水弾を浴びても痛みにのたうつことは微塵もない。
鉄ほどに頑丈そうなあの鱗なら、多少の勢いがついた程度の水しぶきはなんのダメージにもならないのだろう。
中々強力な動物をスーリアが使役していることに、内心で舌を巻く。
一体どんな手段でこれだけの生き物と契約したのか、機会があればじっくり武勇伝を聞かせてほしいところだ。
これで誘拐犯と聖女サイドには、水魔術が使える人間が今夜居合わせたという情報を与えてしまったわけだ。
流石にそれだけで俺へと辿り着くとは思わないが、犯人を血眼になって探す中で無実の水魔術師が犠牲になるかと思うと慚愧に堪えない。
とはいえ、人目の多くはこれで晦ますことが出来た。
室内の多くの人間がほんの一瞬動きを止めたチャンスを見計らい、ベッドで蹲っていたリエットを肩に担ぐと、ベッドから床、床からバルコニーへと転がるようにして向かう。
幸いにも誰の妨害も受けることなくバルコニーの欄干へ足をかけ、噴射装置を起動して空中へと躍り出る。
「え、なにすっここ二階―きゃあああああああ!?」
突然バルコニーから飛び出したことにリエットは悲鳴をあげる。
箱入りの聖女が生身で空を飛ぶ経験などあるはずがないので、その悲鳴には同情してもいい。
空中で態勢を変えて屋根まで一気に上昇すると、一旦パーラが潜んでいる木とは逆の方へと向かう。
あーあーやっちまった、やっちまったよ。
これで俺も誘拐犯の仲間入りか。
一応考えはあってのことだが、他に手はなかったのかという微かな後悔が頭をよぎるも、今はこの行動に意味があるのだと信じてネガティブな感情に蓋をする。
念のため、パーラが見つからないようにとの配慮だが、誘拐犯どころか館の兵士達も追ってくる気配がないので、一先ず追跡はないと見立てて大きく迂回してからパーラと合流した。
リエットを担ぎながら、昼間から拠点にしていた木の枝葉の中へと飛び込むと、ここを発つ前と変わらない姿のパーラが俺を出迎えてくれた。
「おかえり、って言いたいところだけど、確か誘拐を阻止しに行くって話じゃなかったっけ?なんで攫ってきてんの?」
館へ向かって構えていた銃を降ろすと、俺の肩にいるリエットの姿を見て深い溜息を吐いた。
予定とは大分違う結果に呆れているようだが、それに関しては俺にも言い分はある。
「むしゃくしゃしてやった、後悔はしている。…まぁ説明するのも難しいが、あっちじゃ随分ゴタついててな。成り行きだ、成り行き」
「だからって自分が誘拐犯になってどうするのよ」
「あの誘拐犯に捕まるより、俺が身柄を押さえたほうがましなんだよ。あのままだと、下手すりゃ聖女様は殺されてたかもしれんし」
誘拐犯がどういう指令を受けていたかは分からないが、既にリエットを殺しにかかったという事実を知ってしまった以上、放っておくとリエットは殺され、パーラの腕は一生治らない可能性もあった。
だったら俺がリエットを攫う方がずっといいはず。
「殺されるって…誘拐犯に?どういうこと?」
「そこはあとで話す。一先ず場所を移そう。ここもいつまでも安全とは限らんしな」
あの時の事情を知らないパーラにもじっくりと説明してやりたいところだが、今いる場所は事件現場から近すぎる。
捜査の手がここまで来る前に、少しでも遠くに行っておくのが利口だ。
「さて、リエット様。申し訳ないが、しばらくは俺達に付き…あ?」
肩に担いでいるリエットにそう声をかけたところで、白目をむいて意識のない顔が見えた。
どうやら館を離れる際、バルコニーから生身で飛び降りたのがよっぽどの恐怖だったようで、すっかり気絶してしまっている。
先程から身動ぎ一つしていないとは思っていたが、まさか意識を失っていたとは。
「…気絶しちゃってるね。このまま運んじゃう?」
