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第一部 キミのこないクリスマス・イヴ

第四話 沙樹の事情

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 ――不倫なんだろ?

 電車に乗ってからもずっと、沙樹の頭の中では友也の言葉が響いていた。
 吐き気を伴うような気分の悪さを抱き、車窓から外を力なく眺める。
 きらびやかに流れる街灯りの中に、ワタルの住む高層マンションが見えた。沙樹の住むマンションから一駅しか離れていない。物理的な距離はわずかなのに、多忙な日々がふたりの間に遥かな距離を作っている。
 沙樹の寂しさの源はそこに横たわっていた。
 それなのに友也は誤解している。自分たちの関係は、世間に顔向けできないようなものではない。
 明かせない理由はただひとつ、ワタルの職業が芸能人という特殊なものだからだ。

 ワタルがリーダーを務めるオーバー・ザ・レインボウは、出す曲がヒットチャートの上位にランキングするロックバンドだ。TVの音楽番組にもときどき出演するので、それなりに世間の認知度もある。
 そんな人物が女性連れで行動していれば、芸能ニュースで取り上げられる可能性は高い。
 不必要な騒ぎを避けるために沙樹の存在は大っぴらにできず、必然的につきあいはシークレットなものとなる。ふたりのつきあいを知る人は、バンドメンバーや家族といったほんの一握りしかいない。
 人気商売ゆえにカミングアウトできないだけだ。
 こんな状態では結婚話など夢のまた夢、最悪このまま中途半端な関係で終わる可能性も十分ある。
 そういった複雑な事情を知らない友也は、沙樹が不倫をしていると思い込んでいる。
 これらのことを説明できないにも関わらず「つきあっている人がいる」と口を滑らせてしまったのは、沙樹のミスだ。ただそれがこのような誤解を招くとは、夢にも思わなかった。
 車窓から見えるワタルの部屋は明かりが消えている。コンサートで留守にしていると解っていても、涙が出そうになった。唇を噛んでこらえるが今にも流れてきそうだ。限界を感じハンカチを出しかけたら、電車がホームに滑り込んだ。にじみかけた涙を指で拭い、改札を出る。冷えた空気に体温を奪われた。

 コートの襟をあわせ音楽を聴きながら、人通りの残った道を歩く。流れているのはオーバー・ザ・レインボウのベスト盤だ。沙樹は曲を聴きながら、ステージでギターを弾いているワタルの姿を思い浮かべる。
 今夜のライブは上手くいっただろうか。ツアーも残すところあと一週間だ。来週のイブに、東京でファイナルを迎える。それまでは地方でライブをこなしているため、会うことができない。
 途中でコンビニによって、朝食用のパンを買う。マンションに帰りオートロックを解除すると、同じタイミングで一組のカップルが入ってきた。ときどき見かける同世代の彼は、高い確率で彼女と帰宅している。しかも短期間に女性が変わる。
「こんばんは」と挨拶あいさつすると、彼は気まずそうに軽く会釈えしゃくした。
 実はこの彼、沙樹を一度ナンパしたことがある。もちろんその場ではっきりと断った。ワタルがこんな不誠実でないことが、沙樹の不安を少し減らしていた。

 鍵を開けて部屋の灯りをつけ、エアコンのスイッチを入れる。自由気ままなひとり暮らしを満喫している沙樹だが、この瞬間だけは孤独を感じる。
 部屋が暖まるまでの間、沙樹は風呂に入った。熱いシャワーを浴びても心は少しもさっぱりしない。
 亜砂子の結婚話だけなら、気分は沈まなかっただろう。うらやましい気持ちを抱きつつも素直に祝えたはずだ。
 モヤモヤの原因は友也からのプロポーズだ。
 それだけでも心苦しいのに、あろうことかワタルとの交際を不倫だと思われていた。自分が家庭のある男性と恋愛をするような人間に見られていたなんて、心外で吐き気がする。
 沙樹には道徳心がないとでも考えていたのか。仲のいい友人に信頼されていなかったことが心的外傷トラウマになりそうだ。
「来週のライブ、ツアーの最終日だったよね。今回は一度も行けてないから、無理してでも行けばよかった」
 バスルームから出て、ドライヤーで髪を乾かす。鏡に映る自分は、芸能人のような華やかさはかけらもない。

