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11 女神の気まぐれ(1-1)
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小上がりの畳に座ったハナオが、雨降りの窓の外を眺めながらさりげない口調で言ったのは、三月に入ってすぐのこと。リツコさんの来訪あるいはハナオの心臓発作から数日が経っていた。
「……母のことを、訊かないんだね。気にならない?」
先日、リツコさんが口にした、ハナオにそっくりだという母親の話。思いがけなく垣間見えたハナオの過去。気にならないと言えば嘘だ。少し前の俺なら、自分の好奇心を満たそうとして問いつめていただろう。けれど。
「そりゃ気にはなるけど……、訊かれたくないだろ?」
ハナオは昔話だと言った。それにこれは、訊けば「えー、忘れたよぉ」と軽く受け流される類の話だと思っていた。
「聞いてほしいって言ったら、聞いてくれる?」
俺はハナオを見た。無表情ではないはずのその表情からは、感情を読み取れない。まるで凪いだ海か宇宙の果てのような深く静かな瞳が、俺の反応を眺めている。
「ちょっとね、僕も昔話をしてみたくなったんだ」
少し照れたような声が、言い訳がましい言葉を追加してきた。
〈喫珈琲カドー〉は今日も営業しているが、雨だからかいつものことなのか、店内に客はいない。俺はカウンターを回ると、席を一つ引き出して座る。客が来たら立てばいい。ハナオの口元が緩く笑みを作った。
「ミツ、以前ショッピングモールで女神展のポスターを見たの、覚えている?」
「女神展? あぁ年末の」
まだハナオと出会って間もなかった頃だ。初めて〈コーヒービーンズ イコール〉へ行った帰りに立ち寄った、地元出身の画家・青柳緑樹の絵画展。彼の恋人をモデルにした女神シリーズの恒例展示で、あの時のタイトルは……たしか『ギフト』だ。
もう、ずいぶんと前のことのように思える。まだ何も知らなかった。コーヒーのこともハナオのことも。
ハナオは口元に笑みを浮かべたまま、瞼を伏せる。
「母は――稀子は、その〝女神〟のモデルになった女性だよ」
俺はおもわず腰を浮かせていた。
「女神シリーズの、モデル……?」
「リツコが見たという写真は、おそらく図録に載ったものだろうね。彼女の写真を見て〝青柳緑樹〟と〝稀子〟という名前を聞けば……たしかに、つながってしまうはずだよ。僕の事情なんて簡単に」
すとんと俺は改めて椅子に座る。脳裏によみがえるのは、あの時、シリーズものなのかと訊いたハナオにした説明。それは誰もが知っている有名なエピソード。
『同一人物を描いてるんだ。だから女神シリーズって呼ばれているらしい。モデルは彼の恋人だった女性。当時――つまり戦前の女性としてはかなり高い知識教養と、類を見ないほどの美貌の持ち主だったらしいんだけど、これがかなりの曰くつきで。良家の出身で人妻だったのに、まだ無名で貧乏画家だった青柳と駆け落ちしたそうだ。結局――何ていったか忘れたけど――彼女の名前まで現在に伝わっているくらいだから、当時は相当な大スキャンダルだったんだろうな』
(つまり、ハナオは)
駆け落ちされた側に残された人間。
『なんでも、日本美術史一の純愛だとかって』
『当時、彼女は、とても有名だった……何て言うのかしら、好奇の的、という表現がふさわしいかしらね』
戦前は大スキャンダル。戦後は純愛の美談。その裏側で傷を負った人間がいないなんて、どうして言えるだろう。
(あぁ、そうか、俺は)
当事者に、その傷をえぐるような説明をしていたのか。人妻だった女性に子どもがいたかもしれないなんて、どうして考えなかったのだろう。
「……ハナオ、その、無理に話すな」
俺はためらいながらもストップをかけた。今また傷を開く必要なんかない。