「そうだな。騒がないのは楽だから、このままでいいだろ。だがその前に、濡れた服をどうにかしてやるか」
大人しく荷物となってくれるのならば文句はないが、これから移動するのにリエットの恰好が少し心配ではある。
先程、室内で水魔術を派手に使った影響で、リエットの夜着は大分濡れており、今夜の肌寒い空気の中では風邪をひいてしまうかもしれない。
「パーラ、替えの服にできそうなものはあるか?」
「そんなの急に言われても……私が今朝着てたやつでもいい?薄手だけど、濡れてるよりはましでしょ」
急な俺の頼みで荷物を漁ったパーラが、丈の長いシャツを取り出した。
今の気温だと少し生地の厚さは心許ないものの、濡れていない服というだけで十分ではある。
「それでいい。悪いが、着替えさせてやってくれ」
「え、私がやるの?」
「聖女の着替えを男の俺がやってどうする」
「そりゃそうだけど…んもー、私だって片手なんだからね」
「仕方ねぇだろ。他にいないんだからよ」
命の危険があるのならともかく、気絶している女の服を男が勝手に着替えさせるのはいささかまずい。
せめて同姓であるパーラなら、後々リエットにも言い訳が立つので、大変だとは思うがパーラに任せるのが妥当だ。
文句を言いながらパーラがリエットの夜着に手をかけたところで、俺は二人の姿を背にして視線を周囲の警戒へと動かす。
俺達の潜んでいる辺りはまだ静かなものだが、聖女の館の方では明かりがともり、人が動き回る気配があった。
聖女が攫われたとあっては騒ぎにならないはずがなく、今はまだ混乱してはいるようだが、じきにそれも収まって捜索の人手が出てくる。
そうなる前にここから離れたいので、早いところリエットの着替えが終わってほしいものだ。
「んん?え、あれ?これって……アンディアンディアンディアンディちょっとアンディ!」
出発の時を心待ちにしていると、背後からパーラの激しく動揺した声が聞こえてきた。
俺の名前を連呼するその様子は、よっぽどのことがあったと見える。
「どうした。着替えは済んだか?それとも問題発生か?」
「問題発生の方!ちょっとこれ見て!」
「見てってお前、聖女様に服はちゃんと着せてるのか?振り向いたら裸でしたはまずいぞ」
「そんなのどうでもいいから!早く見てってば!」
「ぐぇっ、おいバカ!首を引っ張るなって!もげたらどう…する……?」
突然俺の首が後ろに引っ張られ、パーラが強引に俺の首の向きを変える。
無理矢理首を動かされたことで痛みを覚え、抗議の声を上げた俺の目に移ったのは、半端に服を脱がされたリエットの姿だった。
ヤゼス教の象徴である聖女の裸を見てしまったことに後ろめたさは感じたものの、それ以上に俺が見たものに強い衝撃を覚える。
何故パーラがリエットを半裸の状態で留めた上で俺を呼んだのか、その理由が確かにそこにはあった。
「チ〇コ!チ〇コが生えてるんだよ!?聖女なのに!チ〇コが!」
「チ〇コ言いすぎだろ。落ち着け」
露出しているリエットの股間を指さし、卑猥な言葉を連呼するパーラだが、混乱からそうなっているのは分からなくはない。
俺だって混乱しているのだから。
目の前にいるのが聖女であることは間違いない。
影武者の可能性はゼロとは言わないが、一度顔を合わせただけであっても、見間違えるほどにリエットの存在感は薄くない。
こいつがリエット本人で間違いないとしても、聖女と言うには大きく矛盾するパーツが備わっている。
見た目は女性、しかし股間には紛うことなき男性の象徴が生えているという、どうやっても見過ごせない性別の矛盾だ。
……これは嫌な予感がしてきた。
ヤゼス教はリエットのことを、『奇跡の癒しを扱える女性である』と公言している。
にも拘らず、目の前では男でしかありえない証拠が隠しようもなく主張しており、これでは教会は大々的に嘘を言って信者を騙していることになる。
