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安い異世界モノでは硝石を作りがち
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『手間を嫌った者は豊作を逃がす』
誰の言葉か知っているだろうか?
俺だ。
俺の得た教訓だ。
昔、農業に少し慣れた頃に効率化などと言って色んなものを省いていったら、その年の収穫がグンと減ってしまい、収入が前年の半分近くまで下がったことがあった。
作業の手間を面倒だと思ったことも確かで、その結果として高い勉強料を払うことになったわけだが、それ以降は作業の意味をしっかりと考えるようになり、いっぱしとして何とかやっていけるようになってからもその時のことを思い出すと、蘇る苦い感情に苦しんだものだ。
現代日本の農業というのは、長い時間をかけて先人が培ったノウハウによって、品質や収量などがドンドン改善されていった結果で大元が支えられているのだ。
それをたかだか二十数年しか生きていない若僧が軽い考えでいじくったりしたら、低品質・低収量の結果を迎えるのは至極当然のことだろう。
そんな教訓から、この世界での農業を考える時にも、必ずしも効率化を図るのではなく、工程を削った後で発生する問題をイメージするようにしている。
さて話は変わるが、この世界でも農繁期とそうではない時期というのは当然ながら存在する。
ヘスニル周辺の農地では春の種蒔きも終わり、初夏を迎える頃には農家の人達も一つのヤマを越えたと少しだけ落ち着いて過ごすようになっていた。
育った雑草を抜いたり、作物の育成状況によっては追肥をしたりと、忙しくなるのはもう少し後のことになるが、それでも多少時間に余裕のある農家の人達は、この時にも何か副収入を得られる仕事を求めて精力的に動き回っていた。
森を歩くのに自信がある者は冒険者ギルドへ顔を出して採取依頼を受けたり、目端の利く者はヘスニルを離れる商人や冒険者に自家製の保存食を売りつけたりと、人によって様々な働き方が見受けられた。
一方で、老人や子供などはそう言った仕事をすることが出来ないため、農村での長閑な光景を作る一部となって過ごすことが多い。
こういった繁忙期ではない時に浮いた人手、とりわけ老人子供といった非力な存在に俺は目をつけて、ある仕事を持ち掛けてみた。
いわゆる内職的なやつだ。
拘束時間こそ長いが腕力を使わず、単純な作業ということで老人には好意的に受け入れられ、子供たちの中でも落ち着きを持ち始めた年長の者達が進んで参加してくれた。
始めは一つの村だけに頼んでいたものが、噂を聞き付けた他の村からも声がかけられた結果、三つの村が俺からの仕事を請け負うという現状が出来上がっていた。
「どうですかね、アンディさん」
「うーん……こっちのは全部買い取りましょう。ですが、こっちのはちょっと作りが雑ですね。正直、金を出してまでとは…」
「あぁ、そっちはまだ幼い子が作ったものでして、練習を兼ねとりますので。まぁ買い取ってもらえるとは思っていませんでしたから、せめて出来だけでも見てもらおうかと」
そう言って総白髪の老婆は困った顔の中に期待を込めた目を浮かべて俺を見てきた。
名前をザートというこの老婆は、この村で内職に携わる者達の代表をしており、村長ではないがある程度の発言力を有する老人達の一人という立場から、こうして俺との繋ぎ役を買って出てくれている。
さて、そろそろ彼らに何を頼んだのか説明しよう。
俺の目の前に置かれたのは人差し指の爪程の大きさしかない木の玉だ。
ザルに載せられたそれらがちょっとした山となっており、そのどれもがほぼ同じ大きさ、同じ形をしたものばかり。
よく見るとそれはひし形をしていると言えなくもないが、より詳しく形状を語るなら、三角錐の底面同士をくっつけて、突き出た尖がり部分を少し切り取った形、とでも言おうか。
加工技術的な問題で円錐で揃えるのが難しいので、妥協して三角錐となっている。
日本人になじみのある形で例えるなら、算盤の珠と言えばわかりやすいだろう。
というか、そのものである。
この世界には電卓というものは当然なく、計算をするならほとんどが暗算で、数字を習いたての人間なら筆算を使う程度というのが一般的だ。
物を買うにしろ売るにしろ、計算は必ず付き纏うもので、買い物をするだけなら足し算と引き算さえできればそうそう騙されることはないが、商売人になるとこれらに加えて掛け算・割り算も扱えなければならない。
一般市民にはあまり高額を扱うことはないため、計算も三桁が出来ればそれで十分ではあるが、商人にとっては商売の規模が大きくなっていくにつれ、扱う金額の桁数が増えていく関係上、計算間違いというのは致命的な結果を招くことも多いそうだ。
自然、暗算と筆算を使って何度も計算を確認するという作業が商人には欠かせないものとなっていくのだが、これが中々辛いとローキスも語っていたのを覚えている。
びっくりアンディの営業を終えた夜に、頭を悩ませながら帳簿をつけるローキスを見かねたミルタが、俺に何とかできないか相談してきたのはひと月ほど前のことだ。
計算力ばかりは個人の能力なので、俺にどうこうできる問題ではないが、ふと思いついたものがある。
算盤だ。
特別な動力を必要としない、大昔から変わらず存在するあの計算機である。
一説によると紀元前にその発祥があるとすら言われる古くからある計算機だが、驚くことにその仕組みがほぼ変わることなく使われているという点に、完成された道具というものが持つ一種の美を感じてしまう。
そんな算盤だが、作るのに特別な材料も道具もいらないという点がこの世界で生み出すのにまず優れており、おまけに俺自身が使い方を分かるという点も制作に踏み出させるのを後押ししてくれた。
無理矢理に算盤教室へ通わせてくれやがった親に、今は感謝しておこう。
ちなみに、算盤は存在するのかをミルタとローキス、パーラにも尋ねたが、見たことが無いということだった。
てっきり俺の前にこっちへ来た日本人の誰かが広めていそうなものだとも思ったが、まぁ必要が無かったから広めなかったと考えるしか俺にはできない。
そんなわけで、ヘスニルの木工細工職人の下を訪れ、算盤の制作を依頼しようと思ったのだが、今の時期、彼らは色々と仕事を抱え込んでいるため、手を付けられるのは大分後になると言われてしまった。
