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路地裏の男女…何も起こらないはずもなく

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 SIDE:パーラ



 朝日を受けて輝く海面に、白い軌跡を残して走っていく船を見送る。
 一日に出入りする船の数がとにかく多いファルダイフの港では、朝一番の出航を多くの人間が見守っていた。
 誰に強いられたわけでもなく、ただ旅立つ船の安全を祈るという意味も込めて、こうして見送るのが港湾施設で働く者の日課となっていた。

 そこには勿論私も加わっていて、昨日少し話をしただけの船員の姿を遠ざかる船に重ね、別れの言葉を心の中で呟く。
 海の恐ろしさを知っている人間ならば、誰だってそうするはずだ。

 それなりの時間をかけて最初の船が十分に沖へと出たところで、港の中央に建つ鐘楼で鐘が叩かれる。
 甲高い金属音を合図にして、次の出航の番を待っていた船が帆を膨らませて走り出す。
 朝の出航を申請している船は全部で十一隻なので、この後は次々と船が桟橋から飛び出していくことになる。

 出ていく船があれば入ってくる船もあるのが港であるため、これらの出港を手際よく捌かなければ、船がゴチャゴチャと詰めかけてきて港湾の機能は保てない。
 そのため、港内での船の動きは綿密な調整がなされており、積み荷の量や船の大きさなどから、速さや小回りも考慮した上で船が動く順番は決められる。

 動き出しに時間がかかる船は後に回したり、小回りが利く船なら安全な距離を保って何隻か同時に出航させたりと、私としては料理屋の昼時といった忙しさに似たなにかを感じてしまう。

 昨日のうちに大まかな流れは決まっているが、不測の事態の一つでも発生すれば、現場の判断で出航の順番に介入するのは稀にある。
 時には、全部の船の動きを緊急的に止めてでも、事態の解決に動かねばならない。

 そしてまさに今、私の目の前ではその不測の事態と言える状況が発生していた。

 たった今港を出ようとした船が操船を誤ったのか、桟橋から離れてすぐの時点で船首が港から出るには少し厳しい方へ向き、そのまま進むと動き出していた別の船に当たるかどうかといった危うい位置取りをしてしまったらしい。

「あーらら、船首側が少し切りすぎてるね。班長ー、これ一旦止めた方がよくなーい?」

 このまま放置していていいわけがなく、後方で全体を監督していた班長に指示を仰ぐ。
 周りで作業中だった人達も私の声に手を止め、万が一に備えてすぐ救助へ移れるように動き出す。

「どうだろうな。あれぐらいなら操舵手の腕で何とかなるが……あぁ、だめだな」

 私の隣までやって来た班長が、その船の様子を見ていると、甲板から船長と思しき人物が布を大きく振り回す姿が見えた。
 あれはこちらへ補助を要請するものだ。

 その日の天候や海流によって船の動きは左右されがちで、普通ならそれを見込んで舵を操るものだが、ああして危険な状況になっているということは、あの船の操舵手が未熟だったというしかない。
 港から出るのは接岸と比べればまだ難易度は下がるため、練習として未熟な操舵手に舵を任せた可能性はある。

「仕方ねぇ。パーラ、またあれ頼むわ」

 私の方を向いた呆れ顔の班長が、問題となっている船を指さす。

「了解、じゃあ東側に流す感じ?」

「ああ、それでいい」

 私の見立てに班長が同意したのを確認し、早速掌を船の方へと向けて魔術を発動させる。
 使うのは風の鞭をいくつも束ね、巨大な手のようにして目標を撃つものだ。

 あの船のような問題には今日まで私自身も何度か遭遇し、そして無事に解決してきた実績がある。
 帆船が動くのに必要な力である風を、私は魔術で自在に操ることができるからだ。

 帆船は機動を風に縛られているが、その風さえ上手く作用させれば、多少無理な動きをさせることも不可能ではない。
 風の手を広げるようにして、船の帆をやや巻き込むような動きで押し込み、前進ではなくほぼ真横へとずらす勢いを与えてやれば、自然と帆船はその場で急激に回頭しはじめる。

