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8 コーヒーと小さな一歩(3)
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その日は、ちょっと珍しいことが続いた。
二月も半ばにさしかかり寒い日が続いていたが、ハナオ曰く「春の匂いが混ざっている」らしかった。夕方になって来客が途切れた〈喫珈琲カドー〉には静寂が戻り、遠くでチャイムが聞こえていた。
「あれって小学校かな?」
話しかけるともなく呟いた俺の言葉に、小上がりの畳に座り込み、長細い窓の一つから外を眺めていたハナオが振り返った。
「……中学校だよ。ミツ、まだ知らなかったの?」
表情は逆光になって見づらかったが、確実にあきれ果てているのはわかった。
「ハナオは本当に物知りだよな」
「そこさ、感心されても嬉しくないよ」
ハナオは、よっ、とはずみをつけて立ち上がると縁に近づき、いつものように両足で跳び下りる。
「あ」
着地と同時につんのめって、一歩前へ足を踏み出した。
「……ハナオ? 今、つまずいたよな?」
大丈夫か、と声をかける。ハナオが着地でヘマをするなんて珍しい、というか初めて見た気がする。当の本人は、数秒ほど目を丸くして固まった後、おもむろに背筋をのばして両腕を上げた。まるで体操選手の着地ポーズのように。
「九・五」
キリッと真剣な面持ち。まさに体操競技気どりだ。それにしてもビミョーな点数だな。
「八・五だろ」
「え!? なんで、だって着地で一歩踏み出しちゃっただけだよっ?」
ハナオが食ってかかってきた。若干青ざめて、まるでその一点に金メダルが懸かっているかのような剣幕だ。
「いつもは完璧だろ? 勝負の世界は厳しいんだ」
「うぅ、もう一回やる」
「……もういいって」
くるりと背を向けて、本当にもう一度小上がりへ跳び上がりそうなのを、カウンター越しに止める。振り返ったハナオは恨めしげな半眼だ。
(しつけーぞ、おい)
たかだか三十センチ程度の段差で優勝もへったくれもあるか。ハナオは意外と負けず嫌いである。
「ミツ、……珍しいお客さんだよ」
気を取り直したハナオが、扉の方を向いて言った。
(珍しい? 新規客か?)
それにしたって、普段は〝珍しい〟なんて言わない。妙な言い回しに疑問を感じはしたが、その理由はすぐにわかるだろうと思い直す。いつも、同じくらいの間を置いて扉が開く。しかし待てども扉は開かなかった。しびれを切らしてハナオの方を向く。
「表にいるよ。出迎えてあげたら?」
俺の疑いの視線を、ハナオは肩をすくめてかわす。出迎えてあげなければいけないような相手なのだろうか。喫茶店というのは、入るか入らないかの判断を客ができる場所ではないのか? 俺は釈然としないまま、扉を開けるためにカウンターを迂回しようとした。
結局、その途中で扉は開き、「……あのぉっ」と緊張を含んだ高く幼い声が、いつもより低い位置からした。
「いらっしゃいませ、小さなお嬢さん」
ハナオが、半分扉に隠れたまま顔を覗かせている客のそばで、にっこりと笑顔の会釈をする。
(なるほど、たしかに出迎えてあげなきゃいけない〝珍しい〟客だな)
俺はゆっくりとカウンターから出ると、充分な距離をとったまま、穏やかに見える笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませ。〈喫珈琲カドー〉へ、ようこそ」
視線の先には、ハナオと同じぐらいの年頃の少女。背格好もハナオとさほど変わらない。まだあどけない顔がこわばっている。紺色のブレザーとスカート――制服を着ているところを見ると、先程チャイムが鳴っていた中学校の生徒だろうか。
「きっこーひー? あのっ、ここは喫茶店、ですよね?」
「えぇ、そうですよ」
「営業してますか? ……入ってもいいですか?」
「もちろんです」
俺はその場にいて、手で、どうぞ、と指し示す。この扉を開けるまでに、少女は相当逡巡し、かなりの勇気を奮い立たせたのだとわかる。半分開いた扉を開けてやりたいのはやまやまだが、不用意に近づけば怖がらせてしまうだろう。
少女はおずおずと店内に身をすべり込ませると、扉を閉めて、改めて周囲を見回した。
