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月が奇麗ですね

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 神の教え、自然現象、天空崇拝など、人が己の力を遥かに超えた存在を認識した時、それらを対象として信仰が生まれる。
 宗教とは教義を持たずして成り立ちはしないが、何を崇めるかでその宗教の色が決まると言っても過言ではない。

 ただ一つの神だけを信じ、他を邪悪なものとして否定する一神教。

 自然の中で起きる様々な現象を神に見立て、人の手に負えないものとして崇める自然崇拝。

 宇宙を作った創造神を至高としつつ、下界に暮らす人間には関心を示さない神を、崇めるも拝まずのスタイルである天空神崇拝。

 これらの他にも多くの形で宗教が存在するわけだが、救済と安寧を謳うことで人を集め、厳しい世界を生き抜くために協力し合うコミュニティを形成していくのはどこの宗教でも同じだ。
 始まりは崇高であっても、組織が肥大化していけば派閥も生まれ、多くの思惑が複雑に絡む組織運営には闇が作り出される。

 人の手によって生み出されたがために、底のない泥沼のような不安定さと不気味さがついてまわるのだから、宗教というのは実に恐ろしいシステムだ。






 司教の屋敷に忍び込んだ次の日、俺はシペアやスーリアから教会の内情を聞くべく、以前使ったあの秘密基地めいた場所へとやって来た。
 生憎スーリアは仕事が忙しくて来れなかったが、多少時間に融通が利いたシペアだけが同行している。

 わざわざこの場所を選んだのは、他の教会の人間がいる所でするには少し危険な内容だと思ったからだ。

「教会内できな臭いとなると、教義回帰派ってのがある。堕落した教会を本来のあるべき姿に戻すべきだってんで、あちこちに出張ってあれこれ口出ししてるらしい。派閥って程の規模じゃないが、古臭いルールの復活を求めて騒ぐ声だけはデカいもんだから、お偉いさんには疎まれてるそうだ」

 そう言うと、シペアは昼食として持参した具だくさんのサンドイッチに齧り付く。
 ソクッという小気味よい音を立てて分断されるサンドイッチは、生み出された断面から香草の香りが漂う。
 対面にいる俺にまでその匂いが届くほどのフレッシュさだ。

 今日のようによく晴れた日に外で食べる昼食は、さぞかし旨いことだろう。
 ただ、旨い飯を食っているにしては、シペアは難しそうな顔をしている。

 今語った話は、少なくとも飯の味が幾分か下がる話ではあるようだ。
 教義回帰派とやらも、シペアにしてみるとあまり好意的な存在ではないらしい。

「その回帰派なんだが、聖女の力はもっと市井の人間にも開放するべきだーとかで、少し前までは派手に騒いでたんだと。結構強引な手も使ってたらしくて、聞いた話じゃヤゼス教で内紛が起こる危機にまでなってたらしい」

 なるほど、さっきのなんとも言えない表情は、回帰派の何者かがシペアの仕事中を邪魔したことがあるからか。
 真面目に働いているところに、外からやってきて勝手に騒ぐだけの存在程うっとうしいものはない。

「結局、当時の聖女が上手く収めたが、今でもたまになんかあれば騒ぐもんだから、こっちの仕事にも影響があって参っちまうよ。…で、なんでそんな連中のことを聞くんだ?なんかあんのか?やっぱり聖女絡みか?」

「いや、ちょっとした好奇心だ。少し教会のことを探ってたら、色々と気になってな。別にそいつらがどうこうって話じゃないさ」

 聖女絡みであるのは確かだが、馬鹿正直に誘拐のことを明かすことは出来ない。
 シペアの安全のためにも、これに関して深く知らせるのはまずい。

 あくまでも『不穏な活動をしてもおかしくない人物か集団』という大雑把なキーワードで心当たりがないか尋ねただけだ。
 その答えが教義回帰派がそれらしいと言ったのはシペアであり、ピンポイントでそいつらを狙って話を聞き出したわけじゃない。

 あの司教の屋敷で見つけた手紙の差出人は、どうにも教団内部の人間のような気がして、聖女の誘拐を企てる可能性がある存在を探ってみたわけだが、一応怪しさでは最有力候補がすぐにわかったのは手っ取り早くてありがたい。