 船首が無事に安全な方角へと向いたところで、周りから感嘆の声が上がった。

 ―おぉ、やっぱパーラちゃんの風魔術はすげぇなぁ

 ―見ろよ、奇麗に二隻が離れてくぜ

 ―並の風魔術師には無理だろ、あんなの

 私の所業を見ていた人達からされる称賛の声がなんとも気持ちいい。
 思わず顔がにやけてしまう。
 彼らが言うように、港という環境に置いて風魔術の有用性は中々のものだ。

 港での事故があるとすれば、それは接岸と離岸がほとんどであり、それを補助するために風魔術師が何人かここで働いている。
 他の人が風魔術で帆を押して船が桟橋で停止するまでの距離を多少稼ぐぐらいしかできないのに比べ、私は今やったように船の向きを直に変えることができてしまう。

 やっていることは膨大な魔力量に頼った力技だが、しかし効果は抜群だ。
 風任せで動く船に対し、その風自体を操ることで運行を補助することで、この港の安全は保たれていると言っていい。

 船同士の接触事故は回避され、港を出ていく船に達成感を覚えつつも、私の口からは深い溜息が出た。

「ご苦労さん…どうした、溜息なんかついて。まさか今ので疲れたか?」

 そんな私の様子を気遣い、班長が心配そうに声をかけてきた。
 だが私自身、まだまだ肉体的な疲れなどないし、魔力の残りだって十分余裕がある。
 ただ、今の作業には関わりのないところで私の心を蝕むとある問題が、溜息という形で表に出たに過ぎない。

「いやいや、あれぐらいじゃ疲れなんてないよ。そうじゃなくて、ちょっと私生活の方で悩みがあってね。大丈夫、仕事には影響出ないように気を付けるから」

 ここの港で働く人達とはまだ数日の付き合いだが、それなりに仲は深めてはいる。
 とはいえ、今抱えている問題を相談するのはまだ少し躊躇いがある。
 これで班長が私と同じ女性だったら、多少は相談する気にはなったかもしれない。

「そうか?まぁ仕事に支障がでないならいいが。なんかあったらすぐに言えよ。俺の監督下で怪我でもされたらたまらんからな」

「分かってる。ほら、あっちで呼んでるよ、班長」

 私達がいる所とは別の桟橋に立つ人間が、こちらへ向かって大きく手を振りながら何やら叫んでいた。
 少し体に魔力を巡らせて音を拾ってみれば、どうやら班長を呼んでいるようなので、それを私から伝えてやる。

 すぐに駆け出した班長の姿を見送り、私もまた次の動きを見せる桟橋へと向かう。
 船を全て出港させたら、今度は入港してくる船の受け入れで休む暇がない。
 ついさっき頭に浮かんだ悩み事は未だ消えていないが、それを一時でも忘れることができるのなら忙しいのも悪くない。

 ひとまずは目先の労働に集中し、落ち着いてからまた考えを巡らすとしよう。





 太陽が真上に差し掛かる頃になると入港する船も途切れ、港には一息つく穏やかさがやってきた。
 特に時間は定められていないが、この暇になった時間で私達港湾作業員は昼食を摂る。

 勿論、全員が一斉に昼食でこの場を離れるのはまずいため、交代でということになるのだが、今日の私は先に休憩に入る番なので、空腹に唸る腹と相談し、何を食べるか考える。
 昼食は自宅から食べれる物を持ってくるなり近くの店舗で買うなり自由なのだが、私は専ら適当な店に入って食べることが多い。
 今日の候補の店舗を頭で選んでいると、遠くの方から私を呼ぶ声に耳が動いた。

