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男を女装させる時の女共のなんとも楽しそうなこと
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スーリア達と再会してから五日後、聖女の屋敷に潜り込む作戦が決行される。
早朝から俺達が泊まる宿へと迎えに来たスーリアに、パーラ監修の下揃えられた真っ当な女性としての服のお披露目をすることとなった。
勿論、それらを装着して女性と化した俺もだ。
「うん、似合ってる似合ってる。可愛いよアンディ君」
「どうも…」
パーラのセンスによって選ばれ、俺が身に着けることになったのは、この世界の一般女性が身に着けているごく普通のワンピース風のものだ。
全体的に灰色に近い地味な色合いだが、所々にアクセントとして赤い模様があるのはパーラが絶対に折れなかったおしゃれポイントだそうだ。
確かに可愛らしい服だとは認めるが、それも俺が着るとなると話は違う。
「ねー、かわいいでしょ~。本当はもっと明るい色がよかったんだけど、土いじりするのに汚れが目立たないようにって、アンディがどうしても譲らなくてさ」
「へぇ、明るい色かぁ。それもアリだねぇ。次の機会にはそうしてみようか」
「俺は植物に関わる仕事をしているって体で潜り込むんだぞ。派手な格好してどうする。あと次なんて来ねぇよ」
実は最初にパーラがチョイスしたのは、首から腰までこれでもかというぐらいに刺繍がついていた高級なドレスだった。
小金持ちの箱入り娘が着るなら何の違和感もないが、園芸のアドバイスに訪れた人間が着るにあまりにも似つかわしくない。
ごねるパーラを何とか説得して、この地味なワンピースに落ち着いたわけだが、引き換えにスカートだけは何故か絶対に外せないと譲らなかったのは痛い。
下着も、辛うじて男物ではあるが、言い張れば女性物とも見えなくもないのを穿かされているのはお互いに妥協した結果だ。
「…しかし、このスカートは慣れねぇな。股間がスースーして落ち着―」
「こらー!」
「あいで!…なにしやがる!?」
慣れない違和感でスカートにはためかせていると、急にスーリアに頭を殴られてしまった。
非力な少女相応の腕力しかないスーリアの拳などさほど痛くはないのだが、あまりにも突然で、そして理不尽な暴力には抗議せざるを得ない。
「スカートを捲り上げちゃダメ!はしたないでしょ!」
幼子を叱りつけるようなスーリアの調子に、自分の足を見下ろしてみると、裾が上に引っ張られているがパンツが見えるほどではない。
男の足が見えたとて、別にはしたないことはないと思うのだが。
「はしたないって、別にこんぐらい大したことじゃないだろ」
「もーしょうがないなぁ、アンディは。女の子のスカートは秘密の塊なの。これから女として振る舞うなら、そういう行動は怪しまれる元になっちゃうよ」
「そうか?」
「そうなの」
言われてみれば、確かに今の俺の行動は女がするにしてはあまりにも軽率だ。
ちょっとした動きから女装がバレるのを恐れるなら、こういうところでも気を付けるよう今から心掛ける必要はあるだろう。
「アンディ君は今から女の子になるんだからね。行動の一つ一つに、男らしさが出ないように気を付けて。さて、それじゃあ早速お化粧をしちゃいましょう。さ、こっちに座って」
釘を刺す言葉をかけられながら手招きされ、備え付けの椅子に腰かける。
スーリアの私物だろうか、化粧道具が入った小箱が目の前のテーブルに置かれた。
「肌に粉をつけるのはダメね。土いじりで汗をかくし。…うん、眉毛を少し細くして、口に紅でも差しましょ」
手慣れた様子でいくつかの道具を駆使し、俺の顔に手を加えていくスーリアは、随分と楽しそうではある。
化粧とは少し違うが、何度か特殊メイクを自分に施した経験から言えば、スーリアのしているのは随分簡単なもののように思える。
何となく拍子抜けな感情を抱いていると、スーリアがそれを見抜いたように笑う。
「アンディ君って顔立ちは悪くないから、あんまり変化を足しちゃうと違和感が出ちゃうの。でも女性らしさは少し足りない気がするから、際立つ部分を選んだお化粧がいいと思うよ。…はい、こんな感じ。どう?パーラちゃん?」
あっという間に出来上がった俺の女装メイクの出来は、何故かパーラに批評のチャンスが与えられた。
鏡を見せてくれれば、俺にだって良し悪しぐらい言えるのに。
「うーん、悪くないけど、もうちょっと化粧濃くしてみない?なんか男とも女ともとれる微妙な感じなんだけど」
「そういう風な印象を狙ったんだもの。アンディ君の歳なら中性的な見た目でも十分だよ。それに、さっきのアンディ君の振舞いを見たら、少し男っぽさを残した方が万一の時は誤魔化しやすいでしょ」
「…そっか、ぼろを出した時にもそういう育ち方をしたって思わせることが出来るってわけね。流石スーリア、やるねぇ」
なるほど、スーリアもしっかりと考えがあったようで、単に面白がってこうしたというわけでもなさそうだ。
俺がこれから向かう場所は、男子禁制の厳しい世界だ。
男の身で忍び込んだのがバレれば、股間の象徴とお別れする可能性も皆無ではない。
パーラ曰く中性的に仕上がった俺の顔なら、たとえ女装中の行動の中で男を匂わせてしまったとしても、ガサツな性格で普段からそういう男勝りな行動をしていると言い切ればなんとかなりそうだ。
目的を果たし、俺が男の体のままで帰還するためにスーリアが知恵を絞ってくれたというのなら、文句の言いようもない。
「あとは髪の毛だけど…はいこれ」
顔の次は髪型の工作へ移ったのだが、スーリアが手にしていた青い布切れが俺の目の前に突き出された。
「なんだこれ?」
「前髪を少し押さえる感じで頭に巻くの。アンディ君ってちょっと目付きが…なんていうか、あれだから」