「その教義回帰派とやらだが、代表とかいるのか?派閥ってほどじゃないにしろ、それなりの人間が集まってんだろ?」

「俺もそこまで詳しいってわけじゃないが、聞いた限りだとそういうのに相当する立場の人間はいない」

「いないって…そんなことあるか?そこそこの規模なら、集団を纏める奴がいるはずだろ」

「教義回帰派ってのは、教会の堕落を憂いて騒ぐ連中がいつからか名乗りだしたらしい。そういう連中が認知されたせいで、一種の派閥に似た集団と見做されてるのさ。ただ、誰かが率いているというよりかは、教会を正そうって思想に共感してそれぞれが個別に動いてるってだけだ」

「ほう、そう聞くと悪い集まりってわけでもなさそうだな」

「実際悪いのばっかりじゃないんだ。何人か回帰派と見られる人間は知ってるが、そこまで過激な質ってわけでもないし、普段は分別も利いてる。ただ、本当に堪えられないことには声を上げずにはいられないって感じだ」

 元来正しくあるべき組織の運営も、人間が携わっている以上は腐敗や堕落からは逃れられない。
 道徳観念を備えた大所帯なら自浄作用も期待できるが、どこの世界もそううまくはいかないのが人の業だ。

 そんな中でもまともな人間は間違いを正すべく立ち上がるも、ロビー活動並みに声を張り上げるのを疎ましく思われるのだから、なんともやるせないものである。
 ただ、過ぎたるは猶及ばざるが如しというように、やり過ぎた結果がそうであるならば同情は禁物だ。

「その回帰派ってのは、なんか見分ける方法はあるのか?確か、教会内じゃ派閥を見分けるのに色の付いた布を身に着けてるんだろ?」

「回帰派ってのは派閥じゃないからな。あくまでもそういう考えに同調して、自発的に動いてる人間がいるってぐらいで、見分けるのに何か身に着けてるってのは聞いたことはない。まぁ強いて言えば、持ち歩いている書の装丁が少し違うってぐらいか」

「書の装丁?聖書のことか?」

 歴史の長い宗教に欠かせない聖書は、聖職者とは常にセットである品だ。
 聖典クラスならともかく、個人が持ち歩く程度の書物なら多少は個人でカスタマイズをしていてもおかしくはない。

「ああ。丁度今俺が持ってる…こういうやつだ」

 そう言ってシペアが懐から取り出したのは、文庫本サイズの本だった。
 厚さも三センチはないほどで、革張りの黒褐色をした表紙のど真ん中に、共通語で聖書とだけ小さく書かれてある。
 ややくたびれた革の表紙から推察するに、以前に誰かが使っていたものを協会からシペアへ支給したのだろう。

「今出回ってる聖書は俺が持ってるみたいなのが主流なんだが、大分前にはここの表題の部分がパルセア語だったんだとよ。んで、回帰派の連中ってのはとにかく伝統的な形にこだわるもんだから、表紙の文字をパルセア語で書き直してるらしい」

「勝手にか?それってどうなんだ?」

 聖書といえば宗教の象徴であり、それを後から勝手に手を加えるというのはどうなのか。
 たとえ表紙の文字を変えるだけでも、後の世で改竄と騒がれかねないというのに。

「よくはないな。こいつは教会が俺達修道士に借し与えてる物だから、破損させたり内容を勝手にいじったりすれば懲罰は確実だ。ただ、回帰派もそれは分かってるもんだから、表紙に紙を張ってそこにパルセア語で聖書と書くって寸法さ。これなら聖書に傷は付かないし、返納する際に紙を剥がせば元通りだ」

 支給品に手を加えるにしても、復元が容易なら心理的なハードルも低く、お揃いの印で帰属意識も作りやすい。
 お偉いさんに文句を言われたら、すぐに戻して後からまた紙を張り直すという誤魔化し方も出来る。
 小規模とはいえ回帰派が潰されることなく存続しているのは、そういう所でうまくやっているのもあるのかもしれない。

 意外と如才ない回帰派の手口に感心していると、俺に向けられているシペアの視線に気付く。

「…どうした?変な顔して」

「変で悪かったな。アンディお前、回帰派とやりあう気か?」

 心無い俺の言葉に一瞬不快そうな顔をしたシペアだったが、それもすぐに引っこめると咎めるように尋ねてきた。
 ここまでの会話で、俺が回帰派を警戒しているのに気付かないわけがなく、教会に俺が目をつけられる可能性を危惧しているのだろう。

