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第四章

三. ワタルの決意(二)

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「そうなんだ」
 ハヤトがつぶやく。
「兄さんたちのバンドは、目標を実現してるんだ。ぼくや沙樹さんだけでなく、音楽を聴いてくれた人たちにも、メッセージが届いてるんだね」
 資格があるとかないとか、そんなことは関係ない。聴く人に向けた想いは、確実に届いている。
「うらやましいよ。雲の上がどんな世界か知らないけど、そこに立っているからこそ、これだけ多くの人に聴いてもらえるんだから」
 音楽の世界で生きようとするハヤトの、偽りのない素直な気持ちだった。
「目指す価値、あるよね」
 厳しい現実を知ってなお、ハヤトは前に進もうとする。
 沙樹はうなずくと、ワタルに視線を移した。
 ワタルがじっと見つめる先には、アコースティックギターがおかれている。
 右手のひらが開きかけたり閉じかけたりを繰り返す。しばらく躊躇ためらったあとでゆっくりと手を伸ばし、ワタルはギターを手に取った。ベッドに腰かけてコードを押さえる。弦を弾くと、優しい響きが部屋に広がった。
 ゆっくりと右手を動かし、弦を一本一本はじいていたかと思うと、やがてそれはメロディを奏ではじめ、曲のイントロに変化する。ワタルはそのままオーバー・ザ・レインボウの楽曲を弾き始めた。優しいバラードを弾き終えると、次は激しいビートの曲に移る。
「兄さん、やっとギターを弾く気になれたんだ」
 二週間ほどだったが、ワタルは自分の世界から音楽を締め出していた。そのまま別れを告げるつもりだったのだろう。
 だがそれはできない。音楽はワタルそのものであり、音楽のない世界にはいられない。今のワタルは、遠ざかっていた分を取り戻そうとするように、無心で曲を弾き続けている。
 数曲をメドレーで弾き終えると、ワタルはギターをスタンドに戻した。
「ワタルさん、考え直してくれたのね」
 だがワタルからはなにも答えが返ってこない。ここまで来て、まだ迷いが吹っ切れないのか。どうすれば音楽の世界に戻るのだろう。
「ねえ沙樹さん、こういうのってどうかな?」
 ハヤトが悪戯を仕掛けようとする子供のようににやりと笑う。
「兄さんがどうしても辞めるって言うなら、後任メンバーとして、ぼくがオーバー・ザ・レインボウに入るよ」
「ちょっと、ハヤトくん?」
 予想すらしなかった話を唐突に持ちかけられ、沙樹はハヤトの意図が理解できない。
「だってさ、ギターパートさえなんとかなれば、バンドは解散しなくてもいいんでしょ。ここに将来有望なギタリストがいるんだから、無理にオーディションしなくても、ぼくなら即戦力になれる。兄さんの真似もできるから、ファンにも違和感なく受け入れてもらえるよ」
 ウィンクするハヤトを見て、沙樹は目的が解った。
「それいい。バンドのみんなに紹介するね」
「やったっ。これでぼくもプロのミュージシャンだ」
 ハヤトはガッツポーズで喜びを表現する。
 ワタルを完全に置き去りにして、沙樹とハヤトは具体的な話を始めた。
 次のアルバムの作曲がどうだ、アレンジがどうだなど相談しながら、ワタルを横目でチラッと見ると、眉をひそめ、あきれた表情を浮かべて、何か言いたげに口をパクパクさせている。
「ハヤトくん、明日一緒に東京まで行こうよ。得能くんに連絡しておくよ」
「なんて紹介してくれるの?」
「そうね、オーバー・ザ・レインボウの新メンバーの……」
 スマートフォンを取るつもりで、沙樹がバッグに手を伸ばそうとすると、
「アマチュアバンドでギターとボーカルやっていて、プロを目指してがんばってる大学生です。これで十分だ!」
 沙樹たちの会話に、ワタルが口を鋏んできた。
「黙って聞いてればなんだ。ハヤトにプロのステージで演奏するのは無理だよ」
 強い口調でそう言い切ると、ワタルは腕を組み、口元をぎゅっと噛みしめている。仲間はずれにされた子供が、悔しそうに睨みつけているみたいだ。そんなワタルを、沙樹はこれまで見たことがなかった。
「兄さん、妬いてるの?」
 口元に手を当て、ハヤトは横目でワタルを見る。
「実力のない相手に、嫉妬する必要なんてないね」
 強気の発言をしているが、わずかに両腕が震えている。
「ぼくにオーバー・ザ・レインボウのギターパートを取られると思ってるんだろ」
「まさか。今のハヤトじゃ、プロとしてやっていくには実力不足だ。メンバーが認めないさ」
「あたしの見たところ、ハヤトくんは十分にプロのセンスを持ってるよ。ワタルさんの評価は厳しすぎるんじゃない?」
「いや、まだまだ表現力に幅がない。不十分だ」
「そんなことないよ。ハヤトくんのライブ、素敵だったもの」
「兄さんには悪いけど、バンドの人たちも認めてくれるさ。だって、沙樹さんが推薦してるんだよ」
「だ、め、だ。おれは、バンドを……」
 そこまで言いかけて、ワタルは口をつぐむ。
 沙樹はハヤトと目を合わせて頷き合うと、息を飲んで次の言葉を待つ。
 いつの間にか両手が拳を握っている。爪が少し食い込んだが、沙樹は痛みを感じる余裕もない。

