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フィンディの穏やかな日々
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カンという音と共に、酒が飲み干されたカップがテーブルに置かれる。
「そうか、それでああなってるのか。悪いな、気を遣わせちまったみたいで」
体を巡る酔いの心地よさに身を任せ、ゆっくりと息を吐いてソファの方を見るコンウェル。
そこにはユノーに膝枕をされて眠るパーラの姿があった。
「いえ、パーラが勝手にしたことですから」
昼間、ユノーに赤ん坊プレイを仕掛けたパーラは、しばらくすると頭が冷えて素面に戻ったが、コンウェルが帰宅してから一緒に食事をした際、勧められるままに酒を呷ると再び赤ん坊プレイを再開し、酔い潰れてああしてユノーの介抱を受けているというわけだ。
「それに、ユノーさんもまんざらでもなさそうですし」
「そうみたいだな」
ユノーも最初は大きすぎる赤ん坊を嫌がっていたが、段々とそれに慣れると受け入れ始め、今では眠るパーラの髪を梳くまでとなっており、その姿は母親のそれを彷彿とさせる優しく穏やかなものだ。
惜しむらくは、膝に頭を乗せている赤ん坊もどきが酒の匂いを発していることだが、それぐらいは目を瞑れる程度の充実感をユノーは感じているようだ。
「…驚きましたよ、まさかお二人の子供が亡くなってるなんて。こっちに来てから知ったんで尚更でした」
「すまんな、手紙の一つでも出して知らせてやればよかったが、あの時は俺もユノーもそんな気力も湧かなくてな。落ち着いてから知らせようと思ってるうちに、今日まで経っちまってた」
「それぐらい、失ったものは大きかったってことですね」
「まぁな」
コンウェルのカップに新しく酒を注ぎながらその顔をチラリと横目で見てみれば、心の折り合いはついているが完全には吹っ切れていないというのが分かる。
子供が死産してからもう三年近く経っているが、コンウェル達にとってはまだそれだけしか経っていないという感覚なのだろう。
望み、喜びの中に誕生を待っていたものが失われたその悲しみと喪失感たるや、いかほどのものか。
よく半身を失くしたようだと表現されるが、生まれたと思ったその瞬間には死を確認してしまったユノー達は、きっと体と心を千々に裂かれたようだったのかもしれない。
そんな思いを想像し、俺は振り解くように自分のカップに残っていた酒を一気に飲み干す。
上等なはずの酒の味が薄く感じられ、酒の滑り込んできた胃が妙に冷たい。
嫌なものだな、子供の死というのは。
酒の味が悪くなったところに、鼻歌が聞こえてきた。
発生源はユノーだ。
それは初めて聞く曲だが、なんとなく子守唄っぽく思える。
「初めて聞く歌ですね。子守唄ですか?」
「ああ、昔からある歌さ。この辺りで生まれた奴は大体これを聞いて育ってきた。ユノーも俺もな」
眠っているパーラに向けたものなのか、寝かしつける必要などないのについ口ずさんでしまったのは、生きていれば子供にそうしてやりたかったのだろうか。
膝の重みがそれを刺激したのかもしれない。
本来なら安心感を与える歌のはずが、今聞くと物悲しさを感じてしまう。
歌詞もあるとは思うが、ユノーはメロディーを口ずさむに留めており、歌に込められた意味までは今は正確には分からない。
しかし、穏やかな曲調は寝入る子供に聞かせるには相応しいものがあり、この歌もまた子供の心を育てるのに大事なピースとなるのも容易に想像できる。
「今頃は、シャミーもこいつを歌ってんだろうな」
「シャミーさんが?なんでまた」
何故か急にコンウェルがしみじみとした様子で妹の名前を口に出してきたため、俺はすかさず首を傾げる。
「なんでって、あいつ今…そういやそのことも知らねぇのか。シャミーの奴な、今妊娠してんだよ。もうしばらくしたら生まれる予定だ。そんで、腹の子に自分で歌って聞かせてるのをしょっちゅう見るもんでな」
自分のことのように妹の妊娠を喜んでいるコンウェルだが、今それを初めて聞かされた俺の方は頭の整理に一瞬時間を要した。
「…いや、ちょっと待ってくださいよ。急に色々知らされてびっくりしてるんですけど、そもそもシャミーさんって結婚したんですか?」
「おうよ。一年とちょっと前ぐらいだったか。親父の所に弟子入りした若いのとすぐにくっついてな、まぁなんやかんやあって、今は夫婦やってるってわけだ」
説明がざっくりしすぎだろ。
一年ほど前となると、俺は学園の方にいた頃か。
あの時は色々と忙しくも充実していたから、手紙を送る暇もなかった。
コンウェル達も色々とあっただろうから、シャミーの結婚のことを俺に教える手紙を出すタイミングを逃したのかもしれない。
「そういうのはちゃんと教えてほしかったですね。手紙とかで。俺、シャミーさんに結婚祝いも送れてないんですけど」
前にコンウェルがユノーと結婚してたのもシャミーから聞かされて初めて知ったぐらいで、この兄妹は俺達に対して情報の出し方が急過ぎる。
「悪い悪い、あの時期は俺もバタバタしてたし、お前への手紙なんてすっかり頭から抜けてたわ。まぁ結婚祝いはシャミーもあちこちから貰ってたし、お前一人がやらなくたって大丈夫だろ」
「いや、こういうのはちゃんとやらないと俺の気が…」
「じゃあ、明日シャミーのとこに顔出してやればそれでいいって。結婚祝いなんざ、おめでとうって口にして伝えりゃ十分なんだよ。下手にあれこれと物を貰ったら、逆に申し訳なくなるもんさ」
「…そういうもんですか?」
「そういうもんさ」