「まさか。俺は平和を愛する男だぞ?ヤゼス教に喧嘩を売るなんざ、怖くて考える気もしないっての」

 聖女の誘拐を実行しそうな人間ということで、教義回帰派に目をつけたのは間違いないが、なにもそれら全てと事を構えようというわけではない。
 あくまでも誘拐の実行犯を狙うだけであり、これからの俺の行動はむしろ教会のためになるものだ。
 教会内でのいざこざで聖女を取り合うなど、ヤゼス教の面子が大いに損なわれかねず、それを防ごうとしている俺には感謝してもらいたいぐらいだ。

「お前がそんなタマかよ。ま、一応信じてやるけど、なんか助けがいるなら言ってくれ。出来ることは多くないが、協力は惜しまないからさ」

「ああ、その時は頼むよ」

 勘が鋭い所もあるシペアは何かあるのを察しているようで、助力を口にはしつつもどこか控えめなのは、教会の人間としての立場と友情を秤にかけてのこれが精一杯だからか。
 むしろこちらの事情をほとんど明かさずにこうまで言ってくれるのだから、大分友情に傾いた言葉だとも言えよう。

 これで聖女誘拐の件をシペアに明かせば協力も得やすいが、危険に巻き込むことを恐れるならここまでが限度だ。
 例の司教の屋敷で見つけた手紙からも予想できるが、聖女の誘拐を企てている何者かは教会関係者か内部に相当詳しい人間だと思われる。

 もしシペアに聖女誘拐の件を明かせば、こいつの立場上、教会上層部に報告しないわけにもいかず、そこから件の人物に情報が漏れる可能性もそこそこ高い。
 聖女誘拐を事前に知る人間がいると察知されれば、誘拐犯は保身のために身を潜めてしまいかねないのだ。

 せっかく実行犯が現れるタイミングが分かっているのなら、みすみす警戒させて逃がすよりも、待ち構えて捕縛したほうがいい。
 誘拐を防いだうえに犯人も捕まえたという功績があれば、それを笠に着て聖女の力でパーラの治療も望めるはず。

 聖女誘拐を防ぎ、現場を押さえて犯人を捕まえることで、俺達がペルケティアまでやってきた目的がようやく果たされることだろう。





 昼を大分回った頃、昼食を終えたシペアと別れた俺はその足で聖女の館の近くまでやって来た。
 相変わらず正門は警備が厳重で、近付くだけで門衛が俺をジッと見つめてくる。
 館が女人禁制であるため仕方ないとはいえ、何もしていないのに不審者のような目を向けられてはいい気がしない。

 そんな視線を避けるように館から少し離れ、ほどよく背の高い木の一つに近付いて幹に体を預ける。
 今日は日差しがそこそこ強く、この季節のペルケティアとしては比較的気温が高いため、木陰の居心地の良さに一息つけた。

 それとなく周囲を窺い、俺を注目している気配がないのを確認すると噴射装置を起動し、頭上の枝葉の中へと紛れるように飛び込む。
 そのまま枝の一つに捕まり、葉の隙間を通す様に木々の枝を辿って、先約として潜んでいた人影の隣に腰掛ける。

「ようパーラ、様子はどうだ?」

 カモフラージュのための濃緑色のマントを頭から被っていた人影は、近付いてきたのが俺だと気付いて警戒を緩め、秘かに構えていたナイフを鞘に収めた。
 そして、頭を覆っていたフードを取り去ると、退屈そうに欠伸をかみ殺す顔が現れた。

 人影の正体は言わずもがな、パーラだ。
 こいつには今朝から聖女の館の監視を頼んでおいたのだが、この様子だと何の変化もない退屈な時間だったとみえる。

「どうもなにも、何の変化もなし。さっき門衛が交代した以外、館周辺で人は動いてないよ。アンディが通りがかったぐらいね」

 そう言って、俺の方へと差し出してきたスコープを受け取り、館の方を窺う。
 彫刻のような立ち姿の門衛が二人という、先程見た光景のままだ。
 今のところは門衛があからさまな警戒を示すような異変はないらしい。

「ふむ、誘拐犯が下見に来るのも考えてたが、流石にそこまで迂闊じゃないようだな」

「門衛が目を光らせてるんだよ?よっぽどのバカじゃなきゃ、真昼間から館の周りを無駄にうろつかないでしょ」

「普通ならそうだが、俺が誘拐犯だったら、多少の騒ぎを起こしてでも門衛の反応を見ておきたいな。増援が来る時間を計るだけでも、十分価値はある」

 とはいえ、あの手紙の送り主が司教の協力を得たとすれば、下見になど来ずともとっくに聖女の館内部の情報は得ていそうではある。
 基本的に男子禁制ではあるが、許可があれば男でも聖女の館の中には入れるそうなので、司教ともなればその地位で建物内の見取り図ぐらいはどこかから手に入れていても不思議ではない。

