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第四章

三. ワタルの決意(一)

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 ワタルに音楽を辞めてほしくない。もしそんなことになったら、バンド仲間はどうすればいいのだろう。
 ほんの数日の不在で、みんなは自分たちの力不足を感じている。ワタルの存在があってのオーバー・ザ・レインボウだと気づいている。いや、ワタルだけではない。だれひとり欠けても、今のバンドはなくなってしまう。
 学生時代から苦労してやっとプロになった。メジャーになるために、さらに努力を重ねてきた。主題歌を担当したアニメが売れた影響で、その曲がヒットし、音楽番組だけでなく、バラエティ番組の芸能情報でも紹介してもらえるようになった。
 やがて一般にも広く名前が知られるようになり、これからさらに活躍が期待できる。そこまでたどり着いたというのに。
 ここでやめることは、志し半ばでステージを降りることと同じだ。ワタルだけではなく、オーバー・ザ・レインボウの活動停止になるかもしれない。

 ――それなのに今になって辞めるなんて……本気じゃないよね。

 沙樹はときとして、音楽にジェラシーを感じることがあった。仕事と自分とどっちが大切なの? そんな使い古した言葉では表せないほどの嫉妬心だ。
 オフのときでもワタルは、常に曲作りやライブのことなどを考えている。ちょっとしたことでアイディアが浮かんだとたん、沙樹のことをそっちのけで曲作りに入ってしまうこともしばしばだ。それがクリエイターの性だと解っていても、つい「音楽なんて辞めてしまえばいいのに」と何度恨めしく思っただろう。
 だが、いざその瞬間がきたら、自分の嫉妬は見当違いだと沙樹は気づく。ワタルから音楽は切り離せない。音楽に対し、いつも真摯な態度をとっている。沙樹にとっての仕事とは比べ物にならないくらい真剣なものに違いない。
 音楽はワタルそのもので、音楽があってこそ光り輝く。
 夢中になっている姿、真摯に取り組む横顔。夢に向かって進み続けるからこそ、沙樹はワタルを好きになった。
「ワタルさん、辞めるなんて言わないでよ」
「でも……今のおれには、夢を語る自信も資格もないんだ」
 そういうとワタルは口を閉ざし、目を伏せた。沙樹はかける言葉を見つけられない。
 そのときだ。
 沙樹の脳裏に突然、ワタルと初めて会った日のことが浮かんだ。
「……ステージからみんなに夢と感動を届けたい」
 ワタルは目を開け、沙樹に視線を移す。
「初めて会った日のこと、覚えてる? オーバー・ザ・レインボウの初ソロライブをやるんだって、雨宿りしていたあたしに声をかけてくれたでしょ」
「忘れてない。あのとき沙樹は、まだ高校生だったね」
「あのころのあたしは、流れに乗る形で受験勉強してたの。大学は目指す自分になるための手段なのに、いつのまにかそれが目的になっていたのよ」
 沙樹に「将来の目標がない」と指摘したのは、親友の亜砂子だ。言われてみれば確かにその通りだった。当時の沙樹は、自分が働いているときのイメージを抱くこともなく、みんなが進学するからという理由だけで大学に行くことにした。
 一度気づいてしまうと、そんな自分が嫌になる。勉強をサボって当てもなく歩いていたとき、偶然オーバー・ザ・レインボウのライブに出会った。
「あの日、得能くんが言ったんだ。ステージからみんなに夢と感動を届けたい。音楽を通して、自分がライブで受けた感動をひとりでも多くに伝えたい、ってね」
 目を閉じれば鮮明に浮かんでくる。情熱にあふれたステージだった。もちろんまだ拙いところもある。それなのに、夢と感動がストレートに胸に飛び込む。ぐいぐいと押してくる迫力は、アマチュアだからこそ持っている尖った気持ちの現れだ。沙樹はそんな力強さに完全に心を奪われた。あの日感じたパワーは今でも沙樹の胸に深く刻まれ、決して色あせることがない。
 オーバー・ザ・レインボウのライブは幻影ではない。彼らはその魅力で、みんなを夢の世界に連れて行く。
「それがスタートだった。ワタルさんたちの音楽に出会えたから、あたしは自分の将来を真剣に考えるようになったの」