ヘアバンドみたいなものか。
俺の今の髪型は適当に切りそろえたままだが、女のショートカットと言い張れないこともない。
短髪女性のお洒落の一つにカラフルな布を頭に巻いているのはよく見かけるが、まさか自分がそれをやる羽目になるとは。
前髪を押さえる形で布を巻けば、確かに目の印象も変わって見えるだろう。
だが、言い方よ。
「こういう時は目付きが悪いって、はっきり言ってくれていいぞ。濁すとかえって傷つく」
「は、あはは…うん、まぁ、そういうアレだから、前髪で少し目を隠しておいてね」
「どういうアレだよ。…こんな感じか?」
まつ毛エクステをいじるOLの要領でヘアバンド風に布を巻き、少し位置を調整してから女性二人へと顔を向けてみる。
スーリアの言う通りにはできたと思うが、やはり女性目線でのチェックは欠かせない。
すると次の瞬間、室内の空気がザワリと波打った気がした。
「あらぁ~」
ここで問題があれば修正の手も入るところだが、何故かスーリアは俺を見て艶っぽい声を上げた。
想像していたリアクションとは違うが、否定的な感情はないようなのでまずは安心する。
ただ、問題はパーラの方だ。
先程起きたただならぬ空気の揺らぎは、主にこのパーラから発せられたと言ってもいい。
俺をジッと見つめ、時間が止まったように身動ぎもせずに言葉も発していない。
何か不服でもあるのかと訝しみかけた時、パーラが興奮したように鼻息を荒くし始めた。
そしてそのまま俺との距離を詰めると、勢いよく肩を掴んできた。
「アンディ、ちょっと私のことお姉ちゃんって呼んでみて」
「はぁ?お前何言ってんだ?なんでそんなこと―」
「お姉ちゃん!パーラお姉ちゃんって!さ、ほら言って!」
「だからなんでそんなことさせるんだよ?おい肩が痛ぇって!?スーリア!こいつなんとかしてくれ!」
一体何がこいつを駆り立てるのか、血走った目で俺の肩辺りを握り込むパーラが少し、いや大分怖い。
たまらずスーリアに助けを求めたが、こいつもまた妙な雰囲気を出している。
「いや、これは仕方ないよ。今のアンディ君って、妹感がすごいもの」
「なんだよ、妹感って」
わけがわからないが敢えて言わせてもらうなら、若干だがパーラよりも俺の方が身長が高いのだし、どっちかというと俺が姉だろうに。
「こう、なんていうのかな、斜に構えてるおませさんって感じ?そこにパーラちゃんの姉本能が暴走してしまったんだよ、多分」
やばいな、俺にはこいつの言ってることが一ミリも分からん。
何かを愛でるという気持ちは分からんでもないが、だとしても俺の何にそんな要素があったというのか。
まぁ好意的に受け取られているのなら悪い気はしないが。
「ほらーアンディ、お姉ちゃんって言って。あ、可愛くだよ?」
「うるせぇ!誰が言うかよ!おいスーリア!もう格好は出来上がってんだろ!?さっさと行くぞ!あとパーラ!お前もとっととシペアのところに行け!遅れたら承知しねぇぞ!」
これ以上パーラと一緒にいるのは危険と判断し、スーリアの手を引いて部屋を後にする。
俺達はこれから聖女の下へ行くが、シペアが探し物のためにパーラの探索術、とりわけ嗅覚の方を頼りにしたいとこのとで、そちらの手伝いにパーラは行くことになっている。
派手な魔術を使うわけでもないなら片腕でも十分なので、これもリハビリの一環として、友の助けにもなるのならと引き受けた。
聖女の屋敷に向かう途中までならパーラと一緒に行こうとも思ったが、あの様子でその気も失せた。
背後からの俺を呼びとめる声を無視して、さっさと宿の外へ出る。
そのまま聖女の屋敷へと向けて歩き出したが、繋いでいたスーリアの手が俺の歩みを止めた。
「待って待って。屋敷まではあの馬車で行くよ」
そう言って指さした先には、一頭立ての馬車が停まっていた。
ご丁寧にも、待機していた馭者は俺達を見てわざわざ馭者台から降りたあたり、あれに乗ってスーリアがやって来たと見て間違いはないだろう。
「随分と立派な馬車だな。まさか、お前の専用車とか言わないよな?」
馬一頭が曳くのに適した小型の車体は見るからに上等と分かるもので、太陽の光を浴びて白く輝いている。
乗降のための扉には、教会所有の証としてヤゼス教を象徴する紋章がデカデカと刻まれており、ただの教会関係者が使うには分が過ぎていそうだ。
馭者も女性が勤めている辺り、聖女の館の敷地内まで楽に乗り付けられるようにとの配慮だろう。
「そんなわけないってば。わざわざアンディ君のために、リエット様が手配してくれたんだよ。教えを授けてくださる方を迎えるのに、馬車も出さぬのは失礼だ、って」
「そりゃまた、随分と買われたもんだな」
大した身分でもない人間を迎えるのに、上等な馬車をスーリアに預けるとはよっぽど件の花が心配なのか、あるいは噂の聖女の我が儘も極まっているのか。
「まぁね。アンディ君がいかにすごいかをしっかりと説明したら、こうなったの」
「おい、無駄に大きく言ってくれてねぇだろうな?」
この豪勢なお迎えが期待の表れだとするなら、スーリアが大袈裟に俺のことを向こうに伝えたという可能性もある。
まだ現場も見ていないのに、さも解決できますといったスタンスで乗り込むのは流石に心苦しい。
「大丈夫、ありのままを伝えたから。さ、早く乗ろ。リエット様をあんまり待たせちゃよくないよ」
そのありのままについてを聞き出したいところだが、スーリアがさっさと馬車に乗ってしまったため、仕方なく俺も後に続いて馬車に乗り込む。
外見から予想はしていたが、車内はやはり相応に狭く、大人が三人も乗れば息苦しさを覚える程度の広さしかない。
ただ、内装は随分と手が込んでいるようで、外が見える窓はガラスが使われ、周囲の壁は上質な布が張られている設えは、貴族が使う馬車にも劣らないほどだ。
進行方向を背にして座ったスーリアの対面に俺が腰かけると同時に扉が閉まり、少ししてゆっくりと馬車が走り出した。