祝い事には何かいい物を送らなければという、日本人特有の感覚の俺に対し、コンウェルは結婚祝いを貰った側の意見として不要と言ってのける。
というか、シャミーの結婚祝いをコンウェルが断るというのも変な話だが、兄としての立場と経験者としての立場からの言葉だとすれば、一応納得はしておこう。
「ところでよ、さっきちょっと話に出てきた巨人についてもうちょっと話、聞かせてくれや。こっちでも例の巨人は噂になってるんだが、詳しいことはほとんどわからねぇんだ。やりあった当事者なら、もっと面白い話あるんだろ?」
シャミーへの結婚祝いの話はそれで終わりとなったようで、コンウェルはこちらへ身を乗り出しながら、アシャドル王国で暴れた巨人についての詳しい情報を求めてきた。
さっき俺達がここまで来た道程について語る中で、巨人についても軽く説明はしたが、その時もコンウェルは興味深そうに反応していた。
冒険者としての活動をフィンディとその近郊に絞っている今のコンウェルは、遠くに出かけることもないため、噂レベルで伝わってきていた巨人の情報に飢えていたようだ。
「巨人のことってんなら、あたしも知りたいね」
いつの間にか移動したのか、コンウェルの隣に座ったユノーも俺の話を聞く体勢へと移っていた。
パーラの寝息が聞こえていることから、うまいこと専用膝枕から脱してきたようだ。
「噂じゃあ六百人の兵士を千切って食ったって話じゃないのさ。本当ならとんでもないのがいたもんだね」
「そうだったか?俺が聞いたのは、千人が踏みつぶされた上に灼熱のブレスで焼き殺されたって話だったが」
「えー?流石にそれは盛りすぎじゃない?」
「ギルドで冒険者から聞いた話だぞ、こっちのは。…連中、多少酔っぱらってはいたみたいだけどな」
二人の聞いた噂には差があるようで、被害の大きさはともかくとして、攻撃方法が大分無茶苦茶なものだ。
巨人の被害に尾鰭が付きすぎてメガロドン並みになってるな。
ただ、その言いようからは噂をそのまま信じてはいないというのは分かる。
『で、本当のところはどうなんだ?』
夫婦揃って俺に顔を向けて、真相を求めてきた。
流石、どちらも冒険者として腕利きだけあって、好奇心も人一倍溢れる目をしている。
「…まぁ少なくとも火を噴いたり食ったりってことはなかったですよ。被害の方はちょっと正確にはわかりませんね。なんせ、俺もパーラも巨人を倒したって時点で遠くに吹っ飛ばされちまったもんですから、あそこでの最終的な被害は把握してないんで」
まさか巨人の中に封印されてた光の精霊に誘拐された、などと言うわけにはいかないし、実際俺達程度の立場で戦った人間には、巨人との戦いでの被害を全て把握することなど出来るわけがない。
戦いの途中までの死傷者数は何となくわかるが、あれだけの戦いで俺達がいなくなってからも怪我やら死人やらのカウントが進んでいないわけがなく、その正確な被害は恐らくかなりのものとなっているはずだ。
「そりゃあ仕方ねぇな。だったら、巨人とどう戦ったのかってのを教えてくれよ。お前らのことだ。どうせまともな戦い方はしてねぇんだろ?」
「どういう意味ですか、それは」
まるで俺達がセオリーを無視し、非常識に振舞って戦場を形成したかのようなコンウェルの言葉は、甚だ遺憾である。
とはいえ、巨人との戦いが普通のものとはかなり違っていたのは事実だ。
「まともかどうかはともかくとして、巨人に対して飛空艇を使った戦いという点ではかなり特殊だったとは言えますがね」
比較的低高度とはいえ、巨大な飛空艇を用いた空対地戦闘という、今の時代では画期的な戦闘が行われたのは物語として語るにはいい材料になる。
「そういや、正式に戦闘目的で国外へ飛空艇が出張ったのはあれが初めてだったって話だな」
「面白そうね。飛空艇でどう巨人に勝ったのよ?」
やはりソーマルガで今最もトレンディな飛空艇が出てくると、この二人も食いつきがいい。
早速俺が実際に体験した巨人との戦いを語って聞かせる。
実戦経験のある冒険者だけに、コンウェル達も戦闘における諸々の意味や役割をほぼ正確に察するため、時折投げかけられる的確な質問に答えつつ、語らいは深夜まで続く。
そうしていてふと思ったが、酒が入っていたこともあって、結構細かく話してしまったものの、果たしてこの辺りの情報を一般人に漏らしていいものだろうか。
前に大地の精霊から聞いた感じだと、アシャドル王国は巨人の情報をなるべく流出させたくないという思惑があったらしいが、それを俺が無視して他国の人間に話してしまうと、まずいいのではないか。
…まぁいいか。
どうせ人の口には戸が立てられないのだ。
既に巨人の噂自体はほとんどの国に広まっているし、複数の国が現地入りしていたのなら相応にスパイ活動も活発だったはずだ。
この手の情報はとっくにバレているに決まってる、そうに違いない。
だから俺は悪くねぇ。
それに、コンウェル達はこの手の情報の価値とその裏もきっと読み取ってくれるはずなので、軽々に他所に広めるということはしないはずだ。
そう信じるとしよう。
次の日、仕事に向かうコンウェルを見送ると、俺はユノーと共にシャミーの下へと向かった。
シャミーの妊娠が発覚してから、時折様子見にユノーがシャミーを訪ねているため、どうせなら一緒にと提案されての同行だ。
なお、パーラはここに同行していない。
何故なら二日酔いでダウンしているから。
本当は来たがっていたが、あまりにも体調が悪すぎて連れ歩くのが危険だと判断した。
前にもあったが、フィンディに来るとあいつは二日酔いで使い物にならなくなるな。
まぁそれだけ深酒をするほど、フィンディでの滞在が楽しいのだろう。
「ようユノー!いい枝肉が入ったんだが、夕食用にどうだ?」