ハナオは、チラと俺を見上げて、息をついたかと思うと、くっくっと肩を震わせはじめた。徐々に堪えきれていない笑い声を大きくし、やがて両腕で体を支えて爆笑しだす。
「あはははっ、ミツの腰抜け。はは、あぁ、謝らないよ。リツコの孫娘なら、きっと臆することなく「どういうこと?」って言っただろうね。いつの世も女性は強い。いや、くよくよと考え込むのは男の特権なのかな」
ハナオは、あー笑い死にしそう、と必死に笑いを納めるべく格闘している。
「だから、昔話だって言ったじゃない。まぁでも愉快な話じゃないか。ここにも女神展の図録はあったよね、そこで巨匠・青柳緑樹氏が事情を説明してくれている。読めばだいたいわかることだから、……辛いなら、やめようか」
「辛い……俺がか?」
「変な罪悪感とか気遣いとか、いっぱい抱えて。それに、こういう昔話は、何も知らないで聞かされる側の方が辛いものじゃない?」
ハナオはひょいと肩をすくめて、また窓の外に目を向けた。しとしとと降り続ける雨音が店内の静寂を乱している。
「……いや。ハナオから聞きたい。続けてくれ」
もしこれが、俺がせがんで話させていることなら、ここで止めておくべきだ。けれどこれはハナオの申し出で始まった話だ。ならば本人の口から聞くべきだろう。
(罪悪感やら気遣いやらも必要ないな)
今まで隠していたのはハナオ自身だ。隠していたくせに傷ついたの何だのと言うほど、彼の器は小さくない。
ハナオが再び顔を向け、底意地の悪そうな笑みを見せた。
「いいの?」
「見くびるな」
「ふふ、じゃあ、遠慮なく」
この〝昔話〟をハナオから聞いてしばらく経ってから、俺は祖父の本棚にあった女神展唯一の図録を読んだ。そこには、青柳緑樹が人伝に聞いた〝稀子の事情〟が記されていた。
図録の中で稀子は、その生涯において三人の男を愛した、と語っている。
「でもまぁ、よくある話だよ。――稀子は華族の娘に生まれたんだ。高貴な家柄と誰もが振り返るほどの楚々とした美しさ、そして身分にふさわしく高い教養。まさに才色兼備だった彼女は、成長するにつれて、ちょっとした噂の人物になっていった。彼女を妻にするのは誰か、そんな幸運に浴するのはどんな男なのかってね」
ま、このあたりは伝聞なんだけど、とハナオはつけ足す。尾ひれ背びれはついていても、おおよそはそのとおりなのだろう。そうでなければ、駆け落ちぐらいで何十年も話が伝わるわけがない。
「ところで、華族といっても稀子の家の場合、実のところ名ばかりだった。そして僕の父は、身一つで会社を興した実業家だったんだ。かなりのやり手でね、他の追随を許さないだけの力と勢いがあった。――ただそれでも、彼一人では成り上がりの、どこの馬の骨ともしれない成金でしかない。財力を得た父が次に欲したのは、誰にも侮られることのない立場だった」
かくして利害は一致し、立派な政略結婚は出来上がる。周りから見ても、それは表向き文句のつけようもない話だった。納得のいかない人物がいるとすれば、それは家の道具にされた稀子当人だけ。それでも時代が時代だったから、娘が何を言おうとも、通るはずもない。
「稀子にとっても悪い話じゃないはずだった。夫の財力の下、実家は安泰、夫は見下されることなくますます栄え、彼女自身も何不自由ない暮らしを手に入れられるわけだから。それに、ある程度覚悟はしていたんじゃないかと思う。彼女は自分の価値も役割もよくわかっていた」
ところが嫁ぐ寸前になって彼女は恋をしてしまう。その相手こそが、まだ無名の駆け出し画家だった青柳緑樹だ。
生家と好きな男。相入れない二つを前に、稀子は親不幸ではなかった。だが、泣き寝入りするほど箱入りでもなかった。自分自身の価値と役割を熟知していた彼女は――二つとも手に入れる道を選んだ。
図録の中で、稀子は語る。
『一人目には子を与え、二人目には愛を与えた』
稀子は夫に交換条件を持ちかけた。自分は嫁ぎ、必ず後継者となる息子を産む。だから後継ぎが生まれたら、駆け落ちをさせてほしい、と。
