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ぶらり風紋船の旅2

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 風紋船といえば飛空艇を手に入れる前に一度乗ったきりだが、あの時は砂の上を走る帆船というのが新鮮で面白かった。
 多くの人や物をいっぺんに運べるこの風紋船は、まさにソーマルガを巡る動脈とも言えるものだが、いかんせん船内環境はお世辞にも良好とは言い難い。

 ほとんどの乗客が詰め込まれる大部屋は、直射日光こそ避けられるが風通しは最悪で、丁度俺達が商隊の護衛で使ったあの馬車のような暑苦しさに耐えながらの旅を強いられることになる。
 前はそれが嫌で甲板で勝手に涼しい環境を作って過ごしたが、二度目となる今回はその必要はない。
 なぜなら、今乗っているこの風紋船で俺達がいるのは、他の大勢の人間とは隔離された、静かで専用の窓もある個室だからだ。

 チケットによって宛がわれた客室に踏み込んでみると、その室内の豪華さにまず息を呑んだ。

 船の中というだけあって天井はそれほど高くはないものの、広さは十帖を超えるかどうかといったところで、おまけに外の空気を取り入れるための窓はかなりの大きさだ。
 流石にガラス張りではないが、外が見えるだけで圧迫感は段違いに軽減される。

 シャーキルから少し南に行っただけでも気温は結構上昇し、この部屋もそれなりに暑いのだが、窓があるおかげで大分ましだ。

 部屋を利用するのは俺とパーラの二人だけだが、ベッドは元から据え付けられている三つがあり、入り口近くにはちょっとしたソファセットまで用意されているほどの充実ぶりで、正直、そこらの安宿よりも上等だ。
 風紋船の大部屋を知っているだけに、この落差から一体どれだけの金を払えば使える部屋なのかと少し恐ろしくなる。

 どうも俺達にチケットを回すことになった原因の人間は、商会でもそこそこの地位にいるらしく、風紋船も一等客室を利用する予定だったのがそのまま俺達にスライドしてきたというわけだった。
 大部屋で息苦しい時間を過ごすことも覚悟していたのだが、まさかこんないい部屋を用意してもらえるとは、メアリ商会には当分足を向けて寝られないな。

 ソーマルガ皇国を巡る風紋船は基本的にどれも同じ造りだが、船体の仕様は製造される年代によって微妙に異なり、俺達が今乗っている風紋船は比較的最近作られたもので、居住性は割りと良好なバージョンだとか。

「いい部屋だねぇ。あ、私ここ使おーっと」

 俺が部屋の豪華さにたじろいでいる中、パーラはというと特に驚きもなく部屋の中へ入り、自分のベッドを選ぶと早速くつろぎだしていた。
 こいつは以前風紋船に乗った時、風魔術を利用した人間クーラーのバイトで一等客室にも出入りしていたので、この光景も見慣れたものなのだろう。

 俺も自分のベッドを決めて荷物を置いて一息つくと、頭上からくぐもった鐘の音が聞こえてきた。
 出航の合図だ。
 少し遅れて微かな振動を感じたので窓の外を見てみれば、じっくりと景色が動いていくのが分かる。

「動き出したみたいだな。パーラ、前みたいに甲板に見に行くか?」

「お、いいね。行こう行こう!」

 一旦脱いだマントを手早く身に着け、直射日光対策をして甲板にやってくると、作業中の人達を避けて船首付近へ移動して景色を眺める。
 久しぶりに乗った風紋船だが、地面からの高さに肌で感じる風も相まって、馬車などとは解放感が段違いだ。

 砂をかき分けて走る船には、海を行くものとも飛空艇とも違う、言葉にしがたいこみあげてくる何かがある。
 敢えて言うなら寂寥感が混ざった冒険心とでも言おうか、そんなものを刺激される光景だ。

「なんだか懐かしいね。初めて風紋船に乗った時を思い出すよ」

「懐かしいって、そんな昔のことでもないだろ」

 初風紋船は確か3・4年ぐらい前だったはず。

「そうだっけ?なんかもう何年も前のことみたいに思えちゃって」

「気持ちはわかるがな。俺達は短い期間に色々ありすぎた」

 遠くを見つめるパーラに、俺も頷きを返す。
 人生波乱万丈とは言うが、天界に行って戻ってきた人間などそうはいない。
 ここまでの俺達の旅はどろソースのように濃すぎたな。