朝もそれなりに過ぎた時間帯では、大通りの店も賑わっており、その中の一つから俺の先を歩くユノーへ声がかけられた。
声の主はやや太り気味の青年で、食肉を扱う店の人間のようだ。
ユノーとは顔なじみなのか、夕飯用の肉を勧めてくる。
「悪いね、今はちょいと行くところがあるんだ。後で寄らせてもらうよ」
「そうか。ならいいところを取っておくぜ」
「ありがとね」
足を止めることなく、肉屋との会話を早々に切り上げて目的地へ向かう。
こうして見ると、ユノーもちゃんと主婦をやってるのだなと思ってしまう。
子供が死産して以降、ユノーは冒険者として復帰したそうだが、同時にコンウェルの妻としても頑張っている。
毎日の食材の買い付けもちゃんとやっているのは、今の肉屋とのやり取りからも分かった。
大通りは相変わらず人は多いが、俺もユノーも慣れた動きで人の群れの中をスイスイと進む。
そうして歩くことしばし、辺りに肉の焼けるいい匂いが漂いだした頃、見覚えのある食堂を見つける。
コンウェルとシャミーの実家で、二人の父親、パウエルが営む料理屋だ。
以前俺がハンバーグの作り方を正しく伝授したおかげで、フィンディでも屈指の人気店となっており、今も入り口から空席待ちの人間がはみ出るほどの混雑ぶりだ。
店の外に張り出ている日除けの布も、以前見たものよりも大きく広くなっているのは、それだけ外で待つ人が発生する程繁盛している証拠だ。
朝食には遅く、しかし昼食にはまだ早いという微妙な時間にも拘らず、これだけの人間がいるということは、きっとシャミーも給仕として動き回っていることだろう。
この世界では妊娠して即産休に入るということはまずない。
貴族や大商人とかならともかく、その日を精いっぱい生きる一般人は出産ギリギリまで働かないと生活ができないのだ。
特にパウエルの食堂ほど賑わっていれば、シャミーの性格的にも身重の体を推してでも手伝おうとするに違いない。
「はいちょっとごめんよー、通してちょうだいな」
入り口を半ば塞いでいる人をかき分け、店の中に入ると想像していた通り、店内の席が全て埋まっているという繁盛っぷりで、その中にテーブルの合間を動き回るシャミーの姿があった。
新しく雇ったのか、シャミーの他にも若い女性の給仕が一人増えているものの、それでも手は足りているとは言い難い。
それぐらいの混み具合だ。
「…忙しそうですね」
各テーブルから注文を聞いたり料理を運んだりと、給仕としての動きに休む暇はないようで、とても声をかけるタイミングが見つけられない。
どのテーブルにもハンバーグを食べている客の姿が見られるため、すっかりこの食堂はハンバーグ専門店に変わったようだ。
「そりゃあこの混雑っぷりならね。仕方ない、厨房の方に顔出しましょ」
夫の実家だけあって、勝手知ったるといった様子のユノーと共に厨房へと入る。
最後に見た時から多少手が加えられたのか、厨房は若干レイアウトが変わっており、そこではまさに今食堂にいる人達の胃を満たそうと、熱を上げる鉄板に汗をかきながら対峙するパウエルと、初めて見る若い男の姿があった。
どちらも厨房に入ってきた俺達の存在には気付かないほど、調理に集中している。
「こっちも忙しそうね。ま、当然か」
「…ん?おう、ユノーじゃねぇか。どうした…お!アンディ!久しぶりだなぁお前!」
ユノーの声に反応したパウエルがこちらを見て、俺の姿に気付くと、その顔に満面の笑みを浮かべる。
久しぶりの再会でこういう反応をされると嬉しくなるな。
とはいえ、随分と忙しそうなので、シャミーに結婚祝いを渡したらさっさと帰った方がよさそうだ。
「ちょうどいい!お前、ちょっと手伝え!注文がいっぺんに入って手が回らねぇ!」
「え、いや俺は結婚祝い―」
「こっちの鉄板使え!ハンバーグの大を三つ、中を一つ頼むぜ!材料はそこだ!」
俺の言葉など一顧だにせず、パウエルはそれだけ言うと自分の作業に戻ってしまった。
なんだ、嬉しそうだったのは料理人が増えるからか。
確かに店内のあの混みようだと、もう一人料理人が欲しいという考えにもなろう。
だとしてもなんと勝手な。
まぁパウエルは性格的にこういう人間だし、何より俺とパーラも身内として見ている節があるので、遠慮や配慮もしないのは仕方ないとも言えるが。
それに随分と余裕もない様子だし、とにかく人手が欲しかった時に現れた俺が救世主にでも見えて縋ったといったところか。
「仕方ないね。アンディ、悪いけど手伝ってやってよ。このぶんだとシャミーに結婚祝いも渡さないうちに日が暮れちまいかねないしさ」
急に厨房要員に引きずり込まれた俺を憐れんではいるが、義実家の忙しさをどうにかしようというのは、それだけユノーがこの一家に馴染んでいる証拠だ。
「…まぁそうかもしれませんが。ユノーさんはどうしますか?一緒に料理を?」
「それも悪くないけど、あたしは給仕に回るよ。こっちに四人は手狭だろうから。じゃ、頑張んな」
そう言って厨房を後にするユノーだが、果たして彼女に給仕が務まるのだろうか。
冒険者としては一流でも、給仕の経験などどれほどあろうかという疑問もあるし、なによりシャミー達ですら大わらわの中に飛び込んで、最後まで仕事をこなせるのかという不安もある。
結婚して性格的に大分丸くなってはいるが、本質は荒事で揉まれた冒険者のユノーに方向性の違う戦場が肌に合うかどうか。
いや、もしかしたらユノーのことだ、もう何度か食堂の手伝いをしに来ているという可能性はある。
だとしたら、やり方も心得ているはずなので、なんとかやれるだろう。
―なぁ~にぃ!男なら大盛り頼みな!しっかり食わない奴がいい仕事できるなんて思うんじゃあないよ!
―ユノーさんやめて!?注文をお客さんに強制しないで!