『聖女の誘拐になど手を貸すものか』と、あの司教が真っ当な忠誠心を発揮していればその限りではないが、善良な聖職者とは言い難いところを知っているだけに、誘拐犯には十分な情報が渡っていると俺は睨んでいる。

「今日か明日あたりが新月だとは思うが…陽が落ちるまでまだ早いな。パーラ、監視は俺が引き継ぐから、お前は少し休め。腹減ってるなら、どっかに食いに行ってもいいぞ」

 朝から今まで、長いこと樹上でジッと身を潜めて監視に勤しんでいたパーラにはここらで一旦リフレッシュさせてやりたい。
 流石にこのまま夜も監視を続けさせるのは酷だ。

「大丈夫、アンディが用意してくれてたからお腹は減ってないよ。それより、シペアの方はどうだった?なんか話聞けた?」

「ああ、それらしい連中に目星は着けた。教義回帰派ってのが怪しい。確実にそうだってわけじゃないが、一番疑わしいのはそいつらだ」

 監視を続けながら、シペアから教えてもらった回帰派についての情報をパーラに話してやる。
 正直、回帰派を疑いはしてもまだ犯人確定ではないため、先入観を持たせるのは危険だとは思うが、必要な情報は共有しておかなくてはならない。

 幸いにして館の監視は退屈な仕事だとパーラが実証してくれたので、時間的な余裕はある。
 ゆっくり語るとしよう。





「…パーラ、早くしろ」

 静かに、しかし先を求めるように強くパーラに呼び掛ける。
 すると返ってきたのは、悔しさ交じりの諦観の声だった。

「無理だよ、アンディ。私にはできない」

「できないじゃない、やるんだ」

 弱音を吐くパーラを叱咤するように促すが、気持ちはわかるがためにあまり強くは言えない。
 今直面している困難は確かにつらい。
 だがそれでも、乗り越えなければ先はないのだ。

「だって…もう黒い野菜はないよ。やっぱり赤い野菜でやった方がよかったって、絶対」

「どっちにしろ同じだろ。赤いのもそこまで多くねぇよ」

 言い訳をするパーラに呆れを覚えつつ、たった今の勝負に勝ったという微かな達成感を溜息に込めて吐き出す。

 陽が落ちてからしばらく経った頃、表立った訪問者が来なくなったこともあり、館の方でも門扉が閉じられた。
 夜間は完全に門を閉ざすようで、今は見るべきものは館の窓越しに分かる微かなシルエットぐらいだ。

 それも少し前には建物の明かりが完全に消え、すっかり静寂と暗闇の中に聖女の館は沈んでしまった。
 おかげでほとんどやることもなく、パーラに頼まれて山手線ゲームをするほど、極限に暇を持て余した人間の過ごし方をしている。

 こちらの世界には山手線ゲームなどないため、ルールとしてはリズムを刻まずにお題に沿った言葉が出無くなったら負けというシンプルな構成だ。
 今は色の黒い野菜の名前を言い合っていたのだが、異世界であっても黒い野菜というのはあまり多くなく、早々にパーラがギブアップすることとなった。

「もういいよ、次のお題なん―アンディ」

 新月の夜、辺りには街灯などもなく、聖女の館でも夜の明かりが消えて寝静まったと思われる中に、パーラが何かを感じ取ったらしい。
 それまでの退屈そうな態度から一変した、狩人のような鋭い気配に当てられて、俺もだらけていた体に力が籠る。

「どこだ?正面の門か?」

 光のない館の周りをジッと見つめるが、俺の目では異変を見つけられない。
 恐らくパーラは音で何かに気付いたのだろう。
 それなりの距離はあるが、騒音がほとんどない環境であれば館の辺りは十分こいつの感知範囲内だ。

「少し離れたところの柵。乗り越えるみたい。人数は…多分三人」

 門衛は夜間には館内での警戒に移ったのか外に立ってはいないが、それでも不法侵入者が正門を無理に突破すれば気付かないわけがない。
 館内へ侵入しようとするなら、柵を乗り越えるのが比較的安全だ。
 ただし、防犯装置が無ければの話だ。

