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4 ハナオ(4)
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何度も言うが〈喫珈琲カドー〉は、メニューにブレンドコーヒーしかない喫茶店だ。よって客が来ようともコーヒーを淹れてしまえばやることはなくなるし、ランチ時だからといってひっきりなしに混むこともない。ハナオと話をすることは当然控えるが、客との会話がなければ俺に至急しなければいけないことなど何もない。洗い物など細々とした用事をすませるだけだ。
コーヒーを提供した後、俺は抽出し終わった粉を捨ててドリッパーやサーバーを洗いながら、ハナオとの会話を少しずつ咀嚼する。
戦前に透明人間と化した十四歳の少年。そうなったのは、理由は忘れたが本人が望んだから。その後は食事も睡眠も必要ない。そして当時の姿を留めたまま七十五年以上の時を生きた。……生きた?
透明人間になったということは、透明人間になる前――普通の見える人間だった頃があるということだろう。そして誰にも見えなくなり、外見は歳もとらなくなり……。
(それって、つまり)
いや、でもそれは、あまりにもファンタジーが、否、ホラーが過ぎる。俺は自分の中に浮かんだ仮説を否定する。そしてすぐに、でも、と打ち消す。
(そもそも、すでに存在自体がファンタジー、いやホラー……どっちでもいい! とにかく非現実的だ)
じゃあ、そんなモノと話をしている自分は何だ? だんだん頭が混乱してくる。そして、こんな時には都合のいいことに〈喫珈琲カドー〉はとても暇な喫茶店だった。ハナオとの会話を再開させるタイミングは、すぐにやって来る。
「ハナオはさ、その、普通の人間だったんだよな?」
やっぱり少し気が引けて遠慮がちに訊いた俺の質問に、「今もそうだけど?」とハナオは特に気分を害した風でもなく答えた。
「えぇと、そうじゃなくて、透明人間前」
「あぁ、猫だとでも思った?」
にゃあ、と鳴き真似をしてみせたその姿に、うっかり感想がこぼれた。
「それもありえるな」
「ミツも言うようになったねぇ」
「誇らしげに頷くなよ。人間だろ? どんなだったんだ? ほら、生活とか」
「えー、忘れちゃったよ、そんな昔のこと」
まぁ、七十五年以上前だもんな。遠回しに訊こうとしていた俺の目論見はあっという間に崩れた。
「何、ミツ? 何か言いたげじゃない」
「あぁ、まぁ」
「歯切れ悪ーい。男らしくなーい」
「……お前さ、そのハイテンションな女子高生みたいな話し口調は何なわけ?」
「あれ? 訊きたかったのは、ソレ?」
「違うけど」
あまりにも癇にさわるから、つい訊いてしまった。
「だってぇ、楽しぃしー」
やたら語尾を伸ばすので、うっかり「腹立つ」と言ったら「それも含めて」と返された。つまりこっちの反応が楽しくてやっているのか。悪趣味な。
「で、何? さっきから迷っているんでしょ? 僕、神サマじゃないから、ミツの考えていることまではわかんないんだけど? 言いなよ」
ハナオの言うことは至極もっともだ。さっきはわかるとか言っていたけれども。ここまで引きのばしておいて言わないわけにもいかない。それに気になっているのは事実だ。
「あの、さ、ハナオって、本当に生きてるのか?」
ハナオは目を丸くした。
「……その真意は?」
「食事も睡眠も必要ないし、歳もとらないわけだよな? で、俺以外の誰にも見えてない」
客は一様にハナオの存在に無関心だ――気づいた素ぶりすらない。
「そうだね。これまでも含めて、僕を見ているのはミツだけだよ」
「それって……幽霊じゃねぇの? どうして生きてるって言いきれるんだ?」
ハナオは右手を口元にあて、左手を右肘に添えて考え込むような仕草をする。
(やっぱり、気を悪くさせたか)
実は死んでいるんじゃないかなんて、気分のよい問いかけではない。
「いい質問だねぇ、ミツ。けど、僕は生きているよ。その根拠は二つある」