「カ、カウンターじゃない席、ありますか?」
カウンター席しか目に入らなかったのだろう。少しがっかりしたような表情の後に訊いてきた。胸元でにぎりしめた両手が震えている。
「テーブル席がありますよ。畳敷きなので靴を脱がなければいけませんが、よろしいですか?」
俺は数歩後ずさって、少女のために通路を開けてやる。彼女が頷いたのを見て、もう一度、どうぞ、と言ってからカウンター奥へ戻る。あまりジロジロ見られても、座りにくいだろう。
「ミツ、いいの? あの子、ブラックコーヒー飲めるかな?」
ハナオの指摘に、あっと思った。うっかり招き入れてしまったが、〈喫珈琲カドー〉はブレンドコーヒーのみをメニューとする店。しかも一応ミルクと砂糖は出せるものの、基本はブラック。子どもにふさわしい店とは言い難い。今まで、常連客はもちろん新規客にも子どもはいなかった。
〈喫珈琲カドー〉は、一般住宅と変わらない外観と小さな看板しか下がっていない扉が、ある程度客を選ぶ。小さな看板に目をとめ、その看板が本当に意味をなしているのかを賭けることができるだけの勇気がどうしても必要になるからだ。大人ですら、初めての客は緊張しながら入って来る。まだ幼い少女に、どれだけの勇気を強要しただろう。しかし、こちらが提供するのはあくまでも嗜好品。逆に言えば、その勇気はあえて出さなくてもいいものでもある。そんなものをわざわざ振りしぼってまで入ってきた理由が、彼女の方にもあるはずなのだ。
「……お客さま」
俺はテーブルにお冷の入ったグラスを置きながら、声をかけた。少女が「はいッ」とこちらを向く。座布団にちょこんと正座をし、ピン、と背筋をのばしている。そんなんじゃ、くつろげないぞ。
「当店のメニューはブレンドコーヒーのみとなっていますが、よろしいでしょうか?」
「えっ!?」
少女は俺を見上げたまま目を見開いた。顔が真っ赤になり、やがて泣きそうに歪んだ後、うつむいてしまった。
「ブラックのコーヒーは、飲めません」
ひざの上に置かれた拳が、ギュッと縮こまり、顔を隠してしまった髪の隙間から小さな声がもれた。
「きみみたいな子どもが、場違いなところに入っちゃったねー」
横に立っていたハナオが、くすくすと笑いながら少女を覗き込む。
(そんな言い方……!)
俺が睨むと、ハナオは「こわーい」とカウンターの方へ走っていく。
まったく。聞こえていないとはいえ、なんてひどいことを。そう思いかけて、気づいた。そう言ったのは俺だ。直接的にではなく、そんなつもりもなかった。でも彼女はそう受けとったのだろう。
「どうして、ここへ?」
俺は、小さく丸められた少女の背中に尋ねる。
「…………ここしか、静かな場所がない、から」
少し間があって、やはり小声が答える。やっぱり何か理由があったのか。直後、少女がもう一度勢いよく顔を上げた。
「飲みますッ、ブラックコーヒーをくだ……」
「――なぁ」
俺はその場にしゃがんで、彼女と視線を合わせた。
「ミルクコーヒーなら、飲めるか?」
穏やかな口調は崩さないまま、客向けの物言いをやめた。そんなものは、きっと緊張をあおるだけだ。
「うちは、ジュースとか置いてないんだ。けど、ミルク入りの甘いやつなら作れるぞ」
どうだ? と微笑んでやる。少女は、きょとんと目を丸くして俺を見ていたが、その顔にやっとぎこちない笑みが浮かんだ。飲めるらしい。
「よし。じゃあ、足崩して待ってな。準備してくるから」
俺はカウンターへ回ると、ハナオに目で訊いた。
できるか。
「もちろん。――この間試飲したマンデリンも使おうか」
ハナオは他にも深煎りの豆を選ぶ。量もいつもより多い。
「ミルクを足すから、いつもよりコーヒーも濃厚にしないとね。ミルクの甘みとコクの中に、ちゃんとコーヒーの苦みも残したいんだ」
喫珈琲だからね、と笑う。鍋で牛乳を温めている間に、コーヒーを抽出する。こちらもいつもよりゆっくり注いで、蒸らしの時間も長い。
その間に、少女は鞄の中から何やら取り出してテーブルに置き始めた。ペンケースと紙? 宿題でもするのだろうか。
「ミツ、茶漉しある?」
コーヒーをカップに注いでいると、ハナオが棚を見ながら訊いてきた。
(……茶漉し?)