「夜遊びに出てた館の住人がコッソリ帰って来た、って線はないか?」

「分かってて言ってるでしょ。明らかに忍び込もうとしてるってば」

「だよな。柵の方は警報かなんかはあるはずだろ。作動してないのか?」

 ヤゼス教の重要人物が暮らす館なら、魔道具か何かを使った防犯装置は備えていて当然だ。
 以前いかに館の警備が厳重かスーリアから聞かされた時、夜間は柵にちょっと触っただけで派手に警報が鳴ると教えてもらっている。

「そうみたい。あの悪徳司教がどうやってか、警戒用の装置を黙らせたってのは突飛かな?」

「否定は出来んが、断定するのもちょっとな」

 例の手紙には司教に助力を頼んでいたが、聖女を攫うのに直接的な関与は流石にしないだろう。
 となれば、警報装置を切るぐらいが関の山だとして、それを件の司教がやった可能性は低くない。

 現に謎の侵入者は警報を鳴らすことなく柵を乗り越えているのだから、誰かが装置を無効化したのは事実だ。
 得てしてこの手の装置は外部から操作はできないため、内部からの手引きは確実にあったと言える。

「奴ら、玄関扉にとりついた。誰にも気付かれてない。やっぱり警備に鼻の聞く獣人種がいないとあっけないね」

「仕方ないさ。この辺じゃ獣人の鼻も使い物になるか怪しいしな」

 能力的なことを考えれば、嗅覚の優れた獣人種を門衛や館内警備に据えるのが推奨される。
 不審者にもすぐに気付き、真っ当な訪問者も嗅ぎ分けられるからだ。

 しかし、マルスベーラでは獣人種をほとんど見かけることはなく、本来素質として向く衛兵などの仕事には全く獣人種が就いていない。
 実はこの街、特に宗教関係者が多くいるエリアでは、よく独特なお香が炊かれている。

 一般人が暮らす場所はそうでもないが、教会関係の施設があればそこでは必ずと言っていいほどお香が炊かれており、異臭というほどではないが特徴的なその臭いが苦手な人も珍しくはない。
 そのため獣人種、とりわけ犬や狼、猫や熊といった系統の獣人はそれらの匂いを嫌い、マルスベーラの街では教会施設へあまり近寄りたがらないそうだ。

 自然と教会で働くのは普人種が多くなり、聖女の館にも普人種の門衛が当然のように配されていた。
 決して普人種至上主義が台頭しているわけではない。

 門衛に獣人がいれば嗅覚で異変に気付けていただろうに、敷地内へあっさりと忍び込めたのは機械技術に偏重しすぎた弊害のせいか。

「よし、じゃあそろそろ動くぞ。俺は聖女の部屋に行くから、パーラはここで援護だ。必要ならお前の判断で銃でもなんでも使え」

 誘拐犯が侵入したのなら、リエットが眠っている部屋まで一直線で向かうはず。
 ここまでお膳立てされているのなら、聖女の部屋ぐらいは把握しているだろう。

「了解、気を付けてね」

 パーラが銃を構えたのを見届け、俺は噴射装置でリエットの部屋を目指して飛び上がる。
 今まで監視していた中で、館の二階にある部屋の内、南側に面したバルコニーのある部屋に当たりをつけている。

 音を殺してバルコニーに降り立ち、窓越しに室内の様子を窺う。
 明りが全くない部屋は完全な暗闇なのだが、魔力で視力を強化すると微かに見えてくるものがあった。

 しっかりと家具が置かれた十分な広さのある部屋は、とても使用人や側仕えが使うものとは思えない。
 その中でも一際存在感を放っているベッドに横たわる人影があった。
 恐らくあれがリエットだろう。

 ぼんやりと分かるシルエットの胸の辺りが穏やかに上下している様子から、深い眠りの中にいると分かる。
 誘拐犯が爆音を立てて入室でもしてこない限り、そのまま眠りは妨げられないだろう。

 一応施錠を確かめようと窓に手を触れたその時、リエットの眠るベッドの周囲に音もなく人影がやってきた。
 闇に溶け込むような全身黒一色のローブを纏った姿のせいで、不気味さが際立つ三人の人影は、聖女誘拐のために忍び込んだ輩に違いない。
 先程パーラが言った不審な人影の人数とも合っている。

