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11 女神の気まぐれ(2)
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ある夜、小上がりの畳でくつろいでいたハナオが、「あぁ! そうだよっ」と叫んでビョンッとバネのように勢いをつけて立ち上がった。カウンターで閉店後恒例のノートをつけていた俺はぎょっとする。
「思いついたよ、もっとお客さんを増やす方法!」
そのまま小上がりを跳ね下りたハナオの勢いは着地しても止まらず、左右の足を交互に一歩ずつ踏み出してバランスをとった。
俺が肝を冷やしたのは言うまでもない。
(……こっちの心臓が止まりそうだぞ)
両腕を広げて踏みとどまっているハナオの顔色は、今回は悪くない。きっと本当に勢い余っただけなんだろう。
「ふぅ。……六・九五?」
あやうくカウンターに突っ込みそうになったハナオは一息つくと、両足をそろえてビミョーな点数を口走った。それ、好きだな。
「六・八」
「え!? なんでっ?」
「うっさい、心配分だ。……で?」
俺が先を促すと、ハナオは特にこだわりもせず、
「ねーえ、ミツ。やってみたいことがあるんだけど」
と、甘ったれた声を出した。両手を胸の前でにぎり合わせる。
(それ、揉み手っていうやつか?)
俺は気圧されて若干身を引いた。夜になって周囲が暗くなった〈喫珈琲カドー〉の店内では、ステンドグラス風のランプが本領発揮とばかりに色とりどりの光を煌々と散らしている。
「……何?」
おそるおそる訊き返すと、ハナオは再び両腕をぱっと広げて、楽しげに提案してきた。
「早朝喫珈琲、やろうよ!」
何それ。俺の頭はしばらく考える。つまり、早朝カフェとか早朝喫茶のカドー版? ってことは、早朝から営業を開始するってことか。
「そろそろ暖かくなってきたしさ。ね、いいでしょ? どうせ不定営業なんだし」
三月に入ってしばらく。たしかに以前よりも寒さが緩んだし日の出も早まってきた。俺の返答を待つハナオは小首を傾げて目を輝かせる。……どうせ、とか言うな。
「そんな朝早くから、客なんか来ねぇだろ」
「そうでもないんだよ、実はここのご近所さんは早起きが多いんだ」
へぇ、初耳。だから夜遅くから来る客が少ないのか。
「……それ、〝前例〟にならないか?」
一度開けてしまえば、というやつだ。今回だけでなく、二度目三度目が必要になりはしないだろうか。
「それは、……なるだろうね」
「毎日毎日、そんなに早く起きれねぇよ」
「大丈夫だよー、たまにで。どうせ不定営業なんだし」
だから、どうせとか言うな。
「いつ、やるんだ?」
「んー、明日?」
「まず明日起きられるかが不安だぞ」
そんな急な。額に手をやってため息をつく俺を覗き込んで、ハナオが言う。
「僕が起こしにいってあげようか?」
二階に? 階段を一段ずつ両足で跳び上がって? 俺はハナオを睨みつけた。
「…………本気で、やめてくれ」
そんなことをされるとわかっていたら、そもそも夜中眠れそうにない。
「えー、心外。こぉんな美少年が朝の目覚めへ誘ってあげようってのに?」
「悪いけど、そっちの趣味はねぇよ」
なんか艶めいた表情をしてみせるから言い返したら、ハナオは不満げに口をとがらせた。しかし形勢不利とみたか、
「ねぇー、ミツー、お願いお願い!」
今度は両手を合わせて拝んできた。ウインクまでかます始末だ。きっと、客を増やす云々じゃなくて、ただハナオがやりたいだけだ。絶対そうだ。
「……仕方ねぇな」
「やったー!!」
根負けしてボソッと呟くと、途端にハナオは両手をあげての満面の笑みで叫んだ。
「そのかわり! せめて日が出てからだぞ」
「もちろん、いいよ。さぁ寝よう!」
その夜、ハナオに急かされるままに就寝した俺は、予想に反してというべきか案の定というべきか、早すぎる起床をしてしまった。
「なんだ、やる気満々じゃない」
二度寝を諦めて階下に降りた俺を、ハナオがにまにましながら迎える。