ガタガタと石畳を踏む車輪にはしっかりとサスペンションが効いているのか、思ったよりも揺れが少なくて驚く。
バイクと比べるのは酷だが、それでも馬車としてはかなり性能がよさそうだ。
それだけに、このレベルの馬車を寄越す期待にはプレッシャーも覚え、もしもこれで向こうの不興を買いでもしたら、金輪際パーラの肩は治らないままとなってしまいかねない。
そういうのも含めて、今のうちにスーリアには色々聞いておきたい。
「それで例の育ちの悪い花についてなんだが、もうちょっと詳しい情報が欲しい。花の種類とか症状とか」
「あぁ、うん、そうだね。ごめんね、そういうのって事前に教えとけばよかったんだけど」
「いや、お前もここのところ忙しかったらしいしな。時間が作れなかったのも仕方ないさ」
本当はこの数日の間に聞き取りするべきだったのだが、スーリアが忙しくて今日まで会う機会はなかったのだ。
急遽外部の人間を聖女の屋敷へ入れるには、周囲の人間への根回しや調整が当然必要となる。
新入りで一介の女官に過ぎないスーリアは、その段取りを取り付けるのに奔走していたために今日まで暇な時間が作れなかったのだろう。
女装の条件付きとはいえ、むしろ短期間で聖女の屋敷に入れるようになった手腕を褒めたいぐらいだ。
「―って感じかな。どう?何か分かりそう?」
「ふぅむ、いくらかは予想もつけれるが、やっぱり実物を見ないとハッキリとは言えんな」
「だよねぇ」
スーリアが言うには、その植物は春先に芽が出て蕾が出来たところまでは順調だったのだが、そこから二カ月近く、花が咲かない状態のままなのだそうだ。
異世界なら開花まで長くかかる植物もあるが、普通の花なら蕾が作られて二カ月もそのままというのは異常だと判断してもいい。
既に一度、庭師が調査をしたらしいが、それでも原因不明で俺にお鉢が回って来たとなれば、何か普通ではない原因があるのかもしれない。
植物の生育不良には様々な原因がある。
分かりやすいのだと養分や日照時間の不足、土壌の㏗値に鳥や虫の食害、植物だけがかかる病気も少なくない。
この世界特有の病気なら俺の手には負えないが、できれば俺の知識でどうにかなってほしいものだ。
「…しかし、そういう植物に関してならキャシーさんが適任だと思うんだがな。そっちには頼らなかったのか?」
夜葬花という二つ名にあるとおり、植物を操る固有魔術が使えるキャシーなら、生育不良の花もどうにか出来るかもしれない。
庭師に助けを求めるのと同じように、聖女ならキャシーに要請してその花をどうにかしてもらうことも難しくはないはずだ。
「それはそうなんだけど、最初の頃は花の異常に気付いてなかったからね。異常が発生した時には、キャシーさんが任務でマルスベーラから離れてたんだよ」
シペアからも聞いたが、聖鈴騎士の序列上位者は現在、軒並み任務で主都から離れており、当然キャシーもそうだ。
件の花が最初は順調に育っていただけに、聖女がキャシーに助けを求めるタイミングも遅れ、必要を感じた時には頼みの夜葬花は遠くへ行っていたというわけだ。
どうにかしようと俺に提案が出されたくらいだ。
恐らく帰ってくる時期も読めないほど、キャシーも忙しくしているに違いない。
「そりゃ残念。この手の問題なら、あの人が一番上手くやってくれそうなのにな」
「ほんとにね」
実際、キャシーの魔術は植物に対してなら全能と言っても過言ではなく、以前彼女に品種改良してもらった種は二年ほど経った今でも腐ることなく休眠状態を維持しており、それを思えば花の開花を促すくらい簡単にやってのけそうな気もする。
だがいない者はいない、ない袖は振れぬ、うどんに半チャーハンといった諺通りに諦めざるをえまい。
「あ、そろそろ着くよ」
体感時間としては二十分弱といったところか。
それ位の時間を馬車の中で揺られて過ごしていると、窓から見える景色でスーリアが到着の近いことを教えてくれた。
この街の地理にはあまり明るくない俺だが、聖女の屋敷に通じる道なら少し前に通ったばかりなので見覚えはある。
道の先にある屋敷はもう目の前と言っても過言ではなく、あと数分もすれば門をくぐれるぐらいに近付いている。
「アンディ君、一応言っておくけど、公式の場じゃないとはいえ、リエット様にはちゃんと敬意を払ってよ?」
「お前は俺を何だと思ってんだ。お偉いさんにいきなり横柄な態度で臨むバカがどこにいる」
「だって、たまにアンディ君ってそういうとこあるよ?偉い人だろうが気に食わなければ噛みつくって感じに」
「俺は狂犬かよ」
突然失礼なことを言うスーリアに、不満を隠さずにそう言ったところ、困ったような顔でさらに返された。
確かにそういう気概は持っているが、とはいえ初対面の相手に何の理由もなく噛みつくほど俺はイカれてはいない。
「まぁ、その聖女ってのが人間的に問題があれば、俺だって黙っちゃいないがな。スーリア、お前から見て聖女はそうされても仕方ない人間か?だったら俺も初対面から飛ばしていくが」
犇めく人の群れを見て、『見たまえ、人がゴミのようだ!』と笑いながらほざく聖女なら、俺だって相応な接し方をするつもりだ。
「そんなわけないでしょ!?本当やめて!?」
「そうか?シペアから聞いたが、結構な我が儘言って周りをこき使ってるらしいじゃねぇか」
「あぁ…うん、まぁそういう噂はあるね。でもそれって実は違うんだよ。…ここだけの話だけど、実はリエット様に付いてる古株の女官達が、聖女様のためにーって名目で周りに色々無茶を言ってるの。私が入る前からそうだったから、もう随分常態化してるみたい」
なるほど、聖女の周りを固める女官にしてみれば、それらしく体裁を整えるために各方面に働きかけるのも仕事の内と思っているわけだ。
恐らく、自分達はなにも悪くなく、周りは聖女のために動くのが当然と思っての無茶な物言いがあるのだろう。