右手でピースサインを作り、ハナオは楽しげに笑った。
「根拠?」
「そう。まさか、これまでずっと僕が盲目的に信じ込んできたとでも思っていたの? それこそ気分を害するね。ちゃんと生きているって判断できる根拠があるんだよ。――一つ目は、ここ」
くい、と右手を返し、人さし指で自分の胸を指す。
「僕の心臓は動いている。……他の臓器は知らないよ。自分の体を解剖したことはないし、やり方もわからない。呼吸は、まぁ、していると思うけど、空気のないところでどうなるかなんて試す気もないし。食事も排泄もしなくなった今じゃ、外見同様に中も時間が止まっているかどうかなんて確認のしようがないね。――でも、鼓動は打っている。毎日、毎日」
ハナオは右手を胸――心臓のあるあたりに当てて、目を伏せた。
「いつもいろんなものが、この体を透り過ぎる。生き物も物体も、風すらも。時間だってすり抜けていく。でもいつだって、このあるかないかわからない体の奥から規則正しい音がするんだよ」
開いた目を細めて、まっすぐに俺を見すえる。
「聞かせてあげられなくて、残念。――次は二つ目だね。これは少し説明が難しいんだよね。ミツ、ちょっとこっちに出てきてくれる?」
ハナオの手招きに従い、俺はカウンターを客席側に回る。
「僕の体はあらゆるものを透り抜ける。それはさっきも言ったよね。でも、一つだけ制約があるんだ。それが根拠でもあるんだけど。さて、それはどこでしょーか?」
いきなりのクイズ形式。面食らう俺を尻目に、ハナオは、さぁ当ててみてと言うように、ワクワクと両腕を広げている。
(制約? ……つまり、透明でないってことか?)
どこかだけ、誰からも見えている? ――それはない。それこそホラーだ。
(どこかだけ透り抜けない……?)
俺はこれまで、ハナオが何かを完全に透り抜けたのを見たことがない。透り抜けない、あるいは透り抜けられないところがあるのだろうか。それはハナオ自身の一部か、対象物の方か。
「ブー、時間切れー。ミツさぁ、クイズとか嫌いなタイプ?」
ハナオはしびれを切らしたように両腕を下げた。
「いや、そんなことないけど」
「じゃあ苦手なんだね。早押しとかだと絶対勝てないでしょ」
ごもっとも。
「答えは、足元! 僕にも〝地面〟はあるんだよ」
「……地面?」
俺はハナオの足元を見た。床の上に立つ両足。やっぱり影はない。それ以外で何か変だろうか?
「きみには当たり前のことだから、僕がカウンターに手を突っ込んでいるより受け入れやすいんだろうね。……想像してみて。たとえば、この建物。まずは土台となる基礎を組んで、それから床板を敷くよね。じゃあこの下には、床下と呼ばれる空間があるはずだ。もし僕が本当に何でもかんでも透り抜けたとしたら、僕は今どういう状態になるかな?」
ようやくハナオの言いたいことが漠然とわかりはじめてきた。
「少なくとも、足が途中まで床に埋まるはずだよな?」
「そう! でも僕は床板の上に立っている。僕はね、僕の体の一番下にあるものは透り抜けない。それでこの、自分の体の一番下に接するものを〝地面〟と呼んでいるんだよ。……わかるかな?」
だいたいわかってきた。ハナオの体は、横にあるものは透り抜けるが、真下にあるものは透り抜けられない。そういえば、先日ショッピングモールへ行った時も、三階フロアを歩いても床を透り抜けて一階まで落ちることはなかった。
「そして、僕は重力には逆らえない。宙に浮いたり飛んだりはできないんだ。たぶん、幽霊と違ってね」
なるほど。見たことはないからあくまでイメージだが、幽霊というのは一般的に浮遊しているものだろう。
「この、地面があるってことは結構便利でねー。僕は電車だって、飛行機や船にだって乗れるんだよ。それぞれの床が一番下にさえあればいいんだから。世界中どこへだって行けちゃうわけ」
「へぇ、世界中……、行ったのか!?」
「だって、時間はたっぷりあるんだもん。工夫次第で何だってできるよ。ただ、一つ問題があってね。僕には、段差という概念がない」