俺は憮然としながら卓上ランプをつけた。時刻こそ夜明けに近づいていたものの空はまだ暗く、ランプはカラフルな光を散らして存在を主張する。
「僕が起こしにいくと思ったんでしょー?」
ハナオが、早起きの理由を突いてくる。図星だ。
「そんなことするつもりはなかったよ。だいたい起こしたかったら、階段の下から大声で叫べばいいんだもん、この世の終わりみたいな声で」
なるほど。ハナオがどんなに大声を出そうとも、近所迷惑になることはない。唯一聞こえる俺がどんな反応をするかは別だが。
やっぱり、早すぎた。身支度を整え、開店準備を終えても、空がやっと白みだしてきた程度で、まだまだ日の出とはいかない。
「絶対、日が出るまでは開けねぇからな」
ムキになって言うと、ハナオはおかしそうにくすくす笑って頷いた。
「いいよ。ねぇ、ミツ。もう一つ、お願いがあるんだけど」
「……今度は何?」
俺は半ば自棄になって答える。もう何でも言ってくれ。こうなったら全部叶えてやる。
「僕、一度カドーのお客をしてみたいんだ。――僕のために、コーヒーを淹れてよ」
「……いいけど、ブレンドは?」
「それは僕が言うよ。ねぇ、最初からして。僕は新規客だよ」
ハナオは一人二役か。まるでママゴトだな。俺は照れ笑いを押し殺して、カウンター内へ移動した。ハナオがカウンターをはさんで正面に立つ。この新規客はカウンター席を選んだらしい。
「いらっしゃいませ。当店のメニューはブレンドコーヒーのみとなっていますが、よろしいでしょうか?」
「もちろん。いただけますか?」
俺とハナオは顔を見合わせて吹き出した。
「……ミツ、お客さんの前で笑っちゃダメだよ」
「ハナオこそ、えらく緊張感のない新規客だな」
俺はグラスにお冷を注いで、カウンターに置く。飲めないのはわかっているが、それはそれだ。やかんをコンロに置いて火をつけ、俺はコホンと咳払いして過度な笑いを引っ込める。
「コーヒー豆は、いかがいたしましょうか?」
「今から言うものでお願いします」
ハナオはゆっくりと数種類の豆の名前をあげる。初めての配合のはずだが、聞き覚えがあった。
(……あ)
あの時の。
『待ってね、リツコ。今、最高のコーヒーを淹れてあげる』
リツコさんが来た時に捨てた方のブレンド。
「ハナオ、このブレンドは……」
俺はなんとなくグラインダーのスイッチを入れることをためらって、ハナオを振り返る。
「察しがいいね。――これは、僕が人生を懸けて導き出した、最高の一杯だと思えるブレンドだよ」
今度は、俺が捨てる番だった。
「……お客さま、本日は手回しミルで豆を挽きたいと思いますので、少々お時間をいただけますか?」
俺はさっきと同じ種類の豆を同じ配合でミルに入れると、ハンドルに力を込めた。ガリゴリと臼が豆を砕く振動が手に伝わる。
ハナオがうっとりと目を閉じて深呼吸をしている。今、砕かれて立ち昇ったコーヒーの香りが漂っているのだろう。
『まるで、コーヒーの神様と会話しながら淹れているみたい』
ふと玉寄さんの言葉を思い出した。本人は無自覚だったろうが、なんて鋭い言葉だったのだろう。
(コーヒーの神様、か)
そんなものがいるなら、やっぱりこうやって香りを楽しむのだろうか。
「ハナオってさ、神様とか信じてたりする?」
つい、質問がこぼれ出てしまった。しばらくガリガリとミルの音だけが響く。
「……もし僕が、こんな姿になってもそんなモノを信じていたら、僕は天才的な愚か者だよね」
興ざめと言いたげな言葉に、「だな」と返す。我ながらバカげた質問だとは思ったんだ。俺はミルを挽くことに集中しようと、手元に目をやる。
「――でも、女神の気まぐれなら、あると思う」
顔を上げると、こちらを見ていたハナオと目が合った。
「女神?」
「そう。女神が起こす気まぐれ」
「どういう意味だ?」
ハナオの口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「奇跡ってこと」