…そうでもないな。
ユノーは給仕としては駄目かもしれない。
シャミーの悲鳴染みた声を聞きながら、俺は自分に任された仕事に没頭していく。
生憎厨房を任されている今の俺には、暴走するユノーを止めることは出来ん。
シャミーには悪いが、なんとかユノーの手綱を握ってホールを回してもらうしかない。
妊婦なのに酷いストレスに晒されるシャミーを助けることのできない俺はなんと無力か。
ひたすらハンバーグを焼いていると時間はあっという間に過ぎていき、ようやく食堂の客足が落ち着いたのは、昼を大分過ぎてからだった。
パウエルが言うには今日は特に忙しかったそうだ。
これは風紋船の到着と陸路での旅人が早朝に入場するタイミングが重なったせいで、それらの人間が今や名物となりつつあるパウエルの食堂へと一気に押し寄せたからだとか。
「はぁー、アンディ君が来てくれて助かったよ。あのまま父さん達だけで調理してたら、絶対注文がぐちゃぐちゃになってたわね」
客の掃けた食堂のテーブルに座り、疲れと充実感でいい笑みを浮かべるシャミーから感謝の言葉を貰った。
「いいのよ、そんなお礼なんて。身内が困ってるなら助けるのが筋ってもんでしょ」
「そ、そうね。ユノーさんもありがとう。その気持ちは嬉しかったわ」
何故か俺に向けられたお礼の言葉をかすめ取ったユノーだが、彼女に関しては正直あまり戦力にはなっていなかった。
給仕として動こうとはしていたが、客の注文を勝手に変えさせるわ、料理を運ぶテーブルを間違えるわで、逆にシャミー達の手間が増えていたように思える。
シャミーも無事に波を乗り越えたため深くは追及しないが、本音ではユノーに文句の一つも言ってもばちは当たらない。
もっとも、相手が兄の嫁、つまり義理の姉であるためあまり強く言えないのも難儀なことだ。
ただ、ユノーも体力だけは無駄に余っているので、シャミー達よりも多く動いていながらその姿に疲れが見えないのは現役復帰した冒険者の面目躍如といったところだろう。
もう一人、給仕としてさっきまでいた女性だが、彼女は近くに住む人だそうだ。
夫がフィンディの港湾施設で働いているため、昼は暇なのでたまに忙しい時はパートとして手伝ってもらっているらしい。
忙しい時間帯を抜けたので今日はもう帰ったが、少し話した印象だと物腰の柔らかい若奥さんといった感じで、シャミーとは気が合いそうだった。
「あぁ、そうだ。シャミーさん、遅れましたがこれ、結婚祝いです」
テーブルには俺達だけがいるため、いい機会でもあるためここに来た目的を果たすべく、結婚祝いにと持参した包みを手渡す。
コンウェルからは祝いの言葉だけで十分だと言われたが、一晩考えてやはりちゃんと形に残るものを贈ろうと、急遽用意した品だ。
「あら、気を使ってくれなくてもいいのに。開けてもいいかしら?」
「勿論、どうぞ」
俺に確認を取ってから包みが開けられると、そこに藍色の布が姿を見せる。
あっちの大陸を離れる際、スワラッド商国土産と交易用にといくつか買い漁ったものの一つで、特に高級品というわけではないが、値段の割に品質は悪くないため、自分達で使うか人にプレゼントするかと考えていたのを今回シャミーへと贈る。
「へぇ奇麗な布ね。手触りもいいわ」
「触るとサラリとした感じがあるでしょう?普通の布よりも汗を吸うし、スワラッドじゃ寝る時の肌掛けにも使われているそうです」
夜も暑いスワラッドでは、この手の布地は涼感のある寝具としての需要もあり、同じく暑い地域のソーマルガでも使えると思ってのチョイスだ。
もっとも、砂漠の夜は冷え込みの方がきついので、使うとしたら日中のちょっとした昼寝なんかの時に限るとは思うが。
「それはいいわね。この大きさなら、父さんとフリックの分も作れそうね」
「フリックというのは、シャミーさんの旦那さんの名前ですか?」
「ええ、そうよ。さっき厨房で父さんと一緒にいたのを見たでしょう?」
「まぁそうですけど、流石に名前を聞く暇がなかったもので、今知りましたよ」
ようやくシャミーの旦那の名前を知り、先程までパウエルと共にハンバーグを焼いていた青年の姿を思い返してみる。
パウエルほどではないが体格のいい青年といった様子のフリックは、途中で参戦した俺に対してあまり興味を示さず、黙々と調理を続けていた姿から、職人気質の印象を俺は勝手に抱いている。
言葉を交わすこともなかったため、為人を知ることはできていないが、フリックという名前を口にした時のシャミーの笑顔を見る限り、いい夫ではあるようだ。
今も厨房の片づけをパウエルと二人でやっている姿は、義理の親子としてうまくやれていると思わせる。
「でも結婚祝いを用意してくれたのに、フリックの名前を知らなかったなんて。兄さんやユノーさんから教えてもらわなかったの?」
「そういえば、なんででしょうね?」
普通ならシャミーが結婚、妊娠したという時点で夫の名前も教えてくれてもいいのだが、何故かユノー達から語られることはなかった。
どうしてかという疑問を込めてユノーを見つめると、彼女は一瞬言葉を詰まらせてから決まりの悪そうな笑みを浮かべた。
「うん、なんか言うの忘れてたわ。別に秘密にしとこうとかって思ってないけど、ほら、あるじゃん?再会の嬉しさで、言うのを忘れたっていうか、言ったつもりになってたっていうか、まぁそんな感じ…なんかごめん」
「まぁ尋ねなかった俺も悪いんで、別にいいですけど」
「ふふっ、ユノーさんも兄さんも、ちょっと抜けてるところがあるのよねぇ。前も財布を忘れて陽気に買い物へ―」
「あーあー!いいじゃないのさ、そんなことは!それよりシャミー、あんたお腹の調子は大丈夫かい?今日は忙しかったからね」
なにやらシャミーによる暴露が始まりそうだったのを、強引に中断させたユノーはさも体調を気遣うようなことを口走る。
まぁそれもまた本心ではあるのだろうが、やましいことを言わせまいとしたというのは今のやり取りだけで十分うかがえた。
「大丈夫、これぐらいで疲れたりしないわよ。今日は忙しい方だったけど、初めてってほどじゃないもの」