あるだろうか? そう思いながらいくつか扉を開いてみると、奥の方にあった急須の中に発見した。これでいいか、と見せると、「オッケー」と返事が来る。
「牛乳、もういいよ。沸騰する前に火から下ろして、漉しながらコーヒーに注いで。このひと手間でミルクがなめらかになるんだ」
初めて淹れたミルクコーヒーは、淡い茶色とほわりと昇る湯気が優しい。テーブル席へカップを運ぶ。少女は小さく礼を言って手に取ると、そっと口をつけた。
「いい匂い。……おいしい」
テーブルをはさんで少女の向かいに跳びのったハナオが「よかったね」と微笑みかける。
こんな場面で、祖父がどうしていたかは知らない。もしかしたら〈喫珈琲カドー〉のやり方からは外れていたかもしれない。けれど客が喜んでくれるのなら、俺のオリジナルメニューが一つぐらいあってもいいだろう。
邪魔にならないようにカウンター奥に戻って、ドリッパーやサーバー、鍋を洗いながら思う。
(カドー初の裏メニューだな。……たぶん)
実はすでにあったりするのかどうか、今度見舞いに行ったら祖父に訊いてみよう。
しばらくして、少女の様子をそばで見ていたハナオがカウンターへ戻ってきた。
「手紙を書きたかったようだね、遠くの友達に。便箋の住所が見えたんだけど、あの子、団地住まいみたい。たぶん兄弟か姉妹がいるのかな。だから静かなところを探していたんだ。友達は男の子かな」
この透明人間は! 個人情報の覗き見から下世話な野次馬までやってのけやがった。でも、疑問はとけた。俺一人では謎のままだっただろう。ハナオにしかできない芸当だ。もちろん、過ごし方なんて客の自由なのだが。
(ミルクコーヒーを出してよかったな)
少しでも役に立てたなら本望だ。
(……けど今時、中学生でもメールとかSNSとか使うものじゃないのか?)
わざわざ手書きの手紙を郵送で出すなんて、珍しい。
「手紙はいいね」
ハナオが独り言のように言い、俺は彼に目を向けた。
「紙の匂い、ペンのインクの匂い。どこで書いていたのか、どんな様子だったのか。何を考え、どれだけ相手のことを思っていたか。全部のせて届けられる。……気づいてないだろうけど、僕らが僕らのことを伝えているのは、文字だけじゃないんだよ」
俺は改めて少女を見る。集中し、考えながら書く彼女は、どこか幸せそうだ。あの幼い女の子が振りしぼった勇気が相手にも伝わるなら、ハナオの言うとおりだと思いたい。
「それがメールってやつとの違い。相手の心が全部のってこないから、おかしな誤解が起きるんだ。便利が便利だなんて、誰が決めたの?」
少女がペンを走らせる音とハナオの言葉が、〈喫珈琲カドー〉の静寂に溶けていった。
二月も半ばにさしかかり寒い日が続いていたが、ハナオ曰く「春の匂いが混ざっている」らしかった。夕方になって来客が途切れた〈喫珈琲カドー〉には静寂が戻り、遠くでチャイムが聞こえていた。
「あれって小学校かな?」
話しかけるともなく呟いた俺の言葉に、小上がりの畳に座り込み、長細い窓の一つから外を眺めていたハナオが振り返った。
「……中学校だよ。ミツ、まだ知らなかったの?」
表情は逆光になって見づらかったが、確実にあきれ果てているのはわかった。
「ハナオは本当に物知りだよな」
「そこさ、感心されても嬉しくないよ」
ハナオは、よっ、とはずみをつけて立ち上がると縁に近づき、いつものように両足で跳び下りる。
「あ」
着地と同時につんのめって、一歩前へ足を踏み出した。
「……ハナオ? 今、つまずいたよな?」
大丈夫か、と声をかける。ハナオが着地でヘマをするなんて珍しい、というか初めて見た気がする。当の本人は、数秒ほど目を丸くして固まった後、おもむろに背筋をのばして両腕を上げた。まるで体操選手の着地ポーズのように。
「九・五」
キリッと真剣な面持ち。まさに体操競技気どりだ。それにしてもビミョーな点数だな。
「八・五だろ」
「え!? なんで、だって着地で一歩踏み出しちゃっただけだよっ?」
ハナオが食ってかかってきた。若干青ざめて、まるでその一点に金メダルが懸かっているかのような剣幕だ。
「いつもは完璧だろ? 勝負の世界は厳しいんだ」
「うぅ、もう一回やる」
「……もういいって」
くるりと背を向けて、本当にもう一度小上がりへ跳び上がりそうなのを、カウンター越しに止める。振り返ったハナオは恨めしげな半眼だ。
(しつけーぞ、おい)
たかだか三十センチ程度の段差で優勝もへったくれもあるか。ハナオは意外と負けず嫌いである。
「ミツ、……珍しいお客さんだよ」
気を取り直したハナオが、扉の方を向いて言った。
(珍しい? 新規客か?)
