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脱獄はディナーの前に

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 昔、仮釈放される受刑者に密着した日本のテレビ番組を見たことがある。
 その時は、刑務所から出た人がまず最初に何をするかというのに注目したが、面白いことにその人が向かったのは某大手ハンバーガーチェーン店だった。

『外に出たら最初にハンバーガーを食べると決めていた』とのことで、モザイク越しにも感慨深い表情がよく分かり、漏れる吐息にすら感動が込められているその場面を思い出し、俺は今、どうしようもない辛さを味わっている。

 何が言いたいかと言うと、

『ハンバーガー、超食いてぇ…』

 の一言に尽きる。
 その理由はこの朝の時間に毎日行われるあることのせいだ。

「食事だ」

 ぞんざいで投げやりな声と共に、扉に設けられている小窓から金属製の四角いトレイが乱暴に突き出されてきた。
 それまで横たわっていた藁山から身を起こし、緩慢な仕草で扉へと近付くと、深い溜息と共にトレイを手にしてその場に座り込む。

 窓から漏れる光でトレイの中を確認し、先程よりも盛大さを増した溜め息がまた漏れた。
 ここに来てから今日で三日ほど経った。
 予想していたが、やはりここの食事情は相当悪い。

 食事は朝と夕の二回、食べ終わったら扉に着いてる小窓から空のトレイが見えるように少しだけ外へ出しておくと、暫く経って勝手に回収される。
 牢屋から一切出さないで食事をさせるのは管理する側にとっては効率的ではあるが、囚人にしてみれば息のつまりそうな場所でする食事には気が滅入ってしまう。
 青空の下とは言わないが、せめてもうちょっと広いところ、例えば食堂などで食べたいものだ。

 出されるメニューもかなりひどい。
 スカスカした硬いパン、塩気のきつい具無しのスープにカップ一杯の水と、栄養補給を期待できないものがこの三日続いている。
 一口食べただけでもうハンバーガーが恋しくなって仕方ない。

 ただ、このスープにはほんの微かにだが野菜の甘味が残されており、それが実に腹立たしい。
 スープに野菜を使うのなら、せめてもう少し野菜の味を残す調理法は出来ないのかと、スープを作った女将を呼び出したい気持ちだ。
 作ったのが女かどうかは知らんけど。

 初日に思い切って配膳していた看守に尋ねたら、ここで出す食事は基本的にメニューはこれ一択だそうで、食えるだけでもありがたく思えという優しいお言葉までいただいてしまった。

 そりゃあ食えないよりはましだが、ずっと同じメニュー、それも最低の味が毎日続くとなれば、早々に脱獄を決意した俺の気持ちも分かってもらえるはずだ。

 扉の小窓をこちらから少し開け、外の様子を窺って誰もないことを確認したら、トレイにあるスープの入った皿を持ち、扉の蝶番へと少しずつかけていく。
 三つある蝶番の内、一番上に掛けることでその下の方へも塩分を行き渡らせる。
 こうして蝶番に強い塩分を与えることで錆びさせて、後で壊しやすくするのだ。

 何かの本で読んだが、長い時間をかけて味噌汁で同じようにして鉄格子を錆びさせて脱獄した話があるため、それを参考にさせてもらった。
 生憎記憶が少し薄れており、どれくらいの時間で効果が出たか覚えていないが、やってみる価値はある。

 それにしても、この牢屋の設計をした人間は一体何を考えているのだろう。
 確かに魔術を封じられた魔術師、しかも身体検査をしっかり行われる囚人ともなれば、碌な道具もなしに蝶番を壊すのは簡単なことではない。

 だがこうして俺がやっているように、どれだけ分厚く重い扉でもスープで開けられる可能性は残っているのだし、万が一を考えたらこういう作り方はするべきではなかった。
 まぁ牢屋を設計した人間は迂闊ではあるが、今の俺には有難いことだし、これ以上文句を言うのはやめておこう。