「だったらいいけど、体の調子が悪かったらすぐに義父さんかフリックに言うんだよ?無理して子供に何かあったら…さ」
そう言って、まだかすかに膨みが分かる程度のシャミーのお腹にユノーは優しく降れる。
少しだけ表情に悲しさを漂わせつつもシャミーの体をいたわるユノーの目には、無理をして自分と同じ悲しみを背負わせまいという、強い願いが籠っている。
「…うん、分かってる。心配してくれてありがとう。気を付けるわね」
「ああ、そうしな」
シャミーもユノーのその態度から彼女の思いやりを感じ、穏やかな笑みでお腹に乗るユノーの手に自分の手を重ねた。
その光景に、なにかこみあげてくるものを覚える。
二人の母、失われた命にじき生まれてくる命、何かが違えたなら立場が逆だったかもしれない。
亡くなった命を悲しむ思いはあれど、しかし今は新しい命を慈しもうと、二人の母の思いは一つとなっている。
多くの不幸があるこの世界だが、一方で喜びもまた多い。
シャミーの妊娠もその喜びの一つで、無事に子供が生まれてくれればコンウェルとユノーもきっと自分のことのように喜ぶだろう。
信心深さとは無縁の俺だが、祈るだけはタダだし、神ともちょっとした縁もある。
ろくでもない神しかいないこの世界だが、今はシャミーの出産が万事うまくいくことを天に祈っておくとしよう。
「そうか、それでああなってるのか。悪いな、気を遣わせちまったみたいで」
体を巡る酔いの心地よさに身を任せ、ゆっくりと息を吐いてソファの方を見るコンウェル。
そこにはユノーに膝枕をされて眠るパーラの姿があった。
「いえ、パーラが勝手にしたことですから」
昼間、ユノーに赤ん坊プレイを仕掛けたパーラは、しばらくすると頭が冷えて素面に戻ったが、コンウェルが帰宅してから一緒に食事をした際、勧められるままに酒を呷ると再び赤ん坊プレイを再開し、酔い潰れてああしてユノーの介抱を受けているというわけだ。
「それに、ユノーさんもまんざらでもなさそうですし」
「そうみたいだな」
ユノーも最初は大きすぎる赤ん坊を嫌がっていたが、段々とそれに慣れると受け入れ始め、今では眠るパーラの髪を梳くまでとなっており、その姿は母親のそれを彷彿とさせる優しく穏やかなものだ。
惜しむらくは、膝に頭を乗せている赤ん坊もどきが酒の匂いを発していることだが、それぐらいは目を瞑れる程度の充実感をユノーは感じているようだ。
「…驚きましたよ、まさかお二人の子供が亡くなってるなんて。こっちに来てから知ったんで尚更でした」
「すまんな、手紙の一つでも出して知らせてやればよかったが、あの時は俺もユノーもそんな気力も湧かなくてな。落ち着いてから知らせようと思ってるうちに、今日まで経っちまってた」
「それぐらい、失ったものは大きかったってことですね」
「まぁな」
コンウェルのカップに新しく酒を注ぎながらその顔をチラリと横目で見てみれば、心の折り合いはついているが完全には吹っ切れていないというのが分かる。
子供が死産してからもう三年近く経っているが、コンウェル達にとってはまだそれだけしか経っていないという感覚なのだろう。
望み、喜びの中に誕生を待っていたものが失われたその悲しみと喪失感たるや、いかほどのものか。
よく半身を失くしたようだと表現されるが、生まれたと思ったその瞬間には死を確認してしまったユノー達は、きっと体と心を千々に裂かれたようだったのかもしれない。
そんな思いを想像し、俺は振り解くように自分のカップに残っていた酒を一気に飲み干す。
上等なはずの酒の味が薄く感じられ、酒の滑り込んできた胃が妙に冷たい。
嫌なものだな、子供の死というのは。
酒の味が悪くなったところに、鼻歌が聞こえてきた。
発生源はユノーだ。
それは初めて聞く曲だが、なんとなく子守唄っぽく思える。
「初めて聞く歌ですね。子守唄ですか?」
「ああ、昔からある歌さ。この辺りで生まれた奴は大体これを聞いて育ってきた。ユノーも俺もな」
眠っているパーラに向けたものなのか、寝かしつける必要などないのについ口ずさんでしまったのは、生きていれば子供にそうしてやりたかったのだろうか。
膝の重みがそれを刺激したのかもしれない。
本来なら安心感を与える歌のはずが、今聞くと物悲しさを感じてしまう。
歌詞もあるとは思うが、ユノーはメロディーを口ずさむに留めており、歌に込められた意味までは今は正確には分からない。
しかし、穏やかな曲調は寝入る子供に聞かせるには相応しいものがあり、この歌もまた子供の心を育てるのに大事なピースとなるのも容易に想像できる。
「今頃は、シャミーもこいつを歌ってんだろうな」
「シャミーさんが?なんでまた」
何故か急にコンウェルがしみじみとした様子で妹の名前を口に出してきたため、俺はすかさず首を傾げる。
「なんでって、あいつ今…そういやそのことも知らねぇのか。シャミーの奴な、今妊娠してんだよ。もうしばらくしたら生まれる予定だ。そんで、腹の子に自分で歌って聞かせてるのをしょっちゅう見るもんでな」
自分のことのように妹の妊娠を喜んでいるコンウェルだが、今それを初めて聞かされた俺の方は頭の整理に一瞬時間を要した。
「…いや、ちょっと待ってくださいよ。急に色々知らされてびっくりしてるんですけど、そもそもシャミーさんって結婚したんですか?」
「おうよ。一年とちょっと前ぐらいだったか。親父の所に弟子入りした若いのとすぐにくっついてな、まぁなんやかんやあって、今は夫婦やってるってわけだ」
説明がざっくりしすぎだろ。
一年ほど前となると、俺は学園の方にいた頃か。
あの時は色々と忙しくも充実していたから、手紙を送る暇もなかった。
コンウェル達も色々とあっただろうから、シャミーの結婚のことを俺に教える手紙を出すタイミングを逃したのかもしれない。
「そういうのはちゃんと教えてほしかったですね。手紙とかで。俺、シャミーさんに結婚祝いも送れてないんですけど」
前にコンウェルがユノーと結婚してたのもシャミーから聞かされて初めて知ったぐらいで、この兄妹は俺達に対して情報の出し方が急過ぎる。