「これってフィンディまで行くんだよね?そんで乗り換えるんだっけ?」

「ああ、俺達はフィンディで一旦降りる。そこで別の船に乗り換えて、皇都まで一気に行く」

「そっか。フィンディってことは、ユノーさん達に会えるね。それと、赤ちゃんにも」

「そういやもうとっくに生まれてるか。あれから手紙のやり取りがなんか減っちまったし、子供がどうなったか知らないから、会いに行くのもいいな」

 最後にユノーと会った時は、もう大分お腹も大きくなっており、出産もそう遠くないといった感じだった。
 もしも順調に生まれていれば、コンウェル達には三歳ほどの子供がいることになる。
 中々会いに行くタイミングもなく、これが初めての顔合わせとなるが、それが楽しみになってきた。

「だよね!あー、早くフィンディに着かないかな。…私の魔術で風起こしたらもっと早くなるかも?」

 さも名案だと言わんばかりに目を輝かせるパーラだが、それは短慮だ。

「やめとけ。お前が全力で風を起こしたら船体が痛む。風紋船には見合った速度ってのがあるんだから」

「ちぇー…」

 風紋船は船体の周りの砂を動かすのと帆で受けた風の二つの力で走る。
 確かに帆の方に風を当てれば航行速度は上がるが、パーラの場合有り余る魔力で手加減を忘れかねない。
 ちょっとの風で壊れるほど軟ではないだろうが、そのちょっとで済まない可能性がある以上、やめておいたほうがいい。

 俺達の旅は急ぐに越したことはないが、風紋船には他にも大勢の人間が乗っている。
 船を危険に晒すようなことは避けるべきだろう。






 ―…ィ……ディ…

 光のない暗闇の世界で、どこか遠くから俺を呼ぶ声が聞こえる。
 助けを求めるのとは違う、力強さがある呼び声に誘われ、俺は自分が眠っていたことを思い出し、ゆっくりと瞼を開いた。

「アンディってば!」

 目覚めた最初に俺の目にまず飛び込んできたのは知っている天井と、ベッドのすぐ傍で仁王立ちをしていたパーラの姿だった。

「…なんだよパーラ、折角気持ちよく寝てたってのに」

「なんだじゃないって。もうすぐフィンディに着くよ」

「へぇー、もう着くのか……え、もう!?嘘だろ!?」

 寝起きでぼんやりとしていた頭が一気に覚醒した。

「早くないか?話じゃ確か着くのはもう少し先だったろ」

 魔物の襲撃もなく、風にも恵まれたおかげで昨日の時点で風紋船は予定よりも大分進んでいた。
 ちょっと前に船員から話を聞いた時点では、フィンディまでは後五日ほどかかるという見立てだったはず。
 窓の方を見てみれば、とっくに夜が明けて今は朝というには少し遅い時間ぐらいだ。
 まさか俺が丸四日寝てたとかのオチはないよな?

「私にも分かんないよ。でも予定よりもかなり早く着きそうなんだって。さっき通路ですれ違った人がそう言ってたの」

「予定よりって、四日も短縮したのかよ。どういう航路使ったんだ?」

 風紋船の航行はある程度計画通りに行われるが、日本の鉄道でもないのだからそこまで正確さは求められない。
 とはいえ、大体の予定からは外れることもなく、よほどのことがない限りは一日か二日のズレを含んでの航路が組まれる。
 それが四日も短縮したとなれば、どんな魔法を使ったのかと思ってしまう。

「さあね。でも早く着くならそれに越したことはないよ。ほらほら、さっさと船を降りる準備して」

「準備ってお前、まだフィンディにはついてないんだろ?そんな急がなくたって…」

「ダメ!皇都行きの風紋船はもう乗船券があるんだよ?てことは、フィンディでの滞在時間もそれに合わせなきゃならないんだから、のんびりしてらんないでしょ」

「わかったよ、わかったからそんな大声出すなよ。俺は寝起きなんだから…」

 そう力説するパーラに急かされ、出発の準備を整えて甲板へ出る。
 これでも一年で最も暑い季節は過ぎているはずなのだが、数日前から本格的に砂漠入りしたこともあって、外は殺人的な暑さだ。