 これが暗殺者ならリエットの命はおしまいだが、奴らの狙いはあくまでも誘拐だ。
 ベッドを囲むように立っていた人影の内の一人が、懐から何かを取りだす仕草を見せる。
 ここからでは見えないが、リエットを縛るためのロープかさらに眠りを深くするために嗅がせる薬品か、どちらにせよ人を攫うのに必要な処置を行うつもりのようだ。

 思ったよりも賊の行動が早く、介入するタイミングとしてはここらが潮時だろう。
 窓には鍵がかかっており、コッソリとした侵入は諦めて、強引に突入するために全身に魔力を巡らせる。

 念のため、顔の上半分を隠す仮面をつけておく。
 人助けのためとはいえ、素顔を晒して不法侵入するのは躊躇われるため、こんなこともあろうかと用意しておいた。
 ローブのフードも被れば、パッと見ただけでは俺だと分かるまい。

 リエットの体に誘拐犯の手が伸ばされ、触れるかどうかまで距離が縮まった瞬間、俺は窓を蹴破って室内へ飛び込んだ。
 破片となったガラスが舞う中、一番手近な人影に近寄って顔面に拳を叩き込む。

「ぅぶっ!?」

 突然のことで反応できなかったその人影は、吸い込まれるように顔へと突き立った拳でくぐもった悲鳴を上げて吹っ飛んでいく。
 手応えからして気絶させたと確信し、悪ければ死んでいる可能性もあるが、不審者に欠ける情けはない。

 部屋の隅に転がった一人目を横目に、次の人影の首元目がけて回し蹴りを放つ。
 顎を撃ち抜ければよし、最悪でも首ごと脊髄をへし折るつもりの蹴りは、未だ驚愕から来る硬直から抜け出せない人影を捉え、その体を床へと叩きつける。
 衝撃による気絶か、少なくともダメージによる行動不能には出来たと思う。

 ここまでは上出来だ。
 三人の不審者の内、二人は三秒もかけずに無力化できた。
 残る一人もこの流れで倒そうと、攻撃へ移ろうとした次の瞬間、微かな風切り音が耳に触れる。

 考えるより早く、足を崩して床へと逃げる。
 すると先程まで俺の体があった空間を、何かが鋭く撫でるように通過していくのを感じた。
 恐らく刃物の類だとは思うが、暗い中ではその正体を明らかに出来ない。

 この部屋にいる人間でそれを成せるのは一人しかおらず、どうやら残る最後の一人の不審者は、先に倒した二人よりも状況判断には優れているらしい。

 急に部屋に飛び込んできた人間に味方を倒されながらも、動じることなく攻撃を繰り出せるのは手練れの証拠だ。
 ただの誘拐犯かと思っていたが、こいつはかなりの腕を持つ戦士である可能性が高い。

 そうなると追撃を警戒しないわけにはいかず、俺は床に触れている腕と肩を激しく打ち、その反動で跳ね起きるとリエットの眠るベッドの方へ飛び退る。
 すると案の定、床を硬い何かが削るような音が聞こえた。
 こちらと違って夜目がよく冴えているのか、俺の位置は奴に見えてしまっているようだ。

「ふがっ…なん…え、ちょえ、なに!?誰!?」

 そのままベッドの上を転がるようにして距離をとったところ、ベッドの主と体がぶつかってしまった。
 たった今まで暢気に眠っていたリエットも、流石にこれだけ人が動き回れば起きないわけもなく、目覚めた瞬間に自分の側にいた俺を見て驚愕の声を上げる。

 よもや寸でのところで誘拐されかけていたとはリエットも知らないだろうが、しかし自室にいつの間にか知らない人間がいることには十分恐怖を覚えているようだ。
 警戒心丸出しのリエットに、誘拐の件を伝えて一応俺は味方だと伝えるべきかとも一瞬思ったが、賊の一人と対峙しているこの状況ではそれで隙を作りたくはない。

 とはいえ、怖がらせ続けては後の交渉に支障をきたしかねない。
 できれば兵を呼ばずに、大人しくしてくれる程度には落ち着いてくれればこちらとしても都合がいい。
 ここで一つ、気の利いたセリフでもかけるとしよう。

「こんばんは、聖女様。今夜は月が奇麗ですね」

「新月だけど?」

 ぬぅ、もっともだ。
 今が夜ということもあって、日本における古の文豪の言葉を引用してみたが失敗だったか。
 文学的な気遣いというのも難しいものだ。
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