教会としてもリエットを完全に女性として扱っている以上、聖女の性別の矛盾は確実に秘匿したい情報なのではなかろうか。
代々名を継ぐ聖女が、何故今回だけは男となっているのか疑問はあるが、これが何か教会が秘かに抱える問題の一環だとすれば、途端に背筋が寒くなってくる。
ひょっとしたら俺達は見てはいけないものを見たとして、ヤゼス教の全てを敵に回す羽目になるかもしれない。
聖女の誘拐だけでも神敵認定されてもおかしくないのに、さらに教会の闇とも言える部分に触れ、一気にテンションが下がって来た。
俺達はただ、パーラの腕を治すためだけに動いていたというのに、こんな面倒くさそうな秘密を知ってしまうとは、つくづく今日の俺はツイていない。
もっと世の中というのはシンプルであってもいいと思うのだが。
これでは神に祈る気が失せるというもの。
まったくもって世界は俺に優しくないと、改めて思い知らされた気分だ。
日常の中、例えば買い物などに出かけた道の上で攫うのがオーソドックスであり、一番多い手口だ。
誘拐といえばこのやり方を想像する人間も多いが、実はこれはあまり賢いやり方とは言えない。
ルーティン化した生活から行動を予測しやすいという利点はあるが、道端で人一人を騒がせずに捕まえて運び出すというのはどれだけ人目を避けても目立つ。
現場で一人でも目撃者が出ると、誘拐は完遂するのが難しくなる。
何せ誘拐される人間というのは、政治か経済での重要人物の関係者であることが多い。
犯人の特徴や逃走時の情報が多少でも揃えば、捜査員は血眼で探すことだろう。
逃走経路や潜伏場所など、入念な準備を重ねた上でもなお分が悪いと思えてならない。
対して今回、聖女の館へ忍び込んで攫おうとした件だが、実はこれが意外と成功確率の高い手法だったりする。
道端を歩いている人間と鍵をかけた家の中にいる人間では、一見すると後者の方が誘拐の難易度は高いように思えるが、ターゲットの所在が明らかであればそれだけ誘拐の計画は立てやすい。
確かに鍵のかかった家に忍び込むという難しさはあるが、そこさえクリアできれば自宅が安全と思い込んで暢気に眠っている人間など、驚くほど簡単に拉致できてしまう。
経験とタイミングさえ揃えば、周囲にバレることなく闇夜に紛れてことを済ませることも不可能ではない。
誘拐に手慣れた人間なら道端で攫うより、自宅で眠っているところを狙う方を選ぶのが妥当だと言える。
恐らく、今夜聖女の館に誘拐目的で忍び込んだ賊は、これが初めての仕事だということはないはず。
いつものやり方で問題なく仕事を済ませようとしたところを、たまたま居合わせた俺によって阻止されたといった具合か。
もっとも、俺から言わせれば情報の秘匿が甘い司教を頼ったのが、そもそもの失敗だったと言えるだろう。
聖女の部屋でかち合い、暗闇の中で互いを睨みあう俺と誘拐犯。
ノックダウンしている他の誘拐犯の仲間は当分復帰できそうにないので、目下の脅威は目の前の誘拐犯一人だけだ。
さっさと無力化するか、騒ぎに気付いた館の人間が駆けつけるまでの時間を稼げば事件は解決。
誘拐を阻止した俺は褒美をもらえてハッピーとなるはずなんだが、一つ問題なのは目の前のこいつが思ったよりも手練れだったということだ。
普通に考えれば、誘拐の計画に修正不可のイレギュラーが発生した時点で撤退するのがセオリーなのだが、向こうにその気配が感じられない。
顔が見えないので今一つ狙いは読みにくいが、まだ俺を排除して聖女を攫うと考えているのか、もしくは後退のタイミングを計っているのか、隙を見せれば襲い掛かってきそうな怖さもまたある。
単純に誘拐犯を無力化するなら魔術でも使えばいいのだが、その選択肢を取るつもりはない。