(……元夫は、本気で稀子に惚れていたのかもしれない)
俺は、青柳緑樹と稀子が駆け落ちできた理由とされる説の一つを思い返した。もしそうなら、稀子はそれすらも利用したのだろうか。彼女の無茶苦茶な条件を、結局夫は呑んだ。
「そして実業家の元へ嫁いだ稀子は本当に後継ぎとなる息子を産んだ。それが僕だよ。――七年だった。七年経って、稀子は婚家を出て、待っていた青柳緑樹と駆け落ちした。それは、かねてより噂になっていた華族の娘で大実業家の妻である稀子が起こしたスキャンダルとして、あっという間に広まった」
その時はきっと、無名の画家よりも稀子の名の方が、ずっと表立って世に流れたのだろう。
ここまでは伝聞、とハナオは肩をすくめた。噂だったり、わざわざ聞かされたり、あるいは後に出版される図録で知ったことらしい。
「……どうして、稀子が七年も留まり続けたのかは、わからない。でもおかげで僕は五歳まで母親のそばにいられた。幼すぎて、もう記憶なんてほとんどないけどね。でも稀子は僕から見ても美しかったし、優しい母だった。
別れの日のことは覚えている。僕は取りすがって泣きじゃくった。彼女が何をしようとしていたのかなんて理解していなかったけれど、自分の元からいなくなるのだということは察したんだろう。稀子は僕を抱きしめて宥めた後に、僕の目を見て言った。
『あなたはお父様の子なのだから、そのことに誇りを持って、この家の後継ぎにふさわしい行動をとりなさい』
父は立派な人だったし尊敬していた。そしてこの言葉に従えば、たとえ離れていても母は喜んでくれるのだと思った。その日以来、僕は泣かなくなった。後継ぎとしてふさわしい人間になろうとした。そしていつか大人になったら、母を迎えに行こうと誓った。この日稀子がしたことを知った後も、それは変わらなかったし――いつしか、この言葉が僕のアイデンティティになっていったんだ」
何故、駆け落ちまでに七年の空白があったのか。その理由は、きっと図録の中に垣間見える。稀子は続ける。
『三人目には、何も与えなかった。でも彼は私に全てを与えてくれた』
この言葉を青柳緑樹に伝えた人は、そう聞いた時、三人目が誰かわからなかった。だから『誰のことですか?』と尋ねたそうだ。稀子は嬉しそうに笑って答えた。
『たった一人の息子』
一人目――夫は、彼女の家柄を求め、二人目――恋人である画家の青柳緑樹は彼女の美を求めた。けれど三人目は稀子を、自分を庇護する人間として、そのすべてを求め愛した。さまざまなものを持ち、自分の価値と役割を知りつくしていた稀子にとって、それはただの個人として、付随するものではなく自分自身を求められた体験だったのだろう。それはきっと、喜びであり誤算。
それでも、妻と女と母を経験した稀子は、女であることを選んだ。
「リツコが言っていたとおり、僕の顔は稀子にそっくりでね。まるで生き写しだよ。……稀子が妻として父のそばにいれば、何の問題もなかったんだけど……。しばらくして父は二人目の妻を迎えた。いつまでも逃げられたままでは外聞が悪いからね。僕と継母との関係はあまり上手くいかなかった。仕方ないよね、彼女は後妻として僕の異母弟を出産したけど、その時すでに長男がいて、しかもその顔は先妻にそっくり。あげく先妻は当世一の美女とうたわれていた噂の人物だったんだから」
継母からすればとんだ悪夢だよ、とハナオは苦笑する。
「父は、どんどん大きくなる事業の方が忙しかったのか、ほとんど家にいなくて、あまり家庭を顧みなかった。時折、社交の場に同行することもあったけど、この顔のせいで必ず稀子の話題に晒されたね。――いや、稀子のことで言えば、大人の世界よりも子ども同士の方がひどかったかな。……僕は、両親の優れたところを受け継いだんだろう、幸いにして頭もよかったと思う。だから余計に、周りの人間がくだらなくて、毎日がつまらなかった。だからといって、華族の後ろ盾を持つ大事業主である父の後継ぎにふさわしくない行動なんてとれない。あの時形成されたアイデンティティは崩れてなんかいなくて、ますます強固になった。あの言葉だけが、辛うじて僕を支えていたんだ」