「段差という概念……? 階段とか、そういうのか?」
俺は、ハナオがいつも一階にいるのを思い返しながら尋ねた。ハナオが二階に上がってきたことはない。
「そうそう、階段とか、たとえばこの小上がりも」
ハナオは、カウンターの反対側にある小上がりを示した。床から三十センチほど高くなった畳敷きで、靴を脱いで上がってもらうローテーブルの客席になっている。
「ミツ、ちょっと、この小上がりに片足をのせてくれる?」
俺は、靴を脱いで右足を小上がりにのせ、「こうか?」とハナオを見る。
「うん、そう。じゃあ、ゆっくりと上がってくれる? 力のかかり方を意識してほしいんだけど」
力のかかり方? 俺はバランスを崩さない程度にスピードを緩めて、小上がりに上がる。左足が床を離れ、畳に着く。
「最初に左足にあった重心を右足に移して左足を上げ、左足が畳を踏んだら重心を両足に戻した。今の動きはそんな感じで間違いないかな?」
ハナオが俺を見上げて尋ねる。俺はいつもよりも低い位置にいるハナオを振り返って頷いた。
「じゃあ、その時のミツの体の〝一番下〟はどういう動きをしたか、ちょっと考えてみてくれる?」
体の一番下? 最初は左足の裏だ。それから。
(あ? ずっと左……?)
畳に両足がつくまでの時間の大半で、左足の裏が〝一番下〟になる。ただし宙に浮いた状態で。
「気がついた? 重心は右足に移動するけど、体の最下にあるのは左足。しかも、あるタイミングで床を離れてしまう。……僕の場合、例えば右足を小上がりにのせるフリはできても、左足を床から離せば、右足が小上がりを透り抜けてしまう。いつまでも、この段差を昇ることはできないんだよ。――ただし」
ハナオはいたずらっ子のようにニヤリとし、身ぶりでよけるように指示する。俺は窓際に移動した。
「一番下が両足のままなら問題はない」
言うが早いか、ハナオは両足で小上がりに跳び上がった。いわゆるうさぎ跳びの要領だ。
「……なるほど」
このハナオの動きを、俺は一度見たことがある。やはりショッピングモールでエスカレーターに乗る時も、こうやって跳び乗っていた。
「やっと、なんでハナオが二階に上がってこないのかがわかった」
俺は苦笑しながら言ってやった。階段を昇ろうと思ったら、ハナオは一段ずつうさぎ跳びをしなければならない。しかもバランスを崩せばやり直し。
「できるんだけどね。不必要にリスクの高いことはやらない。するなら細心の注意を払って、だ」
「意外と臆病なんだな」
「当たり前だよ。僕はまだ、高い所から落ちたり大けがを負うようなシチュエーションに見舞われたりした時、自分がどうなってしまうかを知らない。もっとも、やりたいとも思わないけどね」
再度、なるほどだ。何かが刺さることはない体も、〝地面〟がある以上、転落した時まで無事とは限らない。万が一の時、何を頼ればいいだろう。透明人間にもそれなりに苦労はあるのかと、俺はしみじみと呟いた。
「……大変なんだな」
「そうかな? ミツと何も変わらないよ。きみ達がいつも安全なんて保証はどこにもないんだから」
「まぁ、たしかに、そっか」
俺は小上がりを下りて靴を履く。淡々と流れていく日常は、すぐそばにあるリスクなんて感じとらせない。変わらないものはない、なんて、俺自身が身をもって知っているはずなのに。
「ミツ」
呼ばれて振り返ると、いつもは見下ろしていたハナオの顔が真正面にあった。新鮮な眺めに少しだけ息を呑む。
「心臓が鼓動を打つことと地面があること。この二つが、僕がたとえ人に見えなくても生きていると言いきれる根拠になるわけだけど、きみはどう?」
ハナオの人さし指が今度は俺を指さした――ちょうど、俺の心臓のあたり。微笑んだその表情が、僅かに意地の悪いものだったのは、俺の目の錯覚だろうか。
「ミツは、生きていると言える? ――なんちゃって」
あはは、とおかしそうに笑いながら、ハナオが小上がりから跳び下りる。
俺は立ちつくした。何故、即答しない?