「悪い悪い、あの時期は俺もバタバタしてたし、お前への手紙なんてすっかり頭から抜けてたわ。まぁ結婚祝いはシャミーもあちこちから貰ってたし、お前一人がやらなくたって大丈夫だろ」
「いや、こういうのはちゃんとやらないと俺の気が…」
「じゃあ、明日シャミーのとこに顔出してやればそれでいいって。結婚祝いなんざ、おめでとうって口にして伝えりゃ十分なんだよ。下手にあれこれと物を貰ったら、逆に申し訳なくなるもんさ」
「…そういうもんですか?」
「そういうもんさ」
祝い事には何かいい物を送らなければという、日本人特有の感覚の俺に対し、コンウェルは結婚祝いを貰った側の意見として不要と言ってのける。
というか、シャミーの結婚祝いをコンウェルが断るというのも変な話だが、兄としての立場と経験者としての立場からの言葉だとすれば、一応納得はしておこう。
「ところでよ、さっきちょっと話に出てきた巨人についてもうちょっと話、聞かせてくれや。こっちでも例の巨人は噂になってるんだが、詳しいことはほとんどわからねぇんだ。やりあった当事者なら、もっと面白い話あるんだろ?」
シャミーへの結婚祝いの話はそれで終わりとなったようで、コンウェルはこちらへ身を乗り出しながら、アシャドル王国で暴れた巨人についての詳しい情報を求めてきた。
さっき俺達がここまで来た道程について語る中で、巨人についても軽く説明はしたが、その時もコンウェルは興味深そうに反応していた。
冒険者としての活動をフィンディとその近郊に絞っている今のコンウェルは、遠くに出かけることもないため、噂レベルで伝わってきていた巨人の情報に飢えていたようだ。
「巨人のことってんなら、あたしも知りたいね」
いつの間にか移動したのか、コンウェルの隣に座ったユノーも俺の話を聞く体勢へと移っていた。
パーラの寝息が聞こえていることから、うまいこと専用膝枕から脱してきたようだ。
「噂じゃあ六百人の兵士を千切って食ったって話じゃないのさ。本当ならとんでもないのがいたもんだね」
「そうだったか?俺が聞いたのは、千人が踏みつぶされた上に灼熱のブレスで焼き殺されたって話だったが」
「えー?流石にそれは盛りすぎじゃない?」
「ギルドで冒険者から聞いた話だぞ、こっちのは。…連中、多少酔っぱらってはいたみたいだけどな」
二人の聞いた噂には差があるようで、被害の大きさはともかくとして、攻撃方法が大分無茶苦茶なものだ。
巨人の被害に尾鰭が付きすぎてメガロドン並みになってるな。
ただ、その言いようからは噂をそのまま信じてはいないというのは分かる。
『で、本当のところはどうなんだ?』
夫婦揃って俺に顔を向けて、真相を求めてきた。
流石、どちらも冒険者として腕利きだけあって、好奇心も人一倍溢れる目をしている。
「…まぁ少なくとも火を噴いたり食ったりってことはなかったですよ。被害の方はちょっと正確にはわかりませんね。なんせ、俺もパーラも巨人を倒したって時点で遠くに吹っ飛ばされちまったもんですから、あそこでの最終的な被害は把握してないんで」
まさか巨人の中に封印されてた光の精霊に誘拐された、などと言うわけにはいかないし、実際俺達程度の立場で戦った人間には、巨人との戦いでの被害を全て把握することなど出来るわけがない。
戦いの途中までの死傷者数は何となくわかるが、あれだけの戦いで俺達がいなくなってからも怪我やら死人やらのカウントが進んでいないわけがなく、その正確な被害は恐らくかなりのものとなっているはずだ。
「そりゃあ仕方ねぇな。だったら、巨人とどう戦ったのかってのを教えてくれよ。お前らのことだ。どうせまともな戦い方はしてねぇんだろ?」
「どういう意味ですか、それは」
まるで俺達がセオリーを無視し、非常識に振舞って戦場を形成したかのようなコンウェルの言葉は、甚だ遺憾である。
とはいえ、巨人との戦いが普通のものとはかなり違っていたのは事実だ。
「まともかどうかはともかくとして、巨人に対して飛空艇を使った戦いという点ではかなり特殊だったとは言えますがね」
比較的低高度とはいえ、巨大な飛空艇を用いた空対地戦闘という、今の時代では画期的な戦闘が行われたのは物語として語るにはいい材料になる。
「そういや、正式に戦闘目的で国外へ飛空艇が出張ったのはあれが初めてだったって話だな」
「面白そうね。飛空艇でどう巨人に勝ったのよ?」
やはりソーマルガで今最もトレンディな飛空艇が出てくると、この二人も食いつきがいい。
早速俺が実際に体験した巨人との戦いを語って聞かせる。
実戦経験のある冒険者だけに、コンウェル達も戦闘における諸々の意味や役割をほぼ正確に察するため、時折投げかけられる的確な質問に答えつつ、語らいは深夜まで続く。
そうしていてふと思ったが、酒が入っていたこともあって、結構細かく話してしまったものの、果たしてこの辺りの情報を一般人に漏らしていいものだろうか。
前に大地の精霊から聞いた感じだと、アシャドル王国は巨人の情報をなるべく流出させたくないという思惑があったらしいが、それを俺が無視して他国の人間に話してしまうと、まずいいのではないか。
…まぁいいか。
どうせ人の口には戸が立てられないのだ。
既に巨人の噂自体はほとんどの国に広まっているし、複数の国が現地入りしていたのなら相応にスパイ活動も活発だったはずだ。
この手の情報はとっくにバレているに決まってる、そうに違いない。
だから俺は悪くねぇ。
それに、コンウェル達はこの手の情報の価値とその裏もきっと読み取ってくれるはずなので、軽々に他所に広めるということはしないはずだ。
そう信じるとしよう。
次の日、仕事に向かうコンウェルを見送ると、俺はユノーと共にシャミーの下へと向かった。
シャミーの妊娠が発覚してから、時折様子見にユノーがシャミーを訪ねているため、どうせなら一緒にと提案されての同行だ。
なお、パーラはここに同行していない。
何故なら二日酔いでダウンしているから。