聖女も代替わりはするが、周りを固める女官に関しては年齢次第で代替わり後も仕える者がいてもおかしくはなく、ある種の共通認識として傲慢な振舞いが引き継がれていったのかもしれない。
ヤゼス教の象徴に相応しい格を示すのは分からなくもないが、上から急な仕事を割り振られる下の者は走り回り、それが巡り巡って聖女自身の評判に影響が出ているわけだ。
教会が囲い込んでいるも同然の聖女は為人もあまり知られておらず、それらの動きを他から見た人間には聖女が我が儘だと誤解するのには十分な材料になる。
「私はリエット様の側についてまだそんなに長くないけど、リエット様が我が儘を口にしたのなんてほとんど聞いたことはないよ。せいぜい、アンディ君を屋敷に連れてくるために馬車を用意するのと、屋敷に入る手間を省けってのぐらい」
「そりゃまた、随分と慎ましい我が儘だな。日程の調整には何人が走り回ったのやら」
側仕えの伝手とはいえ、大した身分も後ろ盾もない人間が屋敷にやってくるのだ。
野放図に客を受け入れるには、あの屋敷は大げさすぎる。
それに少しでも早く花の診察をして欲しいのか、俺が屋敷の門で止められる時間すらも惜しいようだ。
いつの時代も、お偉いさんの周りの人間は張り切るもので、聖女の意向を叶えるべく、きっと多くの人間が犠牲になったことだろう。
―失礼します。館に到着しました。
そんな話をしているうちに馬車が目的地に到着したと、馭者台の方から壁越しに伝えられた。
窓から見える景色には、以前も見た門番が立つ館の入り口があり、馬車はそのすぐ前で停車しているようだ。
「ご苦労様でした。そのまま門を潜って、玄関側まで行ってください」
―わかりました。
スーリアの指示で再び馬車は走り出し、門番に止められることなく玄関前までやって来た。
前はスーリアを呼び出すのにも俺とパーラはギルドカードの提示を求められたのに、今回は外部の人間が乗っている馬車ごと通っても止められることはなかった。
これはさっきスーリアが言った通り、屋敷に入る諸々の手続きが省略できるようにと鶴の一声でもあったのだろう。
玄関前までやって来た馬車から降りると、送迎の役目を終えた馬車は来た道を戻ってどこかへ行ってしまった。
てっきりあの馬車は聖女の専属かと思ったが、さっさと屋敷から出ていったとあたり、教会が運用している馬車の一つといったところか。
「さて、リエット様はもう庭で待ってるはずだから、あまり待たせないようにしないとね。じゃあ行きましょう、ディアナちゃん」
「おう……ディアナちゃん?」
確実に視線は俺を捕えていながら、スーリアの口から飛び出したのは知らない名前だ。
俺達以外にそんな名前の誰かがこの場にいるのかと見まわしてみたが、他に人影はない。
「どうしたの?ディアナちゃん。まさか自分の名前を忘れたなんて言わないよね?」
「あ、あぁ、そういう……お―ええ、行きましょう、スーリアさん」
女の姿で名前がアンディでは流石にまずいので、この姿の時はディアナという偽名をスーリアは用意したらしい。
別段珍しい名前でもなく、記憶にも残りにくいという点ではいいチョイスだ。
既に聖女のテリトリーにいるので、口調もちゃんと女風にしてバレないように心がける。
そんな俺の態度に満足そうな笑みで大きく頷いたスーリアは、先を歩いて玄関を潜る。
迷いのない足取りは館の奥を目指しているもので、その背中に俺も続く。
屋敷は外見から予想していた通りに、やや石材が多く使われた建物は古風な作りながら手入れは行き届いた、人が暮らす歴史的建造物といった趣がある。
この世界では贅沢品である窓ガラスがふんだんに使われた通路は明るさも不足はなく、ともすれば冷たい印象だけを齎す石造りの建物にも柔らかな光が温かみを感じさせてくれる。
所々に見られる調度品も派手さはないが存在感を示しており、一国の要人が暮らすにはなんら恥じることのない立派な住居だ。
聖女が暮らす場所だけあって、通路を行く俺達と時折すれ違うようにして現れる使用人は、やはり女性ばかりだ。
格好こそ俺も女のものだが、しかし男としての心は居心地の悪さを覚える。
例えるなら、女子高に潜り込んだ男の娘の気分といえばわかりやすい。
ばれはしまいかと歩き方をさらに内股気味にして歩き続けると、不意に通路が途切れて庭園が目の前に現れた。
緑の芝に色とりどりの花々が出迎えてくれたそこは、以前見た悪徳司教の館の庭に劣らぬ広さだ。
「ここが屋敷の中庭。結構立派でしょ?そのあたりに咲いてる花なんかは、全部リエット様が世話してるの」
庭に入ってすぐにあった生垣には色とりどりの花が咲いており、その一つ一つが大輪となりながら間隔が整っている点からも、人の手によって大事に育てられているのが分かる。
スーリアの言う通り、これが聖女の手によるものだとすれば、随分と愛情を注いだ庭づくりをしているようだ。
「ディアナちゃんに診てもらう花は、あっちの花壇に…あ、丁度リエット様もいるね」
歩きながらスーリアが指さした先には緑一色の花壇がいくつかあり、その内の一つの側に立つ二人の人影が見えた。
二人のうち頭から足元までを純白のドレスローブで身を包む人影が、完全に背を向けているせいで顔は見えないが聖女で間違いないだろう。
素材からして上質な布に金色の刺繍や細工が細かく施されたローブは、多少偉い程度の教会関係者が纏うことは許されない風格がある。
あれでただの修道女というには無理がありすぎる。
残りの一人は藍色の神官服を纏った女性で、頭巾からのぞく顔には深い皺が刻まれており、随分と歳がいっているように見える。
恐らく公務中ではないと思われる聖女の側にああして立っているということは、あの女神官は聖女のプライベートにも立ち会える最側近の女官と見ていいだろう。
「じゃあ行くよ、ディアナちゃん。くれぐれも、失礼はないようにお願いね」
「分かってる」