あの司教に手紙を出した本人が実行犯の中にいるかどうかはともかく、戦闘スタイルや魔術などから俺と見抜いて情報を持ち帰られると、どんな搦め手で俺やその周辺に攻撃が及ぶか分かったものではない。
つまり、こいつは今ここで魔術を使ってでも速攻で倒すのが上策、俺という情報を極力前面に出さずに追い返すのが次善となる。
どちらを選ぶか悩ましいが、こういった手合いは逃げ時を掴むのが上手いため、わざと逃がして仲間か黒幕の所まで泳がせるのも手ではある。
その場合、こいつらが教義回帰派の人間だと予想は付いているので、確証を得るための一押しにしかならないだろうが。
「あ、あなた達!何者ですか!ここでなにを―」
賊と睨みあっていると、俺の背中にいるリエットから甲高い声が上がる。
当然ながら突如現れた不法侵入者には混乱しているようで、寝起きにしてはテンションが高い。
まぁ安全な寝床と思い込んで寝ていたらこうなっているのだから、落ち着いていられるわけもない。
騒ぐリエットが煩わしく、いっそ殴って気絶させようかとも一瞬考えたが、流石に助けに入っておいてそれをやってはまずい。
前には賊、背に喚く女と、刺激的な板挟みにストレスを覚え始めたその時、部屋の扉が勢いよく開かれて人がなだれ込んできた。
「リエット様!今の音は―っ曲者!」
そう声を上げながら、手にしたランプで室内に明りを齎した人物は、俺と賊を見ると険しい顔で睨みつけてきた。
明らかに俺達を纏めて敵と見なしているその人物は、意外なことにスーリアだった。
日頃から側役としてリエットについているとはいえ、荒事の気配で乗り込んでくるあたり、護衛役としての役目もこなしているのだろうか。
背後には女性兵士を引き連れており、どうやらさっき俺が賊を派手に吹っ飛ばした時の音を聞きつけてやって来たようだ。
ここでスーリアと遭遇するのは問題はないのだが、他の人間が一緒にいるのは少しまずい。
そもそも聖女誘拐計画に俺とパーラだけで臨んでいるのは、俺達と繋がりがあるシペアやスーリアに教義回帰派が危害を加えないようにするためだ。
誘拐犯がここまで潜り込めている以上、聖女サイドの人間に回帰派のスパイかその協力者がいる可能性は排除しきれない。
今俺の顔を覆う仮面を取り払い、スーリアに正体を明かせば、連中の魔の手が彼女に及びかねない。
スーリアは魔術師としては優秀ではあるが、組織内での変則的な圧力に抗えるほどの老獪さを持ち合わせるにはまだまだ若すぎる。
俺の仮面を外して正体を明かし、協力を得るという流れは望めまい。
「痴れ者が!リエット様から離れなさい!」
賊同士がにらみ合い、片方に守られるようにしているリエットに、スーリアは一瞬考え込む様子を見せたが、すぐにそれを振り払うように迷いのない目を向けてくる。
今この瞬間、部屋の中にいる敵が何者かなど悩む必要はないと頭を切り替えたのだろう。
鋭い声を発すると同時に、スーリアが両手をこちらに向けて突き出す。
掌に幾何学模様の灯りが浮かび上がり、やがて召喚陣が形成された。
見覚えのある召喚陣の登場に、次に何が起こるかは簡単に予想がつく。
「ガンダ!レフュー!捕えなさい!」
虚空へ呼びかけるように張り上げたスーリアの声で、一層輝きを増した召喚陣の中から二つの影が飛び出して来た。
それぞれが意志を持って動く影が、俺と誘拐犯を目指してうねりながら迫る。
眼前に迫ったことで、影の正体が判明する。
それは蛇だった。
恐らく全長は三・四メートルといったところか。
斬撃にも耐えられそうな鱗に覆われた鈍色の胴は、大の大人が抱え込むのに苦労しそうな太さがあり、大蛇と呼ぶのに躊躇わないレベルの巨体だ。
召喚陣から姿を現し、スーリアの命令に従っている姿から、この二体の蛇は召喚の契約を結んだ個体ということになる。