 バンド活動を手伝っているうちに、自分の夢は、少しずつ音楽に傾いていく。でも沙樹は、自分が曲を創る側の人間ではないことを自覚していた。
 ちょうどときを同じくして、沙樹は大学で勧誘され、軽い気持ちで放送研究会に入部した。番組作りを体験するうちに、ラジオ番組に興味が出てきた。音楽を作ることも演奏することもできない沙樹でも、ラジオを通して曲を届けることはできる。方法は違っても、目指すものはワタルたちと同じだ。
 大学卒業後、FM局に入社し番組製作を目指した。今はアシスタントの域を越えられない。それでも毎日がんばって続けているのは、明確な目標を持っているからだ。
「夢を持ち続けることが難しい時代だから、ワタルさんたちには、いつまでも夢を語ってほしいの。だから、お願い。音楽を辞めるなんて言わないで」
「ぼくも沙樹さんと同じ意見だよ」
 突然かけられた声に沙樹はふりかえる。ドアが開かれ、ハヤトが立っていた。
「兄さんごめん。悪いと思ったけど、全部聞かせてもらったよ。今度のことでは、兄さんに言いたいことがたくさんあったんだ。でも、もうそんなことはどうでもいいや」
「ハヤトくん、あたし……」
 詫びを言おうとする沙樹をハヤトが止める。
「いいよ、あれはぼくが勝手にやったことだし。それより本当だったんだね、沙樹さんが兄さんの彼女だっていうのは」
 憂いを含んだ瞳に見つめられ、沙樹の胸に鈍い痛みが蘇える。
「何をしても兄さんにはかなわない。音楽も、恋人も。でも覚悟してろよ、いつか追い抜いてみせるからな」
 そう言い切るとハヤトは沙樹に笑顔を向ける。出会ったときと同じ、邪気のない笑顔だった。
 迷いのない澄み切った笑顔は、いつも沙樹を和ませてくれた。今のようなときでさえ、心に平穏を与えてくれる。
 ハヤトの視線がワタルに向けられた。何かを訴えようとする目が兄を見つめる。だがワタルは、その視線を受け止められず、顔を背けて目を伏せた。
「ぼくはね、ステージの上は実力の世界だって思ってる。へたな小細工なんか通用しない。実力のあるものだけが、上がることを許される聖域だよ。兄さんたちの実力は、虚構でも幻でもない。現実のものさ。くやしいけどね」
「実力の……世界?」
 ワタルがつぶやく。
「そうさ。だからぼくらがいくらプロのステージに立ちたくても立てない。今のぼくらはまだまだ実力が足りないんだ」
 ワタルの背中しか見ることのできないくやしさ。実力のある相手にふれることすらできない。はるかな先に立っていると知り、気持ちが焦る。でも嘆いている暇はない。それをばねにして、ハヤトはずっと走り続ける。
「そういう意味では、ぼくらのバンドも、今はまだ影の中にいるんだよ」
 ハヤトはそばにあったギターを人差し指で弦をはじいた。あの夏、ハヤトが初めて音楽に触れるきっかけを作ったものだ。
「でもぼくらはいつか実力をつけて、プロになってみせる。兄さんたちは目標だけど、その前にライバルだと思ってるよ」
 ハヤトはワタルを睨んだ。ライバルを見つめる、鋭くて厳しいまなざしだ。
「だからさ。ぼくらがステージに立つ前にリタイアするなんて、絶対に許さないからね」
 部屋には、哲哉と弘樹がDJをするラジオ番組が流れている。
『今日最後のメッセージです』
 弘樹がメールを読み始めた。
『毎日がなんとなく過ぎることに苛立っていました。その日も部屋でベッドに転がって、ぼうっと時間が過ぎるのを待っていたんです。そのときオーバー・ザ・レインボウの曲がラジオから流れてきました。つぎつぎと耳に飛び込んでくる音楽に、なんだか胸がドキドキしてきて、気がついたらベッドから起き上がり、真剣に聴いていました。
 もやもやとしたものが晴れて、自分にもできる何かがあるような気がしてきました。今はまだ見つかりません。でもきっと見つけてみせます。そのときにはもう一度メールを送ります』
 音楽がフェードで入る。
『こんなメッセージをもらえると、本当にうれしいね』
『声が枯れそうになるくらい一所懸命に歌ってよかったって、実感する瞬間だよ。ありがとう、おれたちの音楽を真剣に聴いてくれて』
 哲哉の声は、ほんの少ししんみりとしていた。
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