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帰るべき世界

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 天人回廊の利用にガルジャパタの協力を得てから数日が経った。
 準備にかかる時間がどれほどかは知らされていないが、エスティアンが茶飲み話感覚で進捗状況を教えに来てくれるため、出発への備えは着々と整ってきている。

 俺達が下界に戻るということを知ったからか、最近はシアザがパーラを訪ねてきて、よく一緒にどこかへ出かけていくことが増えた。
 最初に見たときの刺々しかったパーラの態度も今ではすっかり失せ、まるで親子か姉妹のような仲睦まじい姿を見ていると、あの二人も別れを惜しんでいるのだと分かる。

 立つ鳥跡を濁さずという諺にならい、世話になった小屋とその周りを掃除したりして過ごしていると、ようやく天人回廊の準備が整ったと、ガルジャパタが俺達の小屋へとやってきた。
 今日も前と同じ、エルフの女の姿だ。
 その姿、気に入ってるのか?

 生憎小屋には俺一人しかおらず、パーラはシアザ達の所に泊まりにいっているため、そちらにはエスティアンが迎えに行ってくれた。
 そのため、パーラの帰りを待ってから天人回廊の使用に関する注意事項なんかを聞くこととなり、今は二人で早朝のティータイムと洒落込んでいた。

「となると、地球側の管理者とは連絡する手段はないってことか?」

「そうだな。何かある時は向こうから一方的に連絡が来るが、こちらから向こうへ連絡することはできない。何せ完全に隔絶している世界なのでな」

 暇な時間を埋めるというわけでもないが、茶菓子代わりにあれこれ話をしているうちに、俺をこちらへ送り込んだ地球側の管理者についても色々と聞くことができた。

 流石に今更地球に戻ろうという気にはならないとしても、俺を何故転生させたかの理由と文句を向こうの管理者に言いたかったのだが、それすらもできない程に二つの世界は離れているようだ。
 まぁ顔を合わせる機会があれば一発殴ろうとも思っていたし、お互いのためにはこの距離はむしろ丁度いいとも言えなくもない。

「それに、もし仮に君の方から会いたいと持ち掛けても、あれが素直に応じるとも思えんよ。力の大きさと性格の悪さが比例しているような奴だからな」

「…前にも思ったが、あんた地球側の管理者について話すときは随分と棘があるな?」

「当然だ。奴が私にかけた迷惑となれば、数えるのもばからしいくらいに膨大なものになる。力と立場が上だからといって、敬意を払う気は一っ欠けらもない」

 表情こそ変わらないが、その口調からは相当な苛立ちが感じられる。
 よっぽど嫌いなんだな。

「待たせてごめーん!あ、なに?お茶飲んでんの?私にもちょうだい!」

「ワイにも」

 お茶のお代わりを勧めようとしたしたところで、地面から飛び出すようにしてパーラが現れた。
 少し遅れてエスティアンも現れ、二人揃ってお茶を要求してくる。

「はいはい、ちょっと待ってろ。今火にかけたばかりだからな。それよりもパーラ、お前それなんだ?何持って来たんだ?」

 増えた人数分のお茶の用意をしながら、パーラが手にしている荷物に目が行き、それについて尋ねる。
 布で包まれた棒状の何かは、確かに行きの時にはなかったものだ。

「あ、これ?餞別だってさ。シアザがくれたんだよ」

 天人回廊の準備が出来たというのは、恐らくエスティアンから今日初めて伝えられたはずだが、こうして餞別の品がある以上、やはり別れの日に備えていたということだろう。
 なんだかんだで旅立つパーラに、出来ることはしてやろうという親心らしきものが感じられる。

「餞別?中身はなんだ?」

「さあ?アンディと一緒に見ろってさ」

「へぇ、なら今開けてみるか」

「じゃあ早速」

 お茶を片手にパーラが包みを開けるのを見ていると、中から姿を現したのは一本の巻物だった。
 巻物とはいっても、紙でできたものではなく、厚手の布か革が巻かれたもののようだ。
 長さは一メートルはないが、広げるとかなりのサイズになり、ちょっとしたベッドぐらいは覆い隠せそうな面積がある。