 ――ワタルさん。お願いだから正しい道を選んで。

 ワタルはすうっと息を吸い込む。
 そして覚悟したように口を開いた。

「おれは……バンドを、脱退しない。これからも音楽を続けるっ」

 ワタルは音楽を続ける。
 ワタルはオーバー・ザ・レインボウを辞めることはない。
 これからもずっと、夢と希望を語り続ける。
 今までと同じように。
 止まっていた時計の針が、また時を刻み始める。
 沙樹は涙が出そうなほどに、ワタルの決意が嬉しくてたまらなかった。ハヤトも同じ気持ちに違いない、と思ったところ、
「もう遅いよ。ぼく、絶対オーバー・ザ・レインボウに入るんだ。兄さんは音楽辞めて、会社勤めすればいいだろ」
「おれはリーダーだぞ。責任者の仕事までハヤトに渡してたまるか」
「リーダーまで引き継ぐつもりはないもーん。ギターパートさえゲットできればいいんだよっ」
 妙な押し問答が始まった。ワタルから決意の言葉を引き出したのに、ハヤトはいつまでこんな会話を続けるのだろう。もしかして本気で言っているのではと、沙樹はだんだん不安になってくる。
 だがよく見ていると、ふたりの顔は口調とは裏腹に楽しそうだ。
 ワタルがいなくなってから、楽しい時間があることを忘れていた。こんな雰囲気が訪れることを、ずっと待っていた。
 沙樹がどんなにがんばっても作り出せなかった暖かい空気を、ハヤトはほんの少しの会話で作り出した。沙樹やバンド仲間の前では絶対に見せない兄の姿を、弟は簡単に引き出した。
 ほほえましい兄弟喧嘩だ。一人っ子の沙樹はこのような体験をしたことがない。
 ワタルとハヤトの間にあるつながりが、とてもうらやましくなる。

   ☆   ☆   ☆

 ワタルは、音楽を続けることにした。
 多くの人たちに影響を与え、それが確実に自分たちの夢とつながっていることを知ったとき、ワタルは考えを改めた。夢と希望を語ろうとする人が、自分の夢を手放してはならない。それはファンへの裏切り行為になってしまう。
 ワタルの周りは、悪意を持つものばかりではない。それ以上に仲間は多くいる。
 沙樹は須藤が心配していたことを伝えた。オーバー・ザ・レインボウの写真集を出版した彼は、友人としてワタルの身を案じている。
 梢のマネージャーを務める森下も、仕事だから動いたのではない。日下部にしても、放っておくこともできるのに、ワタルと梢のために次の手を考えてくれている。
 これまで接してきた多くの人たちは、オーバー・ザ・レインボウのために尽くしてくれる。多くの人たちに応援され支えられた結果、今のバンドに成長した。成功は自分たちだけの力ではない。オーバー・ザ・レインボウは、彼らを取り巻く人たちの夢と憧れが生み出したものだ。
 悪意のある報道に動揺していたのは、浅倉梢だけではない。親切心を悪用されただけに、ワタルは何もできなくなっていた。これまで当たり前のようにしてきたことが梢を窮地に追い込んだということで、余計に罪悪感に苛まれていた。
 だがそんな必要はもうない。
 そばにいる人たちを信頼することで、今の事態を乗り越えればいい。ただそれだけだ。
 簡単なことに気づくまで、本当に遠回りをしてしまった。だがもう心配しなくてもいい。ワタルは今まで通り、がむしゃらに前へと進み始めた。
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