心臓が動いて呼吸をして寝食も必要で、地面を歩いて他人にも見える。それで俺は生きていると言えるのだろうか。
匂いがないと言って卑屈になり、指示されるままにコーヒーを淹れ続ける日々の中で。
俺は、生きていると言いきれるのか。
コーヒーを提供した後、俺は抽出し終わった粉を捨ててドリッパーやサーバーを洗いながら、ハナオとの会話を少しずつ咀嚼する。
戦前に透明人間と化した十四歳の少年。そうなったのは、理由は忘れたが本人が望んだから。その後は食事も睡眠も必要ない。そして当時の姿を留めたまま七十五年以上の時を生きた。……生きた?
透明人間になったということは、透明人間になる前――普通の見える人間だった頃があるということだろう。そして誰にも見えなくなり、外見は歳もとらなくなり……。
(それって、つまり)
いや、でもそれは、あまりにもファンタジーが、否、ホラーが過ぎる。俺は自分の中に浮かんだ仮説を否定する。そしてすぐに、でも、と打ち消す。
(そもそも、すでに存在自体がファンタジー、いやホラー……どっちでもいい! とにかく非現実的だ)
じゃあ、そんなモノと話をしている自分は何だ? だんだん頭が混乱してくる。そして、こんな時には都合のいいことに〈喫珈琲カドー〉はとても暇な喫茶店だった。ハナオとの会話を再開させるタイミングは、すぐにやって来る。
「ハナオはさ、その、普通の人間だったんだよな?」
やっぱり少し気が引けて遠慮がちに訊いた俺の質問に、「今もそうだけど?」とハナオは特に気分を害した風でもなく答えた。
「えぇと、そうじゃなくて、透明人間前」
「あぁ、猫だとでも思った?」
にゃあ、と鳴き真似をしてみせたその姿に、うっかり感想がこぼれた。
「それもありえるな」
「ミツも言うようになったねぇ」
「誇らしげに頷くなよ。人間だろ? どんなだったんだ? ほら、生活とか」
「えー、忘れちゃったよ、そんな昔のこと」
まぁ、七十五年以上前だもんな。遠回しに訊こうとしていた俺の目論見はあっという間に崩れた。
「何、ミツ? 何か言いたげじゃない」
「あぁ、まぁ」
「歯切れ悪ーい。男らしくなーい」
「……お前さ、そのハイテンションな女子高生みたいな話し口調は何なわけ?」
「あれ? 訊きたかったのは、ソレ?」
「違うけど」
あまりにも癇にさわるから、つい訊いてしまった。
「だってぇ、楽しぃしー」
やたら語尾を伸ばすので、うっかり「腹立つ」と言ったら「それも含めて」と返された。つまりこっちの反応が楽しくてやっているのか。悪趣味な。
「で、何? さっきから迷っているんでしょ? 僕、神サマじゃないから、ミツの考えていることまではわかんないんだけど? 言いなよ」
ハナオの言うことは至極もっともだ。さっきはわかるとか言っていたけれども。ここまで引きのばしておいて言わないわけにもいかない。それに気になっているのは事実だ。
「あの、さ、ハナオって、本当に生きてるのか?」
ハナオは目を丸くした。
「……その真意は?」
「食事も睡眠も必要ないし、歳もとらないわけだよな? で、俺以外の誰にも見えてない」
客は一様にハナオの存在に無関心だ――気づいた素ぶりすらない。
「そうだね。これまでも含めて、僕を見ているのはミツだけだよ」
「それって……幽霊じゃねぇの? どうして生きてるって言いきれるんだ?」
ハナオは右手を口元にあて、左手を右肘に添えて考え込むような仕草をする。
(やっぱり、気を悪くさせたか)
実は死んでいるんじゃないかなんて、気分のよい問いかけではない。
「いい質問だねぇ、ミツ。けど、僕は生きているよ。その根拠は二つある」
右手でピースサインを作り、ハナオは楽しげに笑った。
「根拠?」
「そう。まさか、これまでずっと僕が盲目的に信じ込んできたとでも思っていたの? それこそ気分を害するね。ちゃんと生きているって判断できる根拠があるんだよ。――一つ目は、ここ」
くい、と右手を返し、人さし指で自分の胸を指す。
「僕の心臓は動いている。……他の臓器は知らないよ。自分の体を解剖したことはないし、やり方もわからない。呼吸は、まぁ、していると思うけど、空気のないところでどうなるかなんて試す気もないし。食事も排泄もしなくなった今じゃ、外見同様に中も時間が止まっているかどうかなんて確認のしようがないね。――でも、鼓動は打っている。毎日、毎日」
ハナオは右手を胸――心臓のあるあたりに当てて、目を伏せた。