 その中身には、赤白黄の三色で何やらよくわからない模様がびっしりと刻まれており、さながら現代アートっぽい一品とも言える。
 とはいえ、これを見ただけではその価値もよくわからないし、どう反応したらいいか戸惑っていると、ガルジャパタが感嘆の声を上げた。

「ほう、見事な口狼歌こうろうかだ。シアザも大層なものを寄越したな」

『口狼歌?』

 初めて聞く言葉だけに、俺もパーラもオウム返しになるのも仕方がない。

「む、知らんのか?口狼歌というのは、力ある狼の咆哮を物に刻み込む技を指すのだが、それを利用して作られる品をもそう呼ぶ。その革巻きもそうだな。口狼歌が刻まれたものは、それ自体が守護の力を持つと言われている。下界に向かうパーラの身を案じた、まぁお前達でいうところのお守りのようなものだ」

「しかも口狼歌ってのは大抵、単純な印程度なものだが、こいつは色んな線やら点が入り混じった複雑な模様になっちょる。これほど見事なものとなりゃあ、シアザも随分気合入れたな。いや、こいつはベラオスも手を貸しよったか?」

 エスティアンがガルジャパタの言葉に続き、感心したような声を出す。
 説明だけでは今一つ分からないことも多いが、どうもこの口狼歌とやらは、普通よりもかなり模様が細かく、シアザとベラオスが協力したことで、手が込んだ仕上がりとなっているようだ。
 力ある狼と言っている時点で、制作にはベラオスとシアザ、そして彼らに近しい力を持つ者に限られる程度には、レアリティも高いのかもしれない。

「ねぇ、その守護の力ってのは具体的にはなんなの?魔術を防いだりとか?」

 神と呼ばれるほどに力を持った二人が手ずからに用意した品だ。
 守護の力と聞いて、パーラも気になったようだ。
 俺だって気になる。

「これにそこまでの力はない。さっき言っただろう?お守り程度のものだと。とはいえ、全く力がないわけでもない。これを近くに置いておくだけで、胃痛胃もたれに肩こり腰痛解消、イライラが和らぎそこはかとなくいい感じになるといった効果はあるだろうな」

 急に胡散臭くなったな。
 養〇酒、もしくは海外製のサプリメントのCMか?

 これが宗教の勧誘だったら完全に信じないが、他でもないガルジャパタが言うのならそういう効果は確実にあるわけか。
 とはいえ、もっとすごいのを期待していただけに、ちょっと拍子抜けの感はある。

 ただ、パーラの身を案じてこれを用意していたとするなら、健康を第一にという願いは全くの無意味とは言えない。
 何事も健康第一、特に天界と比べて色々と肉体が不便な下界ではな。

「…なんかフワっとした効果だね」

「正確な効能に関しては、私にもわからんよ。どうしても知りたければ、作った者に聞くんだな」

「うーん……まぁいいや。別にそこまで知りたいわけじゃないし。それよりも、天人回廊の話をしようよ。説明があるってエスティアンから聞いてるんだけど」

「そうだな、ではそちらの話をしよう。少し長くなるぞ」

 そう言って確認のためか、俺とパーラへを見つめてきたガルジャパタへ、こちらも見つめ返して頷き、先を促した。




 天人回廊というのは、元々下界と天界を繋ぐ枝の一つを、下界行きの直通通路へと改造したものだ。
 便利で安全な死色の梯子が使われている今、あえてそれを使おうという者はおらず、ガルジャパタも半ば閉鎖に近い形で管理していた。

 回廊と呼び名がついていることから、歩ける程度には整えられている通路を想像しているが、実際は下界まで続く縦穴があるだけで、そこを進むというよりは落ちていくというのが正しい。
 途中で止まれる場所もなく、ほぼ垂直に落下していった先に、俺達が目指す場所があるという。

 具体的にどれくらいの長さを落ちていくのかは分からないが、あっという間とはいかないようで、着地を成功しても誤っても、普通の人間なら即死は確実だと言われてしまった。
 おまけに回廊内は強烈な力の奔流が荒れ狂っており、何の対策も力も持たないで幽星体をそこに晒せば、一瞬で魂の粒まで消滅してしまうらしい

 ただ、そこら辺の問題はガルジャパタの方で何とかするそうなので、俺とパーラは気にしなくていいとの言葉ももらった。

「何とかするって、具体的にはどういうのだ?」

 即死確実な高さから落ちるのを、何の気もなしにどうにかするというガルジャパタに、俺としては尋ねずにはいられない。
 確かに力のある存在であるガルジャパタが言うのならなんとかなりそうだが、具体的なものを聞かないまま飛び降りるのは少し怖い。

「うむ、そのための特別な道具を用意している。神ならぬ身の君達でも、それがあれば回廊を無事に抜けられよう」

 ほう、特別な道具とな?
 わざわざ俺達のために用意したということは、鎧か何かだろうか。
 あの言いようだと、神や精霊といった連中と同等の防御手段を俺達に与えてくれる道具と思える。

「それは今ここにあるのか?あるならちょっと見せてほしいんだが」

「あるにはあるが、まだ力を込めている最中だ。出発の直前には見せてやる故、その時まで待て」

「むぅ、そうか」

 どうやらギリギリまでガルジャパタの力を込めるタイプの道具のようで、そう言われてはそれ以上強請ることもできんな。

「話を戻すぞ。回廊を通る際、まず確実に君達には何かしらの変化が起きる。こればかりは防ぐことはできないが、命に係わるほどではないため、甘んじて受け入れてくれ」

「変化ってどういうの?私みたいな?」

「いや、恐らくそこまでのものではないだろうな。せいぜい幽星体の一部が損傷、または置き換わるといった程度だ」

「ちょっと待て。幽星体の一部が損傷って、結構まずいんじゃねぇか?」

 なんともないような口ぶりだが、魂の形ともいえる幽星体に一部とはいえ何か起きるとあれば、聞き逃すことはできない。
 肉体のDNAの欠損なんてちゃちなもんじゃあない。
 幽星体に傷がつくということは魂が傷つくということであり、下手をすると自我が崩壊するような精神の致命傷となる可能性もゼロじゃないはずだ。

「そうでもない。元々天人回廊を通って下界に降りた神も、幽星体に一部変異があったせいで天界に戻れなかったのだ。ただし、これは肉体を持たない神だから起きた変化だと言える。君達は今でこそ幽星体としてここにいるが、下界に降りる際には私がその上から被せる形で肉体を作るため、回廊を通過することによる直接的な幽星体への影響は、誤差程度の極小さなものに留まるはずだ」

「肉体を作るって…いや、流石は神々の上位存在ってことか」

「ちょっと待って。え、私達のこれって幽星体なの?」

 さらっと肉体を作ると言われて唸る俺に対し、パーラは今の自分が肉体を持っていないことを初めて知ったような態度だ。
 そう言えば俺はガルジャパタからその辺りは聞かされていたが、パーラには言ってなかったな。
 てっきりシアザかベラオスからでも聞いていると思ったが。

「君達の肉体はこちらへ来る時、完全に分解されている。そもそも、この無窮の座には幽星体でしか存在できない。心配せずとも、以前と変わらぬ姿の肉体を用意する。幽星体と肉体をまとめるのも回廊の中で行うが、それも一瞬で済むし痛みもない」

 俺達がここに来たのは光の精霊の仕業だが、そのために幽星体と肉体が引き離された時に、元の肉体は精霊核晶へと飲み込まれて分解消滅していると聞かされていた。
 幽星体だけで下界に降りると、位階が高くないと存在を保てないそうで、俺達はまず肉体を得なくてはならない。
 そこをしっかりと押さえて、肉体の用意まで考えてくれているのは、正直ありがたい。

「本当にぃ?私、この狼化の姿のままで降りたくないからね?」

「ああ、任せておけ。お前達の不利になるようなことはしない」

 …なんだろう。
 ガルジャパタの太鼓判ではあるのだが、言いように少し不穏なものを覚えるのは気のせいか?
 まぁ一切をガルジャパタに頼っている以上、信用するしかないのだが。

「ところで、このまま天人回廊を通るのは良いとして、預けてある装備とかはどうなるんだ?流石にもう返してほしいんだが」

 噴射装置や可変籠手といった装備も俺達と一緒に来ているが、そちらは光の精霊が俺達の肉体とセットで再構成したものになるため、幽星体云々を抜きにして普通に存在できている。
 技術系の連中が研究用に持って行ったままだが、まだ返却されていない。

「そっちに関しては、まだ連中が調べたいと駄々をこねてな。すまないがもう少しだけ時間をくれ。必ず君達の後を追う形で私が責任をもって送り付けよう。それに幽星体と違い、あの手のものは再構成の手間もあるのでな。君達の降りる先は完全に無作為であるし、正確に追跡もせねばなるまいが」

 まだ技術系の連中が噴射装置を手放さないのか。
 興味があるものへの執着は、下界も天界も、位階や種が変わろうとも、どいつも似たような感じになるようだ。

「…ん?降りる先が無作為?」

 同時に、またしても何気なく言われた言葉に耳が反応する。
 今のは聞き逃すわけにはいかないものだ。
 下界に降りる際、行き先がランダムだという風にも聞こえたが、そこを確認させてもらう。

「その通りだ。下界に行くのは確かだが、最終的にどこに降り立つかは私にもわからん。元来た場所か、人跡未踏の地か、はたまた火を吐く瞬間の竜の目の前というのもなくはない」

「ちょ、怖いこと言わないでよ…」

 淡々とした口調なだけ、怖さが増して聞こえるガルジャパタの言葉にパーラも分かりやすく慄くが、俺もちょっと怖くなってきた。
 完全に向かう先がランダムとなれば、アシャドルにソーマルガ、ペルケティアやチャスリウス等の見知った土地に行けるとは限らない。

 下手をすれば、光の届かない深海や岩の中、マグマ煮え立つ火口の真上など、とんでもない場所へ身一つで放り出される可能性もある。

「まぁまぁ、ガルジャパタ殿、あまり脅かしてやるなや。二人とも、そう心配することはない。確かに降り立つ先は無作為だが、回廊を抜ける少し前には大まかな出口の位置はわかる。その時に、極端に危険な場所に行きそうだったなら、ワイらで干渉してなんとかしてやろう。ガルジャパタ殿も、よろしいな?」

「ああ、それぐらいはよかろう」

 下界行きを少し考えなおすべきかとも考えたが、エスティアンが安全を担保するようなことを言ってくれたおかげで多少は不安も和らぐ。
 一応これで危険な場所に降り立つ際の保険はできたと思うが、一方で極端に危険でない場合、例え見知らぬ土地であろうと放置されるということでもある。

 出来れば残してきた飛空艇のこともあるので、巨人と戦った場所へと戻りたいものだが、仕方ない。
 俺達の運にかけるとしよう。



「さて、そろそろいいか?問題なければ、ここで天人回廊への入り口を開いてそのまま君達を送り出そうと思うが」

 その後も続いた細々とした説明が一通り終わったところで、ガルジャパタの口からいよいよと言える言葉が飛び出した。

「ああ、俺は構わない」

「私もいいよ。あ、でも服はどうする?この格好で降りるのってはどうなのかな」

「…確かに、ちょっとこれじゃあな。装備は後から送るって話だったが、服だけ先に渡してもらうわけにはいかないのか?」

 パーラとも視線で確認をして出発への意思を示したが、ふと今の服装について気にしだす。
 そう言えば、今の俺達はここに来てからずっと着ている、トーガ風の衣装を身に着けている。
 正直、下界では少しばかり浮いて見える服だけに、このままの恰好で天人回廊へと進むのは少し躊躇わってしまう。

 可変籠手や噴射装置と共に、俺達の服もガルジャパタが預かっているはずなので、そっちを先んじて受け取りたいものだ。

「服か。装備と一緒に送るつもりだったのだが、まぁよかろう。エスティアン、少し頼まれてくれ」

「おう、ええで。んじゃちょっくら行ってこよう」

 そう言ってガルジャパタが二三何かを告げるとエスティアンが姿を消し、再び現れると包みが二つ、その手に握られていた。

「ほれ、お前さんらの服だ」

 差し出された包みを受け取り、その中を検めてみると、確かにこちらへくる前まで着ていたもので間違いない。
 それを眺めていると、横合いからガルジャパタが手を伸ばし、一度服を撫でるようにした次の瞬間、淡い光が包み全体を包んでいく。
 暫く発光が続いたが、それもすぐに治まる。

「今のは?」

「印だ。さっきも言ったように、こちらと下界では物質の行き来に再構築の手間がいる。天人回廊を抜ける間に、その再構築が行われるよう私の力を付与したのがこの光だ」

 本来の手順がどういう者かはわからないが、回廊を抜けるとともに服が再構築されるというのは楽でいい。
 パーラの方にも同様の処置が施され、これで下に降りた時の服に困ることはなくなった。

「これってもう今から着ていいの?」

「それは構わんが、そうすると再構築の際、服の方に破損が出る可能性はある。大事に着たいなら、下界に降りてから着替えるんだな」

「ふーん、そういうもんなのね。じゃあ今着てるこれは?なんかこっちにいる間はずっと着てたけど、返したほうがいい?」

 パーラの言葉に、俺も改めて自分が今着ている服を見直す。
 もう何日もこれ一つで過ごしているが、ただの布とは思えないほど肌触りもよく、また特別な加工がされているのか、そこそこ派手な汚れも手で払うだけで落ちるという優れモノだ。
 特殊で上等な品だというのは身をもって知っているだけに、返却を求められても不思議ではない。

「それは君達に与えられた物だ。下界に持っていっても構わん。それに、その服は君達の幽星体となじんでいるおかげで、再構築の手間もいらない。下界に降りた瞬間から、そのまま服として使うといい」

 幽星体となじむというぐらいなのだから、やはりこのトーガ風の服も普通の品ではないようだが、それをくれるというのならありがたくもらっておこう。
 汚れに強いというのは普段使いしたいところだが、トーガ風というのがそれを難しくしているため、使い方は悩みどころだ。

 とはいえ、これで出発の準備は整った。
 あとはガルジャパタに天人回廊へ連れて行ってもらうだけだ。

「さて、これで俺達の方は準備出来たが、さっき口にしてた天人回廊への入り口ってのを頼めるか?」

 服の方はこれで問題は解決したので、そろそろ下界へ向けて旅立つとしよう。
 ガルジャパタはこの場に入り口を作ると言っていたので、エスティアンがやっていた空間移動のように、地面に穴が開いてそこに飛び込むという形になるのだろうか。

「うむ、よかろう。では二人とも、少し下がっていろ」

 言われて俺もパーラも二歩下がると、ガルジャパタが腰をかがめて床に左手をつく。
 やはり下に入り口を作るのかと思っていると、板張りの床が液体のように大きく波打ち、細い糸のようなものが生えてくると次々に編み合わさり、長方形の大きめな姿見が出来上がった。
 楕円形の鏡面がこちらを向いており、俺とパーラを見事に映しているが、これが天人回廊への入り口だろうか?

「…鏡、だね」

「鏡、だな」

 地面から何かが生えてくる光景は、俺が土魔術で家を作ることから見慣れているせいか、俺とパーラの感想は鏡そのままの見た目という点に尽きる。

「この鏡面部分が、天人回廊へと繋がっている。丁度人一人がくぐれる高さはあるが、抜けた先がそのまま落下する方向になる。あまり勢いをつけて飛び込まないよう気を付けろ」

 ガルジャパタが言うには、この鏡面を通った先にあるのが天人回廊で、通り抜けたらそのまま即落下していくようだ。

「いいか、この先に進めば恐らくここへは戻ってこれないだろう。厳密には可能だが、まず無理だと言っておこう。ここ無窮の座では空腹も病気もない。差別や争いも……ないことはないが下界よりはましだ」

 最終通告のつもりなのか、ガルジャパタが諭すような口調の中で、争いという部分に関しては少し口ごもったのは、やはり無窮の座と言えど完全に平和とはいかないからか。
 そう言う場面は今日まで遭遇していないが、神と言えど大勢集まれば全くの平和だとはいかないのかもしれない。

「アンディ、パーラ。何もつらい目にあうことの多い下界に行かずとも、このまま無窮の座で暮らしたらどうだ?」

 確かにガルジャパタが言うように、下界と比べて天界は穏やかに暮らすには理想的だと言えよう。
 今日までの時間で、それは間違いなく思える。
 わざわざ下界へと降りようとする俺達へ、残るように言うのもガルジャパタなりの温情のようなものだろう。

「その申し出はありがたいが、もう決めたことだ」

「そうそう。ここじゃお腹が減らないのはよかったけど、美味しいものがあまりないってのがね。結局私らが生きるのは下界ってこと」

 下界の辛さよりも食い気を選ぶのはパーラらしいが、その考えもあながち馬鹿にはできない。
 無窮の座はあらゆる苦しみから遠い理想郷ではあるが、それだけに楽しみも少ないのがネックだ。
 転生して冒険者を辞めてのんびり暮らすのも悪くないが、俺はまだすべての世界に絶望しちゃいない。

「そうか…残念だ。君達とは楽しく暮らせると思ったのだがな。しかし、どう生きるかを選ぶのも自由だ。今はこれが別れとなるが、君達の魂が星に還る時、また会うとしよう。さあ、これを」

 いつの間にか、ここへ残るように勧められるほどには気に入られていたようで、別れを惜しまれたがそれも一瞬。
 ガルジャパタが迂遠な再会の言葉と共に差し出してきたのは、ビー玉のような透き通った小さな玉だ。
 それを俺とパーラに手渡す。

「なんだこれ?」

「回廊を通る間、君達を守るものだ。今のギリギリまで力を込めたおかげで、防護の力は十分に備えてある。安心して行くといい」

 これが俺達を下界まで守ってくれる道具か。
 ちっぽけなガラス玉のようでもあるが、込められた力は俺なんかでは計り知れないほどのものなのだろう。
 実際、こうして手に持つだけで震えがくるほどだ。

 もっとも、これほどの力に命を預けると考えれば、心強くはあるが。

「短い付き合いのワイが言うのもなんだが、楽しかったぞ。下界に降りても元気にやりぃや」

 それまで一歩下がっていたエスティアンも、別れの挨拶を口にする。
 確かに付き合いは短いが、それでも他の神と違って俺達の小屋を頻繁に訪れてくれたのは彼女だけなので、俺としても別れを惜しむ気持ちは決して小さくない。

「世話になった。ないとは思うが、再会することがあればまたお茶を飲もう」

「じゃあね、お二人さん。あと悪いんだけど、私の代わりにベラオスとシアザに口狼歌のお礼、頼んでもいい?」

「おう、ワイが言っとくわ」

「お願いね」

 パーラの言葉を挨拶のキリとして、まずは俺から鏡へと向かって歩き出す。
 こうして近づいてみても普通の鏡と変わりはないが、この先に下界へ続く道があると思うと、感慨深いものがある。

 なんだかんだと長いことこちらへ居座ったが、ようやく帰れるという感覚に、自分がいるべき場所がどこなのかを改めて再認識できた。

 鏡面へソッと触れると、一瞬だけ堅い感触に触れるがそれもすぐに失せ、すぐに粘土のある水へと触れたような感触と共に腕が鏡面を通り抜けていく。
 そのまま前に進み、全身が鏡へと飲み込まれていくと、視界が眩しさで埋め尽くされると同時に、体が前へ向かって一気に押し出される感覚に襲われた。

 前へ落下していくという感覚は少し妙ではあるが、前に吹き飛んでいるように思えて、実際は下へ向かっているということなのだろう。
 ちょっとした絶叫マシンのようでこれはこれで面白い。