「おーいパーラー、そろそろお昼でしょー?一緒に食べなーい?」

「あ、チコニアさん。うん、いいよ。ちょっと待ってて。すぐにそっち行くから」

 声の主はチコニアさんで、どうやら私を昼食に誘いに来たようだ。
 今やっている作業を程よいところで止めて、その場を後にする。

 途中、すれ違う人に昼食に出ることを告げて、チコニアさんの元へと向かう。

「お、来たわね。じゃあ行きましょうか」

「うん。いつものとこ?」

「そうよ。他に行きたい店とかあるならそっちでもいいけど。何かある?」

「んーにゃ、別にないしそこでいいよ」

 港の周りには飲食店がそれなりにはあるものの、肉体労働が多い港湾作業員は、安い・早い・量だけはある!といったものを好むため、純粋に味だけで選ぶと選択肢はそう多くない。
 そんな中で、私の好みに合致している料理屋が一つだけあり、チコニアさんともそこへよく食べに行く。
 というか、そこにしか行ってない。

 店へ到着してみれば、味がいい上に昼時だけあっていつも通りの混雑っぷりだ。
 とはいえ、席が全くないというほどではなく、給仕に料理を注文して空いているテーブルで待っていると、チコニアさんが私に話しかけてくる。

「それで、そろそろどうかしら」

「どうって、なにが?」

「分かってんでしょ。アンディとのことよ。いい加減、仲直りしたら?」

「仲直りって…別に私はアンディと喧嘩したってわけじゃないし」

 チコニアさんは何を誤解しているのか、どこか見当違いなことを勧めてくる。
 確かにチコニアさんのところに世話になる際、娼館でのアンディとのやり取りに思う所があっての行動だとは説明したが、それを喧嘩と言われるのは聞き捨てならない。

 ついつい唇が尖って言い返してしまったが、それに対してチコニアさんが呆れた顔を見せる。

「何言ってんの。娼館でなんかあったってのは聞いてるけど、それでアンディと気まずくなって私の所に転がり込んできたんでしょ。どっちが悪いかなんて当事者じゃない私には判断しにくいけど、パーラの方から歩み寄ってあげればいいじゃない。こういう時、男ってのは動きが鈍いものなんだから」

「でもさぁー、アンディってばひどいんだよ?」

「はいはい、もう何回も聞いたわよ。アンディが気になって娼館に突撃したら、逆に叱られたんでしょ。ま、それに関して、アンディは間違ったことは言ってないと思うけど」

「もー!チコニアさんはすぐアンディの味方するぅ!」

「前も言ったけど、この件に関しては別にどっちの肩も持たないわよ。パーラはいきなりアンディの職場に押しかけたのは悪かったし、アンディの方は言い方に少し問題があったのは確かね。私に言わせれば、どっちも間違ってないけどよくもなかった、ってとこね」

 そう言いながらビシリと指をさされ、私は次の言葉を口にすることができなかった。

 チコニアさんの言うことは正しい。
 私だって、頭が冷えて後から行動を顧みれば、自分の行動に問題があったことぐらいは自覚している。
 感情のままにアンディから距離をとったのも、子供の我が儘とそう変わらないと、その身勝手さに身悶えしそうだ。

 でも、あの時アンディに言われた言葉が、今も私の中で棘となって意地を張らせてくる。

『男娼を買うなら俺のいない時か別の店でにしろ』

 何の気なしにアンディは言ったようだけど、あの言葉がどれだけ私の心を騒めかせたのかを分かってはいないのだろう。
 以前、エリーとの料理対決があった時に、私はアンディが好きだとはっきりと伝えていたはずなのに、ああ言われて平然としていられるわけがない。

 特に娼館というのは、女性が男性とあんなことやこんなことのしっぽりむふふとする場所なのだから、一人でもアンディの魅力に娼婦が気付いてしまえば、性的に食べられるのは簡単に予想がつく。
 だからこそ、あの時に用意できるだけのお金を払ってでも、アンディを私のものにしようとしただけなのに。

「でも、確かにアンディは女心を分かってなさすぎね。パーラがはっきりと好意を示してるのに、今日まで手を出してきてないんでしょ?とんだ腰抜けね」

「腰抜けはちょっと言いすぎだよ。否定はできないけど」

 運ばれてきた料理を突きながら、チコニアさんはアンディのことをそう評価するが、相棒を悪く言われるのは少し気分がよくないものの、あながち的外れとも言えないのがアンディという男ではある。
 私を女性として扱う気遣いは普段から見せているが、そこからさらに一歩踏み込んだ関係を望む私としては、もっと積極的に来て欲しいとすら思っている。