本当は来たがっていたが、あまりにも体調が悪すぎて連れ歩くのが危険だと判断した。
前にもあったが、フィンディに来るとあいつは二日酔いで使い物にならなくなるな。
まぁそれだけ深酒をするほど、フィンディでの滞在が楽しいのだろう。
「ようユノー!いい枝肉が入ったんだが、夕食用にどうだ?」
朝もそれなりに過ぎた時間帯では、大通りの店も賑わっており、その中の一つから俺の先を歩くユノーへ声がかけられた。
声の主はやや太り気味の青年で、食肉を扱う店の人間のようだ。
ユノーとは顔なじみなのか、夕飯用の肉を勧めてくる。
「悪いね、今はちょいと行くところがあるんだ。後で寄らせてもらうよ」
「そうか。ならいいところを取っておくぜ」
「ありがとね」
足を止めることなく、肉屋との会話を早々に切り上げて目的地へ向かう。
こうして見ると、ユノーもちゃんと主婦をやってるのだなと思ってしまう。
子供が死産して以降、ユノーは冒険者として復帰したそうだが、同時にコンウェルの妻としても頑張っている。
毎日の食材の買い付けもちゃんとやっているのは、今の肉屋とのやり取りからも分かった。
大通りは相変わらず人は多いが、俺もユノーも慣れた動きで人の群れの中をスイスイと進む。
そうして歩くことしばし、辺りに肉の焼けるいい匂いが漂いだした頃、見覚えのある食堂を見つける。
コンウェルとシャミーの実家で、二人の父親、パウエルが営む料理屋だ。
以前俺がハンバーグの作り方を正しく伝授したおかげで、フィンディでも屈指の人気店となっており、今も入り口から空席待ちの人間がはみ出るほどの混雑ぶりだ。
店の外に張り出ている日除けの布も、以前見たものよりも大きく広くなっているのは、それだけ外で待つ人が発生する程繁盛している証拠だ。
朝食には遅く、しかし昼食にはまだ早いという微妙な時間にも拘らず、これだけの人間がいるということは、きっとシャミーも給仕として動き回っていることだろう。
この世界では妊娠して即産休に入るということはまずない。
貴族や大商人とかならともかく、その日を精いっぱい生きる一般人は出産ギリギリまで働かないと生活ができないのだ。
特にパウエルの食堂ほど賑わっていれば、シャミーの性格的にも身重の体を推してでも手伝おうとするに違いない。
「はいちょっとごめんよー、通してちょうだいな」
入り口を半ば塞いでいる人をかき分け、店の中に入ると想像していた通り、店内の席が全て埋まっているという繁盛っぷりで、その中にテーブルの合間を動き回るシャミーの姿があった。
新しく雇ったのか、シャミーの他にも若い女性の給仕が一人増えているものの、それでも手は足りているとは言い難い。
それぐらいの混み具合だ。
「…忙しそうですね」
各テーブルから注文を聞いたり料理を運んだりと、給仕としての動きに休む暇はないようで、とても声をかけるタイミングが見つけられない。
どのテーブルにもハンバーグを食べている客の姿が見られるため、すっかりこの食堂はハンバーグ専門店に変わったようだ。
「そりゃあこの混雑っぷりならね。仕方ない、厨房の方に顔出しましょ」
夫の実家だけあって、勝手知ったるといった様子のユノーと共に厨房へと入る。
最後に見た時から多少手が加えられたのか、厨房は若干レイアウトが変わっており、そこではまさに今食堂にいる人達の胃を満たそうと、熱を上げる鉄板に汗をかきながら対峙するパウエルと、初めて見る若い男の姿があった。
どちらも厨房に入ってきた俺達の存在には気付かないほど、調理に集中している。
「こっちも忙しそうね。ま、当然か」
「…ん?おう、ユノーじゃねぇか。どうした…お!アンディ!久しぶりだなぁお前!」
ユノーの声に反応したパウエルがこちらを見て、俺の姿に気付くと、その顔に満面の笑みを浮かべる。
久しぶりの再会でこういう反応をされると嬉しくなるな。
とはいえ、随分と忙しそうなので、シャミーに結婚祝いを渡したらさっさと帰った方がよさそうだ。
「ちょうどいい!お前、ちょっと手伝え!注文がいっぺんに入って手が回らねぇ!」
「え、いや俺は結婚祝い―」
「こっちの鉄板使え!ハンバーグの大を三つ、中を一つ頼むぜ!材料はそこだ!」
俺の言葉など一顧だにせず、パウエルはそれだけ言うと自分の作業に戻ってしまった。
なんだ、嬉しそうだったのは料理人が増えるからか。
確かに店内のあの混みようだと、もう一人料理人が欲しいという考えにもなろう。
だとしてもなんと勝手な。
まぁパウエルは性格的にこういう人間だし、何より俺とパーラも身内として見ている節があるので、遠慮や配慮もしないのは仕方ないとも言えるが。
それに随分と余裕もない様子だし、とにかく人手が欲しかった時に現れた俺が救世主にでも見えて縋ったといったところか。
「仕方ないね。アンディ、悪いけど手伝ってやってよ。このぶんだとシャミーに結婚祝いも渡さないうちに日が暮れちまいかねないしさ」
急に厨房要員に引きずり込まれた俺を憐れんではいるが、義実家の忙しさをどうにかしようというのは、それだけユノーがこの一家に馴染んでいる証拠だ。
「…まぁそうかもしれませんが。ユノーさんはどうしますか?一緒に料理を?」
「それも悪くないけど、あたしは給仕に回るよ。こっちに四人は手狭だろうから。じゃ、頑張んな」
そう言って厨房を後にするユノーだが、果たして彼女に給仕が務まるのだろうか。
冒険者としては一流でも、給仕の経験などどれほどあろうかという疑問もあるし、なによりシャミー達ですら大わらわの中に飛び込んで、最後まで仕事をこなせるのかという不安もある。
結婚して性格的に大分丸くなってはいるが、本質は荒事で揉まれた冒険者のユノーに方向性の違う戦場が肌に合うかどうか。
いや、もしかしたらユノーのことだ、もう何度か食堂の手伝いをしに来ているという可能性はある。
だとしたら、やり方も心得ているはずなので、なんとかやれるだろう。
―なぁ~にぃ!男なら大盛り頼みな!しっかり食わない奴がいい仕事できるなんて思うんじゃあないよ!
―ユノーさんやめて!?注文をお客さんに強制しないで!