「いつもいろんなものが、この体を透り過ぎる。生き物も物体も、風すらも。時間だってすり抜けていく。でもいつだって、このあるかないかわからない体の奥から規則正しい音がするんだよ」
開いた目を細めて、まっすぐに俺を見すえる。
「聞かせてあげられなくて、残念。――次は二つ目だね。これは少し説明が難しいんだよね。ミツ、ちょっとこっちに出てきてくれる?」
ハナオの手招きに従い、俺はカウンターを客席側に回る。
「僕の体はあらゆるものを透り抜ける。それはさっきも言ったよね。でも、一つだけ制約があるんだ。それが根拠でもあるんだけど。さて、それはどこでしょーか?」
いきなりのクイズ形式。面食らう俺を尻目に、ハナオは、さぁ当ててみてと言うように、ワクワクと両腕を広げている。
(制約? ……つまり、透明でないってことか?)
どこかだけ、誰からも見えている? ――それはない。それこそホラーだ。
(どこかだけ透り抜けない……?)
俺はこれまで、ハナオが何かを完全に透り抜けたのを見たことがない。透り抜けない、あるいは透り抜けられないところがあるのだろうか。それはハナオ自身の一部か、対象物の方か。
「ブー、時間切れー。ミツさぁ、クイズとか嫌いなタイプ?」
ハナオはしびれを切らしたように両腕を下げた。
「いや、そんなことないけど」
「じゃあ苦手なんだね。早押しとかだと絶対勝てないでしょ」
ごもっとも。
「答えは、足元! 僕にも〝地面〟はあるんだよ」
「……地面?」
俺はハナオの足元を見た。床の上に立つ両足。やっぱり影はない。それ以外で何か変だろうか?
「きみには当たり前のことだから、僕がカウンターに手を突っ込んでいるより受け入れやすいんだろうね。……想像してみて。たとえば、この建物。まずは土台となる基礎を組んで、それから床板を敷くよね。じゃあこの下には、床下と呼ばれる空間があるはずだ。もし僕が本当に何でもかんでも透り抜けたとしたら、僕は今どういう状態になるかな?」
ようやくハナオの言いたいことが漠然とわかりはじめてきた。
「少なくとも、足が途中まで床に埋まるはずだよな?」
「そう! でも僕は床板の上に立っている。僕はね、僕の体の一番下にあるものは透り抜けない。それでこの、自分の体の一番下に接するものを〝地面〟と呼んでいるんだよ。……わかるかな?」
だいたいわかってきた。ハナオの体は、横にあるものは透り抜けるが、真下にあるものは透り抜けられない。そういえば、先日ショッピングモールへ行った時も、三階フロアを歩いても床を透り抜けて一階まで落ちることはなかった。
「そして、僕は重力には逆らえない。宙に浮いたり飛んだりはできないんだ。たぶん、幽霊と違ってね」
なるほど。見たことはないからあくまでイメージだが、幽霊というのは一般的に浮遊しているものだろう。
「この、地面があるってことは結構便利でねー。僕は電車だって、飛行機や船にだって乗れるんだよ。それぞれの床が一番下にさえあればいいんだから。世界中どこへだって行けちゃうわけ」
「へぇ、世界中……、行ったのか!?」
「だって、時間はたっぷりあるんだもん。工夫次第で何だってできるよ。ただ、一つ問題があってね。僕には、段差という概念がない」
「段差という概念……? 階段とか、そういうのか?」
俺は、ハナオがいつも一階にいるのを思い返しながら尋ねた。ハナオが二階に上がってきたことはない。
「そうそう、階段とか、たとえばこの小上がりも」
ハナオは、カウンターの反対側にある小上がりを示した。床から三十センチほど高くなった畳敷きで、靴を脱いで上がってもらうローテーブルの客席になっている。
「ミツ、ちょっと、この小上がりに片足をのせてくれる?」
俺は、靴を脱いで右足を小上がりにのせ、「こうか?」とハナオを見る。
「うん、そう。じゃあ、ゆっくりと上がってくれる? 力のかかり方を意識してほしいんだけど」
力のかかり方? 俺はバランスを崩さない程度にスピードを緩めて、小上がりに上がる。左足が床を離れ、畳に着く。
「最初に左足にあった重心を右足に移して左足を上げ、左足が畳を踏んだら重心を両足に戻した。今の動きはそんな感じで間違いないかな?」
ハナオが俺を見上げて尋ねる。俺はいつもよりも低い位置にいるハナオを振り返って頷いた。
「じゃあ、その時のミツの体の〝一番下〟はどういう動きをしたか、ちょっと考えてみてくれる?」
体の一番下? 最初は左足の裏だ。それから。
(あ? ずっと左……?)