今日まで魔術師として成長を重ねてきたのか、こうして大型の動物を使役しているスーリアの姿を見ると感慨深い。
最後に別れた時の力量では、一度に召喚できる数は一体が基本と聞いていたが、こうして二体同時に呼び出しているとなれば、あの頃とは比べ物にならないほどに上達している。
召喚術がまともに使えないと半べそをかいていたあのスーリアがほんの数年でこうなるのだから、若者の成長というのは実に羨ましくも恐ろしい。
スーリアの命令に従い、器用にもリエットを避けながら俺達の周囲を回るように体を巻いた蛇が、そのまま獲物を締め上げる動きを見せる。
巨体に似合わないそのスピードは、蛇嫌いの人間が見たら気絶を免れない怖さだ。
とぐろが収縮すれば全身の骨が砕けそうな勢いのそれから逃れようと、俺は宙に飛びあがって体を逃がす。
壁に取り付けてあった何かの金具を掴んで態勢を固定し、眼下を見る。
すると一瞬前まで俺の体が合った空間が、蛇の胴体によって一気に埋め尽くされた。
捕まえるというより、縊り殺すことを目的としていそうな動きは、スーリアの賊に対する冷酷さの体現にも思える。
間一髪で回避できたことに安堵しつつ、チラリと視線を誘拐犯へ向けてみれば、憎らしいことに奴も同じく回避には成功していた。
だが空中にいる俺と違い、向こうはバク転で蛇の胴体から逃げていたため、駆け付けた兵士のすぐそばへ着地してしまい、一見すると窮地に自ら飛び込んだようにも見える。
「貴様!大人しく縛に―ぁっ!」
スーリアと違い、兵士達は最初から殺すつもりで斬りかかっていくが、誘拐犯はそれらをあっさりと避ける。
まだ明るさが足りない場所では黒づくめの人間に視覚的な優位があり、おまけに身体能力の点でも誘拐犯は彼女達を上回っていた。
迫りくる剣を泳ぐように躱しながら、手にした短剣を振るって次々に兵士達の剣を捌いていく様は、ただの誘拐犯にしておくには惜しい強さだ。
正直、腕利きの戦士が誘拐に手を染めているだけにしか見えない。
「こいつ!っ手強い!」
「囲むな!狙われた者は身を守ることに専念しなさい!誰か!槍をとってきて!」
兵士達も荒事への対処が本職だけあり、誘拐犯に攻められながらも連携して足止めを仕掛けつつ、流石に実力の差を理解してか、近付かずに倒す方法として長柄の武器を持ち出すようだ。
兵士の一人がどこかにあるであろう槍を取りに行こうと廊下へ飛び出したその時、誘拐犯の動きが変わる。
リエットの方へと体の向きを変えると、矢のような勢いで飛び掛かっていく。
眼では見えていても、果たしてどれだけの人間がその動きに反応できたか。
少なくとも兵士達は、急に標的を変えた誘拐犯の動きに若干の混乱を覚えたようで、ほんの一瞬、体を硬直させてしまっていた。
だがその一瞬が命取りとなり、誘拐犯を止めることができなかった。
そのままリエットをかっさらうかのかと思われたが、誘拐犯が予想外の行動を見せる。
なんと、手にしていた短刀を構え直すと、リエット目がけて刺突するような態勢をとったのだ。
攫うでもなく脅すでもなく、明らかに命を取りにいくその動きは、リエットの誘拐を諦めた末の苦しまぎれの決断にしてもまともとは言えない。
ヤゼス教の象徴を殺してしまえば、回帰派にとっても損失は大きすぎるだろうに。
これが追い詰められた末の誘拐犯の独断だとしても、見過ごすことはできない。
突然の凶行を阻止するべく、俺は張り付いていた壁を蹴ってリエットの前へ盾となるように降り立つ。
賊も俺の姿に気付いたが、突進を急に変更できるほどの猶予はないようで、そのまま押し込むように短剣の切っ先を俺へと向けてきた。
ここで俺に構わずリエットを狙われていたら面倒なことになっていただろうが、上手くこちらの思惑通りに目標を俺へスイッチしてくれた。
敵の狙いが定まると実にやりやすい。