よっぽど俺が心配なのか、一つ釘を刺してスーリアは息を整えるように深呼吸をすると、歩みを進めて聖女達へ向けて神妙に声をかけた。
早朝から俺達が泊まる宿へと迎えに来たスーリアに、パーラ監修の下揃えられた真っ当な女性としての服のお披露目をすることとなった。
勿論、それらを装着して女性と化した俺もだ。
「うん、似合ってる似合ってる。可愛いよアンディ君」
「どうも…」
パーラのセンスによって選ばれ、俺が身に着けることになったのは、この世界の一般女性が身に着けているごく普通のワンピース風のものだ。
全体的に灰色に近い地味な色合いだが、所々にアクセントとして赤い模様があるのはパーラが絶対に折れなかったおしゃれポイントだそうだ。
確かに可愛らしい服だとは認めるが、それも俺が着るとなると話は違う。
「ねー、かわいいでしょ~。本当はもっと明るい色がよかったんだけど、土いじりするのに汚れが目立たないようにって、アンディがどうしても譲らなくてさ」
「へぇ、明るい色かぁ。それもアリだねぇ。次の機会にはそうしてみようか」
「俺は植物に関わる仕事をしているって体で潜り込むんだぞ。派手な格好してどうする。あと次なんて来ねぇよ」
実は最初にパーラがチョイスしたのは、首から腰までこれでもかというぐらいに刺繍がついていた高級なドレスだった。
小金持ちの箱入り娘が着るなら何の違和感もないが、園芸のアドバイスに訪れた人間が着るにあまりにも似つかわしくない。
ごねるパーラを何とか説得して、この地味なワンピースに落ち着いたわけだが、引き換えにスカートだけは何故か絶対に外せないと譲らなかったのは痛い。
下着も、辛うじて男物ではあるが、言い張れば女性物とも見えなくもないのを穿かされているのはお互いに妥協した結果だ。
「…しかし、このスカートは慣れねぇな。股間がスースーして落ち着―」
「こらー!」
「あいで!…なにしやがる!?」
慣れない違和感でスカートにはためかせていると、急にスーリアに頭を殴られてしまった。
非力な少女相応の腕力しかないスーリアの拳などさほど痛くはないのだが、あまりにも突然で、そして理不尽な暴力には抗議せざるを得ない。
「スカートを捲り上げちゃダメ!はしたないでしょ!」
幼子を叱りつけるようなスーリアの調子に、自分の足を見下ろしてみると、裾が上に引っ張られているがパンツが見えるほどではない。
男の足が見えたとて、別にはしたないことはないと思うのだが。
「はしたないって、別にこんぐらい大したことじゃないだろ」
「もーしょうがないなぁ、アンディは。女の子のスカートは秘密の塊なの。これから女として振る舞うなら、そういう行動は怪しまれる元になっちゃうよ」
「そうか?」
「そうなの」
言われてみれば、確かに今の俺の行動は女がするにしてはあまりにも軽率だ。
ちょっとした動きから女装がバレるのを恐れるなら、こういうところでも気を付けるよう今から心掛ける必要はあるだろう。
「アンディ君は今から女の子になるんだからね。行動の一つ一つに、男らしさが出ないように気を付けて。さて、それじゃあ早速お化粧をしちゃいましょう。さ、こっちに座って」
釘を刺す言葉をかけられながら手招きされ、備え付けの椅子に腰かける。
スーリアの私物だろうか、化粧道具が入った小箱が目の前のテーブルに置かれた。
「肌に粉をつけるのはダメね。土いじりで汗をかくし。…うん、眉毛を少し細くして、口に紅でも差しましょ」
手慣れた様子でいくつかの道具を駆使し、俺の顔に手を加えていくスーリアは、随分と楽しそうではある。
化粧とは少し違うが、何度か特殊メイクを自分に施した経験から言えば、スーリアのしているのは随分簡単なもののように思える。
何となく拍子抜けな感情を抱いていると、スーリアがそれを見抜いたように笑う。
「アンディ君って顔立ちは悪くないから、あんまり変化を足しちゃうと違和感が出ちゃうの。でも女性らしさは少し足りない気がするから、際立つ部分を選んだお化粧がいいと思うよ。…はい、こんな感じ。どう?パーラちゃん?」
あっという間に出来上がった俺の女装メイクの出来は、何故かパーラに批評のチャンスが与えられた。
鏡を見せてくれれば、俺にだって良し悪しぐらい言えるのに。
「うーん、悪くないけど、もうちょっと化粧濃くしてみない?なんか男とも女ともとれる微妙な感じなんだけど」
「そういう風な印象を狙ったんだもの。アンディ君の歳なら中性的な見た目でも十分だよ。それに、さっきのアンディ君の振舞いを見たら、少し男っぽさを残した方が万一の時は誤魔化しやすいでしょ」
「…そっか、ぼろを出した時にもそういう育ち方をしたって思わせることが出来るってわけね。流石スーリア、やるねぇ」
なるほど、スーリアもしっかりと考えがあったようで、単に面白がってこうしたというわけでもなさそうだ。
俺がこれから向かう場所は、男子禁制の厳しい世界だ。
男の身で忍び込んだのがバレれば、股間の象徴とお別れする可能性も皆無ではない。
パーラ曰く中性的に仕上がった俺の顔なら、たとえ女装中の行動の中で男を匂わせてしまったとしても、ガサツな性格で普段からそういう男勝りな行動をしていると言い切ればなんとかなりそうだ。
目的を果たし、俺が男の体のままで帰還するためにスーリアが知恵を絞ってくれたというのなら、文句の言いようもない。
「あとは髪の毛だけど…はいこれ」
顔の次は髪型の工作へ移ったのだが、スーリアが手にしていた青い布切れが俺の目の前に突き出された。
「なんだこれ?」
「前髪を少し押さえる感じで頭に巻くの。アンディ君ってちょっと目付きが…なんていうか、あれだから」
ヘアバンドみたいなものか。
俺の今の髪型は適当に切りそろえたままだが、女のショートカットと言い張れないこともない。
短髪女性のお洒落の一つにカラフルな布を頭に巻いているのはよく見かけるが、まさか自分がそれをやる羽目になるとは。