それにしたって、普段は〝珍しい〟なんて言わない。妙な言い回しに疑問を感じはしたが、その理由はすぐにわかるだろうと思い直す。いつも、同じくらいの間を置いて扉が開く。しかし待てども扉は開かなかった。しびれを切らしてハナオの方を向く。
「表にいるよ。出迎えてあげたら?」
俺の疑いの視線を、ハナオは肩をすくめてかわす。出迎えてあげなければいけないような相手なのだろうか。喫茶店というのは、入るか入らないかの判断を客ができる場所ではないのか? 俺は釈然としないまま、扉を開けるためにカウンターを迂回しようとした。
結局、その途中で扉は開き、「……あのぉっ」と緊張を含んだ高く幼い声が、いつもより低い位置からした。
「いらっしゃいませ、小さなお嬢さん」
ハナオが、半分扉に隠れたまま顔を覗かせている客のそばで、にっこりと笑顔の会釈をする。
(なるほど、たしかに出迎えてあげなきゃいけない〝珍しい〟客だな)
俺はゆっくりとカウンターから出ると、充分な距離をとったまま、穏やかに見える笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませ。〈喫珈琲カドー〉へ、ようこそ」
視線の先には、ハナオと同じぐらいの年頃の少女。背格好もハナオとさほど変わらない。まだあどけない顔がこわばっている。紺色のブレザーとスカート――制服を着ているところを見ると、先程チャイムが鳴っていた中学校の生徒だろうか。
「きっこーひー? あのっ、ここは喫茶店、ですよね?」
「えぇ、そうですよ」
「営業してますか? ……入ってもいいですか?」
「もちろんです」
俺はその場にいて、手で、どうぞ、と指し示す。この扉を開けるまでに、少女は相当逡巡し、かなりの勇気を奮い立たせたのだとわかる。半分開いた扉を開けてやりたいのはやまやまだが、不用意に近づけば怖がらせてしまうだろう。
少女はおずおずと店内に身をすべり込ませると、扉を閉めて、改めて周囲を見回した。
「カ、カウンターじゃない席、ありますか?」
カウンター席しか目に入らなかったのだろう。少しがっかりしたような表情の後に訊いてきた。胸元でにぎりしめた両手が震えている。
「テーブル席がありますよ。畳敷きなので靴を脱がなければいけませんが、よろしいですか?」
俺は数歩後ずさって、少女のために通路を開けてやる。彼女が頷いたのを見て、もう一度、どうぞ、と言ってからカウンター奥へ戻る。あまりジロジロ見られても、座りにくいだろう。
「ミツ、いいの? あの子、ブラックコーヒー飲めるかな?」
ハナオの指摘に、あっと思った。うっかり招き入れてしまったが、〈喫珈琲カドー〉はブレンドコーヒーのみをメニューとする店。しかも一応ミルクと砂糖は出せるものの、基本はブラック。子どもにふさわしい店とは言い難い。今まで、常連客はもちろん新規客にも子どもはいなかった。
〈喫珈琲カドー〉は、一般住宅と変わらない外観と小さな看板しか下がっていない扉が、ある程度客を選ぶ。小さな看板に目をとめ、その看板が本当に意味をなしているのかを賭けることができるだけの勇気がどうしても必要になるからだ。大人ですら、初めての客は緊張しながら入って来る。まだ幼い少女に、どれだけの勇気を強要しただろう。しかし、こちらが提供するのはあくまでも嗜好品。逆に言えば、その勇気はあえて出さなくてもいいものでもある。そんなものをわざわざ振りしぼってまで入ってきた理由が、彼女の方にもあるはずなのだ。
「……お客さま」
俺はテーブルにお冷の入ったグラスを置きながら、声をかけた。少女が「はいッ」とこちらを向く。座布団にちょこんと正座をし、ピン、と背筋をのばしている。そんなんじゃ、くつろげないぞ。
「当店のメニューはブレンドコーヒーのみとなっていますが、よろしいでしょうか?」
「えっ!?」
少女は俺を見上げたまま目を見開いた。顔が真っ赤になり、やがて泣きそうに歪んだ後、うつむいてしまった。
「ブラックのコーヒーは、飲めません」
ひざの上に置かれた拳が、ギュッと縮こまり、顔を隠してしまった髪の隙間から小さな声がもれた。
「きみみたいな子どもが、場違いなところに入っちゃったねー」
横に立っていたハナオが、くすくすと笑いながら少女を覗き込む。
(そんな言い方……!)