ははぁ。幸運の女神か何かが起こす奇跡ってことか? 意外と可愛いモノを信じているんだな。内心でにんまりと笑いながらそこまで考え、でも、と思い直す。それなら。
「なんで普通に〝奇跡〟って言わねぇの?」
「……なんかこう、キラキラした響きが癪に障る」
ハナオが鼻筋にしわを寄せる。本気で嫌がっているようだ。
「すごい言いがかりだな」
「たとえば、僕がきみとここにいるのだって、そう。僕が透明人間になったのだって、そう。きみが嗅覚を失くしたのだって、そう。――歓迎できることばかりじゃないでしょ。奇跡なんて言葉でまとめられたら迷惑だよ」
なるほど。たしかに匂いがしないことや祖父が倒れたことを「奇跡」だなんて言われたら、相手を殴り飛ばしてしまいかねないだろう。
俺は沸騰した湯を細口のポットに注ぎ、温度が下がるのを待つ。その間にサーバーとカップにも湯を注いで温め、挽き終わったコーヒー粉をドリッパーに移す。
「それで、女神の気まぐれ?」
「奇跡とは言いたくないけど、だからって説明はつかないからね。……女神が気まぐれを起こしましたっていうなら、まぁ納得いくじゃない? このあたりが落としどころでしょ」
ハナオが、もういいよ、と言うと同時に、俺はサーバーの湯を捨ててドリッパーをセットし、ポットの湯を少量注ぐ。まずは蒸らしだ。
「……なぁ、その女神って、まれ」
「それ、ちょっと生々しすぎない?」
ためらいながら仮説を口走ろうとした俺のセリフを、ハナオが容赦なく遮る。
「じゃあなんで〝女神〟なんだ?」
「だって美女の方がいいじゃん。これがむさいおっさんだったら張っ倒すよ」
ハナオも男だった。笑っているけれど、美女じゃなかったら本当にしそうだ。
(女神の気まぐれ、ねぇ)
再びゆっくり湯を注ぎながら俺は、なかなかうまい言い回しだな洒落てるしとか、そんなことを考えていた。この女神が想像したよりもずっと残酷だと知るのは、もう少し後のことだ。
「それでもまぁ、気がきいているところもあるんだよ。こんな僕にも死があることとかね」
腐れ縁の悪友の話でもするような気軽な調子でハナオは言った。ぴた、と細く筋を描いていた湯が止まる。
「ハナオ」
「――喜ばしいことだよ」
ドリッパーの中のコーヒー粉は、無数の小さな泡を伴って膨らみ、音もなく萎む。同時にタチタチとサーバーが液体の落ちる音を響かせる。
続けて、とハナオに促されて、俺は抽出を再開する。ゆっくりと〝の〟の字を描く注湯に比例して、ドリッパーの中の小さなドームは膨らんだり萎んだりを繰り返す。ペーパーが徐々に湿り気を帯びて、サーバーの琥珀色の液体はどんどん色を濃くする。
「……わかんねぇぞ。次だって戻ってくるかもしれない」
定量まで抽出できたところで、ドリッパーを外してシンクへ移す。ドリッパーに残ったコーヒー液が、タン、タン、とシンクに落ちる。
えー、と楽しそうに冗談めかした声が〈喫珈琲カドー〉に広がる。
「勘弁してよぉ。あの頃とは違う気持ちで僕は、僕の消滅を願っているんだからさ。……こんな最期ならいい。そう思えるんだ。粋なはからいだよね」
ハナオは、晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。
「思いついたよ、もっとお客さんを増やす方法!」
そのまま小上がりを跳ね下りたハナオの勢いは着地しても止まらず、左右の足を交互に一歩ずつ踏み出してバランスをとった。
俺が肝を冷やしたのは言うまでもない。
(……こっちの心臓が止まりそうだぞ)
両腕を広げて踏みとどまっているハナオの顔色は、今回は悪くない。きっと本当に勢い余っただけなんだろう。
「ふぅ。……六・九五?」
あやうくカウンターに突っ込みそうになったハナオは一息つくと、両足をそろえてビミョーな点数を口走った。それ、好きだな。
「六・八」
「え!? なんでっ?」
「うっさい、心配分だ。……で?」
俺が先を促すと、ハナオは特にこだわりもせず、
「ねーえ、ミツ。やってみたいことがあるんだけど」
と、甘ったれた声を出した。両手を胸の前でにぎり合わせる。
(それ、揉み手っていうやつか?)