「…旅の共としては頼りになっても、それ以外がダメだとちょっとねぇ。パーラ、あなたいっそ他の男に乗り換えたほうがいいんじゃない?」

「む!…私は他の人とパーティ組む気はないよ。私の相棒はアンディだけなんだから」

「相棒どうのは今は置いておきなさい。私が言ってるのは、この先の人生をアンディ以外の男と過ごす可能性についてよ。そりゃあ冒険者やってくならアンディは優良株ではあるけど、女としての幸せは仕事以外にもあるのよ?あんな男、こっちから振って新しい人生を探したらどう?」

 言われて少し想像してみるが、私が冒険者を辞めるといのはともかくとして、女性として家庭を築いてそこへ入るのならば、アンディ以外の人間と一緒になれるかについては頭を振ってしまう。
 想像するのも難しいが、なによりそれを考えるとすごく嫌な感覚を覚える。
 あたかも、アンディ以外の男と一緒になることは、人生の正解とは言えないような、そんな奇妙な違和感があるのだ。

「…だめだめ!私はアンディがいいの!確かにヘタレだけど、アンディにもいいところだっていっぱいあるんだから!」

「へぇ、たとえば?」

 試すような鋭い視線をしたチコニアさんが、逃げるのを許さないとばかりに私の答えを引き出そうとしてくる。
 それを振り切って誤魔化すのはできるが、何故か今の私はそれをする気が全く起きず、尋ねられたアンディのいいところを思い浮かべて口に出していく。

「たとえば…アンディってさ、自分のことだと結構いい加減なところがあるんだけど、私に関してのことは、色々と考えてるみたいなんだよね。この前もさ、将来私が子供を産む時のためにーって、知り合いの妊娠経験のある人から聞いた話を書き起こして……はっ!?」

 少し前にあった、アンディとのことを思い出しながら話していると、チコニアさんのニヤニヤとした顔を見つけてしまった。
 食事を摂る手を止めてこちらを見ているチコニアさんは、まるでイタズラが成功した悪ガキのようないやらしい笑みを浮かべている。

 まさしく、チコニアさんが私に言わせたかったのはこういうことだったのかと、そう気付くと顔をしかめてしまう。
 ついさっき、アンディのことを貶めるようなことを言ったのも、私の口からこれを引き出すための誘いだったのだと分かってしまえば、恥ずかしいやら腹が立つやらで顔が熱くなってきた。

「どうしたの?続けて?」

「べ、別に…これ以上言うことなんてないんですけどー」

 言いかけた私の言葉では、凡その分かりやすい部分はもう口にしてしまっているので、別に改めて聞く必要はないはずだが、恥ずかしさに顔を赤くする私が面白いのか、チコニアさんの笑みはより一層深いものになっていた。

 くっ、どうにかして今のやり取りの記憶を消すことは出来ないだろうか。
 どこかにそういう魔術があるのならば、私の全財産を差し出してでもチコニアさんの頭をパァにしてほしい。

「あらそう?もっとアンディとの惚気話が聞けるかと思ったけど…まぁいいわ。パーラの今の気持ちは十分見えたからねぇ~」

「今ので?私、そんな分かりやすい女じゃないけど」

 チロリと向けられた視線になんだか胸の中を見透かされた気もしたが、それを認めるのも癪なので、つい強がるようなことを言ってしまう。

「そう思ってる間は、パーラもまだまだね。少し前はアンディのことで随分荒れてたみたいだけど、今あの子のことを話す姿を見ればわかるわ。パーラ、あなたやっぱりアンディの所に戻ったほうがいいわね」

「…随分急なことを言うよ、チコニアさんは。でも今はまだ戻るにもなんかバツが悪いっていうか…もうちょっと機を見てからでも、ね?」

「そんなこと言ってたら、いつまでもこのままでしょ。私の所に転がり込んできてどんだけ経ってるのよ」

「…三日ぐらい?」

「五日よ、五日。別に私のところならいくらでもいていいけど、アンディと揉めたまままでってのは見過ごせないわ。…うん、決めた。今日仕事が終わったら、その足でアンディの仕事場に行きなさい。エメラには私から話をしておくから。店が開く前なら、アンディと話す時間も少しはとれるでしょ」