前髪を押さえる形で布を巻けば、確かに目の印象も変わって見えるだろう。
だが、言い方よ。
「こういう時は目付きが悪いって、はっきり言ってくれていいぞ。濁すとかえって傷つく」
「は、あはは…うん、まぁ、そういうアレだから、前髪で少し目を隠しておいてね」
「どういうアレだよ。…こんな感じか?」
まつ毛エクステをいじるOLの要領でヘアバンド風に布を巻き、少し位置を調整してから女性二人へと顔を向けてみる。
スーリアの言う通りにはできたと思うが、やはり女性目線でのチェックは欠かせない。
すると次の瞬間、室内の空気がザワリと波打った気がした。
「あらぁ~」
ここで問題があれば修正の手も入るところだが、何故かスーリアは俺を見て艶っぽい声を上げた。
想像していたリアクションとは違うが、否定的な感情はないようなのでまずは安心する。
ただ、問題はパーラの方だ。
先程起きたただならぬ空気の揺らぎは、主にこのパーラから発せられたと言ってもいい。
俺をジッと見つめ、時間が止まったように身動ぎもせずに言葉も発していない。
何か不服でもあるのかと訝しみかけた時、パーラが興奮したように鼻息を荒くし始めた。
そしてそのまま俺との距離を詰めると、勢いよく肩を掴んできた。
「アンディ、ちょっと私のことお姉ちゃんって呼んでみて」
「はぁ?お前何言ってんだ?なんでそんなこと―」
「お姉ちゃん!パーラお姉ちゃんって!さ、ほら言って!」
「だからなんでそんなことさせるんだよ?おい肩が痛ぇって!?スーリア!こいつなんとかしてくれ!」
一体何がこいつを駆り立てるのか、血走った目で俺の肩辺りを握り込むパーラが少し、いや大分怖い。
たまらずスーリアに助けを求めたが、こいつもまた妙な雰囲気を出している。
「いや、これは仕方ないよ。今のアンディ君って、妹感がすごいもの」
「なんだよ、妹感って」
わけがわからないが敢えて言わせてもらうなら、若干だがパーラよりも俺の方が身長が高いのだし、どっちかというと俺が姉だろうに。
「こう、なんていうのかな、斜に構えてるおませさんって感じ?そこにパーラちゃんの姉本能が暴走してしまったんだよ、多分」
やばいな、俺にはこいつの言ってることが一ミリも分からん。
何かを愛でるという気持ちは分からんでもないが、だとしても俺の何にそんな要素があったというのか。
まぁ好意的に受け取られているのなら悪い気はしないが。
「ほらーアンディ、お姉ちゃんって言って。あ、可愛くだよ?」
「うるせぇ!誰が言うかよ!おいスーリア!もう格好は出来上がってんだろ!?さっさと行くぞ!あとパーラ!お前もとっととシペアのところに行け!遅れたら承知しねぇぞ!」
これ以上パーラと一緒にいるのは危険と判断し、スーリアの手を引いて部屋を後にする。
俺達はこれから聖女の下へ行くが、シペアが探し物のためにパーラの探索術、とりわけ嗅覚の方を頼りにしたいとこのとで、そちらの手伝いにパーラは行くことになっている。
派手な魔術を使うわけでもないなら片腕でも十分なので、これもリハビリの一環として、友の助けにもなるのならと引き受けた。
聖女の屋敷に向かう途中までならパーラと一緒に行こうとも思ったが、あの様子でその気も失せた。
背後からの俺を呼びとめる声を無視して、さっさと宿の外へ出る。
そのまま聖女の屋敷へと向けて歩き出したが、繋いでいたスーリアの手が俺の歩みを止めた。
「待って待って。屋敷まではあの馬車で行くよ」
そう言って指さした先には、一頭立ての馬車が停まっていた。
ご丁寧にも、待機していた馭者は俺達を見てわざわざ馭者台から降りたあたり、あれに乗ってスーリアがやって来たと見て間違いはないだろう。
「随分と立派な馬車だな。まさか、お前の専用車とか言わないよな?」
馬一頭が曳くのに適した小型の車体は見るからに上等と分かるもので、太陽の光を浴びて白く輝いている。
乗降のための扉には、教会所有の証としてヤゼス教を象徴する紋章がデカデカと刻まれており、ただの教会関係者が使うには分が過ぎていそうだ。
馭者も女性が勤めている辺り、聖女の館の敷地内まで楽に乗り付けられるようにとの配慮だろう。
「そんなわけないってば。わざわざアンディ君のために、リエット様が手配してくれたんだよ。教えを授けてくださる方を迎えるのに、馬車も出さぬのは失礼だ、って」
「そりゃまた、随分と買われたもんだな」
大した身分でもない人間を迎えるのに、上等な馬車をスーリアに預けるとはよっぽど件の花が心配なのか、あるいは噂の聖女の我が儘も極まっているのか。
「まぁね。アンディ君がいかにすごいかをしっかりと説明したら、こうなったの」
「おい、無駄に大きく言ってくれてねぇだろうな?」
この豪勢なお迎えが期待の表れだとするなら、スーリアが大袈裟に俺のことを向こうに伝えたという可能性もある。
まだ現場も見ていないのに、さも解決できますといったスタンスで乗り込むのは流石に心苦しい。
「大丈夫、ありのままを伝えたから。さ、早く乗ろ。リエット様をあんまり待たせちゃよくないよ」
そのありのままについてを聞き出したいところだが、スーリアがさっさと馬車に乗ってしまったため、仕方なく俺も後に続いて馬車に乗り込む。
外見から予想はしていたが、車内はやはり相応に狭く、大人が三人も乗れば息苦しさを覚える程度の広さしかない。
ただ、内装は随分と手が込んでいるようで、外が見える窓はガラスが使われ、周囲の壁は上質な布が張られている設えは、貴族が使う馬車にも劣らないほどだ。
進行方向を背にして座ったスーリアの対面に俺が腰かけると同時に扉が閉まり、少ししてゆっくりと馬車が走り出した。
ガタガタと石畳を踏む車輪にはしっかりとサスペンションが効いているのか、思ったよりも揺れが少なくて驚く。
バイクと比べるのは酷だが、それでも馬車としてはかなり性能がよさそうだ。