「あっちぃな、相変わらず…んで、フィンディの方角はっと」

「アンディ、向こうの方に街が見えるよ」

 船首まで行ってフィンディを探していると、いち早く見つけたパーラが俺の肩を叩いて教えてくれた。
 指さす方向を見てみれば、確かに遠くの方で薄っすらと街のようなものが見える。
 勿論それは砂漠の蜃気楼などではなく、ちゃんとそこに存在する街、フィンディだ。

 まだ随分と距離はあるが、風紋船の速度を考えると到着まであと二・三時間ほどといったところか。
 そう考えると、急いで下船の準備をするのはまだ早いと言えなくはないが、それだけこいつも気が逸っていたのだろう。
 フィンディが見えた途端にソワソワとしだしたその姿に、先程叩き起こされた怒りも多少失せた。

 俺達の乗る風紋船がフィンディの目と鼻の先まで来ると、一度大きく迂回するようにして街の外壁へと近付いていく。
 ソーマルガ皇国の国土のほぼ中心に位置し、多くの風紋船の中継地とされるフィンディは、街としての規模も桁違いに大きい。
 皇都に次ぐ大都市だと言われれば疑う気も起きないほどで、風紋船が停泊する桟橋の数も他の街よりずっと多い。

 街に併設されている桟橋には既に他の風紋船がいくつか接岸しており、事故防止の観点から人が歩く速度まで速度を落としながら、船は無事に停泊した。

「よし!じゃあ行ぐぇ」

「慌てんなバカ」

 船が完全に停止するや否や、噴射装置に空気の充填を始めたパーラだったが、船縁に足をかけるよりも早く俺がマントを掴んで後ろに引き倒す。
 こいつ、まさかとは思っていたが本当に噴射装置でフィンディに突入しようとしやがった。

「…ったー!なにすんのさ!」

 甲板の固い床に尻を叩きつけ、その痛みに呻くパーラから非難の声が上がるが、ジロリと睨んで続きを黙らせる。

「街に来たらまずは入場の手続きだ。いきなり街中に飛んでくのはやめろ」

 街に着いたらまずやることはどこでも変わらない。
 正規の手続きを踏まずに街に入るなど、犯罪者のやり方と同じだ。
 それに俺が止めなければ、フィンディの街は未確認の飛行物体の侵入で騒ぎになりかねなかった。

「もー、分かってるよ。普通に言ってくれればいいのに、こんな乱暴な止め方しなくてもさぁ」

「言葉じゃ間に合わないと思ったからそうしたんだ」

 圧縮空気の充填から飛び立つまでの手際はもう慣れたもので、ショートジャンプ程度ならタンクへの空気の充填もさほど必要なく、最短なら一秒強で飛び立てるのが今のパーラだ。

 さっきも俺が待てと言ったところで気付くかどうか、そして跳躍までの一連の手順はもう無意識にも近いものとなっているため、きっと引き留めるのは間に合わなかった。
 そのため、物理的な静止が最も正解に近い行動だったと自負している。

「船で来たんなら、降りるのもちゃんと船の出入り口を使わないとな」

「へーい。…噴射装置の方が早いのに」

 ぶつくさ言うパーラを引き連れて、ちゃんと他の乗客と同じように船を降り、門で身分証明を済ませてフィンディの街へと入った。

 大都市として間違いのない人混みは流石フィンディと言ったところで、あちこちで上がる声は祭りのような荒々しさと力強さがある。

 人の流れに身を委ね、ある時は逆らいながら歩き続け、見覚えのある道を辿ってコンウェル達の家に到着した。
 相変わらず冒険者の家とは思えないほどの豪邸で、心なしか前に来た時よりも外観が奇麗になっている気がする。

 コンウェル達の所は幽霊が家政婦をしているから、ガサツな冒険者では雑になりがちなところにも管理が行き届いているのだろう。

 早速呼び鈴を鳴らして来訪を告げると、すぐにユノーが顔を見せる。

「あら!あんた達、久しぶりじゃない!よく来たわね」

 子供を産んだはずなのだが、以前とプロポーションも変わらなく見えるユノーの姿に懐かしさを覚える。
 突然やってきた俺達を見て驚きはすれど、迷惑そうな気配を欠片もない様子で顔を輝かせるユノーの喜びようはこちらが嬉しくなるほどだ。