具体的には夏か秋頃だそうだ。
流石にそこまで待つのもつらいので、他の手を考えていたところ、職人の一人が農村で暇をしている人間に依頼してみたらどうかと提案してきた。
元々農村では自給自足、道具もある程度自分達で直すという生活なので、手先の器用な人間もそれなりにいるはずとのこと。
俺の下手くそな説明だけで凡その形を推測できた職人がそう語るのなら、その提案に乗るのもいいかもしれない。
早速近隣の村へと飛び、手の空いている村人に仕事を持ち掛け、暫く経った今日にいたる、というわけだった。
「珠の方はこっちのを全部買いましょう。そっちのはちょっと買い取れません」
「でしょうな。それと、別で頼まれていた外枠と串型も出来ておりますぞ」
「おや、早いですね」
「いやいや、この珠に比べたらさほど手間はかかりませんからな。それこそ、手の空いた女子供にも任せられましたわい」
そう言って今いるテーブルの上に運び込まれたのは、算盤の外側を囲う枠と、珠を通すための串と呼ばれる棒の部品だ。
どれも規格通りに大量生産されたかのように形の同じものばかりなのは、村人達の工作技術の高さを物語っているようだ。
試しに算盤を一つ組み立ててみると、珠もスムーズに串を通って動くし、外枠も軽く組んだだけだが、接着してしまえばそのまま使えそうである。
串の方は多少長さを削って調節する必要はあるが、大した手間でもないだろう。
「ほほぅ、そういう風に組み合わせるのですか」
目の前で出来上がった算盤を見て、ザートが感心したように呟く。
村人には部品単位で作らせていたので、こうして一つの完成品となったものを見るのは初めてのようだ。
「ええ。これは算盤と言って、計算を補助する道具なんですよ。こうして、珠を弾いて一、二、三と数えて、区切られた枠の上の珠を五として…と言った感じですね」
「ははぁー、何やら複雑な物で。計算となれば商人には喜ばれる品でしょうな。まぁ畑を耕すだけの身では、縁遠いものですわい」
村人も普通に街へ行って現金で買い物をしたりするのだが、それでも算盤を必要とするほどに複雑な買い方をするわけではないので、ザートの言うとおり商人ぐらいしか使わないかもしれない。
あくまでもこれはローキスのために作ったもので、商人をターゲットとはしていないのだが、今目の前にあるパーツの山から作られる算盤の数を考えると、売りに出してみるのも悪くないと思えてきた。
「アンディさん、よろしければこの算盤の組み立てもわしらの方でやりましょうか?」
「…いいんですか?部品を作るだけでも手間はかかると思うのですが」
「構いませんとも。組み立てるだけなら手の空いている者でもやれるでしょうからな。その代わり…」
「ええ、組み立ての手間賃も込みで、完成品を引き取るという形で契約をし直しましょう」
「ありがとうございます」
元々は部品の製造だけで契約を結んでいたが、組み立ても引き受けてもらえるなら俺の手間が減って助かる。
ザートの方も、算盤の部品をただ卸すだけよりも、完成品として価値のあるものに変わった品を買い取ってもらった方が纏まった金が入ってくるのでありがたいのだろう。
こうして自分の手で組み立てた完成品の算盤を一つだけ持ち帰ることにし、今ある部品をザートに託すと三日後にもう一度来ることを告げて村を後にした。
ヘスニルに戻った俺は、夜を待ってからローキス達の家を訪ね、早速算盤のお披露目を行い、使い方のレクチャーをしていった。
居間を使っての算盤教師に、最初はミルタも興味津々で参加していたのだが、途中で姿が見えなくなったのは、単純に飽きたからだろう
パーラはマースの所に泊まりに行ってこの場にはいない。
「えー桁が繰り上がって…こうかな」
「そうそう。じゃ、一旦全部戻せ」
ローキスが人差し指と親指でジャララと珠をリセットする。
「んでまたここから始めると」
「あーなるほどなるほど」
ゆっくりとだが、算盤の使い方を説明していくと、ローキスも最初よりも珠のおき方を迷うことが無くなっているため、とりあえず使えるようになるのもそう遠くないと思わせる。
「二人共、そろそろ一息ついたら?新しいお茶、持ってきたよ」
お茶の載ったお盆を手にしたミルタが姿を現す。
テーブルに置いていたお茶がすっかり湯気を失っている様子から、意外と時間が経っていたのに気付く。
俺自身、算盤の使い方を人に教えるということは初めてなので、すっかり時間の感覚が鈍ってしまっていたようだ。
「おう、悪いな。……ふぅ。で、どうだ?算盤は役立ちそうか?」
手渡された湯気の立つお茶をすすりながら、ローキスに感想を求める。
「うーん…まだ何とも言えないけど、使いこなせれば便利なんだろうなって思う」
「まぁそうだろうな。練習は必要だが、使えるようになれば確実に計算は早くなるのは保証する」
「それが本当なら商人は確実に欲しがるだろうね。これ、売るつもりなんだっけ?」
「一応な。まだ安定して数を揃えるのは難しいが、数が売れると分かったら量産も考えるつもりだ」
今のところ、算盤を作っているのはヘスニル周辺の村だけなのだが、あくまでも農作業が暇な時期である今だから頼めているだけで、暫くすれば内職どころではない忙しさに襲われることになる。
そのため、一定数を供給するならやはり木工職人を頼るべきなのだが、それもまだしばらくは手が空かないため、算盤の量産をするとしたら秋以降になると見ている。
「そっか。僕はまだあんまり使えないけど、これが広まればきっと多くの商人がかなり楽をできるよ」
「ねぇねぇ。計算を助ける道具なら、商人以外に職人の人達も楽できるんじゃない?」
「…おぉ、本当だな。いいところに気付いたぞ、ミルタ」
「うん。よく考えたら、寸法を測るのにも計算は使ってるんだから、職人にも使ってもらえそうだね。ほんと、ミルタはたまにいいことを言うんだから」
「たまにってどういうことよ。私の言葉はいつでも役に立ってるでしょうが」
算盤と言えば商人という固定観念が俺の中にはあったようで、職人のことはミルタに言われるまで考えもしなかった。
職人というのは正確な寸法の下で物を作る。
長年の勘というものに頼ることも多いだろうが、全く計算をしないわけがないので、算盤を売り込む先としての候補にはなる。
こうなると、やはり木工職人の手が必要になるな。
なんとか今手掛けてる仕事に割り込む形で算盤の制作を……いや待てよ?