「ちょ、ちょっと!急に決めないでよ、そういうの!まだ気持ちの整理が出来てないのに、アンディと会って何を話したら…」

 勝手に話を決めていくチコニアさんに、私の方が心の準備が出来ていないことで焦りを伝えるも、それが彼女の決断を覆す材料にはなりそうもない。
 私を気遣い、今の状況どうにかしてあげようという意志がそこには感じられる。

「そんなもの、会えば自然とどうにでもなるでしょ。あなた達は信頼関係も十分築けてるみたいだし、特別なことを話す必要はないわ。もっとも、アンディもパーラのことを心配してたから、急に家出したのはちゃんと謝るか説明をしたほうがいいけど」

「私、別に家出したつもりはないけど」

「腹が立ったから飛び出してきた、これを家出と言わずに何と言うのよ。とにかく、ちゃんと会って話をしなさい。いつまでもこんなの、続けてるわけにはいかないでしょ」

「それはまぁ…」

 説教をしているようだったものが、徐々に諭すような口調に変わったチコニアさんのその言葉で、私も考えが決まる。

「分かった、チコニアさんにそうまで言わせたんなら、そうするよ。じゃあ娼館の方に話を通しておくのはお願いしていいんだよね?」

「ええ、任せてちょうだい」

 これが私一人だけで考えが行き詰っていたらどうなったかというところだが、チコニアさんにああ言われて腹も決まるというもの。
 意地を張るのもここらが潮時ということだろう。

 私が仕事を終える時間とアンディの仕事が始まる時間は丁度昼夜で別れているため、話をするのも娼館でということになるはずだ。
 正直、あそこに足を運ぶのは気が重いが、仕方がない。
 事の始まりとなった場所で事態を終結させるのも悪くないと、そう思うことにしよう。





 すっかり日が落ちたファルダイフの大通りは、その日の仕事を終えた人とこれから夜の街を楽しむという人で溢れかえっていた。
 夜の娯楽はどこの街も大体似通っているが、ファルダイフには夜も変わらず賑わう賭博場が多いため、それらを目当てにした客も混ざっての混雑と言える。

 そんな人の流れの中に紛れ込むように、私は目的の場所へと向かうべく歩みを進めている。
 今日は珍しく、午後の入港に緊急で割り込んできた商船が多かったため、日が落ちるギリギリまで仕事があり、予定よりも少し遅れてアンディのいる娼館へとようやく向かうことができた。

「あっ…痛ぅー」

「おっと、ごめんよ。大丈夫かい?」

 少しよろつきながら歩いていたせいで、すれ違う人が持っていた荷物と私の膝がぶつかり、走った痛みに思わず声が漏れた。

「だ、大丈夫。こっちこそごめんね」

 どちらにも悪気があったわけでもないため、互いに軽く謝ってその場を離れるが、たった今感じた痛みはまだ私の中で燻る様に主張を続けていた。

 ただ軽くものにぶつかったぐらいでここまで痛がるほど私の体は軟ではないが、実は今日の仕事中、同僚が不注意によって起こした事故によって、私は足に軽い怪我を負ってしまったのだ。
 急に忙しくなった午後の仕事で、誰もが余裕のなかった中での事故だったが、正直、被害にあったのが私でなければ命に関わっていたかもしれないほどだ。

 出血などはなく、捻挫か打撲だろうとは思うが、何かのきっかけで痛みが出てくるぐらいには、軽症ではないと言っておこう。
 一応歩くのに支障はないし、無茶さえしなければ明日には多少マシになっているかもしれない。
 道を歩くときも、気を付けて歩くとしよう。

 また何かにぶつかるのも嫌なので、通りの中心を避けて道の端の方を歩いていると、不意に私の鼻を美味しそうないい匂いがくすぐって来た。
 匂いの元を見てみれば、盛況な食堂から喧噪とともに漏れ出てくるその香ばしい香りに、夕食前の胃袋が刺激される。