「どうも、ご無沙汰してます」

「ちょっとフィンディに寄ったから、せっかくだし顔を見ようって思って。それで来ちゃった」

「なんだい、来るなら手紙の一つでも寄越しなよ。さ、入んな入んな」

 笑顔のユノーに誘われて家の中へ入ると、日光が遮られたのに加え、冷房的な魔道具が効いているのか、外よりも幾分か涼しく汗が引いていくのが心地いい。

 リビングへ通され、勧められたソファに腰掛けると、ユノー自らお茶を用意してくれた。
 今は昼間ということもあり、幽霊のフィーは出てこられないようで、家事などは自分でやるのだろう。

「悪いね、何の用意もなくてさ。茶ぐらいしか出せないけど、遠慮なく飲んどくれ」

「お気遣い有難く」

 お茶とて決して安いわけではなく、急に来た俺達にこうして出してくれるだけでも立派なおもてなしだ。
 さほど冷たいわけではないが、一口含んだそのお茶は渇いた喉を十分潤してくれる。
 三口ほどを飲んで一息ついたタイミングで、ユノーが楽し気な声をかけてきた。

「ほんと、久しぶりだよ。どれぐらいぶりだろうね。あんた達、こっちにはいつまで滞在するんだい?長くいられるの?」

「いえ、皇都行きの風紋船が八日後に出る予定なので、その辺りまでですかね」

 思ったよりも俺達が早くフィンディに着いてしまったため、皇都行きの風紋船はまだこっちに来ていない。
 予定では、七日後に来る風紋船が諸々の準備を丸一日かけて済ませたタイミングで、俺達は皇都へと旅立つ。

 勿論これは予定通りに行けばの話なので、何かあれば日にちは後にズレることとなる。

「あら、そんなにはいられないのね。だったらその間、うちに泊まってきな。積もる話もあるんだし、コンウェルも喜ぶよ」

「それは助かります。じゃあお世話になります」

「宿代浮いたね、アンディ」

「おいやめろバカ」

 秘かに俺も期待していたとはいえ、ユノーの前でそういうのを言うんじゃない。
 恥ずかしいだろ。

「いいじゃないのさ。知った仲なんだし、ゆっくりしていきな」

 下手をすれば不機嫌にしてしまいかねないパーラの言葉にも、泰然としているユノーのなんと懐が深いことよ。
 宿代云々はともかく、フィンディで宿を探す手間を考えればユノーの所に世話になるのが一番楽でいい。
 ただ、懸念があるとすればフィーのことだ。

 悪い霊ではないとは分かっているが、幽霊がいる屋敷で寝起きするのはなんだか怖い。
 とはいえ、それを理由にして宿泊を断るのは男らしくない。
 何よりパーラがここに泊まるのに乗り気なのをどうにかする方が難しいので、ここはひとつ、オ〇Qがいるだけだと思って我慢しよう。

「そういえばさ、ユノーさんの子供って今どうしてるの?どっかの部屋で寝てるとか?」

 今夜の宿が決まり、上機嫌となったパーラが二人の子供について尋ねる、ユノーが一瞬顔を俯かせるが、すぐにこちらへ何でもないような顔をして笑いかけてきた。

「そうだね、じゃああの子に会ってくれるかい?」

「勿論!そのために来たようなもんだし。ね、アンディ」

「あ、ああ、そうだな。ユノーさん、何かあるなら無理にとは…」

「ううん、別に無理とかはないから気にしないで。さ、こっちよ」

 先程一瞬見せたユノーの顔が気になり、そう尋ねてみるが首を振られて別の部屋へと案内される。

 リビングを出て屋敷の一階奥にある部屋までくると、扉の前でユノーは立ち止まって何かを考えるように目を伏せてしまった。
 その様子にただならぬ何かを感じた俺達は、どう言葉をかけるか迷ったが、すぐにユノーが扉を開けて部屋へ入っていくのに一拍遅れて着いていくしかなかった。

 足を踏み入れたその部屋の最初の印象は、まさに子供部屋といった様子だ。
 子供を寝かしつけるための小さなベッドに、その近くに置かれた籠の中に入った木工品はおもちゃなのだろう。
 また近くにある棚にはオムツや肌着といったものが詰め込まれており、ここが子育てをするのに使われるのは誰が見ても明らかだ。

 子供部屋としての要素を彩る数々の品だが、しかしそれらの中心であるものがこの部屋には欠けていた。
 先程部屋に入ってから感じていたが、この部屋には本来いるべき子供の姿がないのだ。
 今はいないだけというのなら話は別だが、だとしてもこの部屋の品々はどれも新品同様のように見えるのが気になる。
 まるで一度も使われたことがないかのような…。

「二人とも、こっちに」

 ふつふつと感じ始めた違和感に胃が重くなってきた時、ユノーが穏やかな声で俺達を呼んだ。
 部屋の一角に置かれた机の前で待つ彼女の所へ行くと、その手には小箱が載せられていた。
 特に過度な装飾もない、何の変哲もない木製の小箱だが、これといった汚れや傷みがないのは、それだけ大事に扱っている証拠だろう。

「…ユノーさん、これは?」

 その中身が何かを薄々と察していながら、しかし最後の確認のために出した俺の声は掠れていた。
 そして、俺の声に応えるようにユノーが小箱の蓋を開ける。
 中には折り畳まれた布が入っており、それをユノーが一つ一つめくっていくと、その中心に一房の細く短い毛の束が鎮座していた。

「私とコンウェルの子よ。体はもうないけど、髪の毛だけは残しておいたのさ」

「ぁ…」

 愛おしそうに、しかし同時に空虚さもある笑みで髪の毛の束に触れるユノーの姿に、思わずといった感じでパーラが小さく声を漏らす。

 ユノー達の子供が生まれていれば、今頃は三歳かそこらだ。
 だがその姿がなく、代わりに髪の毛だけが残っているということに、使用された形跡のない子供部屋の理由も自ずと理解できた。

「亡くなった…んですね」

「ええ。産んで初めて分かったけど、お腹から出てくる少し前にはもう死んじゃってたみたい。遺体はもう弔ったけど、やっぱり初めての子供だからさ。せめて遺髪だけは、いつも一緒にってね」

 なんでもないように言うユノーの姿に痛々しさを感じ、俺とパーラが何も言えないでいると、ユノーは小箱を大事そうに撫でながら静かにその蓋を閉じた。

 ユノーとコンウェル、この世界の基準ではどちらも決して若いとは言えない歳で、初めてできた子供だ。
 産まれてくるのを楽しみにしていた姿は、見ているこっちまで暖かいものを覚えるほどに幸せそうだった。
 それがまさか死産とは、なんともいたたまれない。

「この部屋も、この子のために一から用意したんだけどね、コンウェルとはまだ生まれてないのに気が早いって二人で笑いあってさ……生きて産まれてくるのを疑いもしないなんて、浮かれてたんだね、ほんと」

 明るい口調で話すユノーだが、それが亡くなった子供のことを吹っ切ったせいだなどとは微塵も思えない。
 さっき遺髪の入った小箱を撫でた手つきは、我が子を思う母親がする仕草そのものだった。
 きっと涙に暮れた日も一日や二日ではなかったのだろう。

 この世界では子供が必ずしも無事に生まれてくるとは限らない。
 むしろ碌な治療方法もなく栄養に不足がある一般人なら、死産する確率の方が高いくらいだ。
 ユノー達は一般人よりも色々と恵まれてはいる方だが、それでもこうして赤ん坊が亡くなっている以上、誰にも平等に降り注ぐ悲劇に見舞われたということだ。

 確率の問題じゃない、産まれてくる子は常に生か死かの五分五分の戦いを強いられている。
 この世に生を受けて現れること自体、奇跡と言っても過言ではない。
 だからこそ、子供は幸せになる権利を生まれながらにして持つのだ。

「あ…あのさ!ユノーさん!その…赤ちゃんは亡くなったけど、でも何も残ってないってわけじゃないよ。遺髪もそうだけど、お腹が大きい時に感じてたものもあるじゃない?亡くなった子を今も思う心があるなら、ちゃんといつも一緒にいられるんだよ、きっと。だから、さ…うぅっ」

 励ますように声を張って話し始めたパーラだったが、その言葉はどこか散らかったもので、しかも最後の方になると泣き出してしまった。

「ちょっとパーラったら、あんたが泣くこともないだろうに。あぁもう、こんなに顔中鼻水だらけにして」

「だって、ユノーさん達産まれてくるのあんなに…楽じぞうにじでだぼびぃっ!」

 本格的に泣き出したパーラを、ユノーが困った笑みを浮かべて慰める。
 ついさっきまでユノーも死んだ子のことを思い浮かべて悲し気な雰囲気だったのだが、こうも目の前で全力で泣かれるとそちらに気を引かれてしまったのだろう。
 顔を液体塗れにするパーラに、悲しみがかき消されたとも言えるが。

 ユノーは我が子のことで泣くパーラの姿を慈しむように、その体を抱きしめて頭を撫でてやり、そうして暫くの時間が過ぎていった。
 泣き声が少し収まってきた頃、大きく頭を振ったパーラが勢いよく顔を上げて口を開く。

「…うん、決めた。ユノーさん、私のこと、死んだ子の代わりだと思っていいからね」

『は?』

 お前は何を言ってるんだ?

 いったいどう発想がぶっ飛んだのか、何故かパーラは急にユノーの子供代行を口にする。
 ユノー達を思ってのことだとは分かるが、だからといってそうはならんだろ。
 思わず俺とユノーの口から同じ温度の困惑の声が漏れた。

「え……なんでそんな話に…いや、ここまで大きいと流石に」

 突然おかしなことを言われ、ユノーも盛大に引いている。
 まぁいきなり子供と思えと言われても、パーラは赤ん坊と呼べる年齢からは遠い。
 亡くなった子の代わりと思える要素がほぼ無いのに実行するあたり、今のパーラの度胸だけは怪物だと言っていい。

「ばぶぅ、だーぅ」

「ちょっいきなり何してっ!?」

 赤ちゃん言葉を口ずさみながら、ユノーの胸元に再び顔を埋めるパーラは、あれで本当に慰めになると信じているようだ。
 しかも随分と堂に入った赤ん坊スタイルだ。

 悲しい話を聞いた感情の高ぶりもあって、やると決めたからには貫き通す意志を無駄に垣間見せるパーラを引き剥がすには、少し落ち着くのを待ったほうがいい。

 どうせ頭が冷えれば、今自分がとった行動の恥ずかしさと矛盾に苛まれることだろう。

 確かに今回、子供が亡くなったことは悲しむべきことだ。
 だがそれで次の子を諦めてはほしくない。

 ユノー達は若くはないが、しかし次の子が望めないほどの歳でもない。
 失われた命を思うのならば、同じくらい新しい命に未来を託せるよう頑張ってほしい。

 死んだ子を忘れろと言うのではない。
 失った命と新たな命、どちらをも思いながら生きていくのが親となる者の責務ではないだろうか。

 この世界では、亡くなった魂は星を巡る。
 エネルギーとなった魂に自我があるかどうかは分からないが、ユノー達を見守る何かがこの世界にいると考える方が、奇麗で報われる御伽噺にも相応しいはずだ。

「あむあむあむ」

「パーラやめな!あんたがおっぱいを吸ってどうすんのさ!」

 おっと、パーラの赤ん坊ロールがそろそろシャレにならんところにまできてしまった。
 母乳を求めてユノーの服にもぐりこむ姿は、同性で知り合いだから許されるヤバさがある。

 冷静になるのを待つつもりだったが、どうもその気配がない。
 これは急いで引き剥がした方がよさそうだ。

 手間をかけるパーラに頭痛を覚えるが、それがユノーを慌てさせて悲しませる暇を与えていないのは、果たしていいことなのかどうなのか微妙な所ではある。

「ひぃう!そこはっ…ら、らめぇええ!あっ…」

 ついに乳首に到達したのか、ユノーの絶叫が子供部屋に響き渡る。
 人妻が真昼間に上げていい声じゃないな。

 本当にこのままだと、今夜の宿がパァになりかねん。
 暴走を止めるべく、俺の拳は似非赤ん坊の頭へと振り下ろされた。
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