よくよく考えたら本職ではない村人でも作れたのだ。
手先の器用な人間、例えば木工職人の見習いや、大工なんかでも作れるのではないだろうか?
切り口を変えて、その辺りから当たってみるのも悪くないかもしれん。
となれば、この手の話をするならやっぱり商人ギルドだな。
仕事柄、商人ギルドは職人との繋がりが深いし、心当たりを尋ねるついでに算盤の販売も相談してみるか。
翌日、ローキスに貸す予定だった算盤を手に、商人ギルドの門を潜る。
商人ギルドへ姿を見せた俺に気付いて声をかけてきたのは、以前びっくりアンディのことで色々と世話になったモトアだ。
出会ってからまださほど時間は経っていないはずなのだが、まだ20代だろうに前髪の後退具合が著しい。
それだけギルドの仕事は激務なのだろうか。
「これはアンディさん、お久しぶりです」
「どうも、モトアさん」
「今日はどのような?あ、また店に関することで何か?」
「いやいや、あの店はもう俺の手を離れてるんで、何かあったとしてもローキスかミルタを連れてきますよ。今日はちょっと個人的なことで相談があるんですが」
「おや、そうですか。では…あぁ、あちらへ行きましょう」
モトアの先導する手の先にある、商談用のスペースへと二人して身を滑り込ませると、早速こちらから用件を切り出す。
「実は今ある物を売りに出そうかと考えてまして」
「ある物、ですか。その言い方では新しい料理などではないようですね。正直、ハンバーグや麦茶と言ったものに続く新しい料理を考案して頂ければギルド側としても有難いんですが」
ヘスニルの名物とも呼べるまでになったハンバーグは、本来あまり使い道のなかった細切れ肉を活用したということで、肉屋の食品ロスを減らして売り上げに貢献しており、肉屋が所属する商人ギルドにも少なからず恩恵を与えている。
ハンバーグを最初に作った人間として、それに続く新しい料理を期待されるのも理解できないこともない。
「あいにくそうポンポンと新しい料理は思い浮かびませんよ。まぁとにかく物を見てください。こちらを」
テーブルの上に算盤を置き、モトアへと勧める。
手に取って眺めるモトアだが、その外見から用途を想像できないので首を傾げるばかりだ。
持った算盤を角度を変えて見たり、振ってみたりといろいろと試すが、やはり本来の計算機としての使い方にまでは辿り着けない。
「…アンディさん、これは一体?ここが動くのはなんとなくわかりますけど、それが何なのか…」
「まぁそうでしょうね。外見からはちょっと分かりにくいと思います。これは算盤と言います」
「ソロバン…いや、名前を聞いても用途が全く分かりませんよ。アンディさん、そろそろ勿体ぶらずに教えてくれませんか?」
流石に焦れてきたのか、若干の非難の籠った目で俺を見るモトアの迫力が大分増している。
勿体ぶったつもりはなかったのだが、そろそろちゃんと説明をしないと後の印象が悪くなりそうだ。
「すみません。少し引っ張り過ぎましたね。この算盤というのは計算を補助する道具なんです」
「計算の補助…あぁ、なるほど。計算機みたいなものですか」
「そうですね。計算機よりも―……え?計算機が……あるんですか?」
「え?ええ、ありますよ。まぁ貴重な魔道具なので、ここにはありませんけど、首都の方の商人ギルドには確か一台あったと記憶してます。スイッチで数字を打ち込むだけで計算が出来る優れものですよ」
なん…だと…。
計算機、既にあったのか……いや、魔道具と言うからには魔石を動力としているはずだから、計算機という名前でも電気は使ってはいないのだろう。
それでも、前世でなじみのある名前がついているということは、考えたのは日本からこっちに来た誰かということになる。
そりゃこの世界に算盤が存在してないわけだ。
もっと便利な計算機が存在しているんだからな。
にしてもスイッチで数字を入力するとなれば、それはもう電卓と呼んでもいいだろうに。
この時点で、俺の中での算盤の存在価値は一気に下がってしまい、このまま売りに出す気も失せてしまった。
「なぁ~んだ、そりゃあ計算機があるんなら算盤はいらないですよねぇ…」
「ど、どうしました!?急に元気がなくなりましたけど」
「い~え~なんでも~」
脱力してしまった俺の姿に、モトアが何やら慌てているが、それを気にすることが出来ない。
せっかく算盤の販売で夢の不労所得が得られそうな可能性を期待していたというのに。
まさか圧倒的に便利な道具が既に存在していたという事実に、俺の構想は一気に潰されてしまったも同然である。
こんなのもうヘロヘロになるしかない。
「あ、いやでも!アンディさん、これは魔道具じゃないんですよね!?」
「そうですよ~。魔道具でも何でもない、ただの木でできてます。おもちゃ同然です」
「ということは、比較的簡単に制作できるんでしょう?であれば、これは売れますよ」
「……計算機があるのに?」
「あぁ、それで落ち込んでたんですか?先程少し言いましたけど、計算機は貴重な魔道具なんです。それも高度な技術が使われているせいで量産が出来ないほどに。それに対して、この算盤は木で作られて、特別な機構もないようですし、量産性という点では遥かに優れてますよ」
村で現在制作が進行中の算盤の処分をどうしようか考えている俺に、モトアの放った言葉が激しく耳を叩いてきた。
言われてみて、算盤の優れている点はその簡便な作りだと思い出し、今の時代でも首都のギルドに一つある程度の物と比べると、普及の簡便さは圧倒的に算盤が勝る。
萎れていた心が見る見る滾っていくのを感じた。
そうだ、そうなのだよ。
必ずしも計算道具に高性能さを追求する必要はない。
要は普段使い出来て計算を補助するものであればいいのだ。
貴重すぎて使えないものよりも、多少練習は必要でも気軽に使えるものとでは明らかに後者の方が普及はするだろう。
「モトアさん、本当にこの算盤は売れるんですね?」
「何事も絶対とは言えませんが…。ただ、使い方がわからないと売れませんね。それに使い方が難しくてもダメです。その辺りはどうなんですか?」
「確かにちょっと使い方は複雑かもしれません。どうでしょう?今からモトアさんに使い方を教えますので、それで判断してみてくれませんか?」
「私がですか?……いいでしょう。では私が身をもって算盤を評価させていただきます」
そんなわけで、ローキスにしたようにモトアにも算盤の使い方を教えてみたのだが、流石は商人ギルドの職員をやっているだけあって物覚えが良く、短時間の練習だけで足し算引き算はもとより、ゆっくりとだが掛け算にも手を出せるまでになっていた。
もしかしてモトアは算盤の才能があるのではないか?