 ライブに行くとき、沙樹は一般の客として入場する。楽屋に行って挨拶をするわけでもなければ、終わるのを待って一緒に帰ることもない。
 出待ちのバンドギャルを横目にその場を離れる。きれいに着飾っている彼女たちは、沙樹とは対極の存在だ。その子たちとどうこうなるようなメンバーではないが、落ち着かないのは変わらない。
 そんな子たちに、自分の存在を知られるわけにはいかなかった。
「なんだ、人目を避けてるって意味では、不倫と変わらないじゃない」
 悔しいが、友也の指摘もあながち間違いではないような気がしてきた。
 余計な気を使わないでいられる相手と恋愛をしていたら、今ごろは結婚して、寂しいひとり暮らしを終えていたかもしれない。だがワタル以外の相手はどうしてもイメージできなかった。
 疲れ切った体をいたわるように、沙樹はベッドに横になった。いつもの習慣でスマートフォンを手に取り、通知がないかチェックする。
 新着のメッセージが一件入っていた。差出人はワタルだ。いつもの簡単な挨拶を予想して開いてみたら、珍しくたくさん文字が並んでいる。

『今夜のライブも大成功だったよ。沙樹にも見せたかった。イヴのツアーファイナルに来てもらえないのが残念だ。距離が恨めしい。この腕で抱きしめられないのなら、せめて夢で会いたい』