俺は気圧されて若干身を引いた。夜になって周囲が暗くなった〈喫珈琲カドー〉の店内では、ステンドグラス風のランプが本領発揮とばかりに色とりどりの光を煌々と散らしている。
「……何?」
おそるおそる訊き返すと、ハナオは再び両腕をぱっと広げて、楽しげに提案してきた。
「早朝喫珈琲、やろうよ!」
何それ。俺の頭はしばらく考える。つまり、早朝カフェとか早朝喫茶のカドー版? ってことは、早朝から営業を開始するってことか。
「そろそろ暖かくなってきたしさ。ね、いいでしょ? どうせ不定営業なんだし」
三月に入ってしばらく。たしかに以前よりも寒さが緩んだし日の出も早まってきた。俺の返答を待つハナオは小首を傾げて目を輝かせる。……どうせ、とか言うな。
「そんな朝早くから、客なんか来ねぇだろ」
「そうでもないんだよ、実はここのご近所さんは早起きが多いんだ」
へぇ、初耳。だから夜遅くから来る客が少ないのか。
「……それ、〝前例〟にならないか?」
一度開けてしまえば、というやつだ。今回だけでなく、二度目三度目が必要になりはしないだろうか。
「それは、……なるだろうね」
「毎日毎日、そんなに早く起きれねぇよ」
「大丈夫だよー、たまにで。どうせ不定営業なんだし」
だから、どうせとか言うな。
「いつ、やるんだ?」
「んー、明日?」
「まず明日起きられるかが不安だぞ」
そんな急な。額に手をやってため息をつく俺を覗き込んで、ハナオが言う。
「僕が起こしにいってあげようか?」
二階に? 階段を一段ずつ両足で跳び上がって? 俺はハナオを睨みつけた。
「…………本気で、やめてくれ」
そんなことをされるとわかっていたら、そもそも夜中眠れそうにない。
「えー、心外。こぉんな美少年が朝の目覚めへ誘ってあげようってのに?」
「悪いけど、そっちの趣味はねぇよ」
なんか艶めいた表情をしてみせるから言い返したら、ハナオは不満げに口をとがらせた。しかし形勢不利とみたか、
「ねぇー、ミツー、お願いお願い!」
今度は両手を合わせて拝んできた。ウインクまでかます始末だ。きっと、客を増やす云々じゃなくて、ただハナオがやりたいだけだ。絶対そうだ。
「……仕方ねぇな」
「やったー!!」
根負けしてボソッと呟くと、途端にハナオは両手をあげての満面の笑みで叫んだ。
「そのかわり! せめて日が出てからだぞ」
「もちろん、いいよ。さぁ寝よう!」
その夜、ハナオに急かされるままに就寝した俺は、予想に反してというべきか案の定というべきか、早すぎる起床をしてしまった。
「なんだ、やる気満々じゃない」
二度寝を諦めて階下に降りた俺を、ハナオがにまにましながら迎える。
俺は憮然としながら卓上ランプをつけた。時刻こそ夜明けに近づいていたものの空はまだ暗く、ランプはカラフルな光を散らして存在を主張する。
「僕が起こしにいくと思ったんでしょー?」
ハナオが、早起きの理由を突いてくる。図星だ。
「そんなことするつもりはなかったよ。だいたい起こしたかったら、階段の下から大声で叫べばいいんだもん、この世の終わりみたいな声で」
なるほど。ハナオがどんなに大声を出そうとも、近所迷惑になることはない。唯一聞こえる俺がどんな反応をするかは別だが。