そう思わせるぐらいだ。
「ふむふむ、なるほどなるほど。……アンディさん。これはすごいですよ!ただの木で出来た道具なのに、ここまで計算が楽になるとは!間違いなく売れますよ、これ!」
「本当ですか!いやぁ、よかったー」
モトアのお墨付きをもらえたことに安どの息を吐く。
若干興奮気味のモトアは、算盤の効果を絶賛するが、それは使い方をすぐに覚えてしまえたからだ。
果たしてほかの商人なんかはモトアと同じくらいの速さで習得できるのか、その辺りを尋ねてみた。
「うーん、どうでしょう?私は意外とすんなりと覚えられましたけど、他の人がどうかは分かりませんね。ただ、個人的な感想では、ある程度計算に慣れている人間であれば、少し練習すればすぐに覚えられると思います」
「そうですかね?一応俺の方でもローキスにも教えてるんですけど、覚えるのはモトアさんより大分遅い感じですよ?」
「あぁ、それは仕方ありません。ローキスさんはまだ若いですから、商人として複雑な計算をする経験がまだ足りていないだけでしょう。ですが、ローキスさんも頭の回転はいい方なので、慣れれば直ぐだとは思いますよ」
びっくりアンディの権利を引き継いだ時に顔合わせをしているローキスのことはモトアも多少は知っていた。
そのモトアから見て、ローキスでも慣れるのに長い時間はいらないという評価から、他の商人はもう少し習得は早いと見ていいだろう。
念のため、算盤を販売する際に算盤の使い方を説明した冊子を付属させることにして、それ意外にもモトアか他の算盤の扱いを覚えたギルド職員が指南をするということも視野に入れたアフターサービスを考え、算盤は商人ギルドから販売するという形で契約をまとめた。
俺が手ずから売るということもできるが、購買層は商人がメインだということもあって商人ギルドを通した方が色々と面倒も少ないと説得された。
構造的に模倣されやすい算盤を、商人ギルドが売るという形にすることで、コピー品の乱造を防いで利益を守ってくれるという点も魅力的だ。
まぁ製造は商人ギルドが抱える職人を頼るとして、販売目標を月に40個に設定すると、ギルドに委託する形は効率的ではある。
そもそも俺は商人ではなく冒険者なので、こういう販売はやはり慣れたものにやってもらった方がいい。
製造と販売を任せる代わりに、利益のほとんどはギルド側が得るのだが、一つ売れるごとに販売額の三割が何もせず手にできるため、憧れの不労所得として俺を長く養ってくれることだろう。
諸々を決めた契約書の写しを貰い、家に帰ってからパーラと相談して決めることにしたが、俺の中ではもう決まっていることなので、元行商人としてのパーラに契約の穴がないかを見てもらったら締結してしまうつおりだ。
今村の方で製造中の算盤を商人ギルドに卸したら、後はもう自動的に金が振り込まれる生活を送れる。
夢の不労所得というやつだな。
ほんの数日で事態がかなり動いたような気もするが、結果的に俺は何もせずに金が入ってくるという最高の収入源を手に入れたのだ。
こんなに嬉しいことはないよ。
どこのどいつかは知らないが、電卓というチートアイテムを用意し、俺の立てた『算盤でウハウハ計画』を阻止しようとしたのは許せん。
が、算盤の圧倒的量産性の前に敗北を喫すると思えば、留飲を下げてもいい。
こっちの世界で電卓を作ったであろう日本人に会えたとしたらこう言ってやりたい。
算盤は異世界にて最良、と。
だがこの時、俺は気付いていなかった。
便利な道具もある程度普及してしまうと、それ以降は売り上げも振るわなくなるということを。
算盤は確かに商人には爆発的に売れるのだが、商人の数自体がそう多いわけではないこの世界で、消耗品とは言えない算盤がある程度生き渡ってしまえば、売り上げも停滞して収入が減るのだ。
結局、コンスタンスに金が振り込まれたのは数年だけで、それ以降は忘れた頃に金が入って来るだけとなる。
夢の不労所得生活とは言えないこの結末に、当分は真面目に冒険者として働いていたのだが、また新たな便利道具を考えようかと思い始めるのは、大抵冬の暇な時期になる度のことであり、実際に動き出すのは春先になるのが毎年のこととなる。
誰の言葉か知っているだろうか?