 眩しさで目がくらんだもの一瞬で、それが解消すると天人回廊の様子が目に映る。
 回廊内はところどころに光の粒が飛び交い、それが光源となって辛うじて周辺がわかる程度の明るさだ。

 真っすぐ前、つまり下へ続く穴といった様相の中、視界の端を流れていく壁とも言える部分は赤い雲に覆われていて、さながら夕日が照らす雲の回廊とでも言おうか。

 先をよく見るために態勢を変えようとした時、手に握っていたビー玉が勝手に動き、俺の目の前へ飛び出してきた。
 そして同時に、辺りを一気に照らすほどの光を放つと、その光がドーム状に集まりながら判透明な膜となって俺を包んだ。

 ガルジャパタからもらったあのビー玉がこう変わったということは、こうして天人回廊の危険から守ってくれるわけか。
 落下の速度は変わらないが、膜の中は快適そのもので、おまけに外もそれなりに見える親切設計だ。

 ―アンディ―!

 色々考えていると、後方から俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 回廊内は声が通る環境かと感心しつつ振り返ってみると、俺と同じく半透明な膜を身に纏ったパーラがこちらを追ってきていた。
 落下速度は同じなため、距離は縮まらないが引き離されることもなく、はぐれる心配はなさそうだ。

 背後に軽く手を振って、視線を前に向ける。
 ガルジャパタは回廊内を抜けるのは時間はかからないといったが、まだまだ先はありそうだ。

 見方によっては回廊内も幻想的な場所ではあるが、油断していいほど安全な場所でもない。
 危険はそうないと言われているが、ここは先行している俺が危険を吟味し、せめて背後に続くパーラぐらいは守ってやらねば。





 SIDE:ガルジャパタ

「行ってしまったか」

 アンディ達が回廊へつながる門をくぐったのを見届けると、思わずそんな声が漏れる。

「ああ、気持ちのいい奴らだったの。それに、あんたも随分執着しとったようやな」

 言われて、自分でもアンディ達へ抱いていた執着心に改めて気づく。
 事故的に招かれた客人という扱いではあったが、何度か言葉を交わすうちに、いつの間にかあの二人がここの住人になることを私自身が望んでいたようだ。

 下界に戻ると知った時は、長らく覚えのなかった寂寥が芽生え、自身で出向いてまでつい引き留めようとしてしまった。
 管理者として、個人の、それも低位階の普人種に対しては過度な干渉だと言われかねないが、知ったことか。
 それだけ私はあの二人を気に入っていたのだ。

「別れもまた旅とはよく言ったものだ。それに、寿命が短い普人種だからこそ、こんなところに留まるのを嫌がったのだろう。…ところで、いつまでそんな恰好でいる気だ?それに、その胡散臭い言葉遣いももうよかろう」

 今この場には二人しかいないというのに、元の姿に戻ろうとしないエスティアンを名乗っている者へと視線を向ける。

 少しの沈黙の後に、その身を覆っていた木の枝が剥がれ落ちていき、その中身が露になった。
 頭を一度大きく振るい、最後に残っていた枝を落とすとともに、前髪から怜悧な顔がのぞく。
 現れた一糸まとわぬ少女の体を、銀の長い髪がまるで服の役割を果たすように纏わりつく。

 原初の精霊の二柱が一つ、霧の精霊『シーディア』が本来の姿に戻ったのだ。

「胡散臭いとは心外な。下界の一部地域で使われていた方言ですよ?」

「だから何だというのだ。それにわざわざ姿を偽ってまであの二人と付き合うとは、何をしたかった?」

 こちらでシーディアという存在を知っている者からすると、漏れ出る微かな力に触れただけで正体がわかるため、あの変装には恐らくシーディアを知らないアンディ達を欺くためだろうとは予想がついている。
 話し方まで偽るという徹底ぶりだ。

 事実、エスティアンとしてシアザとベラオスに会ったが、すぐに正体を看破されたらしい。
 何か理由があって変装しているのだろうと慮って、気を使ってアンディ達には黙っていてくれた二人の優しさをシーディアは知っているのだろうか?

