スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

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7 コーヒーと勝負の行方(1)

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 もちろん、それからの日々ががらりと変わったわけではない。
 あいかわらず毎日店を開け、気ままに来店する常連客とほとんど皆無なほど気まぐれに訪れる新規客にコーヒーを出す。そして大半を占める空き時間に、ハナオはコーヒーについて話したり質問に答えたりしてくれた。
 例えば、コーヒーの栽培や環境の話。
「コーヒー豆って、本当は豆じゃなくて種なんだよ。コーヒーノキっていうアカネ科の常緑樹の果実から採れるんだ。この実はサクランボに似ていて、コーヒーチェリーとも呼ばれている。コーヒーノキは熱帯や亜熱帯で育つ植物だ。現在、おもに栽培されて世界中で飲まれているのは、アラビカ種とロブスタ種の二つ。生産地域は赤道をはさんでだいたい北緯二十五度から南緯二十五度の間で、アフリカからアジア、中南米まで東西にぐるりと広がっているこのエリアを、コーヒーベルトっていうんだよ。
 コーヒーの栽培にはいろいろな条件がある。コーヒーだって農作物だからね。たとえば、雨季と乾季がはっきりしていること。乾季の終わりに降る雨が刺激になって、花を咲かせて実をつける成長期が始まるんだ。朝晩の寒暖差を好むから、丘陵地帯で育てられるんだけど、標高がだいたい低くても七、八百メートルから高いところでは二、三千メートルにもなる。機械なんて入れられないから、ほとんどの地域では収穫を手作業でしているんだよ」
 ほぼ電話注文で配達してもらうようになったものの、時には〈コーヒービーンズ イコール〉を訪ねることもあった。そんな時には、出荷までの流れや焙煎について聞く。
「収穫されるとすぐに処理が行われる。要するに、コーヒーチェリーの中の種――〝生豆〟を取り出して乾燥させるんだけど、水で果肉を取りのぞく場合もあれば、そのまま一度乾燥させる場合もある。これは地域の事情も大きいね。水をふんだんに使えない場所で水洗いなんて、ちょっと非現実的でしょ。
 処理方法にもそれぞれ利点があって、精製度は水洗式が高いけど、チェリーのまま乾燥させれば、それだけ果実の美味しさが種に移る時間があるわけだし。それでコクや香味も違ってくるところが、また面白いよね」
 これが生豆、とハナオは〈コーヒービーンズ イコール〉の店の奥の麻袋――ひと袋六十キログラムだそうだ――を指さす。ぎっしり詰まった青っぽく白いコーヒー豆は、普段〈喫珈琲カドー〉で見ている褐色の豆とは違う。やや小ぶりで固そうな印象だ。
 種田氏は、俺が「コーヒー豆を見たい」と言うと、快く「好きなだけ見ていけ」と言ってくれた。俺は不自然じゃないように一人で豆を見ているフリをしながら、あちこち歩き回るハナオについて行く。
「生豆になった後は、選別。石とか小枝みたいな異物や、虫に喰われていたり発酵しちゃっていたりする欠点豆を取りのぞいて、ふるいにかけてサイズを合わせる。カッピングっていう品質チェックも行われるよ。この全部をふまえて、格付けされるんだ。大事な商品だからね。そして、生産国から消費国へ出荷。これが大まかな流れ。麻袋の中身が国ごとなのか農園ごとなのか、商品のやり取りが業者となのか対農園なのかとか、細かい違いはあるけど、それはまた今度にしよう」
 周囲に人がいる時、ハナオへの質問は当然ながら後回しだ。ハナオは麻袋のそばから、配管のつながる円筒形の機械――焙煎機へと移動する。焙煎機は、丈は俺の目の高さほどまであり、上に大きな漏斗ろうとのようなもの、正面にやはり大きなザルのようなものがあり、側面に取っ手やいくつかのボタンもついている。