 これからアンディの所にいくが、何か食べれるものでも買っていったほうがいいだろうか。
 辺りを見回せば、食堂や酒場といった食事を売っている店は多いので、どこか適当に入って見繕うかと思い、さらに嗅覚を研ぎ澄ませたその時、私の鼻が異質なものを嗅ぎ取った。

 人や動物の汗に由来する体臭、酒精が空気に溶けた匂い、香辛料の効いた料理の匂い、様々なものが辺りに漂う中、明らかにこの場に相応しくない獣臭がしている。

 ここで獣臭とは言うが、実際にそういう匂いというわけではない。
 単純に魔物や動物から発される臭いを獣臭と呼ぶとして、今私の鼻が捉えたのは狂暴な気配を押し隠そうとして漏れ出た気配と呼ぶべきか。
 嗅覚以上に私の感覚に訴えかけてくる何かが、際立って感じ取れてしまっている。

 それがどこから来ているのかといえば、通りから外れる横道の先、近くの住民でもなければあまり足を踏み入れることのないであろう路地裏からだ。
 さらにその路地裏の方へ聴覚でも探りを入れてみれば、何やら男女が二人で話す声が聞こえてくる。
 聴覚もより強化してそちらへ意識を向けてみると、徐々に二人の話内容が聞き取れるようになっていく。

 ―…も払ってくれるから文句はないけどさ、せめてどっかの宿に入りたいもんだね

 ―悪いな、こっちも色々と事情があってさ

 ―ふーん…お兄さん、わけありかい?まぁこんな立ちんぼの女にあんだけ払ったんだから、そうだとは思うけど

 どうやら男女の関係は、娼婦とそれを買った客といったところか。
 娼婦の方は娼館に属していない、所謂街娼というやつだろう。
 女性の方は少し渋るような態度だが、十分な金額を貰えて機嫌がいいのを声の調子から感じる。

 大抵の娼婦は商人ギルドが管理するが、中にはそれを嫌って個人で活動する娼婦も少なからずいる。
 街娼は法律で明確に禁止されていないが、それでも商人ギルドとしてはあまりいい顔をしないので、そういう娼婦は面倒な事態に巻き込まれても、全て自己責任としてギルドの助けは得られない。
 その分、稼ぎも全て一人占めという利点もあるが、常に安全な場所で商売できるとは限らない街娼は、他と比べて危険な仕事だと言える。

 ―それで、私に何をして欲しいんだい?たっぷり払いは受け取ったんだし、何でもしてあげるよ?

 姿こそ見えないが、娼婦の妖艶な声はこれから男女の睦事が行われるのを明確に想像させるものだ。
 日が暮れているとはいえ、街中でそういうことをする場面に立ち会ってしまえば、早々にこの場を離れるのが賢明な判断だろう。
 だが、ここからでも感じ取れる客の男の気配からは、とても娼婦を買った者とは思えない、どす黒くひどい臭いのする何かが渦巻いているような錯覚を覚えてしまう。

 これはまずい。
 男の方はやる気だ。
 痛みで動きが鈍い足を何とか動かし、路地裏へと繋がる細道を駆けていく。
 自分の足の遅さに苛立ちつつ、急いでやってきた先に見えたのは、男女が寄り添うように立っている光景だった。

 ―…今、何でもと言ったか?はっはー!だったら是非!この剣に血を吸わせてやってくれないかぁ!

 それまで真っ当な人間としてふるまっていた男が、突然狂ったような笑い声を上げ、鋭い金属音を辺りに響かせると、腰に提げていた剣を抜いた。
 その勢いで目の前に立つ娼婦へと斬りかかり、女の柔肌に剣閃を走らせようと迫る。

 だが、その一撃は娼婦の背後から伸ばされた鋭い刃を纏った手によって防がれ、鈍い音と共に弾かれた。

「ぬ!?」

「ひっ」

 斬りかかった側、斬られかかった側と、二人の人物がそれぞれ驚愕の表情を見せているが、そこに込められた感情には大きく違いがあった。
 男の方は剣を防がれたことに驚きと疑問を、女の方は自分が殺されようしていたのに気付いての恐怖をそれぞれの声色で表している。