 それにしても、こうして扉にスープをぶっかけ続けてもう二日。
 錆の方はまだまだ増えそうにはない。
 元々扉全体に錆自体はあったため、ちゃんと錆びる素材ではあるのだが、スープの効果がないのはやはりまだ二日しかやっていないからか。

 この手の地道な作業が実を結ぶのは今すぐではないと分かっていても、全く進行が見られないのは精神的に来るものがある。
 あと三日続けて変化が見られなかったら、また別の手を考えた方がいいかもしれないな。

 そうしているとスープが完全に尽きたため、皿をトレイに戻したらスカスカのパンを齧りながらカップの水を啜る。
 パンだけで食べると口内の水分が奪われるので、本来はスープで流し込むのが正解なのだが、スープは扉にくれてやったため、味のない水で強引に飲み込むしかない。

 パンを食べ終わったら、カップに残った水を頭から被り、慰め程度のシャワーで体を洗う。
 基本的に牢屋から出されることのない俺は、シャワーなど望むべくもないため、こうして食事の際についてくる水でシャワーの真似事をするのが精いっぱいだ。

 幸いと言っていいのか、ここで出される飲み水は綺麗なもので、カップにこそ汚れは残っているが普通に飲んでも腹を下さないため、それで体を洗うのにためらいはない。
 飲んだ残りを使うので量は微々たるものだが、それでも皮膚の表面を水が流れていくのは気持ちがいいもので、汗や汚れが多少は流せるのが今の労暮らしでの唯一の安らぎだ。

 食事を終えたらトレイを扉の小窓から外へ押し出し、暫く経つと叩くような派手な音を立てながら回収されていった。
 これで次にこの牢屋に人がやってくるのは、夕食の配膳の時になる。

 今の時刻は朝ということを考えると、看守の見回り以外、8時間ほどは誰の目も気にしない時間が出来たことになる。

 監視カメラなどないこの世界では、四六時中牢屋の中まで監視することはまずしないし、刑務作業や運動の時間などもないため、脱獄の準備に集中できる。

 もっとも、準備と言ってもまだ大したことは出来ておらず、蝶番の錆具合やがた付きなどを見る程度だ。
 さっきスープを掛けたばかりでは当然大きな変化もなく、相変わらず蝶番は扉をガッシリと捕まえており、まだまだ破損までには至らない。
 その度に脱獄はまだ当分先のことだと突き付けられて、自然と溜め息も深くなる。

 改めて思うが、やはりパーラをディケットで待機させたのは本当に失敗だったな。
 道具も魔術も封じられている現状、脱獄にはやはり外部の協力は不可欠だ。
 特に、ここを出た後の足も考えると、今はどうにかしてパーラと連絡を取りたい。

 手紙は無理だとして、一番確実なのはやはり人に伝言を頼むことだが、果たしてこの監獄から出所する人間はいるのか疑問である。
 グロウズは魔術師の幽閉目的で作られた監獄だと言っていたし、よほどのことが無い限りは一生閉じ込めておくのが幽閉というものだろう。

 なにより、今日まで俺は牢屋から一歩も出してもらえていないことを考えれば、他の囚人との接触の機会はまず見込めない。
 いっそ、看守を買収するという手も……。

 ―ピュイー、ピュー

 そこまで考えたところで、外からか細く聞こえる音を耳が捉えた。
 牢屋の小さな窓からでは本当に微かにしか聞こえてこないが、一定のリズムを刻んでいる笛の音は確かなメッセージを伴って発せられたものだ。

 勢いよく身を起こし、壁を蹴って天井付近にある窓へとしがみ付く。
 10センチほどの大きさしかない窓に指を掛け、強化魔術で体を支える。
 その状態で片腕を放し、指先を口に咥えて音を鳴らす。
 所謂指笛というやつで、甲高く伸びる音を長音と短音で分けて外の音へ答える。

 何度か同じ音のセットを繰り返すと、外の音もまた俺の指笛に答えるようにして一つ長い音を出して消えた。
 そして、それから短く指笛を等間隔に鳴らし続けることしばし。
 甲高い音と小さな破裂音が一回ずつ聞こえたすぐ後に、窓の外から差し込む光が大きく遮られた。

