スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

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6 祖父の目覚め(3)

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 〈喫珈琲カドー〉に戻った俺は、畳の上でくつろぐハナオの「おかえりー」という言葉を無視して、カウンターに両手をついた。渦巻く感情を抑えきれずに勢いあまってしまったのだろうか。予想外に大きく、バンッと音が店内に響く。
「ミツ?」
 ハナオが気遣うように呼びかけてきたが、答えられない。両手の平から伝わる、冷たいカウンターの一枚板の感触。しっかりと押し当てているはずなのに、微かな震えが手の先から両腕へと広がる。――俺自身が震えているからだ。
「具合、よくなかったの? ミツ?」
 そうじゃないんだ。言葉が出ない。そうじゃない、祖父のことじゃない。俺はこんな時にまで自分のことばかりだ。
 病室でのあの数分の出来事は、俺にも逃れられない事実を突きつけた。
 お前が失ったのは、こういうものだ、と。
 ふわりと漂うだけであれほどの影響力を持つものを、俺は感じられない。今まではただ嗅覚を失くしたと思っていたのに。俺は、自分という存在の一部を喪失したんじゃないか。もう俺には、あそこまで感情をかき乱すものがないのではないのか。
 そして、思い知った。
『充嗣、じいちゃんの喫茶店だけど、……開けなさい』
『ミツ坊は、この店を継ぐのか?』
『継ぐっていうか、まぁ、祖父が帰ってくるまで留守番をするつもりです』
『でも、ミツが本当に戦わなくちゃいけないのは、僕じゃなくて彼らだ』
 脳裏にさまざまな声がよみがえる。母のもの。客のもの。自分のもの。ハナオのもの。
(……気づけなかった)
 安易な気持ちでいたのは事実だ。否定のしようもない。不定営業の店だから。メニューはブレンドコーヒーだけだから。孫だから。留守番だから。――とんでもない。
 〈喫珈琲カドー〉は、長い時間も、甘くも苦くもある思い出も、交差する多くの感情も切実な願いも、すべてひっくるめて本人と他者によって形作られた、もう一人の祖父ともいうべき存在。
(俺に託されていたのは、そういうものだ)
 大きすぎる。だけど。
 俺は、きちんと自分の手で〈喫珈琲カドー〉を守りたい。
「ハナオ。――ハナオ、頼みがある」
 俺の隣に来て、ハナオは背筋をのばした。俺もまた、カウンターから手を離し、ハナオに向き直る。彼は〈喫珈琲カドー〉を構成するものを知っている。少なくとも俺よりはずっと。
「コーヒーについて、教えてくれ」
「――いいよ」
 ハナオはそう言って目を細めた。
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