すぐさま可変籠手を鉤爪に変化させ、迫る刃を迎え入れるようにして爪の間へ通した瞬間、手首を返して短剣を絡めとる。
あまり質のいい鉄ではないのか、絡めとった瞬間に短剣は半ばから折れてしまう。
こうして敵は武器を一つ失った。
あっさりと剣を壊されたことで、賊の方も息を呑んだのがわかる。
心も挫けてくれるかと期待したいが……無理だった。
誘拐犯は奪われた武器に拘泥せず、新しく背中から抜き出した短剣を再び構えると、まだしぶとくリエットを狙って切っ先を揺らす。
一応、俺が間にいるので攻め手に迷ってはいるようだが、この硬直時間もそう長くはもつまい。
こんな状況でなければ諦めない心を褒めてやったものを、だがしかし、今はそのしつこさが特段苛立たしい。
別に賊の一人ぐらい、殺したところで何憚ることもないのだが、逆にいつでも殺せるのならまだ生かして何かに利用したいという気持ちもある。
ただ一つ気になるのは、こいつが急に誘拐犯から暗殺犯に変わった理由だ。
元々誘拐が出来れば御の字、無理なら殺すという計画だったとすれば、俺というイレギュラーがトリガーとなったのは十分あり得る。
しかしそうではなく、誘拐よりも暗殺の方が先に計画として組み込まれていた場合、非常に厄介な話になってくる。
真実がどうかはわからないが、それはそれとして今の状況が混沌としていて頭が痛くなりそうだ。
もういっそのこと、リエットを俺が攫っていこうかという思いがよぎってしまう。
事態をさらに複雑にしてしまう可能性はあるが、今俺達が欲しているのは聖女の身柄というより、癒しの力の方だ。
館には回帰派の内通者もいる可能性がゼロではないとなれば、色々と混乱している中にリエットを残していくのが正解とは言い難い。
普通に考えれば、聖女という地位に相応しい身の安全が保障されるべきだが、こうして誘拐犯が寝床に来れてしまっている以上、ペルケティア国内での安全など怪しくなる。
そう一瞬考えたところで、決断はすぐに出た。
対峙している誘拐犯の体が、短剣を振るう予兆を見せた僅かな隙に合わせ、俺は携帯していた水筒から水を魔術で吸い上げ、それを一気に周囲へまき散らす。
魔術を使うことで俺の正体が知られる危険はあるが、今はとにかく手数を求めて腹をくくる。
イメージとしてはスプリンクラーが近いが、実際は魔力をたっぷりこめて雹の落下ほどの衝撃を纏った水しぶきだ。
素肌に当たれば、燃える闘魂のレスラーが放つ本気のビンタぐらいの痛みはある。
「痛っ!?」
「水!?魔術!?」
誘拐犯だけでなく、兵士達やスーリア、リエットですら等しく激しく打ち据えると縮こまらたのは生物として当然のリアクションだ。
唯一、スーリアの召喚した蛇だけは平気なようで、水弾を浴びても痛みにのたうつことは微塵もない。
鉄ほどに頑丈そうなあの鱗なら、多少の勢いがついた程度の水しぶきはなんのダメージにもならないのだろう。
中々強力な動物をスーリアが使役していることに、内心で舌を巻く。
一体どんな手段でこれだけの生き物と契約したのか、機会があればじっくり武勇伝を聞かせてほしいところだ。
これで誘拐犯と聖女サイドには、水魔術が使える人間が今夜居合わせたという情報を与えてしまったわけだ。
流石にそれだけで俺へと辿り着くとは思わないが、犯人を血眼になって探す中で無実の水魔術師が犠牲になるかと思うと慚愧に堪えない。
とはいえ、人目の多くはこれで晦ますことが出来た。
室内の多くの人間がほんの一瞬動きを止めたチャンスを見計らい、ベッドで蹲っていたリエットを肩に担ぐと、ベッドから床、床からバルコニーへと転がるようにして向かう。
幸いにも誰の妨害も受けることなくバルコニーの欄干へ足をかけ、噴射装置を起動して空中へと躍り出る。
「え、なにすっここ二階―きゃあああああああ!?」