「やだ、ワタルさんたら。急にどうしたんだろ」
 絵文字のひとつも使わないシンプルな文面だが、内容は情熱的だ。一度くらいは送ってほしいと思っていたが、いざ届くと読んでいるだけで顔が火照る。耳まで真っ赤になっているのは、鏡を見るまでもなく解った。
 今のように気持ちの沈んだ夜は、ストレートに想いを伝えてもらえるだけで救われる。いつもと違うメールは、揺れる沙樹の心を優しく受け止めた。
 声が聞きたい。話がしたい。
『今話せる?』
 向こうの状況を確認するために、一言だけメッセージを送る。連絡は入るだろうか。一秒二秒が永遠の時間に変わる。
 ほどなくしてスマートフォンからオーバー・ザ・レインボウの楽曲が流れた。ワタルからのコールだ。間髪入れずに出ると、耳になじんだ優しい響きの声が聞こえた。
『遅い時間なのに、まだ起きてたんだね』
「いろいろあった一日だったの。そのせいで興奮して眠れそうもないのよ」
『いいことでもあった?』
 いいことなんて……と沙樹は今日一日を思い返す。
「亜砂子って覚えてる? あの子から結婚するって連絡が入ったの。出来婚だって」
『結婚か。おれも学生時代の友達から、披露宴に招待されるようになったよ。先月もこっそり参列してたのに、花嫁側の招待客にばれて大変だったんだ』
 二次会で一曲歌わされたとぼやいている。
「断ればよかったのに」
『一生の思い出になるからって頼まれたら、いやとは言えないだろ』
 相変わらずのお人好しだ。そういうところがワタルらしい。
『来月の披露宴では、あらかじめ釘をさしておくさ』
「そんなに立て続けにあるの?」
『ああ。本当に結婚ラッシュだよ』
「だよね。独身は少数派だよ、完全に」
 自分の結婚について、遠回しに話題をふってみる。
『てことは、沙樹も貴重な存在になったのか』
「なによ。天然記念物扱いして」
 ――その気になればいつだって結婚できるんだから。これでもあたし、プロポーズされたんだよ。
 完全に無視された沙樹は、心の中でこっそりつぶやく。
『いろいろって、友達の結婚話だけ?』
 自分たちのことに触れてくれようとしないワタルに業をにやした沙樹は、思い切って友也とのことを話すことにした。
「そうそう、友也とフランス料理店に行ったの。ル・ボン・マリアージュって聞いたことあるでしょ。仕事の相談をしたいって言うから、てっきりファミレスか居酒屋だとばかり思ったのよ。だから店に着いたとき驚いちゃった」
『また豪華なところだな。仕事の打ち合わせには不釣り合いな店じゃないか。何かあったのか?』
「ううん、特別には何も……」
 友也からプロポーズされたとは打ち明けられない。沙樹は、短絡的にこの話題を選んだことを後悔した。
「ワタルさん、今作詞してた?」
 うっかり口を滑らせる前に、沙樹は無理やり話題を変える。しかし勘のいいワタルをごまかせたかは自信がない。
『そうだよ。よく解ったね』
「だってさっきのメール。詞を書いてるときでもなかったら、あんな文章出てこないでしょ」
『ごめん。驚かせちゃったかな』
 ははっと電話のむこうで笑う声がした。
「驚いた。いつものメールと全然違うんだもん」
『たまには本音を伝えたくなるんだ』
「えっ?」
 心臓が大きく鼓動し、顔が一気に火照った。
 ときにワタルは予想もしない形で沙樹のハートを絡め取る。こんな台詞を臆面おくめんもなく吐けるのはアーティストだから?
 自分だけしかいない部屋なのに、沙樹は頬を真っ赤に染めてうつむいた。
『ところで来週のライブあと、会わないか? ちょっと遅くなるけど』
 ライブの日――それは沙樹にとって特番の日であり、世間ではクリスマス・イヴだ。
 オーバー・ザ・レインボウは毎年、クリスマス・イヴに特別ライブを行う。そのため今まで一度としてふたりきりで過ごしたことがなかった。
 今年はツアー最終日と重なったので特別ライブは行われないが、仕事が入っていることに変わりはない。
 それなのに、どういう風の吹き回しだろう。
「何時ごろ?」
『最終日だからアンコールが多めになるだろうし。早くて十一時かな』
「その時間なら特番も終わってるからOKだよ。うちに来る?」
『いや、詳しいことはまた連絡するよ』
「うん、待ってるね」
『明日も早いだろ。じゃあ今夜はこれでお休み』
 お休み、と返して電話を切る。短い時間だったが声が聞けたおかげで、胸に巣食っていたもやもやしたものは消えていた。
 友也がいくら好きだと言っても、幸せにするから結婚してくれとプロポーズしてくれても、気持ちは高揚しない。

 魔法の言葉はワタルが言うことで初めて効き目がある。

 沙樹の心はワタルで満たされ、ささくれた気持ちは残っていなかった。

 ――この腕で抱きしめられないのなら、せめて夢で会いたい。

「あたしも……夢でもいいから会いたいよ」
 沙樹は部屋の明かりを消して目を閉じた。


 その夜、沙樹は夢を見た。
 光に包まれたステージの上で、ワタルはギターを演奏している。大歓声を送る客席に向かって時折手をふり、さらなる歓声を起こす。
 輝く笑顔と自信に満ちた姿はミュージシャンとしてのもので、普段の生活では出てこないものだ。
 沙樹はそんなワタルの姿を、まぶしく、そして誇らしく感じていた。
 だがそこにいるのは沙樹の恋人ではない。ファンのためのワタルだ。
 懸命に手を伸ばしても絶対に届かない。たくさんのファンたちに囲まれて、そばに近寄れることもできない。
 大勢の中のひとりになった沙樹の声は、ワタルに届かない。ワタルも沙樹の姿を見つけられない。
 それはコンサートに行くといつも感じる疎外感だ。

 夢だと解っているのに、涙が止まらなかった。

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