スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

文字の大きさ
上 下
41 / 42

11 女神の気まぐれ(3)

しおりを挟む
 抽出を終えた俺はカップの湯を捨てて、できたばかりのコーヒー液を注ぐ。ほわり、と湯気が立ち昇り、ハナオが待ち遠しそうな表情をした。俺は少しばかりもったいぶってソーサーにカップをのせ、ゆっくりと恭しくカウンターに置く。
「お待たせしました。どうぞ」
 俺の手がソーサーから離れるとともに、ハナオが歩み寄って、そっと顔を近づけた。
「ん、いい香り」
 満足そうに呟く。紅潮した頬、熱に浮かされたように潤んだ目。あいかわらずの反応に苦笑する。こんなに美味しそうにコーヒーを味わう人間など、絶対に世界中探したってハナオだけだ。
「このブレンドは、何と名付けましょうか?」
 俺は気どった口調で訊いた。究極の一杯だ。是非名前を聞かせてほしい。
「そうだね。――ハナオ・ブレンド、かな」
 自信満々に告げられた名前に、おもわず吹き出す。
「センスねぇな」
「ここだけ、ミツが伝染ったんだよ」
「……そこだけか?」
 げんなりと突っ込むと、うん、と無邪気に頷かれた。
「あとはどこが伝染るのさ?」
 おい、軽く傷つくぞ。ハナオは俺の反応に、あはは、と愉快そうに笑う。
「冗談だよ、拗ねない拗ねない。いいんだよ、もともと名前どころか淹れたことすらなかったんだから。――それに僕は、この名前を気に入っているし」
 ハナオは再び香りを吸い込む。
(……気に入ってたのか)
 案外ハナオのセンスも俺と同じようなものかもしれない。
「そういえば結局、本当は何て名前だったんだ?」
 〝ハナオ〟は俺が便宜上つけた名前である。忘れてなんかいなかったわけだから、ちゃんと本名があるはずだ。ハナオはきょとんと、そんなものがあったことを今思い出したと言いたそうな顔をした。その視線が宙をさまよう。
「んー。言わない」
「おい」
「一コぐらい秘密があってもいいと思わない? あの名前の僕はもういないよ。僕は今この瞬間を、ただの透明人間・ハナオとして生きているんだから、それでいいじゃない」
 ハナオはまだ飽き足らないのか、カップに顔を近づけた。
(……まぁ、それでもいいか)
 悪い理由じゃない。
「もう一杯、お淹れしましょうか?」
 機嫌を直した俺は、身を乗り出して尋ねる。まだグラインダーに同じ配合の豆が入ったままだ。カウンターの深い琥珀色をしたコーヒーは、当然量は減っていないけれど、いくらか湯気が消えた気がした。ハナオが顔を上げて微笑む。
「もう結構。――さぁ、カドーを開け、て……」
 笑顔が砕けた。一瞬、ハナオは助けを求めるように目を瞠る。眉が寄り口元が歪む。よろめき後退した次の瞬間、その身は崩れるようにカウンターの向こう側へと隠れた。
「ハナオッ!!」
 俺は叫んでカウンターを駆け出た。目に飛び込んできたのは、ひざをついて学ランの胸元をにぎりしめたハナオの姿。背を丸めて前かがみになった体は、驚くほど小さく見えた。
「……ハナオ?」
 そっと呼びかけて耳をすますと、浅い呼吸音が聞こえた。
「……っ、ぅ……」
 何か答えてくれようとしたのだろうが、うめき声にしかなっていない。にぎりしめた拳は白く固く、髪の隙間から覗く肌は、先程の紅潮が思い出せないくらい蒼白。時にあえぐように開き、時にぐっと歯を食いしばる口元が、うめくことがやっとなのだと語る。
(……怖くないはずがない)
 もう感じることはないと思っていた苦痛が、気を失うほどの衝撃で襲ったのが一度目。どんなに喜びだったとしても、二度目が来るとわかっていることが、どうして恐怖につながらない?
(なんで、気づけなかった!?)
 あの夜の言い合いですらも、ハナオにとっては強がりだったんじゃないのか? 「次」なんて、正気を保ったまま冷静に言うことに、どれほどの自制心が必要だったろう。
 それでも俺は無力だ。さわることはおろか、近づくことすらできない。
(怖くて、か? ――ふざけんな)
 何が、怖い、だ。何が感覚のズレだ。一体俺は何を見てきた? どれだけの時間をともに過ごした? さわれないから何だというのだ。視覚と触覚にズレがあるだと?
 俺はハナオに近寄り、腕をのばした。
 それなら、感覚なんか信じない。あっという間に消えてしまうような曖昧なものなんか、こっちから捨ててやる。