サァサァと雨音が〈喫珈琲カドー〉の店内に響く。ハナオは、くん、と雨の匂いを嗅いだようだ。
「……こんな日のコーヒーも、乙なものなんだけどね」
「悪かったな、客の少ない店で」
俺はむくれて言い返した。たしかに、営業中にこんな長話ができる環境というのも、経営する側としてはいかがなものかと思わなくもない。
ハナオは俺の反応に、あはは、と笑う。笑い事じゃない、お前も共犯だぞ。
「雨の日のコーヒー、晴れの日のコーヒー、暑い日、寒い日……、いろいろなコーヒーを習ったなぁ」
ハナオは指を折り、懐かしそうに微笑んだ。
「リツコさんの叔父さんがやっていたっていう喫茶店か?」
「一年くらい通ったかな。あの店はカドーと違って、味を変えないことを重視していたよ。――偶然だったんだ、あそこに入ったのは。小さな喫茶店でね。初めての日、話の流れでマスターは僕の名前を訊いてきた。その瞬間に思ったんだよ。この人は僕を知らない、って。今思えば、たぶん嬉しかったんだね。あの喫茶店では〝父の後継ぎ〟でいなくていいし、稀子の息子でもない。何者でもなく何も持っていなくても、マスターと姪のリツコは僕を温かく迎え入れてくれた。マスターはコーヒーについて教えてくれて、この店を継がないかとまで言ってくれた。どうしてそこまで気に入ってくれていたのか、その時はわからなかった。マスターの申し出が冗談なんかではなく、お人好しの域を超えていることにすら、気づいていなかったんだ」
結論から言えば、リツコさんの叔父はハナオの正体を知っていた。小さくとも喫茶店だ。噂に疎いはずがない。そしてそれ以上に、彼には稀子の息子を受け入れる理由があった。
図録には、青柳緑樹に稀子の言葉を伝えに来たのは、ある喫茶店のマスター、と記されている。――これが、リツコさんの叔父だったのだろう。
このマスターと稀子が出会ったことは、それこそ偶然だ。稀子が入店した時、マスターはすぐに彼女が何者か気づいた。けれど素知らぬフリを続けてコーヒーを提供した。その時の稀子は少し気弱になっていたのかもしれない。彼女は聡い女性だ。自分がどんな噂になり、どんな好奇の目に晒されているかを理解していたはずだ。自身の決めたことを他人に軽々しく話すような人間ではなかっただろう。
稀子の言葉を聞いたマスターは言った。『では、もしも三人目の男がこの喫茶店に来て、ここを気に入ったなら、この店を贈りましょう』と。
稀子は驚いた。何故、見ず知らずの人間がそんなことを言い出すのか。そんな犠牲を払おうとするのか。
マスターはいくつか理由を並べる。自分は独り身であり子がいないこと。今言ったことの可能性は極めて低いこと。そして冗談めかしてつけ加える――あなたに惚れたのかもしれませんね。
『あなたは何故この店に入ったのですか?』
マスターは稀子に尋ねた。稀子は少しだけ手元のカップを見つめ、ガラス張りの扉を飾る店名に目を向けた。
『……息子と、同じ名前だったの』
『立派な理由です。――賭けてみませんか? あなたの息子がこの喫茶店を訪れて気に入るかどうか。そんな希有な運の持ち主かどうか』
茶目っけたっぷりに提案したマスターの言葉に、稀子は軽く目を瞠ってから、潤んだように艶めいた目をうっとりと細めた。
『なんて、素敵。……あなたが、四人目だったらよかったのに。マスター』
図録には、この些細な賭けがどうなったかは明かされていない。このエピソードがあったせいだろうか、喫茶店の名前も記されていない。けれどこの賭けは、マスターの言うとおりになった。
「……母のことを、訊かないんだね。気にならない?」
