スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

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1 透明人間、現る (1)

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 三日前、祖父が倒れた。
「まだ、意識は戻らないのか」
 カウンター席に座った祖父の旧友の問いに、俺はコーヒーを準備しながらうなずく。
 客は彼一人。それが十一月下旬の平日昼下がりという中途半端な時間帯のせいか、この喫茶店ならではの現象かはわからない。彼は本日の、そして俺自身の客第一号だ。
 どうぞ、と言い添え、カップをソーサーにのせてカウンターに置く。うまくれられただろうか。確かめる方法はない。サーバーに残った液体を別のカップに移して口に含んでみたが、少し苦みを感じられる湯がのどを滑りおりていっただけだった。
 祖父の旧友は慣れた手つきでカップを口元に運ぶ。彼は祖父と特に親しい人物で、俺も幼い頃には何度か会い、可愛がってもらった記憶がある。母も彼には祖父が倒れたことを連絡したようだ。同じく祖父も、今日から俺が手伝いに入ることを知らせていたのだろう。彼は祖父の不在を知りながらも訪ねてくれた。
「ミツぼうは、この店を継ぐのか?」
 祖父の旧友はカップを置き、まっすぐ俺に目を向けた。内心たじろぐ。祖父はもう戻らないと言われたような気がしたからだ。
「懐かしい呼び方ですね。――継ぐっていうか、まぁ、祖父が帰ってくるまで留守番をするつもりです。気ままな店ですけど、ずっと閉めているわけにもいきませんから。こんな若造に任せてはいられないって、すぐ戻ってくると思いますけどね」
 俺は冗談めかして肩をすくめた。他意はないのだろう。祖父や彼ほどに長く人生を歩めば、老いも病もあるいは死も、もっとずっと身近なものになるのかもしれない。ようやく二十年といくつかを越えた俺にとっては、まだ遠く特別で不吉にすら思える言葉であっても。
「……まぁ、あまり気を落とすなよ」
 祖父の旧友は会計をすませた後、そう言い置いて出ていった。
 店内に再び静寂が戻ってくる。三席のカウンターと小上がりに四人程度が座れるテーブル席が一つ。十人も入れば大混雑の極小喫茶店だ。正面にある三つの長細い窓からは、晩秋の穏やかな陽光が差し込んでいる。光の中で脇役に徹するのは、色ガラスを使ったカラフルなランプ。天井から吊り下げられ、それぞれの客席の手元を照らすよう配された小ぶりの照明は、日が落ちるとともに存在感を増すだろう。
 遠くでチャイムが鳴っている。小学校か中学校か。この辺りはあまり土地勘がないので、どちらかはわからない。窓の外に、道路をはさんで向かいの住宅が見える。人や車が行き交う様子はない。
 一時間に三本ほどが停車する私鉄の小さな駅を最寄りとし、さらに小道の入り組む住宅街を歩くこと十数分。商売をする上で決して有利とはいえない立地にあるこの店は、二十五年ほど前に祖父が始めた。
 名を〈喫珈琲きっこーひーカドー〉という。姓の〝角尾かどお〟から名付けたのだと思うが、由来を聞いたことはない。
 祖父はどちらかといえば人当たりもよく、穏やかで真面目な気質だ。親族のひいき目ではなく誰に聞いてもそう答えると思う。だが〈喫珈琲カドー〉は、そんな店主マスターのイメージを真っ向からひっくり返してしまうような店だった。
 妻を早くに亡くした祖父は、男手一つで俺の母を育てあげた。そして愛娘の結婚を機に、突然の脱サラを果たす。当時はまだ終身雇用が崩れていなかった時代で、コツコツと勤続年数をのばす平凡なサラリーマンの、あと数年で定年というタイミングでの自主退職は、周囲の人間を驚かせたそうだ。そのまま喫茶業へ転身。その営業形態がまた周りをあきれさせた。
 不定営業。メニューはブレンドコーヒーのみ。ただでさえ不利な要素の多い喫茶店だというのに、定めのない営業時間と単一のメニューがさらに客層を狭くする。加えて自宅一階を改装して店舗にした祖父は、店内は整えたものの外観にはほとんど手をつけなかった。出入り口の扉と縦に長細い窓が三つという外観は一般住宅とさほど変わらず、一見して喫茶店とはわからない。その上、大きな看板を出すでもなく、扉にぶら下げた〝喫珈琲カドー 営業中〟という手の平サイズの札が営業を示す唯一の目印という状態。祖父の友人知人と近所の住人といった常連しか来ないような趣味を地でいく店は、しかしながら二十五年という長きにわたって生き残り、周囲を驚きあきれ果てさせ続けていた。
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