…そうでもないな。
ユノーは給仕としては駄目かもしれない。
シャミーの悲鳴染みた声を聞きながら、俺は自分に任された仕事に没頭していく。
生憎厨房を任されている今の俺には、暴走するユノーを止めることは出来ん。
シャミーには悪いが、なんとかユノーの手綱を握ってホールを回してもらうしかない。
妊婦なのに酷いストレスに晒されるシャミーを助けることのできない俺はなんと無力か。
ひたすらハンバーグを焼いていると時間はあっという間に過ぎていき、ようやく食堂の客足が落ち着いたのは、昼を大分過ぎてからだった。
パウエルが言うには今日は特に忙しかったそうだ。
これは風紋船の到着と陸路での旅人が早朝に入場するタイミングが重なったせいで、それらの人間が今や名物となりつつあるパウエルの食堂へと一気に押し寄せたからだとか。
「はぁー、アンディ君が来てくれて助かったよ。あのまま父さん達だけで調理してたら、絶対注文がぐちゃぐちゃになってたわね」
客の掃けた食堂のテーブルに座り、疲れと充実感でいい笑みを浮かべるシャミーから感謝の言葉を貰った。
「いいのよ、そんなお礼なんて。身内が困ってるなら助けるのが筋ってもんでしょ」
「そ、そうね。ユノーさんもありがとう。その気持ちは嬉しかったわ」
何故か俺に向けられたお礼の言葉をかすめ取ったユノーだが、彼女に関しては正直あまり戦力にはなっていなかった。
給仕として動こうとはしていたが、客の注文を勝手に変えさせるわ、料理を運ぶテーブルを間違えるわで、逆にシャミー達の手間が増えていたように思える。
シャミーも無事に波を乗り越えたため深くは追及しないが、本音ではユノーに文句の一つも言ってもばちは当たらない。
もっとも、相手が兄の嫁、つまり義理の姉であるためあまり強く言えないのも難儀なことだ。
ただ、ユノーも体力だけは無駄に余っているので、シャミー達よりも多く動いていながらその姿に疲れが見えないのは現役復帰した冒険者の面目躍如といったところだろう。
もう一人、給仕としてさっきまでいた女性だが、彼女は近くに住む人だそうだ。
夫がフィンディの港湾施設で働いているため、昼は暇なのでたまに忙しい時はパートとして手伝ってもらっているらしい。
忙しい時間帯を抜けたので今日はもう帰ったが、少し話した印象だと物腰の柔らかい若奥さんといった感じで、シャミーとは気が合いそうだった。
「あぁ、そうだ。シャミーさん、遅れましたがこれ、結婚祝いです」
テーブルには俺達だけがいるため、いい機会でもあるためここに来た目的を果たすべく、結婚祝いにと持参した包みを手渡す。
コンウェルからは祝いの言葉だけで十分だと言われたが、一晩考えてやはりちゃんと形に残るものを贈ろうと、急遽用意した品だ。
「あら、気を使ってくれなくてもいいのに。開けてもいいかしら?」
「勿論、どうぞ」
俺に確認を取ってから包みが開けられると、そこに藍色の布が姿を見せる。
あっちの大陸を離れる際、スワラッド商国土産と交易用にといくつか買い漁ったものの一つで、特に高級品というわけではないが、値段の割に品質は悪くないため、自分達で使うか人にプレゼントするかと考えていたのを今回シャミーへと贈る。
「へぇ奇麗な布ね。手触りもいいわ」
「触るとサラリとした感じがあるでしょう?普通の布よりも汗を吸うし、スワラッドじゃ寝る時の肌掛けにも使われているそうです」
夜も暑いスワラッドでは、この手の布地は涼感のある寝具としての需要もあり、同じく暑い地域のソーマルガでも使えると思ってのチョイスだ。
もっとも、砂漠の夜は冷え込みの方がきついので、使うとしたら日中のちょっとした昼寝なんかの時に限るとは思うが。
「それはいいわね。この大きさなら、父さんとフリックの分も作れそうね」
「フリックというのは、シャミーさんの旦那さんの名前ですか?」
「ええ、そうよ。さっき厨房で父さんと一緒にいたのを見たでしょう?」
「まぁそうですけど、流石に名前を聞く暇がなかったもので、今知りましたよ」
ようやくシャミーの旦那の名前を知り、先程までパウエルと共にハンバーグを焼いていた青年の姿を思い返してみる。
パウエルほどではないが体格のいい青年といった様子のフリックは、途中で参戦した俺に対してあまり興味を示さず、黙々と調理を続けていた姿から、職人気質の印象を俺は勝手に抱いている。
言葉を交わすこともなかったため、為人を知ることはできていないが、フリックという名前を口にした時のシャミーの笑顔を見る限り、いい夫ではあるようだ。
今も厨房の片づけをパウエルと二人でやっている姿は、義理の親子としてうまくやれていると思わせる。
「でも結婚祝いを用意してくれたのに、フリックの名前を知らなかったなんて。兄さんやユノーさんから教えてもらわなかったの?」
「そういえば、なんででしょうね?」
普通ならシャミーが結婚、妊娠したという時点で夫の名前も教えてくれてもいいのだが、何故かユノー達から語られることはなかった。
どうしてかという疑問を込めてユノーを見つめると、彼女は一瞬言葉を詰まらせてから決まりの悪そうな笑みを浮かべた。
「うん、なんか言うの忘れてたわ。別に秘密にしとこうとかって思ってないけど、ほら、あるじゃん?再会の嬉しさで、言うのを忘れたっていうか、言ったつもりになってたっていうか、まぁそんな感じ…なんかごめん」
「まぁ尋ねなかった俺も悪いんで、別にいいですけど」
「ふふっ、ユノーさんも兄さんも、ちょっと抜けてるところがあるのよねぇ。前も財布を忘れて陽気に買い物へ―」
「あーあー!いいじゃないのさ、そんなことは!それよりシャミー、あんたお腹の調子は大丈夫かい?今日は忙しかったからね」
なにやらシャミーによる暴露が始まりそうだったのを、強引に中断させたユノーはさも体調を気遣うようなことを口走る。
まぁそれもまた本心ではあるのだろうが、やましいことを言わせまいとしたというのは今のやり取りだけで十分うかがえた。
「大丈夫、これぐらいで疲れたりしないわよ。今日は忙しい方だったけど、初めてってほどじゃないもの」
「だったらいいけど、体の調子が悪かったらすぐに義父さんかフリックに言うんだよ?無理して子供に何かあったら…さ」
そう言って、まだかすかに膨みが分かる程度のシャミーのお腹にユノーは優しく降れる。
少しだけ表情に悲しさを漂わせつつもシャミーの体をいたわるユノーの目には、無理をして自分と同じ悲しみを背負わせまいという、強い願いが籠っている。
「…うん、分かってる。心配してくれてありがとう。気を付けるわね」
「ああ、そうしな」
シャミーもユノーのその態度から彼女の思いやりを感じ、穏やかな笑みでお腹に乗るユノーの手に自分の手を重ねた。
その光景に、なにかこみあげてくるものを覚える。
二人の母、失われた命にじき生まれてくる命、何かが違えたなら立場が逆だったかもしれない。
亡くなった命を悲しむ思いはあれど、しかし今は新しい命を慈しもうと、二人の母の思いは一つとなっている。
多くの不幸があるこの世界だが、一方で喜びもまた多い。
シャミーの妊娠もその喜びの一つで、無事に子供が生まれてくれればコンウェルとユノーもきっと自分のことのように喜ぶだろう。
信心深さとは無縁の俺だが、祈るだけはタダだし、神ともちょっとした縁もある。
ろくでもない神しかいないこの世界だが、今はシャミーの出産が万事うまくいくことを天に祈っておくとしよう。
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