やっぱり、早すぎた。身支度を整え、開店準備を終えても、空がやっと白みだしてきた程度で、まだまだ日の出とはいかない。
「絶対、日が出るまでは開けねぇからな」
ムキになって言うと、ハナオはおかしそうにくすくす笑って頷いた。
「いいよ。ねぇ、ミツ。もう一つ、お願いがあるんだけど」
「……今度は何?」
俺は半ば自棄になって答える。もう何でも言ってくれ。こうなったら全部叶えてやる。
「僕、一度カドーのお客をしてみたいんだ。――僕のために、コーヒーを淹れてよ」
「……いいけど、ブレンドは?」
「それは僕が言うよ。ねぇ、最初からして。僕は新規客だよ」
ハナオは一人二役か。まるでママゴトだな。俺は照れ笑いを押し殺して、カウンター内へ移動した。ハナオがカウンターをはさんで正面に立つ。この新規客はカウンター席を選んだらしい。
「いらっしゃいませ。当店のメニューはブレンドコーヒーのみとなっていますが、よろしいでしょうか?」
「もちろん。いただけますか?」
俺とハナオは顔を見合わせて吹き出した。
「……ミツ、お客さんの前で笑っちゃダメだよ」
「ハナオこそ、えらく緊張感のない新規客だな」
俺はグラスにお冷を注いで、カウンターに置く。飲めないのはわかっているが、それはそれだ。やかんをコンロに置いて火をつけ、俺はコホンと咳払いして過度な笑いを引っ込める。
「コーヒー豆は、いかがいたしましょうか?」
「今から言うものでお願いします」
ハナオはゆっくりと数種類の豆の名前をあげる。初めての配合のはずだが、聞き覚えがあった。
(……あ)
あの時の。
『待ってね、リツコ。今、最高のコーヒーを淹れてあげる』
リツコさんが来た時に捨てた方のブレンド。
「ハナオ、このブレンドは……」
俺はなんとなくグラインダーのスイッチを入れることをためらって、ハナオを振り返る。
「察しがいいね。――これは、僕が人生を懸けて導き出した、最高の一杯だと思えるブレンドだよ」
今度は、俺が捨てる番だった。
「……お客さま、本日は手回しミルで豆を挽きたいと思いますので、少々お時間をいただけますか?」
俺はさっきと同じ種類の豆を同じ配合でミルに入れると、ハンドルに力を込めた。ガリゴリと臼が豆を砕く振動が手に伝わる。
ハナオがうっとりと目を閉じて深呼吸をしている。今、砕かれて立ち昇ったコーヒーの香りが漂っているのだろう。
『まるで、コーヒーの神様と会話しながら淹れているみたい』
ふと玉寄さんの言葉を思い出した。本人は無自覚だったろうが、なんて鋭い言葉だったのだろう。
(コーヒーの神様、か)
そんなものがいるなら、やっぱりこうやって香りを楽しむのだろうか。
「ハナオってさ、神様とか信じてたりする?」
つい、質問がこぼれ出てしまった。しばらくガリガリとミルの音だけが響く。
「……もし僕が、こんな姿になってもそんなモノを信じていたら、僕は天才的な愚か者だよね」
興ざめと言いたげな言葉に、「だな」と返す。我ながらバカげた質問だとは思ったんだ。俺はミルを挽くことに集中しようと、手元に目をやる。
「――でも、女神の気まぐれなら、あると思う」
顔を上げると、こちらを見ていたハナオと目が合った。
「女神?」
「そう。女神が起こす気まぐれ」
「どういう意味だ?」
ハナオの口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「奇跡ってこと」