俺だ。
俺の得た教訓だ。
昔、農業に少し慣れた頃に効率化などと言って色んなものを省いていったら、その年の収穫がグンと減ってしまい、収入が前年の半分近くまで下がったことがあった。
作業の手間を面倒だと思ったことも確かで、その結果として高い勉強料を払うことになったわけだが、それ以降は作業の意味をしっかりと考えるようになり、いっぱしとして何とかやっていけるようになってからもその時のことを思い出すと、蘇る苦い感情に苦しんだものだ。
現代日本の農業というのは、長い時間をかけて先人が培ったノウハウによって、品質や収量などがドンドン改善されていった結果で大元が支えられているのだ。
それをたかだか二十数年しか生きていない若僧が軽い考えでいじくったりしたら、低品質・低収量の結果を迎えるのは至極当然のことだろう。
そんな教訓から、この世界での農業を考える時にも、必ずしも効率化を図るのではなく、工程を削った後で発生する問題をイメージするようにしている。
さて話は変わるが、この世界でも農繁期とそうではない時期というのは当然ながら存在する。
ヘスニル周辺の農地では春の種蒔きも終わり、初夏を迎える頃には農家の人達も一つのヤマを越えたと少しだけ落ち着いて過ごすようになっていた。
育った雑草を抜いたり、作物の育成状況によっては追肥をしたりと、忙しくなるのはもう少し後のことになるが、それでも多少時間に余裕のある農家の人達は、この時にも何か副収入を得られる仕事を求めて精力的に動き回っていた。
森を歩くのに自信がある者は冒険者ギルドへ顔を出して採取依頼を受けたり、目端の利く者はヘスニルを離れる商人や冒険者に自家製の保存食を売りつけたりと、人によって様々な働き方が見受けられた。
一方で、老人や子供などはそう言った仕事をすることが出来ないため、農村での長閑な光景を作る一部となって過ごすことが多い。
こういった繁忙期ではない時に浮いた人手、とりわけ老人子供といった非力な存在に俺は目をつけて、ある仕事を持ち掛けてみた。
いわゆる内職的なやつだ。
拘束時間こそ長いが腕力を使わず、単純な作業ということで老人には好意的に受け入れられ、子供たちの中でも落ち着きを持ち始めた年長の者達が進んで参加してくれた。
始めは一つの村だけに頼んでいたものが、噂を聞き付けた他の村からも声がかけられた結果、三つの村が俺からの仕事を請け負うという現状が出来上がっていた。
「どうですかね、アンディさん」
「うーん……こっちのは全部買い取りましょう。ですが、こっちのはちょっと作りが雑ですね。正直、金を出してまでとは…」
「あぁ、そっちはまだ幼い子が作ったものでして、練習を兼ねとりますので。まぁ買い取ってもらえるとは思っていませんでしたから、せめて出来だけでも見てもらおうかと」
そう言って総白髪の老婆は困った顔の中に期待を込めた目を浮かべて俺を見てきた。
名前をザートというこの老婆は、この村で内職に携わる者達の代表をしており、村長ではないがある程度の発言力を有する老人達の一人という立場から、こうして俺との繋ぎ役を買って出てくれている。
さて、そろそろ彼らに何を頼んだのか説明しよう。
俺の目の前に置かれたのは人差し指の爪程の大きさしかない木の玉だ。
ザルに載せられたそれらがちょっとした山となっており、そのどれもがほぼ同じ大きさ、同じ形をしたものばかり。
よく見るとそれはひし形をしていると言えなくもないが、より詳しく形状を語るなら、三角錐の底面同士をくっつけて、突き出た尖がり部分を少し切り取った形、とでも言おうか。
加工技術的な問題で円錐で揃えるのが難しいので、妥協して三角錐となっている。
日本人になじみのある形で例えるなら、算盤の珠と言えばわかりやすいだろう。
というか、そのものである。
この世界には電卓というものは当然なく、計算をするならほとんどが暗算で、数字を習いたての人間なら筆算を使う程度というのが一般的だ。
物を買うにしろ売るにしろ、計算は必ず付き纏うもので、買い物をするだけなら足し算と引き算さえできればそうそう騙されることはないが、商売人になるとこれらに加えて掛け算・割り算も扱えなければならない。
一般市民にはあまり高額を扱うことはないため、計算も三桁が出来ればそれで十分ではあるが、商人にとっては商売の規模が大きくなっていくにつれ、扱う金額の桁数が増えていく関係上、計算間違いというのは致命的な結果を招くことも多いそうだ。
自然、暗算と筆算を使って何度も計算を確認するという作業が商人には欠かせないものとなっていくのだが、これが中々辛いとローキスも語っていたのを覚えている。
びっくりアンディの営業を終えた夜に、頭を悩ませながら帳簿をつけるローキスを見かねたミルタが、俺に何とかできないか相談してきたのはひと月ほど前のことだ。
計算力ばかりは個人の能力なので、俺にどうこうできる問題ではないが、ふと思いついたものがある。
算盤だ。
特別な動力を必要としない、大昔から変わらず存在するあの計算機である。
一説によると紀元前にその発祥があるとすら言われる古くからある計算機だが、驚くことにその仕組みがほぼ変わることなく使われているという点に、完成された道具というものが持つ一種の美を感じてしまう。
そんな算盤だが、作るのに特別な材料も道具もいらないという点がこの世界で生み出すのにまず優れており、おまけに俺自身が使い方を分かるという点も制作に踏み出させるのを後押ししてくれた。
無理矢理に算盤教室へ通わせてくれやがった親に、今は感謝しておこう。
ちなみに、算盤は存在するのかをミルタとローキス、パーラにも尋ねたが、見たことが無いということだった。
てっきり俺の前にこっちへ来た日本人の誰かが広めていそうなものだとも思ったが、まぁ必要が無かったから広めなかったと考えるしか俺にはできない。
そんなわけで、ヘスニルの木工細工職人の下を訪れ、算盤の制作を依頼しようと思ったのだが、今の時期、彼らは色々と仕事を抱え込んでいるため、手を付けられるのは大分後になると言われてしまった。
具体的には夏か秋頃だそうだ。
流石にそこまで待つのもつらいので、他の手を考えていたところ、職人の一人が農村で暇をしている人間に依頼してみたらどうかと提案してきた。