「…ただ男女の面倒事だってんなら首を突っ込むつもりはなかったけど、殺そうとするのは流石に見過ごせないね」

 さっきの男の一撃を防いだ刃の籠手、それは私が装備する可変籠手によるものだ。
 今の私の足の状態と、可変籠手を適した形状に変化させる判断でギリギリだったが、しかし女性の方を守るのには間に合った。

「…何者だ、貴様。その女の知り合いか?」

 突然割り込んできた私に、男は警戒が籠った声でそう尋ねるが、すぐにまた斬りかかってこないあたり、冷静な頭は持ちあわせているようだ。
 路地裏の暗がりと、全身を覆うローブのせいで男の素顔などは分からないが、剣を構えるその姿から只者ではないというのは分かる。
 全てがそうだとは言わないが、こういう行動をする奴で顔を隠している時点でクソ野郎だと思っていい。

 ただ、クソ野郎ではあるが油断できない奴なのは確かだ。
 先程防いだ一撃は鋭さと重さを兼ね備え、防御特化に展開した可変籠手に包まれた私の腕に未だ痺れを残せるまさに強烈な剣の使い手だと言える。
 低ランクの冒険者や傭兵、ましてや破落戸が繰り出すにはあまりにも洗練されており、たった一度の交差で男の剣の腕が並外れているとわからされてしまった。

 そして対峙してこそわかるが、堂に入った構えに不測の事態でも動揺を残さない冷静さは、剣一本だけの武芸者によくある雰囲気を思わせる。
 しかし一方で、身に纏う剣呑な気配はとてもまともな人間とは思えない濁りが感じられ、高潔な精神を兼ね備える武芸者とは確実に違う。

「私はただの通りすがりの冒険者だよ。別にそっちの人とは関係ない。ヤバそうだったから割り込んだだけ。そういうあんたは何者?街娼を金で買った上で斬るなんて、まともじゃないね」

 時折、料金で客と揉めて刃傷沙汰になる娼婦というのも、いることはいる。
 だが、こうもあからさまに事に及ぶ前に殺そうとするなど、とうてい普通のことではない。
 初めから殺すつもりで娼婦を買ったとしか思えない。

「はっはっは!なんだ、俺とその女のやり取りを聞いてたのか?どこで耳を立ててたんだか知らないが、あまり男女の秘め事に首を突っ込むもんじゃあないぞ。なぁ?」

「ひ、ひぃぃ!?」

 敢えて恐怖を煽る様に目の前で腰を抜かしている女に声をかけたせいで、男から逃げようと地面を這いずるその女を、私の背後へと匿う。
 震えながら私の裾に顔を埋めるように掴まってくるその女性は、明らかに年下だと分かる私に縋らずにはいられないほどに怯えている。

 まずいな、男の方はまだやる気だというのに、この女性を庇ったまま戦うのはかなり面倒だ。
 狙いを私に絞ってくれるのならやりようはあるが、元々どちらを狙っていたかを考えれば、女性を放り出すのも躊躇われる。
 自分の命だけを考えるなら見捨てるべきなのだろうが、だったら最初から介入していないので、そうするつもりはさらさらない。

 相手の強さはまだ未知数だが、こちらは人を庇いつつ、おまけに足も不調を抱えているとなると、不安材料が多すぎて辛い。
 せめて噴射装置があればまだ逃げようはあったが、仕事にそんなものは持ちこまないので今は手元にない。

 となると、残るのは可変籠手と魔術を使って男に対抗し、騒ぎを聞きつけた誰かが衛兵を呼んでくれるまでの時間を稼ぐのがよさそうだが、今頃の街は大小の騒ぎに満ちており、果たしてこちらにまで人の注意が向くかどうか。

 最善は衛兵が駆けつけるのを待つことだが、こいつを倒して悠々とこの場を去るのも一つの手だ。
 色々と不安はあるが、私だって強敵と正面で殴り合った経験はある。
 楽に倒せるかどうかはともかく、せめてこの背後の命を守り切るぐらいはしてみせよう。






 SIDE:END
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