俺が睨むと、ハナオは「こわーい」とカウンターの方へ走っていく。
まったく。聞こえていないとはいえ、なんてひどいことを。そう思いかけて、気づいた。そう言ったのは俺だ。直接的にではなく、そんなつもりもなかった。でも彼女はそう受けとったのだろう。
「どうして、ここへ?」
俺は、小さく丸められた少女の背中に尋ねる。
「…………ここしか、静かな場所がない、から」
少し間があって、やはり小声が答える。やっぱり何か理由があったのか。直後、少女がもう一度勢いよく顔を上げた。
「飲みますッ、ブラックコーヒーをくだ……」
「――なぁ」
俺はその場にしゃがんで、彼女と視線を合わせた。
「ミルクコーヒーなら、飲めるか?」
穏やかな口調は崩さないまま、客向けの物言いをやめた。そんなものは、きっと緊張をあおるだけだ。
「うちは、ジュースとか置いてないんだ。けど、ミルク入りの甘いやつなら作れるぞ」
どうだ? と微笑んでやる。少女は、きょとんと目を丸くして俺を見ていたが、その顔にやっとぎこちない笑みが浮かんだ。飲めるらしい。
「よし。じゃあ、足崩して待ってな。準備してくるから」
俺はカウンターへ回ると、ハナオに目で訊いた。
できるか。
「もちろん。――この間試飲したマンデリンも使おうか」
ハナオは他にも深煎りの豆を選ぶ。量もいつもより多い。
「ミルクを足すから、いつもよりコーヒーも濃厚にしないとね。ミルクの甘みとコクの中に、ちゃんとコーヒーの苦みも残したいんだ」
喫珈琲だからね、と笑う。鍋で牛乳を温めている間に、コーヒーを抽出する。こちらもいつもよりゆっくり注いで、蒸らしの時間も長い。
その間に、少女は鞄の中から何やら取り出してテーブルに置き始めた。ペンケースと紙? 宿題でもするのだろうか。
「ミツ、茶漉しある?」
コーヒーをカップに注いでいると、ハナオが棚を見ながら訊いてきた。
(……茶漉し?)
あるだろうか? そう思いながらいくつか扉を開いてみると、奥の方にあった急須の中に発見した。これでいいか、と見せると、「オッケー」と返事が来る。
「牛乳、もういいよ。沸騰する前に火から下ろして、漉しながらコーヒーに注いで。このひと手間でミルクがなめらかになるんだ」
初めて淹れたミルクコーヒーは、淡い茶色とほわりと昇る湯気が優しい。テーブル席へカップを運ぶ。少女は小さく礼を言って手に取ると、そっと口をつけた。
「いい匂い。……おいしい」
テーブルをはさんで少女の向かいに跳びのったハナオが「よかったね」と微笑みかける。
こんな場面で、祖父がどうしていたかは知らない。もしかしたら〈喫珈琲カドー〉のやり方からは外れていたかもしれない。けれど客が喜んでくれるのなら、俺のオリジナルメニューが一つぐらいあってもいいだろう。
邪魔にならないようにカウンター奥に戻って、ドリッパーやサーバー、鍋を洗いながら思う。
(カドー初の裏メニューだな。……たぶん)
実はすでにあったりするのかどうか、今度見舞いに行ったら祖父に訊いてみよう。
しばらくして、少女の様子をそばで見ていたハナオがカウンターへ戻ってきた。
「手紙を書きたかったようだね、遠くの友達に。便箋の住所が見えたんだけど、あの子、団地住まいみたい。たぶん兄弟か姉妹がいるのかな。だから静かなところを探していたんだ。友達は男の子かな」
この透明人間は! 個人情報の覗き見から下世話な野次馬までやってのけやがった。でも、疑問はとけた。俺一人では謎のままだっただろう。ハナオにしかできない芸当だ。もちろん、過ごし方なんて客の自由なのだが。
(ミルクコーヒーを出してよかったな)
少しでも役に立てたなら本望だ。
(……けど今時、中学生でもメールとかSNSとか使うものじゃないのか?)
わざわざ手書きの手紙を郵送で出すなんて、珍しい。
「手紙はいいね」
ハナオが独り言のように言い、俺は彼に目を向けた。
「紙の匂い、ペンのインクの匂い。どこで書いていたのか、どんな様子だったのか。何を考え、どれだけ相手のことを思っていたか。全部のせて届けられる。……気づいてないだろうけど、僕らが僕らのことを伝えているのは、文字だけじゃないんだよ」
俺は改めて少女を見る。集中し、考えながら書く彼女は、どこか幸せそうだ。あの幼い女の子が振りしぼった勇気が相手にも伝わるなら、ハナオの言うとおりだと思いたい。
「それがメールってやつとの違い。相手の心が全部のってこないから、おかしな誤解が起きるんだ。便利が便利だなんて、誰が決めたの?」
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