元々農村では自給自足、道具もある程度自分達で直すという生活なので、手先の器用な人間もそれなりにいるはずとのこと。
俺の下手くそな説明だけで凡その形を推測できた職人がそう語るのなら、その提案に乗るのもいいかもしれない。
早速近隣の村へと飛び、手の空いている村人に仕事を持ち掛け、暫く経った今日にいたる、というわけだった。
「珠の方はこっちのを全部買いましょう。そっちのはちょっと買い取れません」
「でしょうな。それと、別で頼まれていた外枠と串型も出来ておりますぞ」
「おや、早いですね」
「いやいや、この珠に比べたらさほど手間はかかりませんからな。それこそ、手の空いた女子供にも任せられましたわい」
そう言って今いるテーブルの上に運び込まれたのは、算盤の外側を囲う枠と、珠を通すための串と呼ばれる棒の部品だ。
どれも規格通りに大量生産されたかのように形の同じものばかりなのは、村人達の工作技術の高さを物語っているようだ。
試しに算盤を一つ組み立ててみると、珠もスムーズに串を通って動くし、外枠も軽く組んだだけだが、接着してしまえばそのまま使えそうである。
串の方は多少長さを削って調節する必要はあるが、大した手間でもないだろう。
「ほほぅ、そういう風に組み合わせるのですか」
目の前で出来上がった算盤を見て、ザートが感心したように呟く。
村人には部品単位で作らせていたので、こうして一つの完成品となったものを見るのは初めてのようだ。
「ええ。これは算盤と言って、計算を補助する道具なんですよ。こうして、珠を弾いて一、二、三と数えて、区切られた枠の上の珠を五として…と言った感じですね」
「ははぁー、何やら複雑な物で。計算となれば商人には喜ばれる品でしょうな。まぁ畑を耕すだけの身では、縁遠いものですわい」
村人も普通に街へ行って現金で買い物をしたりするのだが、それでも算盤を必要とするほどに複雑な買い方をするわけではないので、ザートの言うとおり商人ぐらいしか使わないかもしれない。
あくまでもこれはローキスのために作ったもので、商人をターゲットとはしていないのだが、今目の前にあるパーツの山から作られる算盤の数を考えると、売りに出してみるのも悪くないと思えてきた。
「アンディさん、よろしければこの算盤の組み立てもわしらの方でやりましょうか?」
「…いいんですか?部品を作るだけでも手間はかかると思うのですが」
「構いませんとも。組み立てるだけなら手の空いている者でもやれるでしょうからな。その代わり…」
「ええ、組み立ての手間賃も込みで、完成品を引き取るという形で契約をし直しましょう」
「ありがとうございます」
元々は部品の製造だけで契約を結んでいたが、組み立ても引き受けてもらえるなら俺の手間が減って助かる。
ザートの方も、算盤の部品をただ卸すだけよりも、完成品として価値のあるものに変わった品を買い取ってもらった方が纏まった金が入ってくるのでありがたいのだろう。
こうして自分の手で組み立てた完成品の算盤を一つだけ持ち帰ることにし、今ある部品をザートに託すと三日後にもう一度来ることを告げて村を後にした。
ヘスニルに戻った俺は、夜を待ってからローキス達の家を訪ね、早速算盤のお披露目を行い、使い方のレクチャーをしていった。
居間を使っての算盤教師に、最初はミルタも興味津々で参加していたのだが、途中で姿が見えなくなったのは、単純に飽きたからだろう
パーラはマースの所に泊まりに行ってこの場にはいない。
「えー桁が繰り上がって…こうかな」
「そうそう。じゃ、一旦全部戻せ」
ローキスが人差し指と親指でジャララと珠をリセットする。
「んでまたここから始めると」
「あーなるほどなるほど」
ゆっくりとだが、算盤の使い方を説明していくと、ローキスも最初よりも珠のおき方を迷うことが無くなっているため、とりあえず使えるようになるのもそう遠くないと思わせる。
「二人共、そろそろ一息ついたら?新しいお茶、持ってきたよ」
お茶の載ったお盆を手にしたミルタが姿を現す。
テーブルに置いていたお茶がすっかり湯気を失っている様子から、意外と時間が経っていたのに気付く。
俺自身、算盤の使い方を人に教えるということは初めてなので、すっかり時間の感覚が鈍ってしまっていたようだ。
「おう、悪いな。……ふぅ。で、どうだ?算盤は役立ちそうか?」
手渡された湯気の立つお茶をすすりながら、ローキスに感想を求める。
「うーん…まだ何とも言えないけど、使いこなせれば便利なんだろうなって思う」
「まぁそうだろうな。練習は必要だが、使えるようになれば確実に計算は早くなるのは保証する」
「それが本当なら商人は確実に欲しがるだろうね。これ、売るつもりなんだっけ?」
「一応な。まだ安定して数を揃えるのは難しいが、数が売れると分かったら量産も考えるつもりだ」
今のところ、算盤を作っているのはヘスニル周辺の村だけなのだが、あくまでも農作業が暇な時期である今だから頼めているだけで、暫くすれば内職どころではない忙しさに襲われることになる。
そのため、一定数を供給するならやはり木工職人を頼るべきなのだが、それもまだしばらくは手が空かないため、算盤の量産をするとしたら秋以降になると見ている。
「そっか。僕はまだあんまり使えないけど、これが広まればきっと多くの商人がかなり楽をできるよ」
「ねぇねぇ。計算を助ける道具なら、商人以外に職人の人達も楽できるんじゃない?」
「…おぉ、本当だな。いいところに気付いたぞ、ミルタ」
「うん。よく考えたら、寸法を測るのにも計算は使ってるんだから、職人にも使ってもらえそうだね。ほんと、ミルタはたまにいいことを言うんだから」
「たまにってどういうことよ。私の言葉はいつでも役に立ってるでしょうが」
算盤と言えば商人という固定観念が俺の中にはあったようで、職人のことはミルタに言われるまで考えもしなかった。
職人というのは正確な寸法の下で物を作る。
長年の勘というものに頼ることも多いだろうが、全く計算をしないわけがないので、算盤を売り込む先としての候補にはなる。
こうなると、やはり木工職人の手が必要になるな。
なんとか今手掛けてる仕事に割り込む形で算盤の制作を……いや待てよ?