「アンディ!」

 光の加減で顔は見えないが、嬉しそうな声色で俺の名前を呼んだのは、今一番会いたかった相手、パーラだった。

 先程の笛の音は俺の名前を呼んでいたもので、飛空艇でも使う光信号を音の長さに置き換え、森の中で逸れたりしたら使おうと思ってパーラと決めていた手段の一つだ。
 それに対して、俺はパーラの名前を呼ぶことで、パーラは音を探ってこの窓を探し当てたというわけだ。

「よう、パーラ。珍しいところで会うな」

「そうだね。いつかやらかすとは思ってたけど、まさか牢屋で再会するなんて。どう?居心地は」

「最悪だな。ジメジメしてるし飯もまずい。おまけに風呂にも入れないから臭い」

「あらら、そりゃあ辛いね」

 お互いに無事を確認して安堵したせいか、つい軽口を言い合ってしまうのは、それだけ安否を気にして覚えていた緊張の反動からだろう。

「けどお前、よく俺が監獄に入れられたって気付いたな。マルスベーラでそういう情報でも仕入れたのか?」

 ふと気になったのは、パーラがここに来た経緯だ。
 ガイバに頼んだ伝言では、今頃パーラはディケットで待機していたはず。

 サニエリと会った情報自体は教会関係者なら簡単に手に入るだろうが、無実の俺を幽閉したという醜聞に繋がりかねない情報は秘されているはずだ。
 パーラが何の手掛かりもなしに監獄へ来るわけがないので、噂にしろ密告にしろ、誰かから俺の行方を聞いての行動だろうと予想する。

「まぁそんなとこかな。ガイバさんの知り合いにアンディの情報を探ってもらったんだ」

「ガイバさんの?」

「うん。マルスベーラの教会本部で司祭をやってる人なんだけど、結構あちこちに人脈があるらしくて、アンディのこともその人が見つけてくれたの」

 そう言えばグロウズに捕まった時、ガイバは知り合いに手を回して何とかすると言ってくれていたが、その伝手でパーラに情報が渡ったわけか。
 司祭といえばまさに教会関係者だし、俺のことを探るのも不可能な立場ではない。

「けどその司祭の人も、アンディらしき人間がここに運ばれたってことは知れても、どうしてそうなったのかまでは分からないって話だったんだよね。んでアンディさ、一体何があってこんなひどいところに閉じ込められてんの?」

 予想通り、俺がこうなった経緯を正しく知ることはできなかったようで、その辺りはグロウズかサニエリが情報を絞ったのだろう。

「ちょっと複雑な事情があってな。話せば長くなる」

「いいよ。どうせ時間はあるし、聞かせて」

「じゃあ教えるが…そういやお前、そうしてるのって大丈夫なのか?誰かに見つかったら面倒なことになるぞ」

 なにせ、外から見たら牢屋の一つと繋がる窓に人がへばりついているのだ。
 正規のルート以外で囚人と話しているとなれば、即通報ものだろう。

「大丈夫、ちゃんと景色に合わせた柄のマントを選んできて来たから。それにここって結構高い崖だし、真下から見上げても私の姿は見抜けないと思うよ」

 冒険者として色々活動してきて、カモフラージュの大切さを学んだ俺達は、様々な景色に同化できる迷彩柄のマントを何種類も揃えている。
 さっきも噴射装置でやってきた音が聞こえていたし、迷彩と身一つのコンパクトさから、相当近くで見つめられない限り見破られないというのは信用していいだろう。

「ならいいが…。でだ、何があったかって―と」


 ~かくかくしかじか~

 ~まるまるうまうま~


「―というわけなんだよ」

「なにそれ!いくらなんでもひどすぎでしょ!」

 ここまでにあったことをかいつまんで話すと、パーラは憤りを露わにする。
 やはりパーラにもサニエリがしたことは到底容認できるものではないようで、今俺の置かれている状況を作り出した存在へ向けるその怒り様は、ここ最近だと一番のものではなかろうか。