畳に両足がつくまでの時間の大半で、左足の裏が〝一番下〟になる。ただし宙に浮いた状態で。
「気がついた? 重心は右足に移動するけど、体の最下にあるのは左足。しかも、あるタイミングで床を離れてしまう。……僕の場合、例えば右足を小上がりにのせるフリはできても、左足を床から離せば、右足が小上がりを透り抜けてしまう。いつまでも、この段差を昇ることはできないんだよ。――ただし」
ハナオはいたずらっ子のようにニヤリとし、身ぶりでよけるように指示する。俺は窓際に移動した。
「一番下が両足のままなら問題はない」
言うが早いか、ハナオは両足で小上がりに跳び上がった。いわゆるうさぎ跳びの要領だ。
「……なるほど」
このハナオの動きを、俺は一度見たことがある。やはりショッピングモールでエスカレーターに乗る時も、こうやって跳び乗っていた。
「やっと、なんでハナオが二階に上がってこないのかがわかった」
俺は苦笑しながら言ってやった。階段を昇ろうと思ったら、ハナオは一段ずつうさぎ跳びをしなければならない。しかもバランスを崩せばやり直し。
「できるんだけどね。不必要にリスクの高いことはやらない。するなら細心の注意を払って、だ」
「意外と臆病なんだな」
「当たり前だよ。僕はまだ、高い所から落ちたり大けがを負うようなシチュエーションに見舞われたりした時、自分がどうなってしまうかを知らない。もっとも、やりたいとも思わないけどね」
再度、なるほどだ。何かが刺さることはない体も、〝地面〟がある以上、転落した時まで無事とは限らない。万が一の時、何を頼ればいいだろう。透明人間にもそれなりに苦労はあるのかと、俺はしみじみと呟いた。
「……大変なんだな」
「そうかな? ミツと何も変わらないよ。きみ達がいつも安全なんて保証はどこにもないんだから」
「まぁ、たしかに、そっか」
俺は小上がりを下りて靴を履く。淡々と流れていく日常は、すぐそばにあるリスクなんて感じとらせない。変わらないものはない、なんて、俺自身が身をもって知っているはずなのに。
「ミツ」
呼ばれて振り返ると、いつもは見下ろしていたハナオの顔が真正面にあった。新鮮な眺めに少しだけ息を呑む。
「心臓が鼓動を打つことと地面があること。この二つが、僕がたとえ人に見えなくても生きていると言いきれる根拠になるわけだけど、きみはどう?」
ハナオの人さし指が今度は俺を指さした――ちょうど、俺の心臓のあたり。微笑んだその表情が、僅かに意地の悪いものだったのは、俺の目の錯覚だろうか。
「ミツは、生きていると言える? ――なんちゃって」
あはは、とおかしそうに笑いながら、ハナオが小上がりから跳び下りる。
俺は立ちつくした。何故、即答しない?
心臓が動いて呼吸をして寝食も必要で、地面を歩いて他人にも見える。それで俺は生きていると言えるのだろうか。
匂いがないと言って卑屈になり、指示されるままにコーヒーを淹れ続ける日々の中で。
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