よくよく考えたら本職ではない村人でも作れたのだ。
手先の器用な人間、例えば木工職人の見習いや、大工なんかでも作れるのではないだろうか?
切り口を変えて、その辺りから当たってみるのも悪くないかもしれん。
となれば、この手の話をするならやっぱり商人ギルドだな。
仕事柄、商人ギルドは職人との繋がりが深いし、心当たりを尋ねるついでに算盤の販売も相談してみるか。
翌日、ローキスに貸す予定だった算盤を手に、商人ギルドの門を潜る。
商人ギルドへ姿を見せた俺に気付いて声をかけてきたのは、以前びっくりアンディのことで色々と世話になったモトアだ。
出会ってからまださほど時間は経っていないはずなのだが、まだ20代だろうに前髪の後退具合が著しい。
それだけギルドの仕事は激務なのだろうか。
「これはアンディさん、お久しぶりです」
「どうも、モトアさん」
「今日はどのような?あ、また店に関することで何か?」
「いやいや、あの店はもう俺の手を離れてるんで、何かあったとしてもローキスかミルタを連れてきますよ。今日はちょっと個人的なことで相談があるんですが」
「おや、そうですか。では…あぁ、あちらへ行きましょう」
モトアの先導する手の先にある、商談用のスペースへと二人して身を滑り込ませると、早速こちらから用件を切り出す。
「実は今ある物を売りに出そうかと考えてまして」
「ある物、ですか。その言い方では新しい料理などではないようですね。正直、ハンバーグや麦茶と言ったものに続く新しい料理を考案して頂ければギルド側としても有難いんですが」
ヘスニルの名物とも呼べるまでになったハンバーグは、本来あまり使い道のなかった細切れ肉を活用したということで、肉屋の食品ロスを減らして売り上げに貢献しており、肉屋が所属する商人ギルドにも少なからず恩恵を与えている。
ハンバーグを最初に作った人間として、それに続く新しい料理を期待されるのも理解できないこともない。
「あいにくそうポンポンと新しい料理は思い浮かびませんよ。まぁとにかく物を見てください。こちらを」
テーブルの上に算盤を置き、モトアへと勧める。
手に取って眺めるモトアだが、その外見から用途を想像できないので首を傾げるばかりだ。
持った算盤を角度を変えて見たり、振ってみたりといろいろと試すが、やはり本来の計算機としての使い方にまでは辿り着けない。
「…アンディさん、これは一体?ここが動くのはなんとなくわかりますけど、それが何なのか…」
「まぁそうでしょうね。外見からはちょっと分かりにくいと思います。これは算盤と言います」
「ソロバン…いや、名前を聞いても用途が全く分かりませんよ。アンディさん、そろそろ勿体ぶらずに教えてくれませんか?」
流石に焦れてきたのか、若干の非難の籠った目で俺を見るモトアの迫力が大分増している。
勿体ぶったつもりはなかったのだが、そろそろちゃんと説明をしないと後の印象が悪くなりそうだ。
「すみません。少し引っ張り過ぎましたね。この算盤というのは計算を補助する道具なんです」
「計算の補助…あぁ、なるほど。計算機みたいなものですか」
「そうですね。計算機よりも―……え?計算機が……あるんですか?」
「え?ええ、ありますよ。まぁ貴重な魔道具なので、ここにはありませんけど、首都の方の商人ギルドには確か一台あったと記憶してます。スイッチで数字を打ち込むだけで計算が出来る優れものですよ」
なん…だと…。
計算機、既にあったのか……いや、魔道具と言うからには魔石を動力としているはずだから、計算機という名前でも電気は使ってはいないのだろう。
それでも、前世でなじみのある名前がついているということは、考えたのは日本からこっちに来た誰かということになる。
そりゃこの世界に算盤が存在してないわけだ。
もっと便利な計算機が存在しているんだからな。
にしてもスイッチで数字を入力するとなれば、それはもう電卓と呼んでもいいだろうに。
この時点で、俺の中での算盤の存在価値は一気に下がってしまい、このまま売りに出す気も失せてしまった。
「なぁ~んだ、そりゃあ計算機があるんなら算盤はいらないですよねぇ…」
「ど、どうしました!?急に元気がなくなりましたけど」
「い~え~なんでも~」
脱力してしまった俺の姿に、モトアが何やら慌てているが、それを気にすることが出来ない。
せっかく算盤の販売で夢の不労所得が得られそうな可能性を期待していたというのに。
まさか圧倒的に便利な道具が既に存在していたという事実に、俺の構想は一気に潰されてしまったも同然である。
こんなのもうヘロヘロになるしかない。
「あ、いやでも!アンディさん、これは魔道具じゃないんですよね!?」
「そうですよ~。魔道具でも何でもない、ただの木でできてます。おもちゃ同然です」
「ということは、比較的簡単に制作できるんでしょう?であれば、これは売れますよ」
「……計算機があるのに?」
「あぁ、それで落ち込んでたんですか?先程少し言いましたけど、計算機は貴重な魔道具なんです。それも高度な技術が使われているせいで量産が出来ないほどに。それに対して、この算盤は木で作られて、特別な機構もないようですし、量産性という点では遥かに優れてますよ」
村で現在制作が進行中の算盤の処分をどうしようか考えている俺に、モトアの放った言葉が激しく耳を叩いてきた。
言われてみて、算盤の優れている点はその簡便な作りだと思い出し、今の時代でも首都のギルドに一つある程度の物と比べると、普及の簡便さは圧倒的に算盤が勝る。
萎れていた心が見る見る滾っていくのを感じた。
そうだ、そうなのだよ。
必ずしも計算道具に高性能さを追求する必要はない。
要は普段使い出来て計算を補助するものであればいいのだ。
貴重すぎて使えないものよりも、多少練習は必要でも気軽に使えるものとでは明らかに後者の方が普及はするだろう。
「モトアさん、本当にこの算盤は売れるんですね?」
「何事も絶対とは言えませんが…。ただ、使い方がわからないと売れませんね。それに使い方が難しくてもダメです。その辺りはどうなんですか?」
「確かにちょっと使い方は複雑かもしれません。どうでしょう?今からモトアさんに使い方を教えますので、それで判断してみてくれませんか?」
「私がですか?……いいでしょう。では私が身をもって算盤を評価させていただきます」
そんなわけで、ローキスにしたようにモトアにも算盤の使い方を教えてみたのだが、流石は商人ギルドの職員をやっているだけあって物覚えが良く、短時間の練習だけで足し算引き算はもとより、ゆっくりとだが掛け算にも手を出せるまでになっていた。
もしかしてモトアは算盤の才能があるのではないか?