それだけに、このレベルの馬車を寄越す期待にはプレッシャーも覚え、もしもこれで向こうの不興を買いでもしたら、金輪際パーラの肩は治らないままとなってしまいかねない。
そういうのも含めて、今のうちにスーリアには色々聞いておきたい。
「それで例の育ちの悪い花についてなんだが、もうちょっと詳しい情報が欲しい。花の種類とか症状とか」
「あぁ、うん、そうだね。ごめんね、そういうのって事前に教えとけばよかったんだけど」
「いや、お前もここのところ忙しかったらしいしな。時間が作れなかったのも仕方ないさ」
本当はこの数日の間に聞き取りするべきだったのだが、スーリアが忙しくて今日まで会う機会はなかったのだ。
急遽外部の人間を聖女の屋敷へ入れるには、周囲の人間への根回しや調整が当然必要となる。
新入りで一介の女官に過ぎないスーリアは、その段取りを取り付けるのに奔走していたために今日まで暇な時間が作れなかったのだろう。
女装の条件付きとはいえ、むしろ短期間で聖女の屋敷に入れるようになった手腕を褒めたいぐらいだ。
「―って感じかな。どう?何か分かりそう?」
「ふぅむ、いくらかは予想もつけれるが、やっぱり実物を見ないとハッキリとは言えんな」
「だよねぇ」
スーリアが言うには、その植物は春先に芽が出て蕾が出来たところまでは順調だったのだが、そこから二カ月近く、花が咲かない状態のままなのだそうだ。
異世界なら開花まで長くかかる植物もあるが、普通の花なら蕾が作られて二カ月もそのままというのは異常だと判断してもいい。
既に一度、庭師が調査をしたらしいが、それでも原因不明で俺にお鉢が回って来たとなれば、何か普通ではない原因があるのかもしれない。
植物の生育不良には様々な原因がある。
分かりやすいのだと養分や日照時間の不足、土壌の㏗値に鳥や虫の食害、植物だけがかかる病気も少なくない。
この世界特有の病気なら俺の手には負えないが、できれば俺の知識でどうにかなってほしいものだ。
「…しかし、そういう植物に関してならキャシーさんが適任だと思うんだがな。そっちには頼らなかったのか?」
夜葬花という二つ名にあるとおり、植物を操る固有魔術が使えるキャシーなら、生育不良の花もどうにか出来るかもしれない。
庭師に助けを求めるのと同じように、聖女ならキャシーに要請してその花をどうにかしてもらうことも難しくはないはずだ。
「それはそうなんだけど、最初の頃は花の異常に気付いてなかったからね。異常が発生した時には、キャシーさんが任務でマルスベーラから離れてたんだよ」
シペアからも聞いたが、聖鈴騎士の序列上位者は現在、軒並み任務で主都から離れており、当然キャシーもそうだ。
件の花が最初は順調に育っていただけに、聖女がキャシーに助けを求めるタイミングも遅れ、必要を感じた時には頼みの夜葬花は遠くへ行っていたというわけだ。
どうにかしようと俺に提案が出されたくらいだ。
恐らく帰ってくる時期も読めないほど、キャシーも忙しくしているに違いない。
「そりゃ残念。この手の問題なら、あの人が一番上手くやってくれそうなのにな」
「ほんとにね」
実際、キャシーの魔術は植物に対してなら全能と言っても過言ではなく、以前彼女に品種改良してもらった種は二年ほど経った今でも腐ることなく休眠状態を維持しており、それを思えば花の開花を促すくらい簡単にやってのけそうな気もする。
だがいない者はいない、ない袖は振れぬ、うどんに半チャーハンといった諺通りに諦めざるをえまい。
「あ、そろそろ着くよ」
体感時間としては二十分弱といったところか。
それ位の時間を馬車の中で揺られて過ごしていると、窓から見える景色でスーリアが到着の近いことを教えてくれた。
この街の地理にはあまり明るくない俺だが、聖女の屋敷に通じる道なら少し前に通ったばかりなので見覚えはある。
道の先にある屋敷はもう目の前と言っても過言ではなく、あと数分もすれば門をくぐれるぐらいに近付いている。
「アンディ君、一応言っておくけど、公式の場じゃないとはいえ、リエット様にはちゃんと敬意を払ってよ?」
「お前は俺を何だと思ってんだ。お偉いさんにいきなり横柄な態度で臨むバカがどこにいる」
「だって、たまにアンディ君ってそういうとこあるよ?偉い人だろうが気に食わなければ噛みつくって感じに」
「俺は狂犬かよ」
突然失礼なことを言うスーリアに、不満を隠さずにそう言ったところ、困ったような顔でさらに返された。
確かにそういう気概は持っているが、とはいえ初対面の相手に何の理由もなく噛みつくほど俺はイカれてはいない。
「まぁ、その聖女ってのが人間的に問題があれば、俺だって黙っちゃいないがな。スーリア、お前から見て聖女はそうされても仕方ない人間か?だったら俺も初対面から飛ばしていくが」
犇めく人の群れを見て、『見たまえ、人がゴミのようだ!』と笑いながらほざく聖女なら、俺だって相応な接し方をするつもりだ。
「そんなわけないでしょ!?本当やめて!?」
「そうか?シペアから聞いたが、結構な我が儘言って周りをこき使ってるらしいじゃねぇか」
「あぁ…うん、まぁそういう噂はあるね。でもそれって実は違うんだよ。…ここだけの話だけど、実はリエット様に付いてる古株の女官達が、聖女様のためにーって名目で周りに色々無茶を言ってるの。私が入る前からそうだったから、もう随分常態化してるみたい」
なるほど、聖女の周りを固める女官にしてみれば、それらしく体裁を整えるために各方面に働きかけるのも仕事の内と思っているわけだ。
恐らく、自分達はなにも悪くなく、周りは聖女のために動くのが当然と思っての無茶な物言いがあるのだろう。
聖女も代替わりはするが、周りを固める女官に関しては年齢次第で代替わり後も仕える者がいてもおかしくはなく、ある種の共通認識として傲慢な振舞いが引き継がれていったのかもしれない。