「…で、どうするの?」

 一通りブチブチと文句を言いきり、ひとまずスッキリしたパーラは主語のない言葉を口にする。
 何を指してのどうなのかはなンとなく分かるが、ここはあえて聞き返す。

「どうって?」

「脱獄するんでしょ。アンディのことだから、いつまでも大人しく捕まってるわけないし」

「流石、よく分かってるな」

 何故呆れたような口調なのかはともかく、俺がこういう状況で取る行動を分かっているのは付き合いの長さのおかげだろう。

「さっきも言ったが、ここの中じゃ魔術が使えない。だから地道に牢屋の扉を破って出る」

「魔術が使えないなら大変じゃない?道具もないんでしょ?なんだったら私が騒ぎを起こして、ここの壁を壊して逃げるって手もあるけど」

「騒ぎを起こすって、具体的には?」

「飛空艇でどっかから大岩を持ってきて、高いところから落として監獄のどっかに当てるとか」

「いや、それはだめだ。そうすると他の牢屋も壊れて、余計な人死にがでそうだ」

 簡易の隕石攻撃とは中々派手なことを考えたようだが、それをすると俺以外の囚人にも被害が出るか、下手をすれば本来ここに閉じ込めておくのが妥当な人間も脱獄しかねない。
 他の手を考えるべきだ。

「あ、そうだ。パーラ、お前可変籠手持ってるか?」

「あるけど…そっか、これなら脱獄の道具にも武器にもなるね」

「ああ。しかも可変籠手は魔道具の一種だから、ここの阻害効果もほとんど受けない」

 この場所では体外へ放出するタイプの魔術は使えないが、魔道具製のランプなんかは普通に動いているのを牢に入る前の通路で見ていた。
 魔術を妨害するが、魔道具は使えるというルールに則るなら、可変籠手はまさに今俺が求める道具としての要求を完璧に満たすものだろう。

「んじゃ今からそっちに渡すよ?」

「おう。ここの壁は少し厚いから、棒かなんかで押し込んでくれ」

「棒って言っても……ま、鞘でいいか」

 窓の向こうでパーラがゴソゴソと何かをしているのを待っていると、窓から差し込む灯りが消えた。
 窓をふさぐようにしてパーラが張り付いたからだ。

「いよっ…と、どう?そっち届いた?」

「全然だ。もうちょっと押し込めないか?」

 格子があるせいであまり腕は入らないが、目いっぱい伸ばして受け取ろうとするが、指先にすら掠らない位置で止まっているようだ。

「ええ?もう結構深く入れてるんだけど。ちょっと待って……これで、どう、よ」

 辛そうな声を共に、中指の先が何かに触れた。

「触った!このまま…」

 その感触を頼って何度か中指を曲げて動かした結果、ようやく爪の先が金属の隙間にはまり、それをゆっくりと手繰り寄せてようやく俺の手元に可変籠手がやってきた。

 ―ねんがんの 脱獄道具 をてにいれたぞ!

「ふーぅ…。ちゃんと受け取ったみたいだね。言っとくけど、それ私のお気に入りなんだから、無くしたりしないでよ?」

 飛空艇にも常備してあるいくつかの可変籠手は、基本的に外見は全部同じだが、パーラは自分のものに関してはカスタマイズを行っており、指先部分にネイルアートを施している。
 それが今俺が持つ籠手にも見られるということは、これは普段パーラが身に着けているものというわけだ。

「いや、代えは飛空艇にあるだろ。別になくなっても…」

「ダメ!その可変籠手のネイルアート、ここしばらくで一番の出来なんだから」

 そう力強く言われ、改めて見てみると、確かにかなり凝った模様を描いたようで、武骨な籠手がそれだけで芸術性に富んだ一品に思えてくる。

「わかったよ。俺も好き好んで無くしたりするつもりはないから安心しろ」

「本当にお願いだからね。それで、道具も手に入ったんだから、いつ出てくるの?今夜?」

「いや、流石に今夜直ぐにってのは早すぎるだろ」

 正直、可変籠手があればあの扉を破るのは簡単だが、脱獄とはコッソリとバレないようにやるのが様式美だ。
 牢を破ってもまだ看守の見回りや外に続くルートの把握など、一朝一夕で準備が終わるものではない。
 あまり脱獄を舐めるなよ。