先日、リツコさんが口にした、ハナオにそっくりだという母親の話。思いがけなく垣間見えたハナオの過去。気にならないと言えば嘘だ。少し前の俺なら、自分の好奇心を満たそうとして問いつめていただろう。けれど。
「そりゃ気にはなるけど……、訊かれたくないだろ?」
ハナオは昔話だと言った。それにこれは、訊けば「えー、忘れたよぉ」と軽く受け流される類の話だと思っていた。
「聞いてほしいって言ったら、聞いてくれる?」
俺はハナオを見た。無表情ではないはずのその表情からは、感情を読み取れない。まるで凪いだ海か宇宙の果てのような深く静かな瞳が、俺の反応を眺めている。
「ちょっとね、僕も昔話をしてみたくなったんだ」
少し照れたような声が、言い訳がましい言葉を追加してきた。
〈喫珈琲カドー〉は今日も営業しているが、雨だからかいつものことなのか、店内に客はいない。俺はカウンターを回ると、席を一つ引き出して座る。客が来たら立てばいい。ハナオの口元が緩く笑みを作った。
「ミツ、以前ショッピングモールで女神展のポスターを見たの、覚えている?」
「女神展? あぁ年末の」
まだハナオと出会って間もなかった頃だ。初めて〈コーヒービーンズ イコール〉へ行った帰りに立ち寄った、地元出身の画家・青柳緑樹の絵画展。彼の恋人をモデルにした女神シリーズの恒例展示で、あの時のタイトルは……たしか『ギフト』だ。
もう、ずいぶんと前のことのように思える。まだ何も知らなかった。コーヒーのこともハナオのことも。
ハナオは口元に笑みを浮かべたまま、瞼を伏せる。
「母は――稀子は、その〝女神〟のモデルになった女性だよ」
俺はおもわず腰を浮かせていた。
「女神シリーズの、モデル……?」
「リツコが見たという写真は、おそらく図録に載ったものだろうね。彼女の写真を見て〝青柳緑樹〟と〝稀子〟という名前を聞けば……たしかに、つながってしまうはずだよ。僕の事情なんて簡単に」
すとんと俺は改めて椅子に座る。脳裏によみがえるのは、あの時、シリーズものなのかと訊いたハナオにした説明。それは誰もが知っている有名なエピソード。
『同一人物を描いてるんだ。だから女神シリーズって呼ばれているらしい。モデルは彼の恋人だった女性。当時――つまり戦前の女性としてはかなり高い知識教養と、類を見ないほどの美貌の持ち主だったらしいんだけど、これがかなりの曰くつきで。良家の出身で人妻だったのに、まだ無名で貧乏画家だった青柳と駆け落ちしたそうだ。結局――何ていったか忘れたけど――彼女の名前まで現在に伝わっているくらいだから、当時は相当な大スキャンダルだったんだろうな』
(つまり、ハナオは)
駆け落ちされた側に残された人間。
『なんでも、日本美術史一の純愛だとかって』
『当時、彼女は、とても有名だった……何て言うのかしら、好奇の的、という表現がふさわしいかしらね』
戦前は大スキャンダル。戦後は純愛の美談。その裏側で傷を負った人間がいないなんて、どうして言えるだろう。
(あぁ、そうか、俺は)
当事者に、その傷をえぐるような説明をしていたのか。人妻だった女性に子どもがいたかもしれないなんて、どうして考えなかったのだろう。
「……ハナオ、その、無理に話すな」
俺はためらいながらもストップをかけた。今また傷を開く必要なんかない。
ハナオは、チラと俺を見上げて、息をついたかと思うと、くっくっと肩を震わせはじめた。徐々に堪えきれていない笑い声を大きくし、やがて両腕で体を支えて爆笑しだす。
「あはははっ、ミツの腰抜け。はは、あぁ、謝らないよ。リツコの孫娘なら、きっと臆することなく「どういうこと?」って言っただろうね。いつの世も女性は強い。いや、くよくよと考え込むのは男の特権なのかな」
ハナオは、あー笑い死にしそう、と必死に笑いを納めるべく格闘している。