突然バルコニーから飛び出したことにリエットは悲鳴をあげる。
箱入りの聖女が生身で空を飛ぶ経験などあるはずがないので、その悲鳴には同情してもいい。
空中で態勢を変えて屋根まで一気に上昇すると、一旦パーラが潜んでいる木とは逆の方へと向かう。
あーあーやっちまった、やっちまったよ。
これで俺も誘拐犯の仲間入りか。
一応考えはあってのことだが、他に手はなかったのかという微かな後悔が頭をよぎるも、今はこの行動に意味があるのだと信じてネガティブな感情に蓋をする。
念のため、パーラが見つからないようにとの配慮だが、誘拐犯どころか館の兵士達も追ってくる気配がないので、一先ず追跡はないと見立てて大きく迂回してからパーラと合流した。
リエットを担ぎながら、昼間から拠点にしていた木の枝葉の中へと飛び込むと、ここを発つ前と変わらない姿のパーラが俺を出迎えてくれた。
「おかえり、って言いたいところだけど、確か誘拐を阻止しに行くって話じゃなかったっけ?なんで攫ってきてんの?」
館へ向かって構えていた銃を降ろすと、俺の肩にいるリエットの姿を見て深い溜息を吐いた。
予定とは大分違う結果に呆れているようだが、それに関しては俺にも言い分はある。
「むしゃくしゃしてやった、後悔はしている。…まぁ説明するのも難しいが、あっちじゃ随分ゴタついててな。成り行きだ、成り行き」
「だからって自分が誘拐犯になってどうするのよ」
「あの誘拐犯に捕まるより、俺が身柄を押さえたほうがましなんだよ。あのままだと、下手すりゃ聖女様は殺されてたかもしれんし」
誘拐犯がどういう指令を受けていたかは分からないが、既にリエットを殺しにかかったという事実を知ってしまった以上、放っておくとリエットは殺され、パーラの腕は一生治らない可能性もあった。
だったら俺がリエットを攫う方がずっといいはず。
「殺されるって…誘拐犯に?どういうこと?」
「そこはあとで話す。一先ず場所を移そう。ここもいつまでも安全とは限らんしな」
あの時の事情を知らないパーラにもじっくりと説明してやりたいところだが、今いる場所は事件現場から近すぎる。
捜査の手がここまで来る前に、少しでも遠くに行っておくのが利口だ。
「さて、リエット様。申し訳ないが、しばらくは俺達に付き…あ?」
肩に担いでいるリエットにそう声をかけたところで、白目をむいて意識のない顔が見えた。
どうやら館を離れる際、バルコニーから生身で飛び降りたのがよっぽどの恐怖だったようで、すっかり気絶してしまっている。
先程から身動ぎ一つしていないとは思っていたが、まさか意識を失っていたとは。
「…気絶しちゃってるね。このまま運んじゃう?」
「そうだな。騒がないのは楽だから、このままでいいだろ。だがその前に、濡れた服をどうにかしてやるか」
大人しく荷物となってくれるのならば文句はないが、これから移動するのにリエットの恰好が少し心配ではある。
先程、室内で水魔術を派手に使った影響で、リエットの夜着は大分濡れており、今夜の肌寒い空気の中では風邪をひいてしまうかもしれない。
「パーラ、替えの服にできそうなものはあるか?」
「そんなの急に言われても……私が今朝着てたやつでもいい?薄手だけど、濡れてるよりはましでしょ」
急な俺の頼みで荷物を漁ったパーラが、丈の長いシャツを取り出した。
今の気温だと少し生地の厚さは心許ないものの、濡れていない服というだけで十分ではある。
「それでいい。悪いが、着替えさせてやってくれ」
「え、私がやるの?」
「聖女の着替えを男の俺がやってどうする」
「そりゃそうだけど…んもー、私だって片手なんだからね」
「仕方ねぇだろ。他にいないんだからよ」
命の危険があるのならともかく、気絶している女の服を男が勝手に着替えさせるのはいささかまずい。