「とりあえず、準備にどれぐらいかかるか分からないから…そうだな、五日後だ。それぐらいにまたここに来れるか?」

 またこの窓ごしに話をするとして、パーラの方は看守などに見つからないかという不安はある。
 今の真昼間でもこうして普通に話せているから、意外と看守の目はこっちに向いていないだろうが、それでも来れるかどうかはパーラ次第だ。

「それは大丈夫。こっちの方は崖になってるせいで、監視の目はまずないから来るのは難しくないし。けど、五日ってのはまた長いね」

 内側からだと分からないが、どうやら壁の向こう側は崖になっているらしい。
 噴射装置を使ってパーラが来たことを考えると、高さもかなりあると見ていい。
 まぁそうでなければ、人が通れないサイズとはいえ、窓のすぐ外を見回る人間はいるはずだしな。

「何があるか分からんからな。余裕を持って長くみておくのさ」




 五日後、一応人目を気にして陽が落ちてからまたこうして会うことを約束し、パーラは去っていった。
 なお、去り際に何か味のある食い物を持っていないか尋ねてみたが、生憎切らしていると言われてかなり落ち込んだ。
 干し肉の一つでもあれば慰めになるのだが、持ち合わせ分は朝食代わりに全部食べてしまったそうで、ある意味予想してはいたが、それでも落ち込む。

 それはさておき、今日パーラによってもたらされた道具により、扉を壊す目途が立ったどころか、一気に成功までイメージできるほどになっている。

 早速扉に近付き、蝶番へと視線を集中させ、可変籠手を相応しい形へと変形させていく。
 今一番欲しいのは、プラズマトーチのような金属を焼き切る機能だが、残念ながら可変籠手ではそれを再現できない。

 一応、可変籠手には砲撃形態という最強の威力を誇る攻撃手段はあるが、それをこの狭い場所で使うと、発射の余波が吹き荒れて怪我をしかねない。

 そこで次善の手段として俺が採用したのは、親指を除く四本指を揃えてたがねのような形にしたものだ。
 勿論、可変籠手で形作った以上はただの鏨ではなく、幅広の刃状と化した指先部分は、それ自体が超振動を起こしている。

 可変籠手は魔力の供給をすれば、こうして振動剣と同じような機能を発揮できるのが便利でいい。
 まずは甲高い音を鳴らす刃を、扉の蝶番へと軽く触れさせてみる。
 すると、共鳴するように更に音が高くなるとともに、刃がゆっくりと金属へと食い込んでいく。

 思ったよりも金属の硬さがあるようで、凡そ10秒ほどかけてまず蝶番が一つ、両断されて地面に落ちた。
 この二日、錆びさせようと地道にスープを掛けていた努力をあっさりと乗り越えてしまう文明の利器に感動を覚えるとともに、あれほど必死になっていた時間は何だったのかと、無常さもまた覚える。

 いやいいんだよ?楽で。
 けどなんかこう、険しい山を一歩一歩昇っていたら、途中からリフトでしか行けませんってなって、頂上まで一気に運ばれていく感覚。
 モヤっとしたものを覚えてしまう俺の気持ちもまた、理解してもらいたい。

 ―何の音だ?

 ―特等房の方からだな

 少しの間物思いにふけっていた俺の耳に、扉の向こう側で看守が上げる声と微かな足音が聞こえてきた。
 どうやらさっきの振動剣でかなり大きい音を出してしまっていたようで、不審に思った看守が確認に来るらしい。

 まずいな。
 蝶番はまだ二個あるから扉を開閉めするのに問題はないが、もし万が一、中に入られて身体検査でも行われたら可変籠手が見つかってしまうかもしれない。

 着々と近付く足音に、残された時間がないことを悟り、強引な手に出るしかないことを決意する。

 おもむろに扉を思いっきり蹴り飛ばし、看守相手に聞こえるぐらいの大声を上げる。

「もうたくさんだ!こんなところにいられるか!俺は家に帰らせてもらう!ここから出せ!」

 ―うお!?なんだ?