「だから、昔話だって言ったじゃない。まぁでも愉快な話じゃないか。ここにも女神展の図録はあったよね、そこで巨匠・青柳緑樹氏が事情を説明してくれている。読めばだいたいわかることだから、……辛いなら、やめようか」
「辛い……俺がか?」
「変な罪悪感とか気遣いとか、いっぱい抱えて。それに、こういう昔話は、何も知らないで聞かされる側の方が辛いものじゃない?」
ハナオはひょいと肩をすくめて、また窓の外に目を向けた。しとしとと降り続ける雨音が店内の静寂を乱している。
「……いや。ハナオから聞きたい。続けてくれ」
もしこれが、俺がせがんで話させていることなら、ここで止めておくべきだ。けれどこれはハナオの申し出で始まった話だ。ならば本人の口から聞くべきだろう。
(罪悪感やら気遣いやらも必要ないな)
今まで隠していたのはハナオ自身だ。隠していたくせに傷ついたの何だのと言うほど、彼の器は小さくない。
ハナオが再び顔を向け、底意地の悪そうな笑みを見せた。
「いいの?」
「見くびるな」
「ふふ、じゃあ、遠慮なく」
この〝昔話〟をハナオから聞いてしばらく経ってから、俺は祖父の本棚にあった女神展唯一の図録を読んだ。そこには、青柳緑樹が人伝に聞いた〝稀子の事情〟が記されていた。
図録の中で稀子は、その生涯において三人の男を愛した、と語っている。
「でもまぁ、よくある話だよ。――稀子は華族の娘に生まれたんだ。高貴な家柄と誰もが振り返るほどの楚々とした美しさ、そして身分にふさわしく高い教養。まさに才色兼備だった彼女は、成長するにつれて、ちょっとした噂の人物になっていった。彼女を妻にするのは誰か、そんな幸運に浴するのはどんな男なのかってね」
ま、このあたりは伝聞なんだけど、とハナオはつけ足す。尾ひれ背びれはついていても、おおよそはそのとおりなのだろう。そうでなければ、駆け落ちぐらいで何十年も話が伝わるわけがない。
「ところで、華族といっても稀子の家の場合、実のところ名ばかりだった。そして僕の父は、身一つで会社を興した実業家だったんだ。かなりのやり手でね、他の追随を許さないだけの力と勢いがあった。――ただそれでも、彼一人では成り上がりの、どこの馬の骨ともしれない成金でしかない。財力を得た父が次に欲したのは、誰にも侮られることのない立場だった」
かくして利害は一致し、立派な政略結婚は出来上がる。周りから見ても、それは表向き文句のつけようもない話だった。納得のいかない人物がいるとすれば、それは家の道具にされた稀子当人だけ。それでも時代が時代だったから、娘が何を言おうとも、通るはずもない。
「稀子にとっても悪い話じゃないはずだった。夫の財力の下、実家は安泰、夫は見下されることなくますます栄え、彼女自身も何不自由ない暮らしを手に入れられるわけだから。それに、ある程度覚悟はしていたんじゃないかと思う。彼女は自分の価値も役割もよくわかっていた」
ところが嫁ぐ寸前になって彼女は恋をしてしまう。その相手こそが、まだ無名の駆け出し画家だった青柳緑樹だ。
生家と好きな男。相入れない二つを前に、稀子は親不幸ではなかった。だが、泣き寝入りするほど箱入りでもなかった。自分自身の価値と役割を熟知していた彼女は――二つとも手に入れる道を選んだ。
図録の中で、稀子は語る。
『一人目には子を与え、二人目には愛を与えた』
稀子は夫に交換条件を持ちかけた。自分は嫁ぎ、必ず後継者となる息子を産む。だから後継ぎが生まれたら、駆け落ちをさせてほしい、と。
(……元夫は、本気で稀子に惚れていたのかもしれない)
俺は、青柳緑樹と稀子が駆け落ちできた理由とされる説の一つを思い返した。もしそうなら、稀子はそれすらも利用したのだろうか。彼女の無茶苦茶な条件を、結局夫は呑んだ。
「そして実業家の元へ嫁いだ稀子は本当に後継ぎとなる息子を産んだ。それが僕だよ。――七年だった。七年経って、稀子は婚家を出て、待っていた青柳緑樹と駆け落ちした。それは、かねてより噂になっていた華族の娘で大実業家の妻である稀子が起こしたスキャンダルとして、あっという間に広まった」