「深い意味はありませんよ。オルレアが最後の力でこちらへ送った普人種、気にならないわけがないでしょう。ただ、あの子がそうまでして連れてきた理由、あるいは目的ですか。それを知りたかったというだけのこと」

 光の精霊『オルレア』は、原初の精霊としてシーディアと同格という扱いだが、知る者からすれば、二人はまるで姉妹のように仲がいい。
 実際、誕生した時期や起源を考えれば姉妹とも言えなくもないが、力と性質が全く異なる精霊である以上、やはり姉妹ではないだろう。

 そのシーディアからして妹のように思っていたオルレアが、最後の力でアンディ達をこちらへ送ってきた理由を知ろうとするのは分からなくもない。
 私はオルレアがなぜそうしたのかを知ってはいるが、あえて教える必要を感じない。
 あの瞬間の思いや慟哭は、たとえ姉妹同然と言えども他者に明かすのは無粋というもの。
 唯一、アンディだけは当事者とも言えなくもないので、いくらかは伝えたが。

「それで、知りたかったことは得られたか?」

「さっぱりでした。ああなる前から、あの子は普人種に肩入れをしすぎていましたし、そのせいかとも思ったのですが、やはり当人にしかわからない理由がありそうです。ただ…」

「ただ?」

「ああして一緒にお茶を飲んだり話をしたり、下界の者と楽しい時間を過ごせるとは思っていませんでした。あの時だけは、オルレアの気持ちが少し分かった気がします」

 かつてシーディアは下界へ降りた際、人間が作った装置に囚われたことがあった。
 あの時は怒りに任せて一つの文明を滅ぼしていたが、それ以来、下界の者達に向ける感情は最悪に近いものだった。
 一つのことをもって全てを判断するなど愚かしいことだが、それだけの扱いを受けたということでもある。

 それがあの二人と触れ合うことで、ある程度の悪感情を和らげることとなったのはいいことだ。
 今や一柱のみとなった最も力のある原初の精霊が、人間を憎むだけというのはあまりよろしくない。

「ガルジャパタ殿、アンディ達は本当にもうここに来られないんでしょうか?」

 そう言う意味では、こうしてアンディ達との再会を望むようなことを口にするのも、いい傾向だろう。

「今回は光の精霊が手引きをした、言ってみれば、裏口から入ったようなものだ。同じ手はもう使えん。しかし、君がやろうとすればあるいは…」

「やりません。やる意味も必要もないのですから」

「だろうな。となれば、後はあの者らの位階が上がり、亜神あたりにでもなれば可能性はあるかもしれん」

 位階が上がると口で言うのはたやすいが、普人種がそれを成すには膨大な時間と功績が必要だ。
 よほどの幸運に恵まれれば、五十年ほどで位階も上がろうが、果たしてあの二人はどうなることやら。

「そういえば、かつて人の身のままで無窮の座へと召し上げられた者もいましたが?」

「ヤゼスか。今は下界で宗教にまで祭り上げられているな。あれは特殊な例だ。同様にはいかんよ」

 人の身で複数の神から祝福を受け、多くの争いを治め苦界に一時の安寧をもたらしたのが功績となり、その死後に魂を私が無窮の座へと召し上げた。
 確か今は自分の領域を持って、ヤゼス教が正しくあるかを見守る日々を過ごしているはずだ。

 流石にあれと同じことをアンディ達がやれるわけもなく、やはり再び無窮の座へとやってくるのは難しい。

 とはいえ、私もシーディア同様、あの二人を気に入っているし、死後の魂に少し配慮をして無窮の座に導くぐらいはしてもいいかもしれない。
 人間の時間にすればまだまだ先のことだが、私達からすればそう遠くない未来だ。
 その時が来るのをただ待つこととしよう。

 天人回廊へとアンディ達が踏み入れてからそれなりの時間は経ったが、そろそろ下界に降りた頃だろうか?
 私が用意した肉体は、少々手を加えて特別な仕上がりとなっているのだが、喜んでくれるといいのだが。



 END
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