 ―牢屋暮らしが耐えられなくなったんだろ。よくある

 ―確かまだ三日だろ?根性無しが

 ―まぁ聞けばまだ若いらしいしな。色々と将来を考えて絶望したってとこか

 ―おい!大人しくしろ!まだ騒ぐなら懲罰ものだぞ!

 看守が警告と共に扉を叩き、それと同時に俺も大人しくするとそれで満足したのか、看守は扉の前から立ち去っていった。

 どうやら俺の狙い通り、振動剣の音は錯乱した囚人が立てたものと誤解してくれたようで一安心だ。
 さっきはあまり深く考えずにやってしまったが、ゆっくりと注意深くやれば音は大きくならないはずなので、次からは気を付けて作業に臨まなくては。

 それにしても、さっきの看守の態度からも感じられたが、やはりここの看守には俺が特別な囚人だという意識が薄いように思える。
 一応、特等房という名称から、他とは分けて扱っているようではあるが、それでもかなりぞんざいな扱いに思えるのは、獄長とその周辺にいる人間しか事情を知らないからではなかろうか。

 サニエリが俺をこうした経緯を考えると、もう少し監視の目は厳しくてもおかしくはないのだが、さっきのように派手な音を立ててようやく見回りの人間がやってくる程度にしか警戒されていない。
 この規模の監獄としてはどうかとも思うが、こうして脱獄が捗るので俺にとっては有難い。

 残る蝶番は二つ、これを壊してようやく扉を突破できるようになるわけだが、まだ看守の警戒があると仮定するべきで、とりあえず一旦作業は保留とする。
 どうしても作業に音はつきものなので、ここは作業に相応しい天候を待とう。
 ここに入ってから、一日の内に何度か騒がしい風が吹いている時間があったので、その音に紛れて作業を行うとしよう。

 作業内容的には、残りの蝶番を壊すのにかかる時間は一個目よりも大分長くなるはずなので、ここは焦らず慎重に、警戒心を研ぎながら臨まなくては。



 夜、ほとんどの人間が寝静まった頃に、強く吹く風の音に紛れて作業を続けることおよそ30分。
 残りの蝶番も壊し終え、扉を少し押せば俺一人が通れる隙間ができるようになっていた。
 鍵は相変わらずかかっているが、それが今では逆に扉を固定する役目を果たしており、これなら俺がいなくなったのがバレるまでの時間も稼げるかもしれない。

 小窓から廊下側の様子を窺い、人の気配がないことを確認したら扉の隙間から体を潜らせて外へ出る。
 耳をすませば足音も聞こえないことから、近くに看守はいないようだ。
 もう夜もだいぶ遅い時間ではあるので、見回りもほとんど来ることはないが、気まぐれに看守が歩き回る可能性はゼロではない。

 脱獄の手始めに、まずは情報収集から行うとして、看守の見回りルートと出口の確認をしてしまいたい。
 恐らく今日一晩で全部こなせるとは思えないので、探り探りで優先順位も決めていこう。

 気をつけなければいけないのは、廊下は魔道具製の灯りが灯っており、夜でもそこそこ明るいため、他の牢屋の前を通る際には囚人達に見つかる危険があることだ。
 騒がれて看守を呼ばれても面倒だし、なるべくコッソリと動き回りたい。

 できればどこかで体をすっぽり覆える木箱か樽を手に入れたいところだが、そうなるとまず目指すのは倉庫になるか。
 場所は分からないが、頑張って見つけよう。

 身を低くし音を立てないように、かつ急いでカサカサと通路を動くさまはまるでゴキブリのようだが、このやり方が今は一番効率的なのだ。
 決して自分を貶めたり恥ずかしがるものじゃない。

 さっさとやることをやって、こんな掃きだめから抜け出すんや!
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