ははぁ。幸運の女神か何かが起こす奇跡ってことか? 意外と可愛いモノを信じているんだな。内心でにんまりと笑いながらそこまで考え、でも、と思い直す。それなら。
「なんで普通に〝奇跡〟って言わねぇの?」
「……なんかこう、キラキラした響きが癪に障る」
ハナオが鼻筋にしわを寄せる。本気で嫌がっているようだ。
「すごい言いがかりだな」
「たとえば、僕がきみとここにいるのだって、そう。僕が透明人間になったのだって、そう。きみが嗅覚を失くしたのだって、そう。――歓迎できることばかりじゃないでしょ。奇跡なんて言葉でまとめられたら迷惑だよ」
なるほど。たしかに匂いがしないことや祖父が倒れたことを「奇跡」だなんて言われたら、相手を殴り飛ばしてしまいかねないだろう。
俺は沸騰した湯を細口のポットに注ぎ、温度が下がるのを待つ。その間にサーバーとカップにも湯を注いで温め、挽き終わったコーヒー粉をドリッパーに移す。
「それで、女神の気まぐれ?」
「奇跡とは言いたくないけど、だからって説明はつかないからね。……女神が気まぐれを起こしましたっていうなら、まぁ納得いくじゃない? このあたりが落としどころでしょ」
ハナオが、もういいよ、と言うと同時に、俺はサーバーの湯を捨ててドリッパーをセットし、ポットの湯を少量注ぐ。まずは蒸らしだ。
「……なぁ、その女神って、まれ」
「それ、ちょっと生々しすぎない?」
ためらいながら仮説を口走ろうとした俺のセリフを、ハナオが容赦なく遮る。
「じゃあなんで〝女神〟なんだ?」
「だって美女の方がいいじゃん。これがむさいおっさんだったら張っ倒すよ」
ハナオも男だった。笑っているけれど、美女じゃなかったら本当にしそうだ。
(女神の気まぐれ、ねぇ)
再びゆっくり湯を注ぎながら俺は、なかなかうまい言い回しだな洒落てるしとか、そんなことを考えていた。この女神が想像したよりもずっと残酷だと知るのは、もう少し後のことだ。
「それでもまぁ、気がきいているところもあるんだよ。こんな僕にも死があることとかね」
腐れ縁の悪友の話でもするような気軽な調子でハナオは言った。ぴた、と細く筋を描いていた湯が止まる。
「ハナオ」
「――喜ばしいことだよ」
ドリッパーの中のコーヒー粉は、無数の小さな泡を伴って膨らみ、音もなく萎む。同時にタチタチとサーバーが液体の落ちる音を響かせる。
続けて、とハナオに促されて、俺は抽出を再開する。ゆっくりと〝の〟の字を描く注湯に比例して、ドリッパーの中の小さなドームは膨らんだり萎んだりを繰り返す。ペーパーが徐々に湿り気を帯びて、サーバーの琥珀色の液体はどんどん色を濃くする。
「……わかんねぇぞ。次だって戻ってくるかもしれない」
定量まで抽出できたところで、ドリッパーを外してシンクへ移す。ドリッパーに残ったコーヒー液が、タン、タン、とシンクに落ちる。
えー、と楽しそうに冗談めかした声が〈喫珈琲カドー〉に広がる。
「勘弁してよぉ。あの頃とは違う気持ちで僕は、僕の消滅を願っているんだからさ。……こんな最期ならいい。そう思えるんだ。粋なはからいだよね」
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