そう思わせるぐらいだ。
「ふむふむ、なるほどなるほど。……アンディさん。これはすごいですよ!ただの木で出来た道具なのに、ここまで計算が楽になるとは!間違いなく売れますよ、これ!」
「本当ですか!いやぁ、よかったー」
モトアのお墨付きをもらえたことに安どの息を吐く。
若干興奮気味のモトアは、算盤の効果を絶賛するが、それは使い方をすぐに覚えてしまえたからだ。
果たしてほかの商人なんかはモトアと同じくらいの速さで習得できるのか、その辺りを尋ねてみた。
「うーん、どうでしょう?私は意外とすんなりと覚えられましたけど、他の人がどうかは分かりませんね。ただ、個人的な感想では、ある程度計算に慣れている人間であれば、少し練習すればすぐに覚えられると思います」
「そうですかね?一応俺の方でもローキスにも教えてるんですけど、覚えるのはモトアさんより大分遅い感じですよ?」
「あぁ、それは仕方ありません。ローキスさんはまだ若いですから、商人として複雑な計算をする経験がまだ足りていないだけでしょう。ですが、ローキスさんも頭の回転はいい方なので、慣れれば直ぐだとは思いますよ」
びっくりアンディの権利を引き継いだ時に顔合わせをしているローキスのことはモトアも多少は知っていた。
そのモトアから見て、ローキスでも慣れるのに長い時間はいらないという評価から、他の商人はもう少し習得は早いと見ていいだろう。
念のため、算盤を販売する際に算盤の使い方を説明した冊子を付属させることにして、それ意外にもモトアか他の算盤の扱いを覚えたギルド職員が指南をするということも視野に入れたアフターサービスを考え、算盤は商人ギルドから販売するという形で契約をまとめた。
俺が手ずから売るということもできるが、購買層は商人がメインだということもあって商人ギルドを通した方が色々と面倒も少ないと説得された。
構造的に模倣されやすい算盤を、商人ギルドが売るという形にすることで、コピー品の乱造を防いで利益を守ってくれるという点も魅力的だ。
まぁ製造は商人ギルドが抱える職人を頼るとして、販売目標を月に40個に設定すると、ギルドに委託する形は効率的ではある。
そもそも俺は商人ではなく冒険者なので、こういう販売はやはり慣れたものにやってもらった方がいい。
製造と販売を任せる代わりに、利益のほとんどはギルド側が得るのだが、一つ売れるごとに販売額の三割が何もせず手にできるため、憧れの不労所得として俺を長く養ってくれることだろう。
諸々を決めた契約書の写しを貰い、家に帰ってからパーラと相談して決めることにしたが、俺の中ではもう決まっていることなので、元行商人としてのパーラに契約の穴がないかを見てもらったら締結してしまうつおりだ。
今村の方で製造中の算盤を商人ギルドに卸したら、後はもう自動的に金が振り込まれる生活を送れる。
夢の不労所得というやつだな。
ほんの数日で事態がかなり動いたような気もするが、結果的に俺は何もせずに金が入ってくるという最高の収入源を手に入れたのだ。
こんなに嬉しいことはないよ。
どこのどいつかは知らないが、電卓というチートアイテムを用意し、俺の立てた『算盤でウハウハ計画』を阻止しようとしたのは許せん。
が、算盤の圧倒的量産性の前に敗北を喫すると思えば、留飲を下げてもいい。
こっちの世界で電卓を作ったであろう日本人に会えたとしたらこう言ってやりたい。
算盤は異世界にて最良、と。
だがこの時、俺は気付いていなかった。
便利な道具もある程度普及してしまうと、それ以降は売り上げも振るわなくなるということを。
算盤は確かに商人には爆発的に売れるのだが、商人の数自体がそう多いわけではないこの世界で、消耗品とは言えない算盤がある程度生き渡ってしまえば、売り上げも停滞して収入が減るのだ。
結局、コンスタンスに金が振り込まれたのは数年だけで、それ以降は忘れた頃に金が入って来るだけとなる。
夢の不労所得生活とは言えないこの結末に、当分は真面目に冒険者として働いていたのだが、また新たな便利道具を考えようかと思い始めるのは、大抵冬の暇な時期になる度のことであり、実際に動き出すのは春先になるのが毎年のこととなる。
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