ヤゼス教の象徴に相応しい格を示すのは分からなくもないが、上から急な仕事を割り振られる下の者は走り回り、それが巡り巡って聖女自身の評判に影響が出ているわけだ。
教会が囲い込んでいるも同然の聖女は為人もあまり知られておらず、それらの動きを他から見た人間には聖女が我が儘だと誤解するのには十分な材料になる。
「私はリエット様の側についてまだそんなに長くないけど、リエット様が我が儘を口にしたのなんてほとんど聞いたことはないよ。せいぜい、アンディ君を屋敷に連れてくるために馬車を用意するのと、屋敷に入る手間を省けってのぐらい」
「そりゃまた、随分と慎ましい我が儘だな。日程の調整には何人が走り回ったのやら」
側仕えの伝手とはいえ、大した身分も後ろ盾もない人間が屋敷にやってくるのだ。
野放図に客を受け入れるには、あの屋敷は大げさすぎる。
それに少しでも早く花の診察をして欲しいのか、俺が屋敷の門で止められる時間すらも惜しいようだ。
いつの時代も、お偉いさんの周りの人間は張り切るもので、聖女の意向を叶えるべく、きっと多くの人間が犠牲になったことだろう。
―失礼します。館に到着しました。
そんな話をしているうちに馬車が目的地に到着したと、馭者台の方から壁越しに伝えられた。
窓から見える景色には、以前も見た門番が立つ館の入り口があり、馬車はそのすぐ前で停車しているようだ。
「ご苦労様でした。そのまま門を潜って、玄関側まで行ってください」
―わかりました。
スーリアの指示で再び馬車は走り出し、門番に止められることなく玄関前までやって来た。
前はスーリアを呼び出すのにも俺とパーラはギルドカードの提示を求められたのに、今回は外部の人間が乗っている馬車ごと通っても止められることはなかった。
これはさっきスーリアが言った通り、屋敷に入る諸々の手続きが省略できるようにと鶴の一声でもあったのだろう。
玄関前までやって来た馬車から降りると、送迎の役目を終えた馬車は来た道を戻ってどこかへ行ってしまった。
てっきりあの馬車は聖女の専属かと思ったが、さっさと屋敷から出ていったとあたり、教会が運用している馬車の一つといったところか。
「さて、リエット様はもう庭で待ってるはずだから、あまり待たせないようにしないとね。じゃあ行きましょう、ディアナちゃん」
「おう……ディアナちゃん?」
確実に視線は俺を捕えていながら、スーリアの口から飛び出したのは知らない名前だ。
俺達以外にそんな名前の誰かがこの場にいるのかと見まわしてみたが、他に人影はない。
「どうしたの?ディアナちゃん。まさか自分の名前を忘れたなんて言わないよね?」
「あ、あぁ、そういう……お―ええ、行きましょう、スーリアさん」
女の姿で名前がアンディでは流石にまずいので、この姿の時はディアナという偽名をスーリアは用意したらしい。
別段珍しい名前でもなく、記憶にも残りにくいという点ではいいチョイスだ。
既に聖女のテリトリーにいるので、口調もちゃんと女風にしてバレないように心がける。
そんな俺の態度に満足そうな笑みで大きく頷いたスーリアは、先を歩いて玄関を潜る。
迷いのない足取りは館の奥を目指しているもので、その背中に俺も続く。
屋敷は外見から予想していた通りに、やや石材が多く使われた建物は古風な作りながら手入れは行き届いた、人が暮らす歴史的建造物といった趣がある。
この世界では贅沢品である窓ガラスがふんだんに使われた通路は明るさも不足はなく、ともすれば冷たい印象だけを齎す石造りの建物にも柔らかな光が温かみを感じさせてくれる。
所々に見られる調度品も派手さはないが存在感を示しており、一国の要人が暮らすにはなんら恥じることのない立派な住居だ。
聖女が暮らす場所だけあって、通路を行く俺達と時折すれ違うようにして現れる使用人は、やはり女性ばかりだ。
格好こそ俺も女のものだが、しかし男としての心は居心地の悪さを覚える。
例えるなら、女子高に潜り込んだ男の娘の気分といえばわかりやすい。
ばれはしまいかと歩き方をさらに内股気味にして歩き続けると、不意に通路が途切れて庭園が目の前に現れた。
緑の芝に色とりどりの花々が出迎えてくれたそこは、以前見た悪徳司教の館の庭に劣らぬ広さだ。
「ここが屋敷の中庭。結構立派でしょ?そのあたりに咲いてる花なんかは、全部リエット様が世話してるの」
庭に入ってすぐにあった生垣には色とりどりの花が咲いており、その一つ一つが大輪となりながら間隔が整っている点からも、人の手によって大事に育てられているのが分かる。
スーリアの言う通り、これが聖女の手によるものだとすれば、随分と愛情を注いだ庭づくりをしているようだ。
「ディアナちゃんに診てもらう花は、あっちの花壇に…あ、丁度リエット様もいるね」
歩きながらスーリアが指さした先には緑一色の花壇がいくつかあり、その内の一つの側に立つ二人の人影が見えた。
二人のうち頭から足元までを純白のドレスローブで身を包む人影が、完全に背を向けているせいで顔は見えないが聖女で間違いないだろう。
素材からして上質な布に金色の刺繍や細工が細かく施されたローブは、多少偉い程度の教会関係者が纏うことは許されない風格がある。
あれでただの修道女というには無理がありすぎる。
残りの一人は藍色の神官服を纏った女性で、頭巾からのぞく顔には深い皺が刻まれており、随分と歳がいっているように見える。
恐らく公務中ではないと思われる聖女の側にああして立っているということは、あの女神官は聖女のプライベートにも立ち会える最側近の女官と見ていいだろう。
「じゃあ行くよ、ディアナちゃん。くれぐれも、失礼はないようにお願いね」
「分かってる」
よっぽど俺が心配なのか、一つ釘を刺してスーリアは息を整えるように深呼吸をすると、歩みを進めて聖女達へ向けて神妙に声をかけた。
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