せめて同姓であるパーラなら、後々リエットにも言い訳が立つので、大変だとは思うがパーラに任せるのが妥当だ。
文句を言いながらパーラがリエットの夜着に手をかけたところで、俺は二人の姿を背にして視線を周囲の警戒へと動かす。
俺達の潜んでいる辺りはまだ静かなものだが、聖女の館の方では明かりがともり、人が動き回る気配があった。
聖女が攫われたとあっては騒ぎにならないはずがなく、今はまだ混乱してはいるようだが、じきにそれも収まって捜索の人手が出てくる。
そうなる前にここから離れたいので、早いところリエットの着替えが終わってほしいものだ。
「んん?え、あれ?これって……アンディアンディアンディアンディちょっとアンディ!」
出発の時を心待ちにしていると、背後からパーラの激しく動揺した声が聞こえてきた。
俺の名前を連呼するその様子は、よっぽどのことがあったと見える。
「どうした。着替えは済んだか?それとも問題発生か?」
「問題発生の方!ちょっとこれ見て!」
「見てってお前、聖女様に服はちゃんと着せてるのか?振り向いたら裸でしたはまずいぞ」
「そんなのどうでもいいから!早く見てってば!」
「ぐぇっ、おいバカ!首を引っ張るなって!もげたらどう…する……?」
突然俺の首が後ろに引っ張られ、パーラが強引に俺の首の向きを変える。
無理矢理首を動かされたことで痛みを覚え、抗議の声を上げた俺の目に移ったのは、半端に服を脱がされたリエットの姿だった。
ヤゼス教の象徴である聖女の裸を見てしまったことに後ろめたさは感じたものの、それ以上に俺が見たものに強い衝撃を覚える。
何故パーラがリエットを半裸の状態で留めた上で俺を呼んだのか、その理由が確かにそこにはあった。
「チ〇コ!チ〇コが生えてるんだよ!?聖女なのに!チ〇コが!」
「チ〇コ言いすぎだろ。落ち着け」
露出しているリエットの股間を指さし、卑猥な言葉を連呼するパーラだが、混乱からそうなっているのは分からなくはない。
俺だって混乱しているのだから。
目の前にいるのが聖女であることは間違いない。
影武者の可能性はゼロとは言わないが、一度顔を合わせただけであっても、見間違えるほどにリエットの存在感は薄くない。
こいつがリエット本人で間違いないとしても、聖女と言うには大きく矛盾するパーツが備わっている。
見た目は女性、しかし股間には紛うことなき男性の象徴が生えているという、どうやっても見過ごせない性別の矛盾だ。
……これは嫌な予感がしてきた。
ヤゼス教はリエットのことを、『奇跡の癒しを扱える女性である』と公言している。
にも拘らず、目の前では男でしかありえない証拠が隠しようもなく主張しており、これでは教会は大々的に嘘を言って信者を騙していることになる。
教会としてもリエットを完全に女性として扱っている以上、聖女の性別の矛盾は確実に秘匿したい情報なのではなかろうか。
代々名を継ぐ聖女が、何故今回だけは男となっているのか疑問はあるが、これが何か教会が秘かに抱える問題の一環だとすれば、途端に背筋が寒くなってくる。
ひょっとしたら俺達は見てはいけないものを見たとして、ヤゼス教の全てを敵に回す羽目になるかもしれない。
聖女の誘拐だけでも神敵認定されてもおかしくないのに、さらに教会の闇とも言える部分に触れ、一気にテンションが下がって来た。
俺達はただ、パーラの腕を治すためだけに動いていたというのに、こんな面倒くさそうな秘密を知ってしまうとは、つくづく今日の俺はツイていない。
もっと世の中というのはシンプルであってもいいと思うのだが。
これでは神に祈る気が失せるというもの。
まったくもって世界は俺に優しくないと、改めて思い知らされた気分だ。
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