「そうやって届いた生豆を、ロースターは必要に応じて焙煎する。あ、ちなみにロースターは焙煎する人のこと。焙煎はコーヒー豆に火を通すことね。……加熱って言ってもいいかな。熱を加えて、水分を飛ばし、ゆっくりと細胞を膨らませる。その過程で成分が化学反応を起こすんだよ。一番わかりやすいところでは、色の変化だね。もちろん香りもそう。生豆では、青っぽい匂いだけで、コーヒー独特の甘くて香ばしい、あの華やかな香りはしないんだ。
 焙煎は、豆にゆっくりと熱を加えて、最終的にはだいたい二百度くらいまで温度を上げるんだけど、浅りから深煎りまで、焙煎度合にも段階があるんだよ。――いくつか見てみようか」
 次は店の中ほどへ移動。いくつも置かれた丸みのある木製の樽に、ハナオは顔を近づけてくんくんと鼻を鳴らす。
「んー、イコールはいい仕事をするね。さて、この樽の蓋を開けなきゃ説明できないわけだけど。ミツ、悪いけど、種田氏にいくつか豆を見せてくれるよう頼んでもらえる? そんなに多くないから」
 俺は種田氏に声をかけ、ハナオの指定した豆を伝えて見せてほしいと頼んだ。彼はいくつかの樽から少量ずつコーヒー豆を出して作業台に並べていく。豆はそれぞれ色の濃さが違った。これが焙煎度の違いってやつか? ハナオが出てきた順に説明を始める。
「この淡い茶色は浅煎り。焙煎の時間が短い――つまり煎りが浅いってこと。その次が中煎り。浅煎りよりも焙煎時間が長い。色も少し深くなるね。こっちが中深煎りと深煎り。中深煎りまで来ると、かなり深い茶色でつやも出てきだす。この艶は豆が持つ油分が外に出てきたもので、深煎りになると、ほら、ほぼ黒に近い上に、つやつやテカテカ。風味ももちろん変わってきて、浅いうちは酸味が強い――酸味って言っても〝すっぱい〟っていう感じじゃなくて、最近の言い方なら、フルーティさ、かな。果実みとか。産地や豆の種類にもよるんだけど、柑橘系やベリー系の果物の爽やかさに似た酸味がある。中煎りまでは酸味の方がしっかりと感じられるね。でも中煎りから中深煎りになってくると、今度は苦みが出てくる。いわゆるコーヒーらしい味わいだね。中深煎りから深煎りだと、しっかりとした苦みと、甘みも感じられるようになるよ」
 もっと細かく分けることもできるんだけど、今日はこんなところかな、とハナオは言って、作業台に並んだ豆にも鼻を近づける。目を閉じて香りを味わっているのだろうその表情は、夢見心地といった感じだ。
 その日、〈コーヒービーンズ イコール〉でのハナオからの解説はここまでだった。ただしこの後、俺は別の人物からさらに知識を得ることになる。
「……充嗣、焙煎について知りたいのか? だったらそんな風に豆を眺めていたってらちが明かんぞ。どれ、どこまで知ってるんだ?」
 コーヒー豆を並べてから、しばらくは俺が眺めるにまかせていた種田氏が、俺のかたわらに立っていた。さっきからどことなくソワソワしているなとは感じていたんだが、今では、ハナオほど露骨ではないものの、目が輝いているようにも見える。
(……コーヒーに通じてる人って、皆こうなのか?)
 たしかに、自分が専門としている分野を「知りたい」と言ってきた人間が一人で店内やらコーヒー豆やらを眺めていれば、解説の一つもしたくなるのだろう。かくしてこの後、種田氏によるもっと詳細な――あるいは濃厚な――コーヒー豆解説が始まる。これらを楽しげに「へぇー」とか「それは知っているよ」とか突っ込みながら聞いていたのは、もちろんハナオの方だ。パンク寸前の俺がハナオの言葉を〝翻訳〟することは一切なかったが。
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