22 / 42
6 祖父の目覚め(3)
しおりを挟む
〈喫珈琲カドー〉に戻った俺は、畳の上でくつろぐハナオの「おかえりー」という言葉を無視して、カウンターに両手をついた。渦巻く感情を抑えきれずに勢いあまってしまったのだろうか。予想外に大きく、バンッと音が店内に響く。
「ミツ?」
ハナオが気遣うように呼びかけてきたが、答えられない。両手の平から伝わる、冷たいカウンターの一枚板の感触。しっかりと押し当てているはずなのに、微かな震えが手の先から両腕へと広がる。――俺自身が震えているからだ。
「具合、よくなかったの? ミツ?」
そうじゃないんだ。言葉が出ない。そうじゃない、祖父のことじゃない。俺はこんな時にまで自分のことばかりだ。
病室でのあの数分の出来事は、俺にも逃れられない事実を突きつけた。
お前が失ったのは、こういうものだ、と。
ふわりと漂うだけであれほどの影響力を持つものを、俺は感じられない。今まではただ嗅覚を失くしたと思っていたのに。俺は、自分という存在の一部を喪失したんじゃないか。もう俺には、あそこまで感情をかき乱すものがないのではないのか。
そして、思い知った。
『充嗣、じいちゃんの喫茶店だけど、……開けなさい』
『ミツ坊は、この店を継ぐのか?』
『継ぐっていうか、まぁ、祖父が帰ってくるまで留守番をするつもりです』
『でも、ミツが本当に戦わなくちゃいけないのは、僕じゃなくて彼らだ』
脳裏にさまざまな声がよみがえる。母のもの。客のもの。自分のもの。ハナオのもの。
(……気づけなかった)
安易な気持ちでいたのは事実だ。否定のしようもない。不定営業の店だから。メニューはブレンドコーヒーだけだから。孫だから。留守番だから。――とんでもない。
〈喫珈琲カドー〉は、長い時間も、甘くも苦くもある思い出も、交差する多くの感情も切実な願いも、すべてひっくるめて本人と他者によって形作られた、もう一人の祖父ともいうべき存在。
(俺に託されていたのは、そういうものだ)
大きすぎる。だけど。
俺は、きちんと自分の手で〈喫珈琲カドー〉を守りたい。
「ハナオ。――ハナオ、頼みがある」
俺の隣に来て、ハナオは背筋をのばした。俺もまた、カウンターから手を離し、ハナオに向き直る。彼は〈喫珈琲カドー〉を構成するものを知っている。少なくとも俺よりはずっと。
「コーヒーについて、教えてくれ」
「――いいよ」
ハナオはそう言って目を細めた。
「ミツ?」
ハナオが気遣うように呼びかけてきたが、答えられない。両手の平から伝わる、冷たいカウンターの一枚板の感触。しっかりと押し当てているはずなのに、微かな震えが手の先から両腕へと広がる。――俺自身が震えているからだ。
「具合、よくなかったの? ミツ?」
そうじゃないんだ。言葉が出ない。そうじゃない、祖父のことじゃない。俺はこんな時にまで自分のことばかりだ。
病室でのあの数分の出来事は、俺にも逃れられない事実を突きつけた。
お前が失ったのは、こういうものだ、と。
ふわりと漂うだけであれほどの影響力を持つものを、俺は感じられない。今まではただ嗅覚を失くしたと思っていたのに。俺は、自分という存在の一部を喪失したんじゃないか。もう俺には、あそこまで感情をかき乱すものがないのではないのか。
そして、思い知った。
『充嗣、じいちゃんの喫茶店だけど、……開けなさい』
『ミツ坊は、この店を継ぐのか?』
『継ぐっていうか、まぁ、祖父が帰ってくるまで留守番をするつもりです』
『でも、ミツが本当に戦わなくちゃいけないのは、僕じゃなくて彼らだ』
脳裏にさまざまな声がよみがえる。母のもの。客のもの。自分のもの。ハナオのもの。
(……気づけなかった)
安易な気持ちでいたのは事実だ。否定のしようもない。不定営業の店だから。メニューはブレンドコーヒーだけだから。孫だから。留守番だから。――とんでもない。
〈喫珈琲カドー〉は、長い時間も、甘くも苦くもある思い出も、交差する多くの感情も切実な願いも、すべてひっくるめて本人と他者によって形作られた、もう一人の祖父ともいうべき存在。
(俺に託されていたのは、そういうものだ)
大きすぎる。だけど。
俺は、きちんと自分の手で〈喫珈琲カドー〉を守りたい。
「ハナオ。――ハナオ、頼みがある」