その時はきっと、無名の画家よりも稀子の名の方が、ずっと表立って世に流れたのだろう。
ここまでは伝聞、とハナオは肩をすくめた。噂だったり、わざわざ聞かされたり、あるいは後に出版される図録で知ったことらしい。
「……どうして、稀子が七年も留まり続けたのかは、わからない。でもおかげで僕は五歳まで母親のそばにいられた。幼すぎて、もう記憶なんてほとんどないけどね。でも稀子は僕から見ても美しかったし、優しい母だった。
別れの日のことは覚えている。僕は取りすがって泣きじゃくった。彼女が何をしようとしていたのかなんて理解していなかったけれど、自分の元からいなくなるのだということは察したんだろう。稀子は僕を抱きしめて宥めた後に、僕の目を見て言った。
『あなたはお父様の子なのだから、そのことに誇りを持って、この家の後継ぎにふさわしい行動をとりなさい』
父は立派な人だったし尊敬していた。そしてこの言葉に従えば、たとえ離れていても母は喜んでくれるのだと思った。その日以来、僕は泣かなくなった。後継ぎとしてふさわしい人間になろうとした。そしていつか大人になったら、母を迎えに行こうと誓った。この日稀子がしたことを知った後も、それは変わらなかったし――いつしか、この言葉が僕のアイデンティティになっていったんだ」
何故、駆け落ちまでに七年の空白があったのか。その理由は、きっと図録の中に垣間見える。稀子は続ける。
『三人目には、何も与えなかった。でも彼は私に全てを与えてくれた』
この言葉を青柳緑樹に伝えた人は、そう聞いた時、三人目が誰かわからなかった。だから『誰のことですか?』と尋ねたそうだ。稀子は嬉しそうに笑って答えた。
『たった一人の息子』
一人目――夫は、彼女の家柄を求め、二人目――恋人である画家の青柳緑樹は彼女の美を求めた。けれど三人目は稀子を、自分を庇護する人間として、そのすべてを求め愛した。さまざまなものを持ち、自分の価値と役割を知りつくしていた稀子にとって、それはただの個人として、付随するものではなく自分自身を求められた体験だったのだろう。それはきっと、喜びであり誤算。
それでも、妻と女と母を経験した稀子は、女であることを選んだ。
「リツコが言っていたとおり、僕の顔は稀子にそっくりでね。まるで生き写しだよ。……稀子が妻として父のそばにいれば、何の問題もなかったんだけど……。しばらくして父は二人目の妻を迎えた。いつまでも逃げられたままでは外聞が悪いからね。僕と継母との関係はあまり上手くいかなかった。仕方ないよね、彼女は後妻として僕の異母弟を出産したけど、その時すでに長男がいて、しかもその顔は先妻にそっくり。あげく先妻は当世一の美女とうたわれていた噂の人物だったんだから」
継母からすればとんだ悪夢だよ、とハナオは苦笑する。
「父は、どんどん大きくなる事業の方が忙しかったのか、ほとんど家にいなくて、あまり家庭を顧みなかった。時折、社交の場に同行することもあったけど、この顔のせいで必ず稀子の話題に晒されたね。――いや、稀子のことで言えば、大人の世界よりも子ども同士の方がひどかったかな。……僕は、両親の優れたところを受け継いだんだろう、幸いにして頭もよかったと思う。だから余計に、周りの人間がくだらなくて、毎日がつまらなかった。だからといって、華族の後ろ盾を持つ大事業主である父の後継ぎにふさわしくない行動なんてとれない。あの時形成されたアイデンティティは崩れてなんかいなくて、ますます強固になった。あの言葉だけが、辛うじて僕を支えていたんだ」
サァサァと雨音が〈喫珈琲カドー〉の店内に響く。ハナオは、くん、と雨の匂いを嗅いだようだ。
「……こんな日のコーヒーも、乙なものなんだけどね」
「悪かったな、客の少ない店で」
俺はむくれて言い返した。たしかに、営業中にこんな長話ができる環境というのも、経営する側としてはいかがなものかと思わなくもない。
ハナオは俺の反応に、あはは、と笑う。笑い事じゃない、お前も共犯だぞ。
「雨の日のコーヒー、晴れの日のコーヒー、暑い日、寒い日……、いろいろなコーヒーを習ったなぁ」
ハナオは指を折り、懐かしそうに微笑んだ。
「リツコさんの叔父さんがやっていたっていう喫茶店か?」
「一年くらい通ったかな。あの店はカドーと違って、味を変えないことを重視していたよ。――偶然だったんだ、あそこに入ったのは。小さな喫茶店でね。初めての日、話の流れでマスターは僕の名前を訊いてきた。その瞬間に思ったんだよ。この人は僕を知らない、って。今思えば、たぶん嬉しかったんだね。あの喫茶店では〝父の後継ぎ〟でいなくていいし、稀子の息子でもない。何者でもなく何も持っていなくても、マスターと姪のリツコは僕を温かく迎え入れてくれた。マスターはコーヒーについて教えてくれて、この店を継がないかとまで言ってくれた。どうしてそこまで気に入ってくれていたのか、その時はわからなかった。マスターの申し出が冗談なんかではなく、お人好しの域を超えていることにすら、気づいていなかったんだ」
結論から言えば、リツコさんの叔父はハナオの正体を知っていた。小さくとも喫茶店だ。噂に疎いはずがない。そしてそれ以上に、彼には稀子の息子を受け入れる理由があった。
図録には、青柳緑樹に稀子の言葉を伝えに来たのは、ある喫茶店のマスター、と記されている。――これが、リツコさんの叔父だったのだろう。
このマスターと稀子が出会ったことは、それこそ偶然だ。稀子が入店した時、マスターはすぐに彼女が何者か気づいた。けれど素知らぬフリを続けてコーヒーを提供した。その時の稀子は少し気弱になっていたのかもしれない。彼女は聡い女性だ。自分がどんな噂になり、どんな好奇の目に晒されているかを理解していたはずだ。自身の決めたことを他人に軽々しく話すような人間ではなかっただろう。
稀子の言葉を聞いたマスターは言った。『では、もしも三人目の男がこの喫茶店に来て、ここを気に入ったなら、この店を贈りましょう』と。
稀子は驚いた。何故、見ず知らずの人間がそんなことを言い出すのか。そんな犠牲を払おうとするのか。
マスターはいくつか理由を並べる。自分は独り身であり子がいないこと。今言ったことの可能性は極めて低いこと。そして冗談めかしてつけ加える――あなたに惚れたのかもしれませんね。
『あなたは何故この店に入ったのですか?』
マスターは稀子に尋ねた。稀子は少しだけ手元のカップを見つめ、ガラス張りの扉を飾る店名に目を向けた。
『……息子と、同じ名前だったの』
『立派な理由です。――賭けてみませんか? あなたの息子がこの喫茶店を訪れて気に入るかどうか。そんな希有な運の持ち主かどうか』
茶目っけたっぷりに提案したマスターの言葉に、稀子は軽く目を瞠ってから、潤んだように艶めいた目をうっとりと細めた。
『なんて、素敵。……あなたが、四人目だったらよかったのに。マスター』
図録には、この些細な賭けがどうなったかは明かされていない。このエピソードがあったせいだろうか、喫茶店の名前も記されていない。けれどこの賭けは、マスターの言うとおりになった。
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寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。
スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。
※フィクションです。
※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。
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