(さわれないなら、俺は自分に見えているものを信じる)
 ハナオはここにいる。
 俺はハナオに寄り添い、背に腕をまわして肩をつかむ。もちろん手につかんだ感触なんかない。だからこれは、埋まらないようにしながら添えるフリをしているだけ。鳥肌も悪寒も嫌悪も恐怖も、感じる前に押し殺した。
「大丈夫だ」
 俺はハナオにささやく。確信めいた口調で。何が大丈夫なのかなんてわからない。それでも。
(伝われ)
 俺の存在が伝わればいい。ここにいるんだと、お前は独りじゃないと、それだけが伝わればいい。
 ハナオの呼吸が乱れる。――笑った。
「……大丈夫」
 もう一度、言い聞かせるように呟く。
 小刻みに聞こえていた呼吸音が徐々にそのペースを落としていく。ハナオはもう、何の反応を示す努力もせず、ただ耐えている。俺にはその様子を見守るしかなかった。
 突如、窓から入った朝日が、俺の目を射た。金色の光に眩んで一瞬目を細める。そっと開いて――僅かにこちらを向いたハナオと目が合った。
 静かな深い漆黒が俺を見ていた。そして淡く、ほんの微かに笑みを刻む。そこまでだった。
 フゥ……。
 深い一息が聞こえた。次の瞬間、立ち昇った湯気が空気中に溶けていくように音もなく、ハナオの姿は俺の腕から消えた。
 とっさに、ハナオ、と呼びかけようとする。けれど、声にならなかった。
(……え?)
 ハナオの消滅を理解する間もなく、新しい混乱に襲われた。いらないと切り捨てた感覚が俺を嘲笑あざわらう。
 何かが覆いかぶさってきたような気がして、戸惑ったようにゆっくりと腕を動かしていた。存在するはずのないモノをつかもうとしたその手は、それを引き剥がそうとしていたのだろうか。それとも、かきいだこうとしたのか。
 いつのまにか見開いていた目から、涙がこぼれ落ちる。途端に、慌てて口に手を当て、そのまま天井を振り仰いだ。そうしないと、叫び出してしまいそうだった。あふれ出た涙は止めようがなく、天井から下がるランプの輪郭をにじませる。
 俺を押し包んでいたのは――コーヒーの香りだった。ひだのように幾層にも折り重なり、むせかえるほどに濃厚。呼吸とともに鼻や口から押し入り、まるでこちらを窒息させようとするかのようだ。息ができない。苦しい。
(どうして、今なんだ)
 恋い焦がれた。取り戻せるならと何度も何度も願った。その〝匂い〟が何故、一番分かち合いたかった者が消えた瞬間に戻ってくる……?
 二つの感情が俺の中でせめぎ合う。どうしたらいい。もう、悲しめばいいのか喜べばいいのか、わからない。
 涙は止めどなくあふれて頬を伝い落ちる。
「……ハナオ……っ」
 空気を求めるような嗚咽の中、くぐもった声で、もういない人物を呼ぶ。
 どうして最期までこんな皮肉を。
 窓からは陽光が差し込み、ランプがすっかり存在感を失くす。
 その日の朝、〈喫珈琲カドー〉の店内でコーヒーの香りに包まれながら、俺は一人で泣き続けていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。 「だって顔に大きな傷があるんだもん!」 体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。 実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。 寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。 スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。 ※フィクションです。 ※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

♥*♡+:。.。灯火。.。:+♡*♥ 短編

設樂理沙
ライト文芸
無理して学校へ行かなくてもいいんだよ? 学校へ行けなくなった娘との日々 生きることに疲れているあなた 休み休み生きてゆけばいいから 自分の心と向き合いながら・・ ※あらすじからは少し離れたメッセージに  なるかも。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

処理中です...