俺の隣に来て、ハナオは背筋をのばした。俺もまた、カウンターから手を離し、ハナオに向き直る。彼は〈喫珈琲カドー〉を構成するものを知っている。少なくとも俺よりはずっと。
「コーヒーについて、教えてくれ」
「――いいよ」
ハナオはそう言って目を細めた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
熱い風の果てへ
朝陽ゆりね
ライト文芸
沙良は母が遺した絵を求めてエジプトにやってきた。
カルナック神殿で一服中に池に落ちてしまう。
必死で泳いで這い上がるが、なんだか周囲の様子がおかしい。
そこで出会った青年は自らの名をラムセスと名乗る。
まさか――
そのまさかは的中する。
ここは第18王朝末期の古代エジプトだった。
※本作はすでに販売終了した作品を改稿したものです。
心の落とし物
緋色刹那
ライト文芸
・完結済み(2024/10/12)。また書きたくなったら、番外編として投稿するかも
・第4回、第5回ライト文芸大賞にて奨励賞をいただきました!!✌︎('ω'✌︎ )✌︎('ω'✌︎ )
〈本作の楽しみ方〉
本作は読む喫茶店です。順に読んでもいいし、興味を持ったタイトルや季節から読んでもオッケーです。
知らない人、知らない設定が出てきて不安になるかもしれませんが、喫茶店の常連さんのようなものなので、雰囲気を楽しんでください(一応説明↓)。
〈あらすじ〉
〈心の落とし物〉はありませんか?
どこかに失くした物、ずっと探している人、過去の後悔、忘れていた夢。
あなたは忘れているつもりでも、心があなたの代わりに探し続けているかもしれません……。
喫茶店LAMP(ランプ)の店長、添野由良(そえのゆら)は、人の未練が具現化した幻〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉と、それを探す生き霊〈探し人(さがしびと)〉に気づきやすい体質。
ある夏の日、由良は店の前を何度も通る男性に目を止め、声をかける。男性は数年前に移転した古本屋を探していて……。
懐かしくも切ない、過去の未練に魅せられる。
〈主人公と作中用語〉
・添野由良(そえのゆら)
洋燈町にある喫茶店LAMP(ランプ)の店長。〈心の落とし物〉や〈探し人〉に気づきやすい体質。
・〈心の落とし物(こころのおとしもの)〉
人の未練が具現化した幻。あるいは、未練そのもの。
・〈探し人(さがしびと)〉
〈心の落とし物〉を探す生き霊で、落とし主。当人に代わって、〈心の落とし物〉を探している。
・〈未練溜まり(みれんだまり)〉
忘れられた〈心の落とし物〉が行き着く場所。
・〈分け御霊(わけみたま)〉
生者の後悔や未練が物に宿り、具現化した者。込められた念が強ければ強いほど、人のように自由意志を持つ。いわゆる付喪神に近い。
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。

凪の始まり
Shigeru_Kimoto
ライト文芸
佐藤健太郎28歳。場末の風俗店の店長をしている。そんな俺の前に16年前の小学校6年生の時の担任だった満島先生が訪ねてやってきた。
俺はその前の5年生の暮れから学校に行っていなかった。不登校っていう括りだ。
先生は、今年で定年になる。
教師人生、唯一の心残りだという俺の不登校の1年を今の俺が登校することで、後悔が無くなるらしい。そして、もう一度、やり直そうと誘ってくれた。
当時の俺は、毎日、家に宿題を届けてくれていた先生の気持ちなど、考えてもいなかったのだと思う。
でも、あれから16年、俺は手を差し伸べてくれる人がいることが、どれほど、ありがたいかを知っている。
16年たった大人の俺は、そうしてやり直しの小学校6年生をすることになった。
こうして動き出した俺の人生は、新しい世界に飛び込んだことで、別の分かれ道を自ら作り出し、歩き出したのだと思う。
今にして思えば……
さあ、良かったら、俺の動き出した人生の話に付き合ってもらえないだろうか?
長編、1年間連載。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる